11/05/28 00:58:12.28 Bzhu8swu
1786年の報告では、アシカ数頭、2つの洞穴、そして“アシカ入江”を意味する“可支仇味”について記述があります。
私は投稿の中で、この“可支仇味”が鬱陵島の西側にあったと推測しました。というのも、1882年の韓国の鬱陵島の
地図では、可支窟という、“アシカ洞穴”を意味する洞穴が島の西側に描かれているからです。
1794年の文献でも鬱陵島のアシカについての記述があります。それには、検察団に驚いた”水牛”のようなアシカが
4,5頭飛び出してきてうち2頭を射殺した、と記述しています。記録では、アシカを射殺した場所の周囲の海岸や谷の
ことについて筆を進めています。それによると、彼等はそれから谷を4km徒歩で分け入ったことになっていますが、
そのことは奇しくも、この場所が“独島”では有りえない事を意味しています。“独島”の全長は4kmも無いのですから。
私は、韓国人が上掲の2つの記録をもとに可支島は鬱陵島だと主張するのは馬鹿げていると言い、また韓国の
他の歴史文献で可支島について記述してあるものは無い、とも言いました。実は、可支島についてではないのですが、
鬱陵島のアシカについての記述がある、1899年の韓国語新聞“皇城新聞”の記事を今晩見つけました。
以下に関連する部分を載せます。
図1:皇城新聞記事(1899)
この記事は検察団が戻った後の鬱陵島の様子を記述しています。それによると、鬱陵島には6つの小さな島が
隣接しており、于山島と竹島(Jukdo)(もしくは于山島竹島)が最も代表的な島です。于山島が観音島と独島の
どちらを指しているのか、と言う問題はさておき、記事に赤で丸をした部分に注目して訳してみました。
“過去に、角の無い牛のような“水獣”が生息しており、可之と呼ばれていた。”
引用した記事の“可之”は、明らかに“アシカ”を意味する“可支魚”のことを指しています。この文中でアシカが
鬱陵島に“過去に生息していた”と書かれていることに注目して下さい。つまり、記事が書かれた時点ではもう生息
していないことを意味しています。ということはつまり、この記事に鬱陵島に隣接する島として書かれた于山島は、
絶対に“独島”(Liancourt Rocks)ではありません。なぜなら、その当時Liancourt Rocksにはアシカがまだ生息して
いたからです。
こういったことは大したこと無いように見えるかもしれません。しかし、“数々の嘘と半分の真実、それに独島ビデオ”
という私の一連の投稿を締めくくるに当たって、このことをパート4に付け加える必要がある、と感じたのです。
ところで、このブログ上で獸(?)と言う字を解読するのに助言を下さった方々に感謝します。
また、この記事には鬱陵島には三つ峰があると書いてあります。これはまたしても韓国の古い文献において、
三峯島と呼ばれている島が“独島”では無いことを示しています。
URLリンク(www.occidentalism.org)