なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2at HISTORY2
なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2 - 暇つぶし2ch366:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 23:44:59.96 lowYP5m70
>>355
最後に、君は結成経緯から参戦までが「志願兵」に極めて近い衝撃隊について
>問題行動があったことを含めて、異論は全くありませんが。
と述べている。つまり組織行動を叩きこまれていない志願兵の限界を認めたわけだ。

細谷十太夫は自身が結成した衝撃隊の特徴を良く把握しており、
偵察や夜襲と言った、正規軍とは離れた軍事行動に衝撃隊を使用した。
しかし正規軍と同じ戦闘序列に加えられてからの衝撃隊は、特徴を消されて苦戦しているんだよ。
志願兵は「上からの」厳しい規律と秩序を叩きこまれて「戦争マシン」にならないと、
基本的にそういう使い方しかできないの。衝撃隊の場合はそれをやってる時間がなかったんだが

スペイン内戦のアナーキスト民兵は志願から実戦の過程で「軍隊組織」になることを拒否したために、
勇敢ではあったが規律ある行動がとれず、無駄な損害を積み重ね、さらに残虐行為が頻発している。
志願兵への美しい幻想を払拭するためにあえて説明したんだが分からなかったか?


367:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 23:46:02.33 9CvE4lCf0
長州の諸隊が強かった長州の士気の高さが要因
統率と兵站が優れてたから士気が高かったわけだ
逆に力を集中できるだけ巧みに政治が行なわれてたわけだ
鳥羽伏見も日露戦争も似たような松陰だね
太平洋戦争は士気はあったが兵站で敗れただけで

368:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 23:51:36.39 lowYP5m70
>>346
無理やり引っくくって作ったわけではない、と言う意味では、
確かに有志隊ではあるんだよ。ただしそれも諸隊の入口をくぐるまで。
その後は徹底的に藩国家の兵士としての規律と秩序を叩きこまれる。
もちろん死や暴力と言った厳しいサンクションを課せられ、脱走は敵前逃亡になる。

有志隊=志願兵、参加・離脱自由な義勇兵 ではない。甘っちょろい幻想が多いねえ。

369:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 23:52:29.46 lowYP5m70
>>367
郷土防衛だから当然、士気は高いが、士気よりも装備の充実のほうが大きかったでしょうな。

370:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 23:55:10.38 lowYP5m70
あと鳥羽伏見に関しては、幕軍が平和的上洛が可能だと考えており、
ろくに戦闘態勢に入らず行軍していたのが大きい。
日露戦争に至ってはロシア兵の士気もまた非常に高かった。
日本でも紹介されていたが、ロシア兵の士気が低下したのは敗退が続き、
指導部への疑問が生じてから。

この両者に関しては、兵個人個人の士気より、軍指導部の問題が大きい。

371:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 00:08:20.24 koY7QgPd0
会津戦争を見れば郷土防衛だから士気が高いと限らない
日露戦争は装備や兵站面ではロシアが勝ってた
統率で日本が上回ってたため勝利できた

372:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 02:14:36.92 S7Jy840R0
>>360
>>>354
>まず2つ論点があって
>・東国は攘夷戦争を起こしたわけではないから、賊徒からの自警団的な組織で足りたのは当然。
>・幕府歩兵の改組前は普通に知行地から徴募した農兵や、郷土で組織した農兵が存在する
>博徒・猟師だけなどと言う驚くべき指摘は聞いたこともない(時期間違えてない?)
>長州藩諸隊も、攘夷戦争と言う対外戦争に際して(と言うより攘夷戦争を利用して)民衆動員に成功したもの。

というわけで長州のと関東の農兵は比較にならないね。とりあえずそれだけわかってくれればいいよ。

373:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 07:57:41.94 S2BacBll0
>>371
会津戦争だけ見た場合、会津兵の士気は高かったよ。
ただ戦略が間違っており、トンチンカンな場所に主力を配置した為に、
弱点の母成を突破されて決戦を行う事無く籠城戦になっただけでしょ。

374:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 08:57:54.01 58rFcDAu0
そもそも劣勢な側が海上封鎖している幕府海軍を退かせて
九州側に渡航して攻撃する発想なんてあるのか?
普通は地の利生かして籠城するものじゃね?

375:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 09:39:23.99 hmTQKaxz0
>>338
>だから長州は義勇兵ばかりじゃなかったと言ってるだろ。

義勇兵は士気が高く、義勇兵以外も村社会という事で士気が高かったという話にしかならんぞ。
お前の主張だとwで、士気が低かった隊ってどこよ。

>一揆鎮圧のために結成された関東の農兵は極めて士気が高いよ。なまじな藩兵なんかよりはるかに使えた。

それは幕府の兵士に比べたらであって、長州の奇兵隊などと比べたら雑魚レベルだよ。
薩長の隊が突っ込んできたら、基本的に止められないからね。
最も戊辰戦争でも最前線を任せられた兵は、薩摩長州などの隊ぐらいのもので、
後は後方支援や占領地の管理などなんだから。
>>336
熊本藩は要地赤坂口を守っていたので動かなかっただけ、
長州が攻撃してきたら、きっちり守りきっている。
ここは山と海に挟まれた狭い街道であり、ここが抜かれると小倉城まで守れる場所はない所。

