なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2at HISTORY2
なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2 - 暇つぶし2ch708:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 22:11:41.46 q4Rn2bHB0
それと「維新団が士分取立を辞退した」と言う話のソースなんだが、
今日、大学で先輩に参考文献を聞いてみたら面白いことが分かったよ。

維新団の聞き取りの先駆者である河村恵之にはこのような記述がある

「戦後論功の節、総監毛利氏郷卿の肝入りにて維新団の抜群の戦功を称えて、
士族取立ての議あり、しかれども粟飯炊く折焚く芝の細煙り、耕す方寸の地もなく、
山もなく、木の枝一片も近○の咎の的となり、茨の道の歩みには名を得て実を欠く
武士は食わねど高楊枝の譬、有難迷惑で名を重じて体面を保てば口が干上がる、
部落にも評定の結果返上に一決し、元の木阿弥に甘んずるに至る、旧維新団玉倉錬武地一円は下賜さる」

つまり維新団は「木の枝一片」を採るのも責められるような状況で、
「部落にも評定」していることからかなり迷って全体衆議にかけた上で、泣く泣く士分取立を辞退し、
「元の木阿弥」に甘んじたと言うのが内部実態だと河村は認識している。
ちなみに被差別部落民でも、この頃は貧富の格差が相当開いているから、
比較的富んで名字を称するような被差別民もいたわけだが、維新団が「武士は食わねど高楊枝」
になることを最も恐れていたことが窺える。

709:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 22:14:01.80 q4Rn2bHB0
>>707
強引な反論だなあ。数が少なければと言うけど、分子に当たる数は死者2人負傷者12人だぜ。
どこがサンプルとして少ないと言えるんだ。長州藩の大野での1回の戦闘分くらいは損耗が発生している。
これは8月8日までの記録だからね。それ以降発生した可能性のある山代茶筅中の損耗については不明だよ

710:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 22:20:37.88 9YHb1c5z0
高杉は上級武士としてのプライドや毛利家への忠心が超絶高いから
その自分が内乱起こそうとしてるのに武人の様に藩への忠義も感傷も無い土民がしたり顔で止めるなって事だろ

711:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 22:23:18.99 q4Rn2bHB0
維新団の記述で最も注目に値するのは「木の枝一片も…咎の的となり」
に象徴されるように、採集権をめぐって近隣の一般集落と争いが生じ、
おそらく維新団の出身集落は泣き寝入りを迫られていたと思われる点ね。
つまり維新団には常に水利、山林その他の利用権を巡って侵害状況があったと推定される。
現に天保大一揆でも、打ちこわし件数741軒中171軒がエタ部落であったこと、
報復攻撃開始前の三田尻の打ちこわしでも被差別民が真っ先に襲撃されていることから
これは充分首肯できる。
全国的にも百姓一揆が被差別民にこれだけの規模の襲撃をかけた例は、こぶち騒動と長州藩くらいしかない。

つまり「維新団の練兵場」であった土地(もちろんそこなら近隣住民からクレームはつかない)
を賦課されれば、ようやく自分たちの土地が手に入るわけだよ。
経済的な権利を確立できない限り、「武士は食わねど高楊枝」になると言う恐れが強かったのが窺える。

維新団の「ありがた迷惑」は、この最初の調査の文脈では、武士なんか望まない、安泰な日常生活に戻りたいと言うことではなく、
経済的権利が確立されていない不安な生活状況で土地をほったらかすわけにいかない、
と言う強い危機感のあらわれ。文字通り命がけで戦い取った経済的権利なんだわ。

712:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 22:25:01.72 X+5i+LUd0
>>709
敵軍とかち合ってでる負傷者としてはその程度は普通。
ましてや後方支援やら偵察やらが主任務なら、錬度も低い。

あと大野を上げているが、その戦闘は別に部隊の多くが撃破されたみたいな敗戦じゃないから。
敵の守りが頑強なので、引いただけの話。
だから死傷者も別に対してでない。勝っているほうは負傷者を助けられるので死者が抑えられるからな。

713:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 22:33:23.58 X+5i+LUd0
>>711
部落は納税の義務はない。
そして山への入会権は普通にどこでも揉める元。
既存の村落で分け合っているのに、新たに勝手に取りに来る奴がいれば大問題。
戦国時代なら普通にそのまま戦争にすら発展しかねないもの。
ちょっと山から木をとってとか何を言っているんだの世界だよ。
どろぼーと変わらんよ。
そしてエタのもっている牛馬解体の権利が農民からすると許せなかったのもあるだろうな。
自分の所で買っている家畜も死ねば部落が処理するので、部落の資金源にはや代わり、
農民は重税で苦しんでいるのにね。
そして部落は農民側ではなくて、体制側なんだという事を理解すべきだね。
彼等は末端の支配層に過ぎない。



714:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 22:45:29.91 q4Rn2bHB0
維新団については別の証言者もいるんだが、赤根の話が出てきたからそっちを先にしよう。
あれは酷い話だね。

>>710
赤根武人の追贈の嘆願運動の顛末については有名な話で、
明らかに山県有朋の私怨で止められたのが実情。公使館焼打ち、攘夷戦争と、
赤根は常に高杉の忠実な同志として勇敢に戦っていると言わざるを得ない。

ところで赤根出奔までの顛末を纏めると、彼が決して不忠者などではないことが分かる。
なぜなら高杉も決起前年11月下旬に九州から帰国し、御盾隊小隊司令の冷泉らに決起を促された際、
即座に決起に反対し、勝手な行動を起こして諸隊内部を分裂させては「大事成就し難からん」
と断言して、赤根の藩政府との交渉路線を支持しているからだ。

この後で高杉は持論を変えていくのだが、12月8日に萩との交渉から戻った赤根に
「それでは交渉がぶち壊しになる」と驚き、遊撃隊の太田を尋ねて行動中止を強く求め、
遊撃隊はこの時点でいったん決起計画から離脱する。
これに激怒した高杉は、決起を促した冷泉にすら「酒を食らって歌を歌い、傍若無人」
と記されているような醜態で御楯隊を訪問した(12月12日)
この際、太田市之進、野村靖、品川弥二郎と言った幹部クラスまで高杉をいさめたのに対し、
高杉は有名な「一土民、毛利家恩顧の臣」と言う出自を罵倒する演説を行う。

なお一説には、この場に山県や当の赤根まで同席していたと言う証言もある。
こんな封建エリート意識むき出しの演説が支持されなかったことは明らかで、
奇兵隊日記にも「谷梅之進馬関へ脱走」つまり高杉の行為は「脱走行為」として記録されている。

ちなみにスポンサーであった白石正一郎が高杉の決起を知って「暴挙党」
と記し、賛同していなかったのは明らか。高杉決起後も、諸隊は駐屯地を移しただけで、
赤根が驚いて停戦工作を依頼するまでは特に目立った行動は取っていない。
赤根の留守中に、赤根と何らかの形で対立していたと思われる(奇兵隊日記を改竄している)山県が、
主導権を取って絵堂に襲撃をかけ、高杉に呼応してしまったことで、
赤根は山県によって放逐された形になってしまった。これが赤根の不運の始まり。

もちろん彼の処刑の際も全く取調がなされなかったことは周知の通り。
この経過は関係者はよく知っており、赤根の追贈運動も山県の反対がなければ実現寸前だった。


715:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 22:48:33.26 q4Rn2bHB0
>>713
長州藩の場合、天保一揆で打ちこわし件数700軒余のうち170軒がエタ部落だと言うことが著しい特徴。
お前は幕府の弾左衛門の身分上昇嘆願をどう思うかと聞いても
「それは幕府の問題だ」とスルーして答えなかったのに、
今ここになって「どこでもやっていること」と正当化する。

これをダブルスタンダードと言うのだ。だからお前と議論するのは嫌なんだよ。
まあ北川健のような狂信的な長州マンセーの研究者の支持者と議論するなんて、
まるで極左と議論してるようなものだから噛みあいっこないけどね

716:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 22:51:17.09 q4Rn2bHB0
少なくとも高杉の決起は、事前に御楯隊の決起呼びかけを一蹴して
諸隊の和を強く求めた自分の主張に矛盾するばかりか、
奇兵隊から見たら「脱走」に他ならなかったんだな。

717:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:00:56.99 q4Rn2bHB0
維新団の話の続きに戻ると、もう1人、後日の証言者が登場する。
長州オタ君の説は自分で気づいているかどうかはともかく北川説に他ならないのだが、
例えば萩野静枝は昭和48年に北川の取材を受けた人物だが、上の河村恵之と同趣旨の証言をしている。
たとえばこの記事のネタ元は萩野氏だと推定されている。

「凱旋した40人には間もなく士分取立の声が起こった。しかし土地を持たぬ者のみじめな生活を知る彼らは、
名よりも実を望んで、褒賞として近くの玉蔵地区の山林が分与された…」
(以下は取材者が被差別民に思い入れた余計な感傷が入ってるので略)

で、結論としては文久の屠勇取立令は実態として成立していた様子がないから、
維新団は士分取立が事実上不可能であると言う実態を見透かされた上で、
代償として山林を要求したとみられる。

718:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:05:04.17 9YHb1c5z0
>>714
そりゃ高杉の決起に立たないから罵倒されただけでしょ
高杉の立場からすれば損得成否で動かない土民と
忠死覚悟の自分は違うと言ってるわけで
それをさも忠義面して止めるからよけい腹立ったんだろな

719:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:05:09.91 X+5i+LUd0
>>715
はあ?一般的な部落を語るのに。関東近辺のエタ頭で利権のドンの話がなんの参考になるというんだね?
サンプルとして非適当なんだよ。お前がやっているのは例外を見つけてきて、
ほら、こんなケースがあります。だから○○はこうなのです。
と言っているだけ、これはただの詭弁。

ちなみに俺にダブスタはありえないな。
どこでもやっている事ってなに?入会権のことか?
入会権を持ってないのに、木を取ればそれはどろぼーと変わらんよ。
その部落民が悪い。
山に入ってものを取るくらい、と簡単に言っているみたいだが。
戦前まではこれがとても重要な問題であるのに。それを理解していない輩がいるとはね。




720:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:16:04.08 X+5i+LUd0
>>717
だから武士の名を得ても、土地もないなら武士としての対面を保とうと思ったら食べるものもない。
といっているでしょ。
だから実を得ようといっているわけ。身分上昇よりも、目先の金がほしかったってだけ、
そういう部落の心情があるわけ。これは別に悪い事ではない。
んで、武士の名をもっても対面が保てる、江戸のエタ頭のケースが当てはまるのかって事だよ。

江戸のエタ頭はこう言っている、
だから維新団のみなも身分がほしかったはずだ、差別はいやだったはずだ、
だが辞退したのは、差別を恐れてだ!
とか言っちゃうお前さんはおかしいんだよ。

721:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:16:44.35 q4Rn2bHB0
と言うか、いま気づいたが長州オタ君は>>690に挙げられている奇兵隊の出自の内訳
559人分に関して、どこに「穢多」がいたのか指摘できてないね。
自分も大学で聞いてみたが「奇兵隊は出自まで書いてないでしょ?」と変な顔をされたよ。
「長藩奇兵隊名鑑」しか参照史料がないはずだと。

で、見てみたらこれ普通に頻繁に引用されてるんだが、どこにも穢多をその身分で入隊させていた
と思われるような記述はない。

長州オタ君は高杉は慶応元年に奇兵隊入隊に関して「エタの者を除くのほか」と言った発言の前に
「暫く」がついてないじゃないか、と反論するのだがそんなの研究者はみんな知っている。
なぜかと言えば奇兵隊に穢多身分を堂々と受け入れたと言う記録がないため、
実態として穢多がその身分のままで入隊を許可されたケースはないか、
ごく限定されたケースだったと見られる上に、
この「暫く」を「一時的」とかなり好意的に解釈するのは少数説なんだな。

