11/11/01 20:40:56.28 j5v3VnSJ0
>6月20日過ぎに「負けまくり」で休戦を申し入れる理由がない。
長州藩は19日に水野忠幹率いる新宮藩兵および幕府歩兵隊1個大隊を相手に
山上を占拠して攻撃を加えた。この時点で長州藩は大野奪取を固く決意し勝利を確信していた。
ところが不利な位置に陣取る両軍が前回をはるかに上回る銃撃にも頑強に抵抗し、
長州藩兵に多大な損害が出て20日についに敗退している。
守る紀州藩兵のほうは長州が高所から加える銃撃に対して遺体収容も出来ないほど不利な状態だが、
それでも抜けなかったんだよ。
さらに撤退も困難を極めた。幕府海軍の砲撃を恐れて迂回撤退を行っている。
長州藩はこの戦いで現場指揮官クラスを多く失っており、以後攻勢に出るのが困難となった。
25日に再度攻撃をかけたがまたも撃退されたのは前述の通り。
さらにお前が書いてる通り、芸州藩がこの段階で長州に「何でうちの領内でやるんだ」
とクレームをつけて長州は芸州藩内に押し込むのが難しくなっている。
石州口は津和野の中立で益田までは進んでるが、
それとお前は本荘の交渉が「25日」に開始されていたことを前提とするが、
本荘は「25日より前」に交渉を開始して、それが判明したのが25日なんだよ
また本荘はこの後呼び返されるんだが、彼の上申書の内容を見ると
「長州藩内が激徒に固められており、英薩がこれに協力して蒸気船を貸し出したり、
薩摩藩兵が一緒に抗戦している」だとか「西国諸藩や芸州が後備兵を出さす兵糧供給も難儀している」
とか、風聞や幕軍の内情をかなり悲観視して奏上しているのが分かる。
戦闘経過はその補足なんだよ。
彼が「穢兵」の存在を認識していること、またミニエー銃を長州藩兵が全員装備している、
などと語っていることから、芸州口の彦根・高田両藩と維新団の戦闘までは知っていた可能性がある。
とすると、当然小倉口の最初の戦闘での幕軍の内紛も知っていたと思われる。
しかし彼は「佐賀藩、薩摩藩、幕府歩兵」は長州藩に劣らない装備を持っていると認識している。
これを書いた状況からして、おそらく彼は芸州口の新宮藩兵の装備を知らない。
あと「フランスに30隻ほど汽船を借りてくれば絶対に勝てる」などとたわけたことを言っていて、
べつに「敗戦」を予想して停戦交渉を始めたわけではなく
本荘は現地で見聞した内情によって「いまの前線部隊では」勝算なしと判断して、
幕軍を強化して大規模攻勢をかけるほかなし、さもなくば停戦をと要請しているんだよ。
つまり彼は戦闘経過を見てこれを書いたのではなく、開戦前夜の状況からほぼ継続して
交渉を開始してるんだわ。