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さらに続けて見てみると、サトウは
「海峡における海軍の軍事行動の目的が、砲台の破壊と、長州藩主との間の充分な了解の成立によって完全に達成されたので
連合艦隊の主力は撤退の準備に取り掛かったが」万一にも海峡に砲台が築かれるのを防ぐ目的で
3隻のみ残すことになった。
つまりサトウは海軍の軍事行動の目的が下関条約の諸条項で「完全に達成された」と認識しており、
租借の成否に関して全く記されていない。この前後を読めば分かるが、サトウの報告は極めて詳細であり
「租借が第1回交渉で大問題になった」とする伊藤の回顧談とは大きく信憑性に差があると言わざるを得ない。
これに信憑性を増すのは、その後でサトウがオールコックの目的を
「賠償金の取極めをしたことは、一に大君の政府を経済的に圧迫して天皇の条約批准を行わせ、
その結果として通商関係を拡大する一手段であった」と包み隠さず記していることで分かる。
サトウ日記の特徴であるが、英国のダーティな政策の裏面を隠していないのである。
このことからも伊藤の回顧談と、サトウの日記のどちらが信憑性が高いかは論ずるまでもないと思われる。
なお、サトウはこの時期、幕府の命令で長州が砲撃を行ったと言う噂に不信感を募らせており、
やや幕府に冷たい書き方をしているが、「賠償金を支払うか、瀬戸内海の一港を開くか」との要求に際して
幕府に賠償金支払を強要したことはなく、支払は幕府の自主的決断であることを強調している。
つまり幕府は「瀬戸内海の一港」の開港を峻拒した結果、長州の賠償金の支払の肩代わりに応じたのであり、
オールコックの思惑を外したことは明白と言える。
(ただし、サトウは部外者であったため最終的に幕府との間で纏まった約定に関して、幕府が金員受取を優先する米蘭仏と
開港を優先する英の潜在対立を利用して、長州が約束した賠償金を友好親善のための補償金と改めたことなど
詳しい協定経過についてはさほど詳しく述べていない。幕府が最終的に纏めた協定の文言についても同様)