11/11/04 22:45:29.91 q4Rn2bHB0
維新団については別の証言者もいるんだが、赤根の話が出てきたからそっちを先にしよう。
あれは酷い話だね。
>>710
赤根武人の追贈の嘆願運動の顛末については有名な話で、
明らかに山県有朋の私怨で止められたのが実情。公使館焼打ち、攘夷戦争と、
赤根は常に高杉の忠実な同志として勇敢に戦っていると言わざるを得ない。
ところで赤根出奔までの顛末を纏めると、彼が決して不忠者などではないことが分かる。
なぜなら高杉も決起前年11月下旬に九州から帰国し、御盾隊小隊司令の冷泉らに決起を促された際、
即座に決起に反対し、勝手な行動を起こして諸隊内部を分裂させては「大事成就し難からん」
と断言して、赤根の藩政府との交渉路線を支持しているからだ。
この後で高杉は持論を変えていくのだが、12月8日に萩との交渉から戻った赤根に
「それでは交渉がぶち壊しになる」と驚き、遊撃隊の太田を尋ねて行動中止を強く求め、
遊撃隊はこの時点でいったん決起計画から離脱する。
これに激怒した高杉は、決起を促した冷泉にすら「酒を食らって歌を歌い、傍若無人」
と記されているような醜態で御楯隊を訪問した(12月12日)
この際、太田市之進、野村靖、品川弥二郎と言った幹部クラスまで高杉をいさめたのに対し、
高杉は有名な「一土民、毛利家恩顧の臣」と言う出自を罵倒する演説を行う。
なお一説には、この場に山県や当の赤根まで同席していたと言う証言もある。
こんな封建エリート意識むき出しの演説が支持されなかったことは明らかで、
奇兵隊日記にも「谷梅之進馬関へ脱走」つまり高杉の行為は「脱走行為」として記録されている。
ちなみにスポンサーであった白石正一郎が高杉の決起を知って「暴挙党」
と記し、賛同していなかったのは明らか。高杉決起後も、諸隊は駐屯地を移しただけで、
赤根が驚いて停戦工作を依頼するまでは特に目立った行動は取っていない。
赤根の留守中に、赤根と何らかの形で対立していたと思われる(奇兵隊日記を改竄している)山県が、
主導権を取って絵堂に襲撃をかけ、高杉に呼応してしまったことで、
赤根は山県によって放逐された形になってしまった。これが赤根の不運の始まり。
もちろん彼の処刑の際も全く取調がなされなかったことは周知の通り。
この経過は関係者はよく知っており、赤根の追贈運動も山県の反対がなければ実現寸前だった。