11/05/07 05:29:43.84
今の若い者には、大志を抱くという心構えが薄れているように思う。
昔は、子供でさえ将来自分はこうなって人々の為になるとか、大きな
望みを持っていた。
最近の若い人を見ていると、他人の成功を嫉み、引き摺り下ろそうとさえ考える
者が少なくない。
本来、西洋で物質文明が花開き、その大きな振り子が今度は東洋に向かい、
その頂点が日本ねあるはず。
故に、弘法大師に密教を託したとさえ考えられるのであるが、弘法大師が
密教に目覚めて修行に励んだ求聞持ですら、荒野での必須科目ではなく、
頂点に立つ者でさえ修法していないのが実情のようだ。
それでは、弘法大師の心ねを感じ取れないだけでなく、密教の本筋すら
途絶えてしまう。
密教は、机上の学問ではなく、実践の感応体得できる宗教なのだと考える。
かって私は、本に書いてある一行の書き込みにも疑問を生じると、高い交通費や
宿泊費さえ考えず、確かめる為に趣いた。
滝行の感覚や霊覚を感じ取る為、暗い中妻と滝に通い、マイナス16度と言う
厳しい環境にもめげず、氷を割って行をした。
私が行の前に、妻の背中に向って九字を切る。
その時、妻は背中に暑さを感じ脊髄が温まるのを感じたという。
心臓麻痺で妻を死なせるわけにはならぬ、その進退窮まる状態が、今の自分の持つ
法力の基礎となった。
密教は、命を掛ける値がある宗教と、私たち夫婦は思い、歩んできた。
「 久 ( ひさ ) しく 已 ( すで ) に仏道を行じて 神通智力に住せり 善く菩薩の道を学して
世間の法に染まざる こと 蓮華の水に 在 ( あ ) るが 如 ( ごと ) し」
全く世間の法に染まっていない、
それは泥水の中に在って清浄な華を咲かせる蓮華のようである