文久の屠勇取立令の建前から言えば、奇兵隊にも屠勇の入隊を認めるのが当然であるにも関わらず、
高杉は「暫くは見合わせよう」と反対するベクトルで発言しているのは自明だから。
つまり正義派政権は被差別民の入隊と言う「公約」遵守を迫られる段階になって
「暫くエタの者を除くのほか」といきなりモラトリアムを付しているわけだ。

これを補強する証拠は他にもある。屠卒の隊は諸隊の反乱に対抗するため、
俗論党政府(彼らは自分のことを「正義党」と称していたが)の命令により設立が始まった。
これを正義派政権がそっくり引き継いだわけだ。
ところが正義派政権は被差別民の選抜徴兵制に際しての人数定員の条件を守っていない
(根こそぎ動員になっている)のであるから、いいかげん文久屠勇令の布告を守れよと言う圧力がかかっている。
高杉の慶応元年1月6日の書簡で反対していると見るのが通常である。

722:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:28:32.91 q4Rn2bHB0
被差別民の話ばかりしていても仕方ないので、諸隊の性格や、
本当に志願兵である諸隊は強かったか、支持を得ていたか、民衆の支持は充分だったか、
と言う点についても論ずる。
馬関戦争の際に連合艦隊の集結地点の対岸の三田尻で数百人規模の打ちこわしが発生したこと、
さらに幕長戦争を控えて、石州口に当たる奥阿武宰判弥富村では2月中旬と下旬の2回にわたり、
やはり数百人規模が参加した打ちこわしが発生している。
注目すべきは、攘夷戦争、幕長戦争を控えて、周布らは恐らく敗戦を予想していたと見られる。
そのために民衆のアジテーションのために神風伝説を流布させたり、敵国撃退のためのお百度参りのようなことを銃後の領民に組織的に強いて、
一種の洗脳を徹底して行っていること。つまり尊攘思想、神国思想は藩上層部が意図的に刷り込んだ
戦時中の国定教科書みたいな教育をやりまくったわけだ。実際、木綿価格の上昇で長州藩領民がそれに共感しやすい要素は充分あった。

以下続く

723:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:40:34.64 q4Rn2bHB0
もっとも長州藩領民がそこまで馬鹿だったわけじゃなく、
実際は一揆、打ちこわしの多発により、庄屋・豪農と言った富裕層が藩秩序防衛と一体化し、
兵を私に集めて徴集が出来たわけだが。現実に藩と彼らとの間で取引がなされている
例えば奇兵隊の会計方を務めた白石正一郎は有名な諸隊のスポンサーだが、
彼は支藩清末藩1万石の御用商人であり、荷受問屋を営んでいたが自前の船は持っていない。
よって長州藩の最大の財源である下関の北前船交易に参加できない程度の商人だった。
白石正一郎は「豪商」「スポンサー」と言われるような規模の商人ではない。
あわよくば長州本藩の人脈と結びついて北前船の交易利権を狙うと言う意図で正義派人脈に接近した
と推測される。
このように攘夷戦争の段階では正義派政権の政権掌握と相まって、藩の内部の豪商・豪農は
「出し抜かれる」危険性が高まっていたのであり、先手を打って自ら募集に応ずる例が多く見られた。
文久の攘夷戦争の段階で、長州は軍事国家的色彩を強めていたから、藩に逆らって特権を奪われることは致命的だったのである。
時政が三田尻打ちこわしの直後から隊の募集を始めていることは、文字通り豪商層が自力救済を求めていたことを物語る。

724:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:54:56.55 q4Rn2bHB0
四ヵ国連合艦隊の襲来の後、講和が始まって上陸したサトウは面白い記述を残している。

