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漢城旬報
発行に至る経緯
1882年に壬午軍乱の事後処理の修信使として日本に来日した朴泳孝は福澤諭吉と出会い、
福澤は「朝鮮の独立と朝鮮人の啓蒙の為には朝鮮語(ハングル)による新聞の発行が不可欠」と説き、
お互いの思惑は一致した。帰国した朴は1883年1月に漢城判尹(現在のソウル市長)に任命されると、
新聞発行のための行動を始めた。・・・・・
しかし、1893年年4月
しかし1893年4月、朴泳孝は朝鮮保守派からの反発から漢城判尹から解任され、新聞も「政治改良」を
訴える計画だったことで、新聞発行計画は一時頓挫し、雇用されていた日本人印刷工と途中から
新聞発行計画に参加していた福澤門下の井上角五郎以外の日本人は、全員日本へ帰国することとなった。
・・・・
朝鮮に残った井上は、朴泳孝の副官として訪日したことのある金晩穂の紹介により、金允植と知り合い、
允植は驪興閔氏(閔氏一族)と繋がりのある保守派でありながら、開化派に近い思想も持っていたため、
井上は允植に新聞発行のための斡旋を願い、允植の求めに応じて計画案を作成していった。
当初は、ハングルも使用する予定であったが、漢文を「真書」とする保守勢力への妥協から、漢文を使用
することとなった。・・・・。1883年10月30日、博文局から『漢城旬報』第1号が発行されるに至った。
福澤諭吉は新聞にハングル使用を望んでいたことから、ハングル活字を築地の活版所で自費で造り準備
をしていたが、当新聞が漢文となったことから、それが使用されることはなかった。しかし福澤がこの際
に造ったハングル活字は「漢城旬報」の後継である初のハングル使用の新聞である漢城周報で使用される
ことになる。
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