11/11/02 20:34:53.69 ltSI0+H50
>そして幕府は下関の開港は利権独占が崩されるのでいやだった。
>兵庫の開港もいやだった。なので賠償金払うと約束したんだけど、
前述の通り、賠償金としての性格を規定したのは下関条約。
防長回天史にきちんと載ってる超有名史料だから長州オタなら見ておけよ。
>幕府は賠償金をさっぱり払えず、結局開港することになり。
幕府が9月に結んだ協定では
・長州藩処分は「大君政府の職務」であると規定して、事後の開港強要を制限している。
・償い金のうちには今まで長州藩がやってきた暴行の一切合切を含める=支払上限の決定
・しかし各国が金銭を要求する趣旨は「日本と交際を厚くせんがためなり」
=賠償金としての性格の払拭、幕府が自主的に支払う性格のものとする
・履行が続く限り開港強要の禁止=下関の自由港化は白紙撤回…ただし長州藩が勝手に開港した
これだけ大きく性格を変えている。
幕府は四半期ごとに50万両、計6回の支払を約束していたが、
第1回の支払は慶応元年7月に始まり、11月に第2回、慶応2年4月に第3回を支払っている。
幕府はわずか1年足らずで半額を返済している計算になる。ここまで延滞なし。
第4回の支払は長州戦争による多額の戦費出費に伴い明治2年に予定されていた。
明治政府の完済は明治7年だから、幕府よりはるかに遅いペースでの支払になる上、
アメリカは友好協力金的性格であることを考慮し、受領した上で78万ドルを返還している。
よって明治政府の実質負担は幕府が頑張ったことで極めて軽くなっている。
最初の長州案であれば賠償金だから、アメリカとしては返還によって長州の砲撃の違法性を否定することになり、
法理上の解釈がきわめて難しくなっていた。要は友好協力金なんだから、それが確認できれば返してもいいよね、
と言う判断が働いたのは間違いない。