10/09/26 14:32:49.84 FnJ64KK4P BE:1068088649-PLT(24001) ポイント特典
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手塚治虫とは、果たして「何」であったのか。コミックマーケット(コミケ)の生みの親で評論家だった故・米沢嘉博氏は、
その著書「戦後SFマンガ史」の中で「増殖していくマンガとは、増殖していく手塚治虫だった」と表現した。
これは極めて的確な評といえよう。「増殖する手塚治虫」こそ、戦後マンガの大道であった。
もちろん、手塚と並んで戦後マンガを作り上げてきた作家たちも多い。たとえば「イガグリくん」の福井英一、戦前から活躍していた「のらくろ」の田河水泡など、
手塚とは違うベクトルで戦後マンガに影響を与えた作家もいる。福井は、この「姿三四郎」的柔道マンガで、手塚と並ぶ人気を博した。
しかし、「赤胴鈴之助」の連載開始直後、過労のため急死する。さまざまなテーマでマンガを描いてきた手塚が、「不得意」としたのが、
「イガグリくん」のようなスポーツマンガであり、「赤胴鈴之助」のようなチャンバラマンガであった。
福井は、その意味でも手塚とは一線を画した作家であったともいえよう。
一方の田河は、マンガの実作者としては戦前に活躍した一人であり、作品自体の戦後マンガへの影響は少ない。
だが、彼の弟子の存在が、日本の戦後マンガに影響を与えたということはいえそうだ。
「サザエさん」の長谷川町子や「あんみつ姫」の倉金章介、個性的な画風の杉浦茂に滝田ゆう、
山根青鬼・山根赤鬼など弟子たちの顔ぶれは多彩である。
また、弟子というわけではないが、田河は晩年に、「キャンディ・キャンディ」のいがらしゆみこと交流があったことも知られている。
田河の弟子たちの作風は、一言で表現するなら「ほのぼの系」といえようか。
手塚やその後継者たちが、ストーリー重視の方向に収斂(しゅうれん)していく中で、
かつての「マンガ」の水流の継承に主眼を置いていたのが、彼らであったといえるかもしれない。