ただ流石の熊本藩長州の突撃を受けて損害を受けたので、守備変わってくれといわれたわけだが、
熊本藩以外守れる藩はいないし、誰もやりたくなかったので断った。援軍も送らなかった。
熊本藩はうちだけに厳しい戦いだけさせるのかといって、ぶちきれて撤退となった。
あわててその場所に小倉藩が守りに入ったけど、当然防げるわけもないのでそのまま押し込まれた。
戦線が崩壊してしまい、諸藩は退却、さらに家茂が死んだ事で小笠原は逃げ出したと。
後は城を捨ててゲリラ戦。幕府が馬鹿なんだよ。

376:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 09:42:47.10 bJs9fmY+0
会津は市民が傍観してた
長州と違って根本的に統率の体制に欠陥さらしてる
幕府も体制に欠陥あるから、尊王が叫ばれるようになった
鳥羽伏見の薩長は3千程度
幕軍は統率が効いてなく当然作戦もなく負けた
結局軍の強さと勝敗を分けるのは統率面が大きい

377:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 10:16:36.15 hmTQKaxz0
>>347
大阪で軍事訓練しとったやん。
戦争経験のない素人だけ集めたわけだから、軍として動かすのもとても大変だしね。
で、そうやって脅しをかけとけば従うとか甘い事考えていたのも不味かった。
諸藩への根回しも不充分、幕府が無理難題を押し付けているようにしか見えず、
別に幕府に恩顧があるわけでもない西南の諸藩が動くわけがない。西南の藩は外様ばかりだしね。
>>348
長州の場合はここが違う。長州は領民に対する思想教育などを行っており、
寺子屋などを藩が直営で立てて、そこの講師に武士を派遣しており、直接的な統治形態に近かった。
こうやって思想的にまとめ領民を「自発的」に志願させて高い士気と目的意識をもった兵士を作り上げた。
散兵戦術が出来たのはこういう所が大きい。国民国家までは行かないが、挙藩一致体制を構築できた。
大砲作るからって、自発的に領民が鉄などを持ち寄り、多くの志願兵が集まった、(なお長州の場合武器は自分で買うシステム)

>また会津藩統治下の民衆も、藩軍と共同して官軍への抗戦を手伝った事例もある。

それは詭弁というもの、一部の反例を挙げても全体はかわらん。
大半の民衆は新政府軍になだれをうって降り、逆に案内人なるほどだった。
板垣が駄目だこりゃとなったのも当然の話。
なお猟師は無理やり徴用された領民と違い、高給で雇われているからそりゃ真面目にやるよ。



378:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 10:27:24.71 hmTQKaxz0
>>374
その場合長州藩内が戦闘になるだろ。
領内があらされるのが嫌だったんだよ。
大島みたいに無茶苦茶されると思ったんだろ。
特に領民の支持が必須なわけで、領内でゲリラ戦や抵抗を続けるのは、
長州藩としては出来ない相談。
>>371
装備や備品などは実はロシア軍より日本軍のほうが優れていた。
帝政ロシアの兵士の武装なんて酷いものだったんだよ。
日本が戦闘で勝ったのは、要所要所への兵力の集中運用と、優れた武装と、高い士気。
いわば勝つべくして勝っただけ、日露戦争を調べてみると奇跡も偶然もない。
ロシアとして本土でないから、何が何でも守りきる必要もなかったので、
遅滞戦術でよかった。日本は戦債を売る為にも目先の勝利がほしかった。

379:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 10:39:03.20 bJs9fmY+0
日本のが優れてたは無いわ
陸軍は弾丸欠乏症に悩まされてたし兵力も補充もロシアが上
海軍力も戦力差は3倍ある

380:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 10:43:32.48 hmTQKaxz0
兵力が上でも極東に送るのが手間。
徴兵してシベ鉄で送るのに長い時間がかかるが、日本だと海渡るだけなので、
輸送が楽だったのが大きい、
シベ鉄の複線化前に戦争を仕掛けたのはこういう理由。


381:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 10:48:26.63 bJs9fmY+0
日本はそもそも補充が無い状態
毎度の決戦もロシアが兵力でも火力でも上
旅順も攻め側は本来3倍の兵力が必要

382:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 11:16:36.87 hmTQKaxz0
>>381
実はそうでもない。最初の鴨緑江は倍以上、南山も倍以上、得利寺も兵力では負けていたが火砲で圧倒、大石橋でも倍近い。
兵力で負けてきたのは遼陽あたりからだね。
そして兵力では負けても火砲や機関銃の数では勝っていたりするので、何とかなった。


383:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 11:46:29.09 a1jayhkv0
>382
日露戦争後に大本営が戦訓として導き出したのは、「敵に勝つのならば敵よりも多い兵力・火力を
ぶつけること」というしごく当然のもので、日露戦争に参戦した指揮官たちはそれを良く承知していた。

けれども、国力の関係でどうしても敵と同等の兵力・火力で布陣するしかない場合も多々あって、
そうなった場合に前線指揮官が突撃をためらったり、積極的な指揮を執らなかったために
均衡が崩れて敗走した部隊が出たことを過度に気にして、「戦闘の勝敗を決定づけるのは
兵の士気の高さだ」という精神論を高く掲げることを選択してしまった。

そうした「ホンネ」と「タテマエ」の戦訓が並立していて、その実態が記憶に留められている
ウチは良かったんだけど、いつしか威勢の良い言動を良しとする軍人特有の空気感が支配的に
なっていくにつれて、「タテマエ」の方が強く残ってしまったのが、昭和に入ってからの陸軍が
暴走したあげくに非合理的な戦場での兵員配置を録り続けた理由でもあったんだろうね。

384:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 12:25:28.50 hmTQKaxz0
ちなみに遼陽あたりからは日本軍はかなり苦戦している辛勝レベル。
けっこう想定どおりの結果だと思うよ。
旅順も第一次は酷いもんだけど、二次以降は避難されるようなものでもない。

>>383
まあ士気はとても大切なものではあるけどね。
士気が低い軍はまず勝てないし。士気が高ければ軍はまず崩壊しないから、
最後まで粘り強く戦うし。無茶な突撃も実行できる。

スローガンとして言っていた人は分かるけど、真面目に信じていた人達がいたのが問題。
昭和期の東北軍閥のみなさんとかね。

385:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 12:27:13.30 QF1lvQ5m0
典型的なGHQ史観ですな
そもそもアメリカ相手に火力で上回る事など無い
戦争理想論に過ぎない
日露戦争も力をつけてから戦争すべきと主張した戦機を知らないのが居たが
そもそも日本が圧倒する力を備えていれば初めから戦争には至らない
むしろ火力で上回れない以上より士気が決する
士気が敗れない限り最終的に敗れる事はない
ベトナムやイラクはアメリカの士気を完全に破ったから勝てたわけだ
日本が敗戦から復興したのも最終的な士気は敗れなかったからだ

386:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 14:39:45.28 NyjFt5BL0
日本はなんだかんだ言って資本主義が根付く前の時代から要はお金が全てだったんですね。

387:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 16:26:38.54 /1cODVoR0
>>363
>慶喜は勅命と言う形を取っての停戦が可能だった。幕府にとっては勝敗がクリティカルではなかった戦争と言わざるを得ない。
長州再征は、幕末政治史上の一大事件であり、幕府支配を決定的に揺るがす役割を果たしたことは、
周知のことである。と家近良樹編『もうひとつの明治維新』にもあるんですけど。

388:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 16:33:24.83 /1cODVoR0
>>364
>長州藩は士気、装備、組織、訓練の総合体で軍事力を高めたのであって、
>君の議論は士気のみを論じ、装備、組織、訓練の要素を等閑視している。
軍事システムとその改革について述べているのに、何故そうなるのよ。

>幕軍の側に原因を求めるほうがはるかに説明しやすい。
幕府側というか、長幕双方の軍事に求めるべきであり、政治に求めるなら
政治的に幕府より圧倒的に不利な状況におかれている長州が勝った説明がつかないじゃん。

389:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 16:36:14.39 /1cODVoR0
>>365
>会津藩兵その他が投入されても長州藩は大変な苦戦に陥ったと思われる。
幕府側が軍事システムを改革して投入するならともかく
そのまま投入しても、結果は変わらん。鳥羽伏見で会津軍を見れば
そう考えるのが自然。

390:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 16:40:35.74 /1cODVoR0
>>368
>有志隊=志願兵、参加・離脱自由な義勇兵 ではない。甘っちょろい幻想が多いねえ。
変な幻想を抱いているのはあなたでしょう。奇兵隊は当初は義勇兵的性格を有していたけれども
それは慶応改革で藩政府の指揮下におかれ義勇兵的要素は弱体化したんですから。


391:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 16:55:02.10 6C5FmJesO
>>389
鳥羽伏見どころか、禁門の時点で長州に押されてる会津が、
軍政改革後の長州に挑んでも彦根の二の舞を演じそうだね

392:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 17:32:04.36 ct6c+DK/O
すくなくとも戊辰よりかは、ましになっていたかな。

たまよけ程度には利用できたでしょう。

393:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 04:24:12.88 4PSTHhPs0
>>353
実際に10倍の相手に勝っているからね。
いや10倍じゃなくて30倍くらいか。最も日本の歴史上では10倍の敵にかったケースは別に少なくないが、
源平合戦の平家側は途中までほんと酷いものだったし、その鎌倉が楠木すら倒せなかったのも時代の流れ、
戦国時代でも川越の野戦などなくはないケースですな。
日中戦争になると10倍くらいなら余裕で勝てるというのが日本軍の認識でした。
(士気の高い共産党軍は除く)
戦争ってのは士気が崩壊するか、部隊が全滅するまで終わらないものです。
部隊が全滅する前に士気が崩壊して、壊走状態になるだけでね。
>>365
萩には元々大村がいるので打ち破るのは薩摩でも容易ではない。
そして薩摩が動かないと分かったので、石見方面に進撃したんだし。

んで会津なんて来ても相手にならんよ。200人くらいの隊が一つあれば余裕で撃破だろう。
数合わせにしかならん。一度でも会津が長州に勝った事があるのかね?


394:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 05:39:35.41 Q67abPbs0
>393
>戦争ってのは士気が崩壊するか、部隊が全滅するまで終わらないものです。
>部隊が全滅する前に士気が崩壊して、壊走状態になるだけでね

これはいささか乱暴すぎる論理だと思いますよ。
士気が崩壊する前に、被害状況を冷静に見定めてお互いに矛を収める場合だってあるんですから。

東條英機みたいに「負けると思ったときが負け、負けないと思っている限りは負けない」とかいうのは
無能な指揮官のタワゴトです。

>365
>萩には元々大村がいるので打ち破るのは薩摩でも容易ではない。

その薩摩を経由して買った武器があるからこその長州の勝利では?
薩摩が敵に回っていたのならば武器は手に入らないので、大村の戦術は根本から崩れます。

>一度でも会津が長州に勝った事があるのかね?

