11/11/03 22:07:19.13 Rkfxyx360
また、かりに金作が再度、藩外に出ると言う意志を持っていたと仮定しても、
9月に朝廷が長州征討の勅許を与え、11月に出兵命令が出ていることを考えると、
まず藩外逃亡、まして新撰組への入隊など不可能であり、
それ以前に逃亡せず隊結成を選んでいることを考えれば、金作はこの時点で
「長州藩内部での」屠勇取立に立身を求めたことは確実である。
攘夷戦争の際も、幕長戦争の直前(維新団が粛清された頃)も藩への民衆反乱の存在は確認されており、
金作が手引きを行うなら、隊と言う軍事組織に縛られてまで藩への御奉公を優先する事情はなかった。
茶筅隊が警戒されたのは、ひとえに金作の熱心な勧誘活動により「下から」結成された隊だったことに尽きる。
金作が勧誘したのは大島・上関・熊毛の各宰判全域、17か村と言うかなりの規模であり、
これは下からのエネルギーを抑え、軍事力を藩直属化しようとしていた当時の藩政府にとっては
「身分秩序壊乱」に他ならなかった。茶筅隊弾圧の真因をここに求める研究者が大勢なのは当然周知だと思うが。