10/12/15 21:52:05 GEk4frZG
>>478
『また次ぎに、法忍とは、内の六情(ろくじょう、眼耳鼻舌身意、六根)に於いて著
せず、外の六塵(ろくじん、色声香味触法、六境)に於いて受けず、よくこの二に於
いて分別を作さず。 何を以っての故に、内の相は外の如く、外の相は内の如くな
ればなり。 二相は倶に不可得なるが故に、一相なるが故に、因縁合するが故
に、その実は空なるが故に、一切の法相(ほっそう、万物は一性なれども見らる
べき殊特の相)は常に清浄なるが故に、真際(しんさい、空平等の真性、真如)
の法性(ほっしょう、諸法の実相、空)の如き相なるが故に、不二(ふに、二つならざること)
の入(にゅう、六情六塵が相互に渉り入ること)なるが故に、無二(むに、不二)なり
といえども、また一にもあらず。 かくの如く諸法(しょほう、万物)観じて、心信じて転
ぜざる、これを法忍と名づく。』
“外・内”の解釈として、この大智度論巻第十五をどのように思われますか?
三世を説くとか説かないとかは、また別の話でしょうに。
【相・性・体】 【色・心・不二】 【内・外・相応】 【過去・現在・未来】
【生・死】 ほか・・・。
人の事、他人事ではなく、仏法は己自身を説いているものですから、
外道などと言って指を指すものではありません。