11/11/04 23:00:56.99 q4Rn2bHB0
維新団の話の続きに戻ると、もう1人、後日の証言者が登場する。
長州オタ君の説は自分で気づいているかどうかはともかく北川説に他ならないのだが、
例えば萩野静枝は昭和48年に北川の取材を受けた人物だが、上の河村恵之と同趣旨の証言をしている。
たとえばこの記事のネタ元は萩野氏だと推定されている。
「凱旋した40人には間もなく士分取立の声が起こった。しかし土地を持たぬ者のみじめな生活を知る彼らは、
名よりも実を望んで、褒賞として近くの玉蔵地区の山林が分与された…」
(以下は取材者が被差別民に思い入れた余計な感傷が入ってるので略)
で、結論としては文久の屠勇取立令は実態として成立していた様子がないから、
維新団は士分取立が事実上不可能であると言う実態を見透かされた上で、
代償として山林を要求したとみられる。
718:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:05:04.17 9YHb1c5z0
>>714
そりゃ高杉の決起に立たないから罵倒されただけでしょ
高杉の立場からすれば損得成否で動かない土民と
忠死覚悟の自分は違うと言ってるわけで
それをさも忠義面して止めるからよけい腹立ったんだろな
719:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:05:09.91 X+5i+LUd0
>>715
はあ?一般的な部落を語るのに。関東近辺のエタ頭で利権のドンの話がなんの参考になるというんだね?
サンプルとして非適当なんだよ。お前がやっているのは例外を見つけてきて、
ほら、こんなケースがあります。だから○○はこうなのです。
と言っているだけ、これはただの詭弁。
ちなみに俺にダブスタはありえないな。
どこでもやっている事ってなに?入会権のことか?
入会権を持ってないのに、木を取ればそれはどろぼーと変わらんよ。
その部落民が悪い。
山に入ってものを取るくらい、と簡単に言っているみたいだが。
戦前まではこれがとても重要な問題であるのに。それを理解していない輩がいるとはね。
720:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:16:04.08 X+5i+LUd0
>>717
だから武士の名を得ても、土地もないなら武士としての対面を保とうと思ったら食べるものもない。
といっているでしょ。
だから実を得ようといっているわけ。身分上昇よりも、目先の金がほしかったってだけ、
そういう部落の心情があるわけ。これは別に悪い事ではない。
んで、武士の名をもっても対面が保てる、江戸のエタ頭のケースが当てはまるのかって事だよ。
江戸のエタ頭はこう言っている、
だから維新団のみなも身分がほしかったはずだ、差別はいやだったはずだ、
だが辞退したのは、差別を恐れてだ!
とか言っちゃうお前さんはおかしいんだよ。
721:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:16:44.35 q4Rn2bHB0
と言うか、いま気づいたが長州オタ君は>>690に挙げられている奇兵隊の出自の内訳
559人分に関して、どこに「穢多」がいたのか指摘できてないね。
自分も大学で聞いてみたが「奇兵隊は出自まで書いてないでしょ?」と変な顔をされたよ。
「長藩奇兵隊名鑑」しか参照史料がないはずだと。
で、見てみたらこれ普通に頻繁に引用されてるんだが、どこにも穢多をその身分で入隊させていた
と思われるような記述はない。
長州オタ君は高杉は慶応元年に奇兵隊入隊に関して「エタの者を除くのほか」と言った発言の前に
「暫く」がついてないじゃないか、と反論するのだがそんなの研究者はみんな知っている。
なぜかと言えば奇兵隊に穢多身分を堂々と受け入れたと言う記録がないため、
実態として穢多がその身分のままで入隊を許可されたケースはないか、
ごく限定されたケースだったと見られる上に、
この「暫く」を「一時的」とかなり好意的に解釈するのは少数説なんだな。
文久の屠勇取立令の建前から言えば、奇兵隊にも屠勇の入隊を認めるのが当然であるにも関わらず、
高杉は「暫くは見合わせよう」と反対するベクトルで発言しているのは自明だから。
つまり正義派政権は被差別民の入隊と言う「公約」遵守を迫られる段階になって
「暫くエタの者を除くのほか」といきなりモラトリアムを付しているわけだ。
これを補強する証拠は他にもある。屠卒の隊は諸隊の反乱に対抗するため、
俗論党政府(彼らは自分のことを「正義党」と称していたが)の命令により設立が始まった。
これを正義派政権がそっくり引き継いだわけだ。
ところが正義派政権は被差別民の選抜徴兵制に際しての人数定員の条件を守っていない
(根こそぎ動員になっている)のであるから、いいかげん文久屠勇令の布告を守れよと言う圧力がかかっている。
高杉の慶応元年1月6日の書簡で反対していると見るのが通常である。
722:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:28:32.91 q4Rn2bHB0
被差別民の話ばかりしていても仕方ないので、諸隊の性格や、
本当に志願兵である諸隊は強かったか、支持を得ていたか、民衆の支持は充分だったか、
と言う点についても論ずる。
馬関戦争の際に連合艦隊の集結地点の対岸の三田尻で数百人規模の打ちこわしが発生したこと、
さらに幕長戦争を控えて、石州口に当たる奥阿武宰判弥富村では2月中旬と下旬の2回にわたり、
やはり数百人規模が参加した打ちこわしが発生している。
注目すべきは、攘夷戦争、幕長戦争を控えて、周布らは恐らく敗戦を予想していたと見られる。
そのために民衆のアジテーションのために神風伝説を流布させたり、敵国撃退のためのお百度参りのようなことを銃後の領民に組織的に強いて、
一種の洗脳を徹底して行っていること。つまり尊攘思想、神国思想は藩上層部が意図的に刷り込んだ
