10/12/01 13:46:35 Z/mFmO9n
>>807 つづき
トルーマンは『トルーマン回顧録』(恒文社、完九二年)で、四五年七月二四日の米英首
脳会談で「ソ連の対日参戦を奨励する」ことに全息したと記している。トルーマンは千島
列島をソ連領とするヤルタ協定を認めることをソ連側に伝えている。千島列島はソ連参戦
の対価としての意味合いを持った。勿論ソ連軍が日本を攻撃した際トルーマンはこれを歓
迎した。
次いでポツダム宣言(七月二六日)では、「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並
二吾等ノ決定スル諸小島二局限セラルベシ」と宣言し、日本はこれを受諾した。
サンフランシスコ講和条約(一九五一年九月八日署名)において、第二章第二条(C)は
「日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として
主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、榛原及び請求
権を放棄する」とした。その直前九月七日吉田茂総理は「千島南部の二島、択捉、国後両
島が日本領であることについては、帝政ロシアもなんらの異議を挿さまなかったのであり
ます」と述べている。この時点で、吉田総理は択捉、国後両島は千島の一部であるとの見
解を述べている。五一年一〇月一九日、西村龍雄外務省条約局長は「条約にある千島列島
の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております。しかし南千島と北千
島は歴史的に見てまったくその立場が違う」と国会答弁をした。(つづく)