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朝鮮王室儀軌が、宮内庁に納められた経緯。
昔、1910年以降の正確な日付はわかりませんが、
日本に編入された朝鮮の首府 宮城【現ソウル】で大きな騒ぎがおこりました。
街の大通りを見るも奇怪なバケモノたちが通りをふさいだのです。
彼らはらい病【ハンセン病】という業病を患った病人たちでした。
当時のらいは、不治の病で体が生きながら腐っていく大変恐ろしい病気で、
彼らは家族からも見放されて川のそばで死ぬまでの長い間を過ごす集落を作っていたと聞きます。
彼らは新たに支配者になった大日本帝国が善政を敷いていると聞き、
日本が朝鮮半島を支配して初めてのデモを彼らが行いました。
彼らは、自分たちを保護してほしい。
せめて迫害されずに夜露をしのげるところがほしい、と嘆願しました。
総督府は非常に困りました。カネがないのです。
朝鮮半島を併合し、彼らを近代化させるためや国土の緑地化や、大規模土木、学校建設の連続で、
日本から大量の資金を持ち込み、さらに国債を発行し、
海軍の近代化更新を遅らせてでも調達した資金がすべて使い果たされてしまい、
大蔵省も国民もブチ切れそうな状態になっておりました。
万策の尽きた総督府は、時の明治天皇陛下に謁見し、いかがしましょうか、とお尋ねしました。
【彼らもわが臣民である】と、明治大帝は仰せになり、皇室財産を下賜してくださり、
それを伝え聞いた実業家たちから寄付の申し出が集まり、小鹿島に療養所をたてることができました。
皇室に納められている朝鮮王室儀軌の写本は、
そのお礼に、と総督府が宮内庁に奉納した、“当時の実記の写本”なのです。
だから材質は当時、総督府で公式書類に使われていた和紙であり、
表紙も飾り気のない赤表紙なのです。
このような経緯で納められたものを盗んだ、返せ、といわれるのは非常に心外きわまります。