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>>1の続き
金 亡くなった私の父のマルセ太郎は、50歳過ぎても年収200万円もない芸人で、
母がスナックを営んで家計を支えていた。
芸人というのは貧乏なんだと思いながら育った。
高校まで「金原」という通名で通っていたが、84年に大学に入学したのを機に本名の
「金」を名乗るようになった。
しかし、この年の7月に家族で帰化し、「金原」が本名(戸籍名)となった。
帰化には反対だったので父と口論したが、家族そろわないと帰化申請に差し障ると説得され、
結局、帰化することになった。今では帰化について父に対するわだかまりの気持ちはない。
弁護士を目指したのは、えん罪で死刑判決を受けた免田事件などの再審事件を高校生の時に知って、
自分もそういう人たちの役に立ちたいと考えたのがきっかけだ。
弁護士になってからは、在日コリアンに限らず、日本在住の外国人の人権問題に関わっている。
2002年に在日コリアン弁護士協会ができて、参加するようになった。
帰化してからも戸籍名の金原は名乗らず、通名の「金」で生活していたが、3年前に結婚したのを
契機に家庭裁判所で氏の変更をして、「金」を戸籍名にした。だから私の妻子とも「金」である。
洪 大阪生まれ大阪育ちの在日3世です。民族学校の金剛小学校に通い、中学から日本の学校に通った。
本名で日本の学校に通い、活発な性格だったので、中学、高校と生徒会長もやった。
韓国舞踊をずっと習っており、両国に関心を持てるという意味で、むしろ在日に生まれた事を
ラッキーに受け止めていて、ネガティブに考えたことはなかった。
高校では演劇部に所属し、音楽も勉強して、大阪芸術大音楽学科に入学した。
大学を卒業してから、司会業に携わり、また神戸で外国人向けラジオ番組のパーソナリティを
担当するなどした。
24歳のときに韓国留学して韓国語を学び、日本に戻ってからはバイリンガル司会や、
韓国語の翻訳・通訳も行うようになった。
30歳を過ぎてから、芝居を再び始めたが、ある演出家に日本人と動きが違うと言われ、
その時初めて、韓国舞踊の身体性が身についていたことに気づいた。
韓国人の身体には、3拍子が流れているのではないだろうか。
昨年、日韓演劇フェスティバルで通訳と司会を担当したことがきっかけで、韓国演劇界に
関心を持つようになった。
好きな演劇を通して韓日交流に関わっていきたいとの思いから、積極的に韓国の戯曲の翻訳も行っている。
柳 80年に日本に留学した。
当時、米国に留学するには初期費用がかなり必要だったし、欧米留学が主流の中、
日本留学の希少性を考えながら、文部省の奨学金をもらえたので、それを頼りに日本に来た。
88年に東大大学院の博士課程を修了し、国立大学で外国人をあまり採用しない時節、
横浜国立大学に運良く国際法担当教員として採用された。
当初は任期3年・延長なしという不利な条件での採用だったが、3年後、事実上任期なしの
待遇で同大学院国際経済法学研究科へ移動した。
97年4月から、文部省の方針変更に伴い、そもそも任期をつけないケースの学内第1号となって
現在に至っている。就職当初はしばらく経験してから韓国に帰るつもりだったが、
韓国の大学からその時はオファーが無く、横浜国大での勤務に不満もなかったので、
そのまま横浜国大に残った。98年に経済法学研究科の教授になった。
その後、2000年永住権の取得を前後して韓国の大学からオファーが来たが、
迷った末に日本定住を決意し、今日に至った。
日本定住を決意してから、知識人の一人として、社会のために何かしたいと、3年前に
「在日韓国人研究者フォーラム」を立ち上げ、日本の大学や研究所に在籍している数百人に
上るニューカマーのコリアンの学者・研究者らをまとめる団体に育て上げることができないか考えている。
現在、在日社会はいわゆる在日とニューカマーの統合という課題をもっている。
還暦を過ぎて金属疲労状態の民団・総連と、いまだ幼稚なニューカマー団体をいかに統合し、
同胞社会をまとめていくかである。在日の人たちと一緒に、よりよい社会を作っていきたい。
>>3に続く