10/09/12 13:02:29
今、手元に金曜日に発行された10日付の産経新聞がある。そこに社民党の阿部知子衆院議員と、櫻井よしこ氏が
高校無償化を朝鮮学校に適用するか否かで、賛否それぞれの立場から論戦している。
阿部氏は「学ぶ権利を第一に考えよ」。朝鮮学校の問題を考えるさい、大事なのは朝鮮学校の子供たちの利益となるか
どうかである、ここを出発点に考えていけば、教育内容に問題はあっても、その問題を子供達に負わせ、排除するのは差別
であり、適用すべきだという見解である。
これに対して櫻井よしこ氏は日本国としての国益とは何かということを総合的に考えつつ判断がなされるべきであり、
その意味で朝鮮学校の教育内容には多くの問題点がある、と明確に反対の立場を唱えている。
私がこの記事を読んで最も印象的だったのは質問者が「差別をすべきではない、学ぶ権利を奪うことになる、と無償化適用
に賛成する人もいる」と問い、櫻井氏がこれに「それでは、偏向した教育、ウソを教える教育、生徒のためにもならない教育を
税金で手伝うのか?これをやめさせることが、どうして『差別』になるのか、理解できない。“ためにする”議論というほかないだろう」
と述べた発言だった。
(中略)
■繰り返される「差別だ」という批判
今の無償化適用問題で「インターナショナルスクールには認めて、朝鮮学校にはなぜ認めないのか。それは差別であり
許されない」という論理がある。この論理が持ち出されたのは実はこれが初めてではない。かつての朝鮮学校の卒業生の
大学受験資格問題の時も同じ論理が展開されたのである。
日本の学校教育法に基づく学校として見なされていない外国人学校を出た学生は大学受験するさい、大検受検を課されて
いた。ところがこれが小泉構造改革特区の議論のなかで、規制緩和され、大学受験資格を認めてよいということになった。
インターナショナルスクールの多くは、「この学校を卒業できる学生は一定の学力が備わっている」と保証した国際認証機関の
認定があったからである。ところが、朝鮮学校にはそうした卒業生の学力を保証する認証がなかった。ところが、これが「インター
ナショナルスクールには認められて朝鮮学校には認められない」という形で採り上げられ「差別ではないか」と始まり、今の無償化
の議論とよく似た、土俵が形成されたわけである。
こういう土俵がセッティングされると、認めないという立場は「差別」だと見なされてしまうのである。「本当は差別でも何でもない
と個人的には思っている」といいながら、指弾をおそれて思考停止に陥る人が官僚にも、政治家にも続出、大学受験資格容認
の流れが形成されていったのである。
■本当に差別なのか
朝鮮学校に無償化を適用すべきでないという考え方は、これは本当に差別的な考えなのだろうか。これは真面目に考える
必要があろう。
まず、日本の義務教育はもちろんだが、日本の高校では、日本人だけでなく韓国人であろうと、朝鮮労働党員のご子弟で
あろうと、オウム真理教でも、暴力団員の子供でも、入学差別などはしていないのである。原則、何人に対しても教育の機会を
保証して門戸を開いているのである。一方で自分の意志で北朝鮮の学校である朝鮮学校に通う、そういう自由もまた日本では
保証されている。
だが、日本の学校に適用される無償化の対象に北朝鮮の学校を含めなかったからといって、それは学ぶ権利を奪ったことには
ならないし、差別でもない。
日本の高校には現に在日のご子弟が多数通っており、無償化の適用を受けている。朝鮮学校を無償化の適用対象とするか
どうかは日本の学校なのか、外国の学校なのかでまず決められるべき問題であって、そしてどの外国人の学校に無償化を適用
するかという問題は、政策判断の次元で決められるべきである。その国との外交関係は決定的な判断要素だ。朝鮮学校は
認めないが、インターナショナルスクールには認めるということだってありうる。合理的な理由があればそれは差別ではないのである。
まして、はじめから当然に与えられて然るべき権利などという主張自体がおかしいのである。
(以下略)
ソース(MSN産経ニュース、「安藤慶太が斬る」)
URLリンク(sankei.jp.msn.com)