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(写真)
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▲ 余大男と父の往復書簡をみる人たち=韓国晋州市の国立晋州博物館
韓国晋州(チン・ジュ)市の国立晋州博物館の展示室。流麗な漢文でつづられた2巻の巻物が、
来館者の目を引いていた。
熊本城主加藤清正の菩提(ぼ・だい)寺、熊本市の本妙寺の第3代住職日遥上人となった余大男
(ヨ・デ・ナム)と、朝鮮慶尚道河東(ハ・ドン)に住む父親の余壽禧(ヨ・ス・ヒ)との往復書簡だ。
余大男は、文禄の役の時に清正軍に捕まり、日本に連れてこられて僧侶となった。日本を訪れた
朝鮮官吏や、帰国した友人を通じて27年後に消息がわかった。
まず、余壽禧の1620年5月7日付の書簡がいう。
「元気でいるという知らせを聞いて、うれしくて小躍りしたが、恨めしく思うのは、お前が、父母の生み
育てた恩恵を忘れて異国で楽に暮らし、長いこと帰ってこないことだ。日本で暮らすことに自ら満足
して帰ってこないのか。僧侶になって海外で楽に暮らしているために帰ってこないのか。私の年は
いまや58歳、お母さんは60歳だ。お前ももう40歳。帰ってきて老父母が生存している日を見るなら、
孝行であり、幸いなことではないのか」
喜びの中にもつい詰問調になる文面に、父親の真情がのぞく。余大男の返書は同年10月3日付。
「私は、この手紙を伝える人についていって父母のもとに駆けつけて礼をしたい気持ちでいっぱいです。
そして、長い間、胸に抱いてきたことを吐露できれば、その日の夕方に死んでも恨むところはないで
しょう。伏して申し上げます。父母よ、いまから数年間、心穏やかに待って下さい。私の考えでは、
お送り下さった手紙を持って、この国の将軍と地域の領主に申し上げる考えです。誠意を持って
2、3年間、お願いしようと思います。彼らもみな人間です。心を動かすことがないとはいえないで
しょう」
その後、余大男は帰国の夢を果たすことなく死去した。
隣りには、儒学者姜沆(カン・ハン)が、日本の近世儒学の開祖とされる藤原惺窩(ふじ・わら・せい・か)
と交わした往復書簡集などが並ぶ。姜沆は軍糧供給の任務中、日本軍にとらわれて愛媛県大洲
(おお・ず)に連行。京都伏見に移送後、惺窩と出会い、朱子学を伝えた。姜沆の帰国後、惺窩の下
には多くの門人が集まり、日本社会に儒学思想を根付かせていった。
このほか、捕虜の多くは朝鮮の民衆だった。奴隷として売られた人も多い。
韓国慶尚南道の海岸沿いには、日本武将が築いた日本式の城、倭城(ウェ・ソン)が残っている。ソウル
在住の町田貢・元駐韓公使(75)は釜山総領事時代に、清正が築いた西生浦(ソ・セン・ポ)城など
29カ所を踏査した。「本丸跡に足を踏み入れると、いまにも鎧(よろい)に身を固めた日本の武将が
現れてくるような緊張感を感じた。韓国では秀吉侵攻の傷痕が生々しく残っている」という。
今回の展示では、朝鮮人捕虜の苦難や望郷の思いだけではなく、彼らが日本にもたらした学問や技術
などの影響にも目を向けた。そこに今後の日韓関係を切り開いていく新しい芽がありそうだ。
交流展を担当した国立晋州博物館の張成旭(チャン・ソン・ウク)・学芸研究士(35)=現、国立中央
博物館=は「捕虜になった人たちが日本でどのように生き、何を成し遂げたのかを見せようとした。
戦争をきっかけに日本には多くの変化があった。そうした変化に光を当てた」と語った。
■朝鮮人捕虜■
朝鮮人捕虜 文禄・慶長の役の捕虜数は、日韓の研究者によって2万~3万人から約40万人まで
幅がある。秀吉軍は当初、短期間に朝鮮全域を掌握して軍需物資を調達、明に進撃する予定だった。
ところが、朝鮮各地での義兵の決起や水軍の活躍、明の援軍などによって挫折。慶長の役の撤兵の
際に多くの捕虜が発生したという。
ソース:朝日新聞(佐賀)
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