禁門の変の時には勝ってますよ。
薩摩の援軍云々はあるにせよ、結果として敗走する長州勢を掃討したのは会津藩兵。

395:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 05:41:55.87 nade5K5U0
家近良樹さんは、『孝明天皇と一会桑』で会津の軍事力を
高く評価してんだよな。長州戦争に会津兵が参戦していたら、
戦争の行方はどうなっていたか分からないと。

396:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 05:59:42.13 +6TANqL4O

高杉晋作、桂小五郎が長州の士気を巧みに上げ…
大村益次郎の名参謀が相手の意表をついた奇策、戦略、戦術を用いて相手のハナをあかした。
近代兵器をここぞという場面で効果的に使った事が、極めて的確だった!
幕府側の被害も甚大になり、士気が下がり敗走するに到る。
こうなると長州側の攘夷のボルテージは必然的に上がり、各地へ飛び火し国内は攘夷の流れに感化されていった。
薩摩も小倉の戦いまでは、正直なところどっちつかずで傍観に徹し旗色を伺っていた感はあるのでは?
西郷はあわよくば…棚ぼた的な漁夫の利をねらっていたのではとたまに思う。
幕府も長州も疲弊している訳だしね。

それを考えると、やはり長州は勇敢だったと思う。大村益次郎の存在の大きさには感嘆する。



397:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 06:18:40.36 +6TANqL4O

盛岡はアホだったよな…黙って中立しときゃよかったのにさ…
秋田が倒幕になったからという安易な理由で佐幕になる始末。
会津も、庄内も既成のしきたりや形に無意味にすがる傾向あるよな?
画期的な事が出来ないというか、それが時代遅れでも間違っていても、よゐこちゃんでいたい的なさ。

秋田だけだよ北で感心できるのは!確かに知的好奇心の高い土地柄ではある。

でも北は総括的には陰湿さや内向的さは感じる。
コレを俗に村意識が強いとか閉鎖的や陰湿と揶揄される由縁なんだろうな。

東北の知り合いも少し変わった突飛さは罪になると嘆いていたわい。



398:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 08:46:12.97 FXrult5H0
>>394
根本的な知識が不足している
グラバーを通して密輸ルートは保持していたが薩摩への利益供与のためにあえて倍の不利なレートで購入した。
また禁門の変においても会津自体は突破されている。

399:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 17:26:07.77 4PSTHhPs0
>>394
薩摩は密輸ルートの一つであって、薩摩を経由しないでも密輸は可能。
元々上海ルートで密輸する予定だった。
また薩摩に対価で米送っている。
また上でも言っている人がいるが。禁門の変でも会津は破れており、
その後薩摩が追い返しただけ。
撤退中の追撃戦で勝った?w

そして被害状況が大きいから手打ちにしようとなったら、負けている側には勝利なわけで、
士気が崩壊しない限り問題ないという話になるよ。

400:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/26 04:03:37.51 cwW71r+r0
>>396
その辺りがまさに胸躍る奇跡的な個性配置の妙ですな
もちろん紛れもない無比無類の天才軍師・大村益次郎の
神がかり的な采配、功績は今更いうまでもないが
個人的は大村にMVP

401:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/26 10:19:08.16 8ygpFky+0
最強議論の際に
戦国時代は戦術が誇張された上杉謙信が最強といわれるのに
幕末は個人武芸に秀でた新選組が最強とか言われる不思議。

幕末こそ個人武芸がクソほどの役に立たず
戦術家大村益次郎などが評価されるべきなのに。

402:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/27 08:31:36.18 FZPOWwCZO
大村の真骨頂は戦術よりも、農兵の組織化やそれを活かす為の指揮官の教育じゃないかな
単純に近代兵器を購入して兵に与え訓練させるまでは、借金さえすればどこでも出来たが、
近代戦術を現場指揮官に叩き込んで合理的な指揮をさせたから長州は第二次長州征伐に勝ち、
それが出来なかった幕府は鳥羽伏見で(兵力、装備では)圧倒的有利なのに敗北した訳だし

403:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/27 09:53:40.21 SS02si/g0
戦術レベルの敗北の積み重ねが最終的に戦略レベルの優勢を覆してしまったんだよな。
なのに作家等は「長州が勝つべくして勝った(キリッ」とかほざいている。
大鳥など優秀な人材を掣肘せずその才覚を発揮させることができていれば
戊辰戦争は違った結果になったろうな。

404:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/27 10:43:28.92 jazQUWSwO
>>403
大鳥と大村は緒方こうあん一門ですね。

大村が幕府歩兵隊を指揮していたら・・・・・・

405:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/27 12:23:30.18 q1IvMQfzO
>>385
最後の一行の強引なとってつけ方にワロタw

406:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/27 12:33:27.04 FZPOWwCZO
>>403
人材登用にかけては幕府も結構実力重視だから大村に並ぶ人材はいたかもしれないのにね
しかし大きな権限を与えるには身分制が邪魔をした、そこが幕藩体制の限界なんだよな
その点、長州は殿様が木戸や高杉に丸投げ状態だから、
医者の大村に軍を統括させることが出来た
大村が幕臣なら、ここぞと言う時に重用されずに宝の持ち腐れになってただろう

407:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/27 21:32:59.88 K0Q6OLqL0
>>401
土方なんかが評価されてるのは新撰組組織を作ったからだろ?
新撰組はかなり近代的な組織だったから。

408:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 08:31:41.62 8LzCvJl10
>>377
対長州交渉がどんどん長引き、インフレ激化や民衆暴動の発生の中で
大坂で幕府歩兵がどんな荒んだ状態だったかは周知の事実のはずだが。

あと長州藩が寺子屋等を通して思想宣伝を行いやすかった素地は確かだが、
その程度なら庄内藩も三方領地替えの時に巧みに領民の運動を盛り上げていった。
あと長州と庄内の大きな違いは、それだけやったにも関わらず、
長州は攘夷戦争の時に2回とも連合軍に協力した民衆が出たし、対幕戦の直前には一揆も発生しているが、
庄内藩は特にそのような形跡はない。長州藩の方針に対して反発する民衆がいたのは事実。
庄内はリッチではあったが普通に搾取もしていたが、その種の内乱は発生していない

長州藩の領民だけなんか自由な理念で結ばれてたような馬鹿らしい幻想は捨てろよ
現実には長州は対幕戦を遂行するに当たって藩内の不穏分子の粛清を行っている
この臨戦態勢が長州の強さで、ゆえに史料が散逸して収集が大変になっている

409:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 08:48:57.64 8LzCvJl10
>>378
領外へ踏み出した理由はそれでいいとして、
幕府海軍どころか、6月17日、7月3日、長州藩諸隊が交戦したのは小倉藩のみ。
熊本も久留米も千人隊も参戦していない。幕府海軍は損傷を極度に嫌い、また出船に消極的
追い込まれた小倉藩が独自行動を宣言したため、小笠原長行が懸命に説得してようやく前線に出たが
士気は高まらない。戦闘中に使いを次々に走らせたのに幕兵は参戦要請を断り、幕府海軍も出てこない
しかも小倉藩兵は籠城。で、途中で完全に切れて、翌日帰国。
防長回天史にも書いてある事実だが

410:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 08:59:41.84 8LzCvJl10
>>387
長州戦争の意義は大きいが家近はその原因を幕府側に求めて負けるべくして負ける戦争と言ってるんだって。
ちなみに家近は「もちろん長州戦争においては長州藩が頑張ったことは大きいが、それ以上に…」
と「公論」に規定された戦争だったことを強調しているがそれは知ってるよな?

>>388
だから長州藩の要因に装備の充実と薩長盟約を挙げてるじゃんか。
あと政治的には薩摩、佐賀、宇和島をはじめ有力諸藩が不参加で萩口が最初から潰れてる
一橋慶喜のほうが当初は予定になかった戦争に引き込まれた分、政治的には不利だよ。
幕臣ですら途中で解兵を堂々と進言する奴が出るほど叩かれたからね

>>389
会津藩兵の投入は一橋慶喜の虎の子の軍事力の投入だから大きな意味を持つよ
戦争を主導した一橋・会津が前線に立てば諸藩の傍観状況が一挙に変わる
熊本藩の動向が事実上、小倉の命運を決めたように、会津藩兵の投入があれば局面は変わった可能性は否定できない。
もっとも会津藩は長州問題の前面に立ちたくなかったし、慶喜も投入のタイミングを決断できなかった。

411:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 09:12:46.82 8LzCvJl10
ちなみに幕府は6月下旬にパークスから関門海峡の航行について抗議を受けている
そしてこの席で小笠原長行は「下関にては戦なきようにしたし」と明言してるんだが。

長州はパークスさんにお礼を言わんといかんね。
これで幕軍からの下関攻撃は事実上消え、2回目の攻撃でも幕軍は戦意に乏しかった
その間に石州戦線が片付いて軍事的重圧が劇的に改善されている。
長州戦争は7月4日、総督茂承が辞表を提出する騒ぎになった時点で事実上終わってる

412:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 09:28:38.08 8LzCvJl10
>>393
富士川合戦の官軍は出発に手間取った上、東下の際に兵員が集まらず、
甲斐源氏の本拠地の駿河に踏み込んで数的不利で勝てないと判断し撤退を決断していた所に
奇襲をかけられて動転した。

長州戦争の幕府軍も全く同じ。まず江戸の幕閣が上洛の賛否で大揉めした上に、
上洛後は長州征討の勅許がなかなか下りず、1年も待たされる羽目になった。
ちなみに薩摩藩の恩をかなり都合よく忘れてるようだが、元治2年初頭には大久保が幕軍上洛を警戒し、
長州は捨て置くよう朝廷を懸命に説得してる。これがこの後の幕兵上洛後も響いてくる

413:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 10:20:59.99 DwQiwlZm0
>>410
投入してもボコボコにされますよ。

414:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 11:43:55.40 rA5sNH0ZO
>>410.413
幕府歩兵隊、紀州のたまよけに、なるでしょう。

415:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 17:51:34.81 tOACZTLP0
弾除けになったら後は幕府歩兵と紀州藩が数の力で押すだろう。
もともと芸州口は芸州藩が先鋒を辞退したため彦根・高田が繰り上がったが、
両藩には長州藩の布陣を警戒する声が大きかった。
この方面を管轄する竹中重固は大島、芸州の両方面を押すことで岩国藩の中立化を狙っており、
武装について詳しく指示を与えなかったので緒戦が悲惨なことになった
紀州藩、紀州藩と言うけど紀州藩も方面隊ごとに武装バラバラだぞ、この段階では
会津藩は勅命を奉じているし、戦闘意欲だけはどの戦いでも旺盛だから、幕府直轄軍として動かせる最大の部隊なんだよ
熊本藩や紀州藩のように幕軍幹部が他藩との調整に追われる相手ではないからな

416:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 17:55:03.66 0HwkSrCj0
開戦までを長引かせたのも、
第二次征長に消極的あるいは反対の藩が多かったのも、
かなりのとこ長州側の情報戦略が効いてるだろ。
自分は義勇兵的な側面を過大に評価する気はないが、
かなう限り挙藩一致体制に持っていったのもしかり。
薩摩のみならず内外に味方や共感者を増やす工作をして。
幕府側の足下は揺らいでたんだろうが、
そこにさらにせっせと穴を掘ったのは長州なんだよね。


417:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 17:58:54.71 tOACZTLP0
もっとも、開戦直前に江戸で大規模な打ちこわしが発生、
開戦半月で本荘と紀州藩が大喧嘩してるような状態では
いかな芸州口の紀州藩兵が武装していても退守が精いっぱいで、
組織的な戦争遂行そのものが無理でしょうな。



418:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 18:16:40.85 tOACZTLP0
一番の勝因は開戦を1年以上延ばしてその間に武装と軍制を整えたことにあるわけだが
(芸州口でも維新団なんて初陣だし、最前線以外は急きょ徴募・結成された兵が大勢いた)

その点では幸運が色々重なったんだよね。上洛前後から9月の兵庫開港問題までは薩摩藩の工作が大きかった。
ただ勅許が下りた後になると長州藩が交渉を引き延ばしてる
長州のは時間稼ぎなのか、それとも幕府への不信感で凝り固まってたのかよく分からない。
桂・広沢は戦略的に引き延ばしてた可能性が高いが、高杉は慶応元年9月段階では単純に主戦論ぽいんだよな…

長州の情報戦略は確かにあるが、実際は禁門の変の段階から西国諸藩は長州に同情的だったので、
薩摩藩の止戦工作と一緒で実際は長州が工作を始める前からストップがかかってたんだよな
西国雄藩だけでなく大奥、家茂と慶喜、いろんな対立があった。それに桂たちの外交が上手く連動していった。

419:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 18:28:28.65 SIX2OhE+0
たしかに長州の政略は流れに棹さす形ともいえる。
そりゃ利用できる状況は利用しようと必死だよ大軍相手にするんだから。
引き延ばしは意図的。
てか、先方から手を出してくるのを待ってた。大義名分が力になるから。
だからその前の手出しを固く戒めた。
そんで血気に逸った連中をガツンとやったのが第二奇兵隊の事件。

420:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 18:58:16.47 rA5sNH0ZO
>>415
紀州の洋式部隊の囮というか弾避けが、最適ですね。

421:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 19:02:06.47 rA5sNH0ZO
>>411
内政干渉だと突っぱねて、しまわなかったのか(怒)。

422:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 19:02:24.65 0q8ikZOU0
長州戦争は難しいよ。幕府・征長諸藩側で何本も政治ラインがあって、
どういう人脈や、派閥で括るかによって論者ごとで全く差が出てくるし評価も変わる
その点、長州側は編纂戦史が残ってるからいきおい戦闘中心の記述になりやすい
その結果、ミラクル長州軍が1人で10人を倒しましたと言う太平記も真っ青の戦史が信じられることになる

でも防長回天史もちゃんと読むとそんなことは書いてないけどね



423:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 19:09:09.61 0q8ikZOU0
>>421
だって長州の賠償金払ってる最中だもん、まけてもらって
幕府は400万両くらい戦費に使ってるけど、こういう余計なローンもあるからね

424:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 19:11:43.29 rA5sNH0ZO
だから馬鹿にされるんだ(怒)。

ぶっ殺してしまえ(怒)。

425:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 19:23:14.40 VCrzI0f00
うん、防長回天史、意外にマトモだったんでびっくりした。
もちろん長州ビジョンなんだけど、
記述の根拠となる書簡文書類もちゃんと示してあるし。
あと、妙なライブ感があるんだよね。
宍戸備後助が芸州でがんばってたこととか、
岩国から長州の結束を崩そうとしてか仲裁提案にくる彦根藩使とか、
遠島になってた俗論派首領の息子が許されて軍に加わったとか、
黒田了介と品川ヤジの動きとか、
細かいエピソードが面白い。


426:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 19:25:26.63 VCrzI0f00
パークスはロッシュと違って基本的に中立だよ。
中立が結果的に長州有利に働いたのは事実だが。

427:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 19:32:17.93 7A7jZhVt0
>>375
お前の言うことが本当なら熊本藩も幕府海軍も千人隊も極めて間抜けだね
だって彼らも持ち場を守ってたよ。熊本藩に来援要請されても持ち場を守ってたけど
2度にわたって孤軍奮闘した小倉藩もその戦闘中はちゃんと持ち場を守ってた。お城と言う一番大事な持ち場を
それで戦闘中に全然来援が来なかったのに怒った熊本藩が引き揚げ、久留米その他の諸藩も解兵

熊本藩に出動を求めてもいっかな出てこない、熊本藩が来援を求めたら他藩は持ち場を守ってる
これを「傍観」「バラバラ」と言うんだろ?


428:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 19:37:50.51 7A7jZhVt0
>>426
この場合のパークスの中立は、幕府海軍の出動を結果的に封じてる
幕府海軍も船の損傷がイヤで出撃に消極的だったけれど、この交渉以降は一層それが鮮明に
7月3日の時も突然引き揚げて長州が不思議がっている

429:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 19:47:10.83 rA5sNH0ZO
内政干渉があったとしても、勝てなかったのは情けない(怒)。

430:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 23:47:34.45 ItIohVgx0
結局高杉さんのクーデターのおかげだよね

431:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/28 23:59:07.07 Rmvhp4GF0
>>430
あんな杜撰な挙兵は通常すぐに鎮圧されるレベルなのに
成功したのが不思議だ

432:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 10:42:46.29 S8xJEH5u0
>>410
>と「公論」に規定された戦争だったことを強調しているがそれは知ってるよな?
公論による掣肘も結局は軍事的弱体化の結果であって、戦闘で勝利をえれば
沈黙せざるえないよ、戊辰戦争の経過を見ればね。

>だから長州藩の要因に装備の充実と薩長盟約を挙げてるじゃんか。
>あと政治的には薩摩、佐賀、宇和島をはじめ有力諸藩が不参加で萩口が最初から潰れてる
>一橋慶喜のほうが当初は予定になかった戦争に引き込まれた分、政治的には不利だよ。
>幕臣ですら途中で解兵を堂々と進言する奴が出るほど叩かれたからね
サボタージュした藩を強調しているけど、長州と幕府を比べてみてくれよ。
出兵を断った藩より出兵に応じた藩の方が多いし勅許も得ている。翻って長州は
薩摩しか同盟藩はおらず朝敵認定されてる。どちらが政治的に孤立しているのは
明らかだろ。

>会津藩兵の投入は一橋慶喜の虎の子の軍事力の投入だから大きな意味を持つよ
>戦争を主導した一橋・会津が前線に立てば諸藩の傍観状況が一挙に変わる
戦場にさらす死体が増えたところで、状況が好転するとは思えないのだけど。
むしろ会津の軍事力の無力さが露呈して政治力が低下するんじゃ。虎の子が
張子の虎じゃ意味無い。せめて、譜代だけでも軍制に容喙できてれば良かったのにねー。

433:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 10:58:30.40 ZSEv1Dc1O
会津も銃の凄さを身に染みて、改革がすすめばよいが

434:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 12:16:23.29 IbCARc2q0
会津がきても長州の士気が上がるだけだと思うがw

435:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 12:55:29.98 KAwARyL80
戊辰戦争じゃ、主力が居た越後でも役に立ってないからなぁ、会津。
同盟してた米沢や庄内から、後方で略奪してないでもっと前線に出て来いよって言われるし。
鳥羽伏見の時は不利ながらも頑張ってたのに。
第二次長州征伐に出て負けてれば、その辺の展開の方が変わったかもね。

>>366
論刀槍主体の部隊で正規戦しても戦績が芳しくないのは道理だと思うが……
しかも仙台藩正規軍が刻限通りに戦場に現れない状態で。むしろ正規軍に規律があったのか疑問。
あと、スペイン内戦で民兵が人民戦線軍への参入を拒否したのは、元々アンチファシズムしか
共通点のなかった共和国政府内部での政治的対立が原因だよ。
CNT、FAI、POUM vs 共産党の構図。これがバルセロナ事件で顕在化する。
これは志願兵義勇兵に限った話ではなく、徴兵軍でも内戦時に分裂するのは同じこと。
スペイン内戦でもそうだったし、ロシア革命でも正規軍が分裂した。

>>368
正規軍でも志願兵は成立するよ。今の世界の軍隊は殆どが志願制でしょ。
それに上でも書いたように、徴兵制の正規軍でも略奪に走った例は幾らでもある。特にソ連軍の蛮行は有名だが。

436:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 16:49:41.62 ZSEv1Dc1O
>>434
会津が打ち倒されるのは、確実ですよ。

437:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 18:37:21.45 xj1j/avU0
>>432
>公論による掣肘も結局は軍事的弱体化の結果であって、戦闘で勝利をえれば
>沈黙せざるえないよ、戊辰戦争の経過を見ればね。

そりゃ新政府は武力行使によってしか政治的優位を確立する方法がなかったからね
鳥羽伏見の段階、いや江戸進撃の段階でも対内的対外的に必ずしも優位を確立できてないんだから
幕長戦争においては公論による掣肘が働いていたのは厳然たる事実
お前、結局、家近の換骨奪胎による反論は諦めて軍事力万能論に転換したと言うことだろ?

