11/03/15 14:22:13.86 BE:727413034-2BP(1111)
14日、約1000体の遺体が一度に見つかった宮城県南三陸町へ向かう途中で出会った日本の新聞社のカメラマンは、まるで魂が抜けたような様子だった。
あまりにも残酷な現場を目撃し、パニック状態に陥ったようだ。この日は同県の牡鹿半島沿岸でも約1000体の遺体が発見された。
現場の記者たちの取材を基に報道する東京のメディア各社も、衝撃を受けているのは同じだ。
遺体が体育館に次々と運び込まれる写真をはじめ、紙面やテレビの画面ではとても紹介できないものがあまりにも多く、
本社では現場の記者たちが精神的にショックを受けるのではないかと懸念しているという。
日本政府と各メディアによると、死者と行方不明者を合わせ、今回の大地震による犠牲者は4万-5万人に上る見通しだという。
飛行機から被災地を見ると、東北地方の太平洋沿岸の集落は焼け野原のように見える。
また、建物の倒壊が被害の大部分を占める地震の被害とは異なり、津波が押し寄せた現場には生存者がほとんどいないという見方は、地震発生直後からあった。
外国からの救助隊派遣の申し出に対し、日本政府が「待ってほしい」という反応を見せたのも、このためだという。
内閣官房のある関係者は「今は救助隊も必要だが、もっと必要なのはエネルギーやヘリコプターの機器と、寝具などの救援物資だ」と話した。
実際に訪れた被災地は残酷そのものだった。宮城県名取市の閖上地区を訪れたときには
「ここに赤ちゃんがいる。大人もいる!」という叫び声が聞こえた。
現場の復旧作業に当たっていた自衛隊員5人の視線は、古い毛布に向けられていた。
その視線の先には、毛布の隙間から出ていた、紫色に変色した赤ちゃんの手があった。
短い一生を終えた赤ちゃんは、最期の瞬間に必死にもがいたように見えた。
ある50代の男性は、全身に泥が付着した姿でその横を通り「何もかもが雑巾のようになってしまった」とつぶやいた。
津波が集落を飲み込む直前、閖上地区は平和そのものだった。渡辺さん(65)は造り酒屋を営み、
また鈴木さん(78)が55年にわたって製造してきた布団は地域の名物だった。赤間さん(52)は自動車整備工場を営んでいた。
津波はこれら全てを奪った。家も家財道具も自動車も、そして人の命も奪った。また、海に浮かんでいるべき漁船が田んぼに打ち上げられていた。
記者が訪れた閖上港では、まるで貯水池のように、あちこちに海水がたまっていた。水が干上がった場所は真っ黒に変色していた。
ここでは原因不明の火災が発生したという。無傷だった歩道橋の上に上がると、火災が発生している場所が10カ所以上見えた。
この火災を消し止めるため、約10台の消防車が廃虚の中へやって来た。
13日にはここだけで約100体の遺体が見つかった。手の付けようがなかったこの地区で、14日には人々の姿が見られるようになった。
ある若い父親は、小学生の子どもたちが背負っていたランドセル3個をがれきの中から探し出した。
ある夫婦は自転車でやって来て、メチャメチャになった家の中から家財道具を持ち出した。その横を自転車で通った若い女性は涙を浮かべていた。
救いの手も次々と差し伸べられている。愛知県に駐屯している陸上自衛隊第10師団が被災地へ到着し、
ブルドーザーなどの機器を30台動員してゴミを片付け、道路を通行できるようにした。
そこへやって来た消防車は、ここから1000キロも離れた広島消防庁の所属だった。
遺体の収容作業に当たっていた自衛隊員は
「きょうだけで20体の遺体を発見した。港全体がメチャメチャになり、いつどこで多数の遺体が見つかるか分からない」と話した。
一方、この日、今回の大地震で韓国人二人が死亡したことが確認された。
外交通商部(省に相当)は、茨城県の火力発電所建設現場で煙突の増設工事に従事していた
広島在住の在日韓国人Lさん(40)が、転落し死亡したことを確認した、と発表した。
また、同じ建設現場で、朝鮮籍(日本の植民地支配からの解放後、韓国や北朝鮮の国籍を取得せず、日本に帰化してもいない人たち)の
Kさん(43)も死亡したことが確認された。
文甲植(ムン・ガプシク)記者
ソース 朝鮮日報 記事入力 : 2011/03/15 13:03:36
URLリンク(www.chosunonline.com)