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産経抄 8月31日
出会ったときは19歳、彼は33歳だった。ある日いっしょに食事をしていると、本の話
題になった。「どんな本を読んでる?」と聞かれて、太宰治の名前を挙げる。彼は「太
宰は僕も好きだ」と言いながら、ハンス・カロッサという作家の本を薦めた。
▼平成2年に55歳で世を去った、俳優、成田三樹夫の若き日のエピソードだ。遺稿
句集『鯨の目』(無明舎出版)の序文で、妻の温子(はるこ)さんが、明かしている。ニ
ヒルな悪役が持ち味だった成田の素顔は、詩作を好む教養人だった。
▼ドイツの作家、カロッサは、『ルーマニア日記』や『幼年時代』といった自伝的な作
品で文学史に名を残す。といっても、祖国でもほとんど忘れられた存在らしい。
▼温子さんはすぐに向かった書店で、絶版だと聞かされる。古書店を回って、3軒目
で全集を見つけた。以来「私の大切な本」として、何度も読み直してきたという。今後、
急速に普及するとみられる電子書籍なら、簡単に見つけられたはずだ。デジタルデー
タを印刷、製本するサービスもまもなく始まる。
▼もっともそんな便利な世の中だったら、成田夫妻のロマンスは生まれなかったかも
しれない。米国からグーグルやアップル、アマゾン・ドット・コムなどが、日本の電子書
籍市場への攻勢を強めるなか、日本の出版関連業界は、「出版文化の危機」と悲愴
(ひそう)な声を上げる。
▼温子さんは、成田のこんな言葉を書き留めている。「詩でも小説でも作者は命懸け
で書いているんだ。だから読む方だって命懸けで読まなきゃ失礼なんだ」。成田のよう
な読者、そして成田が「命懸け」と認める作者がどれくらいいるだろうか。いなくなった
ときこそ、本当の「危機」だ。