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「戦争は形を変えた政治である」というクラウゼビッツ風の言葉を逆の面からみれば、「政治とは形を変えた戦争である」ということも
できよう。この場合の政治とは外交といってもよい。
確かに、衝突する2つの国の国益を実現するために武力に訴えるのが戦争であれば、戦争に至る道ゆきを回避しようとするのが
外交である。こういえば、戦争と外交は別種のもの、まったく対立するもののようにみえるが、実際には、戦争を回避するための外交が
不可欠とされる場面までくれば、ある意味でもう戦争は始まっているともいえる。
このとき、外交とは、知略を駆使した駆け引きを行い、時には信頼回復をめざすとしても、根本的には力を背後にもっている。
武力対立をシミュレートしながら言葉を砲弾として使うのである。
尖閣諸島での中国漁船の問題は誰もが論じているように民主党政権の大失態であった。「粛々と法的措置に従う」といいながら
検察の「政治的判断」に粛々と従うというトンチンカンな事態であった。「検察の判断に委ねる」として責任を検察に押しつけるだけで
中国に一片の強力な抗議も発しない、というのでは政治主導もなにもあったものではない。
(中略)
暴露されたのは、民主党政権の対外政治力・外交能力のおそまつさであるが、では自民党ならもっとましだったか、というと、
平成16年に中国人活動家が尖閣に上陸して逮捕されたときには、小泉政権の判断によってすぐに釈放・送還された。
(中略)
◇
中国やロシアは既成事実を積み上げ、事実上の領土化を図ろうとしており、その背後には軍事力という「力」と、それから「歴史認識」
がある。あたかも、あの戦争は日本の誤った戦争であったから、その償いとして多少の不都合は我慢して当然だろう、とでもいわんばかりに
聞こえる。
こうなると、日本にとってはたいへんに厳しい事態となってくる。実際上、中国、ロシア、韓国という国境線を接する3国との間でいまだに
国境が画定していないということになる。国境線が画定していないということは、厳密な意味ではまだ戦争は終わっていない、ということだ。
むろん、尖閣は日本固有の領土であり「尖閣問題」は存在しない、ということもでき、それは「正論」である。だが、「正論」が通用しない
状況に遭遇したとき、いかなる対応が求められるかが問われるのだ。「尖閣問題は存在しない」ということによって、むしろ事態から目を
そむけることにもなりかねない。
尖閣をめぐる対中関係や北方領土をめぐる対露関係は、日本の対外政策や外交能力の著しい貧弱さの原因が、「力」の欠如と
「歴史認識」にあることを改めて示している。そしてその両者ともに、「あの戦争」の敗戦によってもたらされたものである。しかしそれはまた、
日本の軍事的侵略を断罪・反省してできあがった平和主義と民主主義の「戦後」そのものといってよい。
とすれば、この尖閣の問題においてわれわれが直面しているのは、目の前にある中国との軋轢(あつれき)というだけではなく、「力」の
放棄と「東京裁判史観」といわれる歴史認識を賛美してきた「戦後」の価値観そのものというほかあるまい。平和主義とアジアへの贖罪
(しょくざい)意識だけでは外交にはならないのである。
「形を変えた戦争」としての政治を取り戻すには、厳密な意味では戦争はまだ終わっていない(国境線はまだ画定していないし、
北朝鮮とはまだ終戦に至っていない)ことを改めて知っておくべきであろう。
平和主義によって「ハードパワー」を失い、歴史認識によって「ソフトパワー」にハンディをつけられているのでは、日本の外交が弱体
なのも無理はないにしても、「無理はない」で済ませられることではない。
ソース(MSN産経ニュース 京都大学教授・佐伯啓思氏)
URLリンク(sankei.jp.msn.com)