11/11/04 04:35:40.42 vvIL4Sm30
>そもそも隊士は何人いて、どんな素性の人たちがいて、それがどのように隊で編制されたのかが分からなければ、
>それ以上の分析はできません。やはり日記は日記だということになります。
>ですから、「隊士の名簿」というのは研究には是非必要なものでした。
>しかし、まとまった形の隊士の名簿というものはしばらく出てきませんでした。
>それが、昭和40年に『郷土』という下関郷土史会の会誌に10隊の名簿が掲載されました(※1)。
>奇兵隊の名簿も含まれていますが、いずれも隊の編制にしたがった名簿で、
>隊士一人一人がどのような身分であったかということは分かりませんでした。
>翌、昭和41年9月に、同じ『郷土』に「忠勇義烈 長藩奇兵隊名鑑(※2)」
>という隊士の身分が書かれた奇兵隊士の名簿が掲載されました。
>隊士の本多友一という人物が記載し、山縣有朋公爵家に所蔵されていたもので、
>その分析(下関市立大学 小林茂氏による)も『郷土』に載っています。
>まず、身分を士、農、町、社・僧、と分けて、隊士を分類すると、
士 272人 48.6%
農 237人 42.4%
町 25人 4.5%
社・僧 25人 4.5%
計 559人
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穢多どこ?