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産経抄 11月6日
「天に2つの太陽はあり得ない」。戦後の中国で国民党と共産党が覇を
争っていたころ、国民党の蒋介石が共産党の毛沢東について述べたと
される言葉だ。とうてい相いれることのない政治の世界のライバル関係
の激しさを言い表している。
▼そんな歴史的人物と並べては、面はゆいだろうが、西岡武夫参院議
長と河野洋平前衆院議長の関係も絵に描いたようなライバルだった。
西岡氏が1歳年上だが、ともに早大出身、若くして国会の赤じゅうたん
を踏んだ2世議員だ。演説のうまさでも定評があった。
▼その2人が中心になり新自由クラブを結成したのは昭和51年6月の
ことである。まだ田中角栄元首相の名前は出ていなかったが、ロッキー
ド事件が政界に波及するのは必至とされていたころだ。ともに政治の刷
新を唱えて自民党を離党したのだった。
▼わずか6人による船出だったが、その年暮れの総選挙で17の議席
を得て「新自クブーム」を起こす。しかし河野氏を「顔」に西岡氏が実務
を担当するという党の歯車は少しずつ狂いだす。西岡氏はまもなく自民
党に復党、新自由クラブもやがて解党し、人々の記憶からも薄れた。
▼路線上の違いはあったものの「両雄並び立たず」が最大の原因だっ
たと「失敗」を惜しむ声もある。その後の政界での生き方も対照的だった。
反自民色の強かった河野氏の方が自民党総裁などをつとめ、西岡氏は
再び離党し、自由党などを経て民主党にたどりついた。
▼政治生活の最後が衆院議長と参院議長、というのもライバルらしい。
そして河野氏が桐花大綬章を受章した直後の5日、西岡氏が亡くなった。
どこか因縁めくが、政治家としての2人の真の評価はまだこれからだ。