10/08/04 19:54:15
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韓国の聯合ニュース(電子版)は6月11日、
竹島を不法占拠する韓国側の竹島(韓国名、独島)研究の現状を象徴するような研究結果を報じた。
それは「新羅時代、独島を表示した欝陵島地図があった」とするもので、そこには復元された「于山国図」が掲載され、
新羅時代の欝陵島地図が朝鮮時代の粛宗の時まで存在したとする鮮于栄俊博士の主張が紹介されていた。
鮮于氏は、新羅時代の欝陵島地図が粛宗時代まで伝えられていた根拠として、『粛宗実録』の「粛宗二十年甲戌三月辛卯條」を挙げた。
聯合ニュースによると、そこには「新羅図、此島亦有国名」の一文があるため、
鮮于氏はその「新羅図」を新羅時代の地図と解釈して、次のように語ったと言う。
鮮于氏は、
「日本と欝陵島の領有権に関連した紛争が発生した朝鮮時代の粛宗の時、
領議政の南九萬が『新羅時代、この島(欝陵島)を描いた地図にも国名がある(新羅図此島亦有国名)』とした点を挙げて、
欝陵島が朝鮮の領土であると主張する内容が出てくる」として、
「これは新羅時代の欝陵島地図が粛宗時代まで伝えられていたとみられる」とした。
だが、この『粛宗実録』(「粛宗二十年甲戌三月辛卯條」)と同じ記述は、『承政院日記』(粛宗二十年閏五月庚寅條)にも見られる。
そこでは欝陵島を日本領とする對馬藩の主張を伝える東莱府使からの報告を受け、朝鮮の重臣等による御前会議の模様が記録されている。
その中で、領議政の南九萬による「新羅図、此島亦有国名」の発言は、次のような脈略の中で語られていた。
「南九萬曰、臣見新羅図、則此島、亦有国名。降新羅納土貢。
高麗太祖時、島人献方物。我太宗朝、不勝倭患。遣按撫使、刷出流民而空其地」(臣(南九萬)、
新羅の図を見ると、この島(欝陵島)にはまた国名がある。(その于山国は)新羅に降って土貢を納めていた。
高麗の太祖の時は、島人(欝陵島の人)が方物を献じ、我(朝鮮の)太宗の時代、
倭患(註1)にたえず、按撫使を派遣して、欝陵島に逃げ込んだ流民を刷出(連れ出)し、其の地(欝陵島)を空島にした)
この『承政院日記』(粛宗二十年閏五月庚寅條)を読むと、
南九萬が言う「新羅図」は、新羅の版図(領土)を描いた「新羅図」と解釈することができる。
それを「新羅時代の地図」とするのは、文献が読めていないからである。
冒頭から南九萬が「臣見新羅図、則此島、亦有国名」としたのは、「此島(欝陵島)」が新羅時代のみならず、
高麗の太祖や朝鮮の太宗時代も朝鮮領であったと強調するためで、新羅時代の「欝陵島地図」と読める記述はない。
それを鮮于氏は、『粛宗実録』の「新羅図」を新羅時代の地図と誤読し、「于山国図」までも復元して、次のような憶説を披瀝したのである。
ソース 島根県・実事求是 2010年8月4日掲載
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