11/01/04 07:03:38
働乱の時代に:第1部・ものづくりの現場から/3 海渡る日本人技術者
<働乱(どうらん)の時代に>
宍田光紀さん
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◇活気求め大手に見切り
年の瀬、韓国ソウル近郊の冷え込みは厳しい。水原市にあるサムスン電子の研究所で働く
日本人技術者の忘年会は恒例の乾杯で始まる。「サムスンチョンジャ、ウィ、ハ、ヨ(サムスン電子のために)」
パソコン(PC)開発部門で技術者を束ねる宍田光紀さん(48)は杯を重ねた。
「久しぶりに日本語で話しながら飲む酒はうまいな」
同社は10年4~9月期の最終利益が約6200億円。日本の電機大手8社の合計を上回る。
外国人技術者の中途採用を続け、水原の「サムスン日本人会」も100人以上。
土日もなく働くが、入社した日本人の半分以上は2~3年で姿を消す。
宍田さんが入社した9年前も約100人いたのに、今や2番目の古参だ。
大阪で生まれ、大学を出て86年に松下電器産業(現パナソニック)に入社した。
ワープロとPCの設計・開発に携わり、ワープロではシェア首位をつかんだ。
PC部門は低迷し、ITバブル崩壊で社内にはトップを狙う余裕もない。
全盛期の熱気を知る身には物足りなさが募った。特別早期退職の募集が始まる中、
来日したサムスン役員に「一緒に世界一を目指そう」と誘われた。骨をうずめる覚悟で転職した。
横浜市のサムスン横浜研究所には日本人社員が約200人在籍し、20~30代も増えた。
若い人には日本の大手と同じ就職先になりつつある。
だが、宍田さんは「日の丸を背負っている」という自負が自分を支えてきた気がする。
サムスンは日本の技術も吸収し、その差は確実に縮まっている。
部品の性能が高い日系メーカーとも取引しているが、韓国勢に追い抜かれればおそらく切り捨てられる。
そうなれば悔しい。「もっとレベルアップしてください」。思わずメーカー幹部に伝えた。
昨年10月、東京都大田区の区産業プラザ。サムスンの躍進ぶりを講演した元日本法人顧問の
石田賢さん(61)は、町工場の経営者から次々に「取引を仲介してほしい」と頼まれた。
町工場は日本の大手からの受注が減って苦しむ。契約内容を外に明かさず「秘密保持契約」を結び、
高性能部品の試作を請け負うところも出始めた。
人材ばかりでなく、高い技術を持つ町工場もサムスンに引き寄せられている。
◇
サムスンで7年間、プリンター部門の首席研究員を務めた常見宏一さん(52)は昨年2月に帰国した。
83年の東芝入社以来、プリンター用トナーの材料開発一筋。だが、転職後にインクジェットが主流となり、
トナーは苦戦が続いた。「もう少し頑張ってもらわないと」。上司の一言で心が動いた。
次は「クビ宣告」かもしれない。自分の旬も過ぎた。退社を決断した。
今は神奈川県寒川町の印刷関連「森村ケミカル」で研究開発担当部長を務める。従業員50人。
給料もサムスン時代の3分の2に減った。しかし、アジア企業の攻勢を受けてもいまだに危機感が
足りないように見える日本の大手とは職場の雰囲気が違う。
「ときめきを感じて働ける」。生き残りに懸命なこの会社には活気があふれている。=つづく
毎日新聞 2011年1月3日 東京朝刊
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