10/08/20 21:58:33
引き揚げ 葬られた胎児 65年目の「遺言」3
戦後、大陸から最多の人が引き揚げてきた博多。女性たちの隠された悲劇がそこにあった。
万葉集にも詠まれた福岡県筑紫野市の二日市温泉。福祉施設の裏手に、穏やかな顔つきの
水子地蔵がひっそりと建てられている。赤ちゃんを胸元でしっかりと抱いている。1946年3月
から1年半の間、ここに、大陸からの引き揚げ中に強姦被害に遭った女性たちの堕胎施設が
開設されていた。国公認の「二日市保養所」。木造2階の建物とドーム屋根の温泉があった。
「母親の感情が出てしまうから、絶対にオギャーという泣き声を聞かせたらいけない。医師か
らそう言われ、私も首を絞めました」当時20歳の元看護師、村石正子さん(84)は約3ヵ月、
看護師10人の1人として連日のように手術に立ち会った。
終戦後の大陸では、直前に宣戦した旧ソ連軍の兵士らの暴行が女性たちを恐怖に陥れていた。
「マダム・ダワイ!」(女、出てこい!)。市民団体「引揚げ港・博多を考える集い」のメンバー
山本千恵子さん(73)は9歳の時、今の北朝鮮東部でサーベルを持ったソ連兵が毎晩のように
怒鳴り声を上げ、若い女性たちが床下に隠れていたことを覚えている。「当時、辱めを受ける
のは死に値するようなことだった。引き揚げ船から海に身投げした人もいたと後に聞きました」
二日市保養所の開設は、今のソウルにあった旧京城帝大の医師らでつくる「在外同胞援護
会救療部」が旧厚生省に働きかけた。引き揚げ船内で「不幸なる御婦人方へ」と題し、利用
を促すチラシが配られた。地元紙には旧厚生省と連名の広告も掲載された。
村石さんは日本赤十字社の旧京城救護看護婦養成所で終戦を迎え、種子島の母方の実家
に身を寄せていた。そこへ呼び出し状が届いた。約15キロ北西の博多港に引き揚げ船が着く
たび、女性たちがトラックの荷台に乗せられてきた。
「男に見せかけるためか髪を短く刈り、やせて汚れていました」。村石さんたちは「お帰りな
さい」と手をとり、温泉で背中を流してあげた。女性たちはほとんど何も話さなかった。
器具で胎児を出す手術は、医薬品不足で麻酔なしだった。「頭のほうから両手を握ると、指が
折れると思うほど強く握りしめられました」。「ちくしょう!」と叫んだ女性もいた。妊娠5ヵ月以上
なら陣痛を促し、出てきた胎児の命を絶った。
子どもの首を自ら絞めたのは、昼休みで食事に行こうとしていたときのことだ。苦しそうに
「看護婦さん」と呼ぶ声が聞こえた。赤ちゃんの頭が出そうだった。医師は休憩中でいない。
とっさに首に手をかけた。子どもの髪の毛は赤く、鼻が高かった。かけつけた医師は、いつも
のようにメスを子の頭に突き刺した。
「望まれない子どもであっても命は命。ただ、当時は、女の人たちに無事に故郷に帰って
もらうことに意識が集中していました。胎児たちは5、6本あった桜の木の根元に埋葬された。
「考える集い」が1998年につくった冊子に掲載された保養所の元医師の証言によると、施設が
閉鎖された47年秋までに400~500人が手術を受けたという。
(>>2に続く)
(2010年8月14日土曜日 朝日新聞 朝刊 30面 より記者が書き起こし)