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>>707
少しは歴史を勉強したほうがよい。
歩兵第8連隊は「またも負けたか八連隊、それでは勲章九連隊(京都の歩兵
第9連隊 / 「くれんたい=もらえませんよ」のもじり)」[1]という里謡と
ワンセットで語られる事が多い。口数が多く弁舌が立ち、商人気質で損得勘定に
敏く、かつ反権力的というステレオタイプ、偏見混じりの大阪商人気質によって
「大阪の兵隊は弱い」という風説が生まれた。しかし、実際に第8連隊は
負け戦と云う負け戦をしておらず、また背後に聳える盃ケ岳や多紀連山を
使った厳しい訓練や演習で「丹波の鬼」「山岳戦の篠山連隊」と恐れられ、
信頼された篠山歩兵第70連隊の直系母体(第8連隊内から要員が捻出・編成
され篠山に移駐した連隊)にもなっており、決して弱かったわけではでなく、
大阪鎮台時代の西南の役に連隊が従事した際には明治天皇より、「戦功ご
嘉賞」という全軍に於いて極めて名誉ある詔勅を後にも先にも日本軍では
唯一賜るという偉業を達している[2]。太平洋戦争時のバターン・コレヒ
ドール攻略戦に於いても第8連隊(第4師団)は奮戦勝利しており、軍司令官の
本間雅晴中将から謝意を述べられ労を労(ねぎら)われている。
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