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>>1の続き
国外に行ったことのある中国人なら、きっと誰しもが日本人と間違われた経験があるだろう。
このような状況には大きく分けて三つの種類がある。
第一は、中国人・日本人以外のほかの国の人から日本人と間違われる経験である。このような状況はごく頻繁にある。
外国の街角を気ままに歩いていると、さも愉快気に「Kon-nichi-wa」と声をかけられる。
このような時われわれは、ただ笑顔で応対するほかない。
第二は、日本人から日本人と間違われるという経験である。このような状況は多くはないものの、それでも
ときどき起こりうる。中国および日本以外の国で、日本人がぺこぺことお辞儀をしながら私に日本語で話しかけてくるのに
出会うたび、私はおかしくなってしまう。
日本ではかつて、日本は単に社会文化が独特であるのみならず人種的にもほかのアジアの国とは無関係である、
というような「日本人論」が流行した。
そのため日本人が外国で中国人と間違われると、大多数の日本人はいくぶんか不快な気持ちになるのである。
第三は、中国人から日本人と間違われるという経験である。たまにこういう状況に遭遇すると、私は頭のてっぺんから
つま先までその原因を探すのである。何か服の着方が違っていたのだろうか、いや、動作が周りから浮いていたのだろうか、
それとも髪が乱れて小泉元首相みたいな感じになっていたのだろうか。なんということだ!
ブラジルの華裔(居留国で出生し、その国籍を取得した中国系住民のこと)作家である袁一平は、
『啼笑嫁巴西(泣き、笑って、ブラジルに嫁ぐ)』という作品の中で、「銭さん(銭は姓)」という人物を描いている。
ある日、銭さんが銀行にお金を支払いに行ったところ、ドアを入るとカウンターの前は長蛇の列であった。
そこで彼は厚かましくも、列に割り込んで支払いを済ませた。一人の老人男性が真っ先に怒り、銭さんをののしって言った。
「この日本人め、ちっともルールを守りやしない、あきれたもんだ!」銭さんは何の釈明もせず、ただばつが悪そうに
苦笑いをして去った。彼は口の中で自分を慰めるようにつぶやいた。
「ののしられたのはワシじゃない、ワシは日本人なんかじゃない。なんでもない!」
しかし、銭さんは良い行いをすれば、決まっていつもその手柄を中国人のものとした。
ある冬の晩、彼は、中国の教会が橋の下に身を寄せる乞食たちに食べ物を配る手助けをした。
その貧しい人びとはパンやミルクを受け取ると、深々とお辞儀をし感激の涙をこぼした。施しを与えてくれた人の
名前がわからないので、ぺこぺことお辞儀をしながら「ありがとう、日本の方。日本人は本当にすばらしいです」と言った。
銭さんは即座に正して言った。「ワシらは日本人じゃない、中国人だ。わかったかね?中国人だよ」
銭さんの論理はこうだ。「時間が経てばやがて、ブラジル人たちは良い行いはみな中国人がやったものと
思うようになるだろう!」しかし、銭さんのたゆまぬ努力も徒労に終わるだろう。
なぜならばこのような子どもじみた簡単な手段は、日本人もとるだろうからだ。(おわり 編集担当:米原裕子)
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