(以下引用)
一般の人々はみな、外国人追放の命令を下したのは大君であると確信していた。
…私は、長州に行って砲台を破壊するよう幕府に頼まれたのではないかと聞かれた。
私は「いや、大君は海峡を開くことは自分には出来ないと言った」と答えた。
それから私は、その間の事情について自らの意見を述べ、大君は大名と大国の板挟みになって
両方に矛盾した言質を与えなければならなかったのだ、と言って聞かせた。
すると人々は異口同音に「ホンマダ」(本当だ)と叫んだ。

…ここからも、長州藩領民は「幕命による攘夷」であることを信じ切っていたこと、
サトウの説明によって初めて幕府の立場に得心が行ったことを物語る。
なお、中略した場面には「幕府は二股政策をやっている」と主張する男の存在も確認されており、
かなり多くの長州藩民衆は「攘夷は幕命である」と思い込まされて戦争に協力したものの、
その背景について何らかの疑念を抱き、サトウの説明にたちまち共感したと推論できる。

つまり長州藩の領民は、攘夷実行を「何か変だけど、幕府がそう命じているなら」
と言う心境で戦ったと推察される。藩は確実に「幕府も命令している」と言う点を強調したのである。
これは北前船交易で、諸藩との交易が幕府の保障なくしては行えなかった長州藩の実情
(たとえば家近は、村田失脚は、幕府の天保の改革の失敗に連動しているとする)
を反映したもので、サトウらに対する民衆の態度を見ても、「尊攘感情」と思われる要素はあまりうかがえないのである。

725:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/04 23:56:22.03 X+5i+LUd0
>>721
それ結成時の自称身分の数字。
その後拡大していくわけ、一壊走信者はその程度の事も知らないの?
ちなみに屠勇取立て令は七月。

ついでに言っておくと高杉の発言だけおってもあまり意味ないな。
どうせこの人すぐ奇兵隊追われるんだし。どこまで影響力があったのやら。
あと北川が長州信者は悪い冗談だなwお前のような狂ったアンチにはそうみえるのかもしれんが。

まだまだ突っ込みたいところが山済みだが、明日は速いのでやめとこう。
まあ頑張って醜態をさらしてくれたまえ。

726:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/05 00:08:22.22 znN1O2zO0
・また、民衆が「外国人追放=攘夷を命じたのは幕府である」と信じ切っていたこと、
・にも関わらず攘夷を実行した長州攻撃を幕府が外国と組んで行ったのではないかと問われていること

から、長州藩は領民に対して、幕命が決定された正確な経緯を伝えていないどころか、
幕府が外国艦隊に依頼して長州藩攻撃を行ったと言う噂まで流布していたことが窺える。

前述したように、周布は攘夷戦に際して「敗北」を予想しており、
しかしながら俗論党排斥後に政権を維持し、反発の強かった洋式軍制を導入するには、
臨戦態勢が必要であると認識して攘夷に踏み切ったと思われる。
つまり、攘夷戦争と馬関戦争の結果として周布・桂・高杉らが開国論に転換したと言うのは、
完全に間違った理解であり、当然、久坂もこれを認識していた。
吉田栄太郎が屠勇取立の献策で「農兵の募集が必ずしも満足が行く状況にない」
と指摘しているのも、民衆の募兵の動きは藩上層部の期待に沿わない程度には鈍かったことを物語る。

このこう着状況を一挙に変えたのが、外には外国との戦争、幕府との戦争、
内には俗論党とその支持者が存在し藩政府がいつ転覆するか分からない
と言う臨戦状況を作り出して、豪商豪農層からの献金、私募を強く促した上に、
民衆の危機感を直接的に煽ると言うチキンレース的な戦争状況の作出だったのは間違いない。

繰り返すが、長州は尊攘思想に燃えた民衆の協力を得て攘夷戦争に突入したのではなく、
民衆動員や豪商豪農層と藩の結びつきを強め、俗論党や穏健派を抑え込むために臨戦状況を選択している。
民衆にとっては現実に外国との戦争に入ったと言う否応ない実感が第一であり、
尊攘思想は後付であったのは疑いない。


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