11/06/14 00:21:51.97
(※抜粋です。全文は週刊ポスト誌面でどうぞ)
ソース(週刊ポスト 6/24号 129~132ページ 「現場の磁力」 山藤章一郎氏と週刊ポスト取材班)
土曜日夕刻6時。新宿・歌舞伎町の裏を走る<職安通り>に面した韓国グッズ、コスメ店<オルチャン>。
通りまでこぼれたおばちゃん、娘、コギャルを掻き分けて店内に進む。グッズの棚の隙間を抜ける。すだれ、韓国海苔、韓国コスメ、
マグネット、レターセット、なんでもある。ただし、どれもスターの写真を勝手にプリントしたような粗悪品に見える。プロマイド、ボールペン、
みな正規のものには遠い。しかし彼女らは嬉々と品物を選んでいる。
店名の<オルチャン>の<オル>は顔。<チャン>は「めっちゃいい、サイコー」の意味。つまりイケメン。今回のレポートはこの
「イケメン」をキイワードに、日韓の接点のいまを点描する。
月曜日夜9時。同じ<職安通り>に面した古びたマンションビルの半地下にある韓国料理店<武橋洞(ムギョドン)>に入る。
いまから30年ほど前の1980年代、歌舞伎町から大久保界隈にかけて初めてできた韓国料理店である。<武橋洞>はソウルの
街区の名。その頃、眩しく発熱する歌舞伎町から通りひとつ越えたここは、薄暗がりにかくれていた。
鄭順子(チョン・スンジャ)さんというオンマの店だった。鄭さんは、朝鮮戦争で未亡人となり、子育てのために日本に渡ってきた。
歌舞伎町の韓国クラブの厨房で働いてカネを貯め、この店を出した。辺りには、家賃の安いアパートが軒をつらねて、住みやすかった。
日韓併合、植民地化政策以降、理由のない韓国蔑視が戦後なおはびこっていた時代である。日韓は「はるかに近くて遠い国」で、
鄭オンマは渡日して辛酸を舐めたひとりの女の典型だった。
鄭オンマと<武橋洞>を切り盛りしていた姪の久美子さんの回想。「90年代の始まり、店の前にベニア板のテーブルを出すほど
繁盛したんです。深夜を過ぎると、歌舞伎町で働く韓国の女の子たちが日本人の男を連れて来て。それでも、高い差別の壁が
ありました。『にんにく臭い』『この馬鹿チョウセン女め』と、つらい言葉の唾をしょっちゅう吐かれました」
■ドラマ1本、俳優1人で町が激変した
『民団新宿60年の歩み』(民団新宿支部発行)は、敗戦後の新宿界隈に「30~40世帯の<朝鮮部落>らしきものがあった」と
記述している。豚、鶏を飼い、トウモロコシなどの菜園をつくり、日雇いや「立ちんぼう」と呼ばれる労務者の仕切りが朝鮮部落の
主な仕事だった。
その仕切り屋たちのわきに、辛格浩(シン・キョクホ)と名乗る男が小さな工場を建てた。18歳のとき、慶尚南道の寒村から渡ってきて、
蒲田の工場の雑役、荷受仕事をしてきた男だった。
日本の敗戦により、祖国・韓国は植民地から解放された。それから幾日も経たない時期、辛は鍋釜と石油缶で石鹸を作り始めた。
ポマードも石油缶で作った。いずれも飛ぶように売れ、翌年、化粧品に手を出した。これも鍋と釜でできた。商品に名をつけなければ
ならない。
青年時代に深い感銘を受けた『若きウェルテルの悩み』の主人公が恋した相手の名を採った。<ロッテ>。
のちに進駐軍の噛んでいるチュウインガムがいい商売になりそうだと、ガムの製造販売にも本腰を入れるようになった。大久保近辺に
できた初めての本格的な工場だった。<朝鮮部落>の労働力をあてにした。日本名を<重光武雄>と名乗った。歌舞伎町が、
葦の生える湿地と大根畑で、大久保病院にまだ<陸軍伝染病院>の名残りがあった時代である。
在日は、国鉄の国有地や河川の堤防ぎわのゼロ番地のバラック小屋などに住み、貧しく、ゆえのない被差別を強いられた。
「(辛氏は)ハンジという朝鮮風の大きな木製のたらいを使って手作業でガムをつくっていた」と前出の民団冊子にある。いまもそのとき
のままに<ロッテ>は山手線・高田馬場と新大久保の間で操業している。
(>>2以降に続きます)