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寺子屋 ランボー法師 其れは覚鑁上人の呪文だったⅠ
”更に亦その報いを受けしめざれ。”
後に興教大師といわれた覚鑁上人は、真言宗中興の祖として知られているが、その生涯は壮烈なものだった。
平安時代後期に20歳の時高野山に入り、その活躍には目をみはるものが有り、弘法大師の再来と云われた。
覚鑁上人36歳の時、高野山の腐敗の現状に目を奪われた。
当時僧侶は、食べる手段として修行を疎かにした僧、権力に群がる僧、を覚鑁上人は目の当た
りにして自ら宗派の建て直しを図った。
金剛峯寺座主となり、主導権を制覇し真言宗の建て直しに着手するし、その考えはあくまでも
真言教学の徹底と実践であり、怠け癖、権力を欲する等のうとましく思う僧侶は反旗を翻し覚鑁
上人と激しく対立、挙句の果て覚鑁上人の金剛峯寺境内にある密厳院を襲い焼き払うという暴挙
にで、覚鑁上人を金剛峯寺追放という凶行にでたのだ。
それだけでは済まず、覚鑁上人の命までも奪おうとした者達に追われ、密厳院本尊の不動明王
像の後に隠れるも、その不動明王像の後に隠れている覚鑁上人に気が付いた暴漢は、不動明
王像切り倒そうと切り込んだ時、その不動明王像から血が流れ、其れを観て暴漢は恐れおのの
き引き上げた為に覚鑁上人は一命をとりとめた(一部伝説)。
この事件の直前覚鑁上人は長きにわたる無言行を修し、その後密厳院発露懺悔文を書いたのだ。
それは堕落した僧侶の現状に恥じる内容で、自覚を促す文として知られている。
自覚せぬ者、当時の高野山の権力をむさぼる僧侶に向けてのはなむけの言葉それが
”更に亦その報いを受けしめざれ。”
なのだ。