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釣魚諸島は歴史的に中国領
「尖閣諸島」という名前そのものが、「日本固有の領土」論のデタラメさを表現している。
一八九五年一月十四日に「尖閣諸島」の日本領有が閣議決定された。ところが、この名前が
つけられたのは閣議決定から五年も経った一九〇〇年なのである。
しかもそれは当時の日本海軍の模範であった英国海軍が、海図で釣魚島の東側にある岩礁群
につけた「PINNACLE│ISLADS」(ピナクル・アイランズ。尖塔あるいは
とがった岩峰の群島)という名称の、翻訳なのである。「尖塔」をやや重々しく「尖閣」
に言い換えたにすぎない。
これに対して中国側からすれば、釣魚諸島は明の時代から中国領として、釣魚台あるいは
釣魚嶼、黄尾嶼(日本名・久場島)、赤尾嶼(日本名・久米赤島、大正島)などの名で
知られており、当時中国の沿岸を荒らし回っていた倭寇に対する海上の防衛区域に含まれ、
沿海防衛のための地図にも記載されていた。
日本政府やマスコミが主張する国際法上の「無主地先占の法理」からすれば、釣魚諸島を
最初に発見し、命名した中国に領有権が生ずる。しかも明政府はこれらの諸島を海上防衛
の区域に定めていた。たとえ無人島であったとしても、今日の言葉で言えば「実行支配」
が成立していたのである。
中国には釣魚諸島に関する多数の歴史的文献があるが、明治維新以前の日本には釣魚諸島
に関する日本の文献は、江戸幕府に対して国防の重要性を訴えた『海国兵談』で有名な
林子平の『三国通覧図説』ただ一つしかない。しかもそれは、中国の冊封副使・徐葆光の
『中山傳信録』の図に依拠したものであり、日本の国防の重要性を訴える観点から書かれ
ているにもかかわらず、釣魚諸島をはっきりと中国領に区分しているのである。
また、これらの諸島に関する琉球の文献も、いずれも中国の文献に依拠したものであり、
島の名前を中国名で記し、中国領としている。当時の琉球や日本の知識人にとって、
釣魚諸島が「無主地」ではなく、中国領であることは動かしがたい事実であった。