10/08/20 21:58:49
(>>1の続き)
村石さんは結婚後、看護師を続けながら3人の娘を育てた。50年間、保養所のことは家族を
含め誰にも話さなかった。しかし96年ごろ、跡地に水子地蔵が建てられていると元同僚から
聞き、97年春の供養祭で初めて体験を明かした。2人の医師は亡くなり、今では唯一とも
いえる語り部だ。
9月18日には九州大学で開かれるシンポジウムで証言する。大勢の学生らの前で話すのは
初めてのことだ。痛ましい記憶を話すのはつらい。「けど、あの女性たちは自分の傷を誰にも
言えなかった。それを思うと、私が話さなきゃいけない」と感じている。「戦争は女こどもが一番
つらい目に遭うんです」
●引き揚げ
厚生労働省の記録などによると、終戦時、軍人・軍属・民聞人を合わせて660万人以上の
日本人が海外にいた。各地の引き揚げ者は博多が1947年、佐世保が50年までに各139万人、
舞鶴は58年までに66万人など。
二至村菁(にしむら・せい)・トロント大学アジア研究所客員研究員によると、舞鶴でも旧国立
舞鶴病院で堕胎手術が行われた。引き揚げ体験を語り継ぐ「引揚を記念する舞鶴・全国友の
会」の藤村正巳・事務局長は「隠れた悲劇」と話す。
(終わり)