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法華経は五千人の増上慢の比丘も救えない末法を説く不了義経
法華経はたしかに声聞の記別を説いたが、その前に方便品において、「それまでの教えと違うのなら聞けない」
と五千人の増上慢の比丘たちが立ち去って(これを五千起去という)以降、救われていない。
それらをもし涅槃経に譲ったとするならば、一切衆生の済度を確約する仏教の教え、
また最高の教えであると位置付ける法華経に落ち度があることになり不完全な教えとなる、
と主張する。またこの涅槃経の経文は恣意的に前半部が省略されて多く典拠されており、
これを省略せず素直に読めばまったく意味が逆の違ったものになるとする。涅槃経では、
これはあくまでも涅槃経の利益を説いたものであり、「秋収冬蔵」というのは、
法華経で声聞衆が記別を受けて大果実を得たように、この涅槃経の教えを修学すれば、
「更に所作なきが如し(あとは何もすることがないのと同じである)」と説いている。
したがって涅槃経を修学しなければやり残したものがある、というのが、
解釈を加えない経文そのものの真の意味である。