11/04/01 09:30:57.72 koCJ9c8J
②
日本文化が他より優れているかどうかは、単に価値観とものの見方による問いだ。中国における日本人の残虐行為の犠牲者たち、クウェー川鉄橋建設労働者や日本軍を楽しませるために
「慰安婦」として他のアジア諸国から徴用された人々は言葉を返すかも知れない。
日本社会の利他主義に関する軽率なレポートをするそれらの人々は、これまでにヤクザのような犯罪的ギャング組織の存在や、日本人のタイへの買春旅行については耳にしたことがないようだ。
けれども、今回の危機の中で日本の人々が普通に見せる今度のようなふるまいは、私たちが予想してしまう米国での場合と著しく、とても、異なっている。それゆえにこそそれらの原因についての推測を求めている。
私は人種うんぬんの説明は即座に拒絶する。ふるまいに関し統計的に有意な差を与えているという遺伝子的違いへのなんらの証拠もなしに、ニューオーリンズでの略奪者たちは主に黒人だった、
などという観察は本当に人種差別主義だ。
我々は、彼らのほとんどが米国人であり、「ルイジアナ人」であり、博士号を持つ者が非常に少なかったと観察する方がいいだろう。それらは観察であって説明ではなく、彼らの存在を暗にほのめかすことは中傷になる
(Those observations aren't explanations, and to insinuate that they are is a slander.)。
文化論による説明は人種うんぬんよりずっと適切だろう。しかし、正解はたぶん、文化的(これは人種的と同義だ)均質性とか、日本文化一般の優秀性とは無関係だろう。
たとえば、日本は、画一性やコンセンサス(意見の一致)が善いことであると教育された人々が、非常に人口密度高く暮らしている国だという事実をよく考えて欲しい。
個人主義や独立を重んじる文化で育った人にとって、それら日本の美徳はほとんど不快にさえ思えるだろう。でも彼らは、日本のような場所より、人影まばらな米国西部の原野ではより理にかなうようになっている。
後者の環境においては、「カウボーイ」精神が生存のための価値をより発揮するのだ。
日本の国民性が、いろいろな必要性の相互作用によって形作られ、環境と歴史がそれに独特の強みと弱点を与えた。ちょうどフランスや米国がそうだったようにだ。
日本人たちは略奪をしない、それは彼らが「より良い」から、人種的・文化的に単一だからだ、と言うことは、歴史を無視し、日本がこの週末の災害の前に取りくんだ非常に深刻な問題を無視している。
いくつかの点で、日本人のふるまいは非常に見事に我々の胸を打つ。他方でそれは、せいぜい我々を困惑させるだけでもある。
そこにはいつもトレードオフ(反するものの中での折り合い)がある。文化においても経済においても政治制度においてもだ。日本文化には賞賛すべき部分がたくさんある。
善きもの、美なるものが充分にある。それはまさに、鷹やサメに賞賛に値する部分が充分にあるのと同じように。だが、たとえばサメをコロラドの空を向こうに打ち上げたらどうなるだろう。
あるいは鷹を太平洋の深さ100フィート(約30m)の海中に放ったら。彼らは賞賛に値するものを失ってしまうだろう。
日本文化は、それ自体として優れたものであると示したりはていない。ただひとつ、巨大災害のあとただちに社会秩序を維持するのにとても長けていると示したのだ。
我々はなぜいま日本人が略奪をしていないのかについてあれこれ想像し、いくらでも楽しむことができる。
おそらく彼らはそうなのだろう。しかし彼らは、被災地域を撮ったビデオの中で我々が気づかないほど、とても礼儀正しくそれをするのだ。
たぶん、外から自分たちがどう見えるかや彼らの立場上の義務意識に関する彼らの関心度は、破壊することや物資を奪取することなどよりも勝るのだ。
理由が何であれ、ウワサをするものたちは、この世の文化や制度のバラエティについて話しているのであり、彼らはそれを、多様性についてあざ笑ったり否定したりする言い訳として用いてはならないのである。