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中ソ国境紛争(ダマンスキー島事件)
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緊張と衝突 1950年代後半のニキータ・フルシチョフ首相によるスターリン批判以降、ソビエト連邦と
中華人民共和国の間では関係が悪化していました。中ソ対立により両国間の政治路線の違い・領土論争を
めぐって緊張が高まり、1960年代末には4,380kmの長さの国境線の両側に、658,000人のソ連軍部隊と
814,000人の中国人民解放軍部隊が対峙する事態になりました。在北京ソビエト連邦大使館に対する紅衛兵の
襲撃や、国境地帯での発砲事件など両国の小規模な衝突は度々起きていたものの、本格的な軍事衝突は
起きないままでいました。
1969年3月2日、極東のウスリー川の中州・ダマンスキー島(珍宝島)で、ソ連側の警備兵と中国人民解放軍兵士
による衝突が起こりました。これに関しては双方とも「先に相手が攻撃を仕掛けた」と主張しています。
戦闘で31人の死者と14人の負傷者を出したソ連軍は、中華人民共和国東北部国境に展開している中国人民解放軍
に砲撃を行い、ダマンスキー島に部隊を突入させました。ソ連側はこの攻撃で80人の死傷者を出し、
中華人民共和国側に死者800人の損害を与えたとの記録が残っています。またソ連側によると、
中国人民解放軍部隊が民間人・農民・家畜に部隊を囲ませながら前進する戦術を取ったといいます。
中華人民共和国側の記録にはソビエト軍に大きな損害を与え、自軍の死者はごく少なかったとあります。
なおこの時、少なくとも1輌のT-62が中華人民共和国側に鹵獲されています(中華人民共和国はT-62を1輌公開
しています)。
7月8日には中ソ両軍が黒竜江(アムール川)の八岔島(ゴルジンスキー島)で武力衝突し8月にはウイグルで
衝突が起きるなど、極東及び中央アジアでの更なる交戦の後、両軍は最悪の事態に備え核兵器使用の準備
を開始しました。こうした最中、1969年9月に北ヴェトナムのホー・チ・ミン国家主席が死去し、
ソ連のアレクセイ・コスイギン首相はハノイでの葬儀に列席した後北京に立ち寄り、中華人民共和国の周恩来首相
と会談して政治解決の道を探り、軍事的緊張は緩和されました。国境問題は先延ばしされましたが、
最終的な解決には至らず、両国とも国境の兵力配置を続けました。