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★考古学会での常識★
「古 代 か ら 朝 鮮 民 族 は 、 日 本 人 に 完 全 に 支 配 さ れ て い た」
太王碑(広開土王碑)より
391年(辛卯(耒卯)年)「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民」
(そもそも新羅・百済は属民であり、朝貢していた。しかし倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。)
三国史記 (百済本紀) より
397年 夏五月 王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。
402年 五月 使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。
403年 春二月 倭国の使者が来たので、王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。
405年 腆支太子は倭国において訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。倭王は、兵士百名を伴わせて、護送した。
418年 夏 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。
428年 倭国からの使者が来たが、随行者が五十名であった。
三国史記 (新羅本紀) より
14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿?の急利の娘を倭国に送った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。
三国遺事より
390年 第十七代、那密王即位三十六年に、倭王の使者が来朝して「わが王が大王の神聖であられることを聞いて、臣に百済の罪を大王にあげるようにといわれました。
願わくば大王の王子お一人をつかわせて、わが君に誠意を御示しくださいませんか」と言った。そこで王は三男の美海を送った。美海の年は十歳で、言葉や動作も未熟で
あったので、内臣の朴娑覧を福使として付き添わせた。倭王は彼らを抑留し、三十年も帰さなかった。