戦時中の国定教科書みたいな教育をやりまくったわけだ。実際、木綿価格の上昇で長州藩領民がそれに共感しやすい要素は充分あった。
以下続く
723:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:40:34.64 q4Rn2bHB0
もっとも長州藩領民がそこまで馬鹿だったわけじゃなく、
実際は一揆、打ちこわしの多発により、庄屋・豪農と言った富裕層が藩秩序防衛と一体化し、
兵を私に集めて徴集が出来たわけだが。現実に藩と彼らとの間で取引がなされている
例えば奇兵隊の会計方を務めた白石正一郎は有名な諸隊のスポンサーだが、
彼は支藩清末藩1万石の御用商人であり、荷受問屋を営んでいたが自前の船は持っていない。
よって長州藩の最大の財源である下関の北前船交易に参加できない程度の商人だった。
白石正一郎は「豪商」「スポンサー」と言われるような規模の商人ではない。
あわよくば長州本藩の人脈と結びついて北前船の交易利権を狙うと言う意図で正義派人脈に接近した
と推測される。
このように攘夷戦争の段階では正義派政権の政権掌握と相まって、藩の内部の豪商・豪農は
「出し抜かれる」危険性が高まっていたのであり、先手を打って自ら募集に応ずる例が多く見られた。
文久の攘夷戦争の段階で、長州は軍事国家的色彩を強めていたから、藩に逆らって特権を奪われることは致命的だったのである。
時政が三田尻打ちこわしの直後から隊の募集を始めていることは、文字通り豪商層が自力救済を求めていたことを物語る。
724:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:54:56.55 q4Rn2bHB0
四ヵ国連合艦隊の襲来の後、講和が始まって上陸したサトウは面白い記述を残している。
(以下引用)
一般の人々はみな、外国人追放の命令を下したのは大君であると確信していた。
…私は、長州に行って砲台を破壊するよう幕府に頼まれたのではないかと聞かれた。
私は「いや、大君は海峡を開くことは自分には出来ないと言った」と答えた。
それから私は、その間の事情について自らの意見を述べ、大君は大名と大国の板挟みになって
両方に矛盾した言質を与えなければならなかったのだ、と言って聞かせた。
すると人々は異口同音に「ホンマダ」(本当だ)と叫んだ。
…ここからも、長州藩領民は「幕命による攘夷」であることを信じ切っていたこと、
サトウの説明によって初めて幕府の立場に得心が行ったことを物語る。
なお、中略した場面には「幕府は二股政策をやっている」と主張する男の存在も確認されており、
かなり多くの長州藩民衆は「攘夷は幕命である」と思い込まされて戦争に協力したものの、
その背景について何らかの疑念を抱き、サトウの説明にたちまち共感したと推論できる。
つまり長州藩の領民は、攘夷実行を「何か変だけど、幕府がそう命じているなら」
と言う心境で戦ったと推察される。藩は確実に「幕府も命令している」と言う点を強調したのである。
これは北前船交易で、諸藩との交易が幕府の保障なくしては行えなかった長州藩の実情
(たとえば家近は、村田失脚は、幕府の天保の改革の失敗に連動しているとする)
を反映したもので、サトウらに対する民衆の態度を見ても、「尊攘感情」と思われる要素はあまりうかがえないのである。
725:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:56:22.03 X+5i+LUd0
>>721
それ結成時の自称身分の数字。
その後拡大していくわけ、一壊走信者はその程度の事も知らないの?
ちなみに屠勇取立て令は七月。
ついでに言っておくと高杉の発言だけおってもあまり意味ないな。
どうせこの人すぐ奇兵隊追われるんだし。どこまで影響力があったのやら。
あと北川が長州信者は悪い冗談だなwお前のような狂ったアンチにはそうみえるのかもしれんが。
まだまだ突っ込みたいところが山済みだが、明日は速いのでやめとこう。
まあ頑張って醜態をさらしてくれたまえ。
726:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/05 00:08:22.22 znN1O2zO0
・また、民衆が「外国人追放=攘夷を命じたのは幕府である」と信じ切っていたこと、
・にも関わらず攘夷を実行した長州攻撃を幕府が外国と組んで行ったのではないかと問われていること
から、長州藩は領民に対して、幕命が決定された正確な経緯を伝えていないどころか、
幕府が外国艦隊に依頼して長州藩攻撃を行ったと言う噂まで流布していたことが窺える。
前述したように、周布は攘夷戦に際して「敗北」を予想しており、
しかしながら俗論党排斥後に政権を維持し、反発の強かった洋式軍制を導入するには、
臨戦態勢が必要であると認識して攘夷に踏み切ったと思われる。
つまり、攘夷戦争と馬関戦争の結果として周布・桂・高杉らが開国論に転換したと言うのは、
完全に間違った理解であり、当然、久坂もこれを認識していた。
吉田栄太郎が屠勇取立の献策で「農兵の募集が必ずしも満足が行く状況にない」
と指摘しているのも、民衆の募兵の動きは藩上層部の期待に沿わない程度には鈍かったことを物語る。
このこう着状況を一挙に変えたのが、外には外国との戦争、幕府との戦争、
内には俗論党とその支持者が存在し藩政府がいつ転覆するか分からない
と言う臨戦状況を作り出して、豪商豪農層からの献金、私募を強く促した上に、
民衆の危機感を直接的に煽ると言うチキンレース的な戦争状況の作出だったのは間違いない。
繰り返すが、長州は尊攘思想に燃えた民衆の協力を得て攘夷戦争に突入したのではなく、
民衆動員や豪商豪農層と藩の結びつきを強め、俗論党や穏健派を抑え込むために臨戦状況を選択している。
民衆にとっては現実に外国との戦争に入ったと言う否応ない実感が第一であり、
尊攘思想は後付であったのは疑いない。