11/08/23 17:10:37.54 ZYFEw3os
>>781
1907年、統監府勧業模範場の開場式において、統監・伊藤博文は訓辞を述べ、明治維新以来の日本の
農学によって韓国の農業を適切に指導したならば、「能く韓国と国民の生活を改善し衣食を充実する
の功績を挙げ」 ることができるだろう、といっている。農業はそれぞれの土地の在来技術に基づいて
発展していくものであるが、このとき、伊藤の脳中には朝鮮の在来技術を尊重しようとする意識は
まったくなかった。
また同日、場長の本田幸介の 「(韓国の)農産物の種類善良ならざるが故に、産額従て多からざる
のみならず、品質もまた劣れり、これが改良を図らざるべからず」 という式辞も、朝鮮の農業を蔑
視する先入観に満ちている。もともと国立大学出身の日本人農学者たちは、日本の農民を蔑視する傾
向が強かったが、それが日本人一般の朝鮮人蔑視によって一層強化されて、朝鮮の在来技術を尊重
しようとする意識がまったく欠如していた。
勧業模範場という名前そのものが、日本の農業技術を韓国農業の「模範」にしようとする意識を端的
にあらわしている。やがて、それは、日韓併合とともに朝鮮総督府勧業模範場、さらに1929年、朝鮮
総督府農事試験場と改称され、1944年、道農試をふくめて総督府農業試験場に改組されたが、翌年、
日本の終戦によって終止符を打った。