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未来のなでしこ「お母さん」声残し波に…
東日本大震災は、サッカー界の宝の命も奪っていた。小山史織さん(17=大船渡高2年)は
震災が発生した11日、岩手県陸前高田市の市民会館に避難中に津波にのまれ、帰らぬ人と
なっていた。県選抜で「10番」もつけたことがある有望選手の死。地元サッカー関係者にも
大きなショックを与えたが、家族は史織さんの17年間の人生を振り返り、「よく頑張った」と
話した。サッカーを愛した史織さんの遺志を引き継ぐため、26、27日には奥州市で
慈善試合が開催された。
史織さんは津波にのみ込まれながら、母悦子さん(48)の手をしっかり握っていた。しかし、
津波の力は想像以上だった。「おかあさん…」。ひと言を残し、史織さんは離れていった。
悦子さんは、泥流の中でもがき続けた。「史織なら絶対に生きている。私が死ぬわけには
いかない」。気が付くと真っ黒な泥の海の中にいた。救助された悦子さんの姿は、NHKの
映像で全国に流れた。「娘と一緒に流されて、最後まで手をつないでいて。でも手を離して
しまって。おかあさんって…」。15日、史織さんは遺体で発見された。
史織さんは、小3でサッカーを始めた。大好きな兄貴史さん(20)の影響だった。足が速く、
男子に交じっても中心選手だった。体力差が出始める中学でも遜色ないプレーを見せた。
部活と並行して女子チームのある奥州市の水沢ユナイテッドFCでもプレー。エース
ストライカーとして活躍した。佐藤訓久監督(30)は「飛び抜けた存在で、ドリブルがうまくて
点を取れるFW。日本代表の岡崎のようなタイプでした」と話す。大船渡高でも唯一の
女子選手だった。心配する悦子さんに「私より足が遅い男子もいるよ」と話すほどだったが、
公式戦でプレーできないため、1年の夏で退部した。
国体県選抜チームには中3から選ばれた。「意地と努力と根性の子でした。文化祭で
ピアノを弾く時も、サッカーで疲れているのに一生懸命練習していた」と父浩幸さん(50)は
振り返る。被災した日も図書館で勉強中だった。
(>>2に続く)
ソース:日刊スポーツ【野上伸悟】[2011年3月28日8時18分 紙面から]
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