>サボタージュした藩を強調しているけど、長州と幕府を比べてみてくれよ。
>出兵を断った藩より出兵に応じた藩の方が多いし勅許も得ている。翻って長州は
>薩摩しか同盟藩はおらず朝敵認定されてる。どちらが政治的に孤立しているのは
>明らかだろ

薩摩藩しか同盟藩って、薩摩藩が参戦しなかったから萩直行便を免れて助かったんだろう
お前は圧倒的な維新の主役である薩摩藩に対する感謝の念が足りない。
参戦した大藩がどのような状態だったかは小倉口に象徴される通りだ。
先鋒総督を出した紀州藩ですら茂承が7月初めに辞任を言い出す騒ぎになっている
これでどう戦意が騰がるんだよ。幕軍は政治解決が失敗して進撃せざるを得なくなったツケが出て、
開戦後わずか半月で長州と交渉を始めてるんだが。
どうでもいいが薩摩藩の協力の成果を認めたと言うことは1人で10人を破ったとかいうアホ伝説は信じなくなったわけだな

>戦場にさらす死体が増えたところで、状況が好転するとは思えないのだけど。
>むしろ会津の軍事力の無力さが露呈して政治力が低下するんじゃ。虎の子が
>張子の虎じゃ意味無い。せめて、譜代だけでも軍制に容喙できてれば良かったのにねー。

前に見たように幕軍の敗北の原因は装備もあるが、最大原因は指揮の不徹底。
つまり言いだしっぺの一橋慶喜が直属兵力である会津藩兵を投入すればいくら犠牲が多くても征長令が出ている以上、
政治的効果は絶大なんだよ。紀州の辞任騒動も、雄藩の引き上げもその瞬間になくなる。
慶喜の最大の弱点は、手持ちの兵力のなさだからね。会津藩兵投入は局面を大きく打開する可能性が高かった

438:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 18:55:24.82 xj1j/avU0
>>435
>あと、スペイン内戦で民兵が人民戦線軍への参入を拒否したのは、元々アンチファシズムしか
>共通点のなかった共和国政府内部での政治的対立が原因だよ。
>CNT、FAI、POUM vs 共産党の構図。これがバルセロナ事件で顕在化する。

いやスペイン内戦の政治過程はお説教不要、戦後は共産党が悪かったと言う左翼が多いんだが、
実際のところ、秩序と規律によって戦える組織を作っていたのは共産党だった
共産党がアナーキストと対立した原因はその軍事指導方針を巡る対立にある
あとアナーキスト内部でも対立が発生していた。ボランティアを徹底すると結局それは不可避になる
ついでに言えば国際旅団内部でも同じ。共産党とそれ以外の政治対立に敗因を求めるのは20年くらい前の研究
何でかと言ったら左翼の旧左翼=共産党嫌いと「自由で民族的な」アナーキスト幻想が残ってたから。
最近は非共産党系左翼内部の軍事指導をめぐる混乱もちゃんと指摘されている

>これは志願兵義勇兵に限った話ではなく、徴兵軍でも内戦時に分裂するのは同じこと。
>スペイン内戦でもそうだったし、ロシア革命でも正規軍が分裂した。

近代化と徴兵制で縛り上げた日本軍には分裂現象は起きていない
むしろ民衆の社会的地位上昇の回路として軍への過剰な支持があった
長州諸隊も諸藩有志隊や農兵もそれと同じ、ボランティアと徴兵を截然と区別できると思ってる時点でそもそもおかしい
最初はボランティアであっても最後は軍事組織にならなきゃ話にならないのはみな同じ
スペイン内戦は上述の通りだし、ロシア革命はもともと正規軍が崩壊して革命の母体になってる有様だろう

>正規軍でも志願兵は成立するよ。今の世界の軍隊は殆どが志願制でしょ。
>それに上でも書いたように、徴兵制の正規軍でも略奪に走った例は幾らでもある。特にソ連軍の蛮行は有名だが。

ソ連軍の場合は最高指揮官たるスターリンが許可したからね
まともな正規軍であれば秩序と規律が重視されるから、アナキスト民兵のように即決処刑や虐殺なんてそうそう起きない

なんか話がどんどん抽象論になってるんだけどさ、最初は仰せ付けの例が奇兵隊日記にあるじゃん
と言う話からだったよな?長州藩でも事実上村方町方を通しての徴募が採られていた
入口が志願であっても途中で国家の戦争機械化しないと使えないと言うのは分かるな?
奇兵隊日記やその他の郷土の史料に登場する凄まじい数の粛清やリンチは、
明らかに階級上昇と雇用、そして少しの幻想を持って入隊した庶民出身兵に対する藩権力の「改造」の証左だよ
奇兵隊に入隊した部落出身兵はリンチ受けて殺されてるだろ。

赤根武人は士庶平等を強く要求する傾向があったが、高杉は明らかに身分差別撤廃反対派だぞ

439:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 19:04:43.00 xj1j/avU0
いま幕長戦争のメインは長州藩サイドじゃなくて禁門の変から第2次幕長戦争に至る幕府側の政治過程だけど、
長州藩おたくはほんとに四境戦争史観で止まっちゃってるのな。

20年~30年くらい前まで、長州藩の勝利が必然みたいに言われてきたのは
長州藩サイドに防長回天史、奇兵隊日記、吉川経幹の開戦前の史料とか編纂済み史料があったのに対して、
幕府・征討軍諸藩側は当然ながら記録の編纂をやってないから長州藩側史料の洗脳を受ける
バラバラな史料を集めてその史料価値を論ずるところから始めなくてはいけなかった

長州戦争は、慶喜らが媒介となって朝幕一体となる政権が誕生する過程のコマに過ぎなかった

440:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 19:10:03.01 xj1j/avU0
>>431
高杉の功山寺決起の性格については、白石正一郎が「暴挙」と非難した有名な逸話でも分かる通り、
当初は奇兵隊をはじめとする諸隊からも賛同者がなかった。文字通り偶然成功した義挙と見るのが正解

441:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 19:18:04.38 xj1j/avU0
会津観光史学もいい加減とんでもないが、だからって時計の針を巻き戻して
近代史で四境戦争史観をはびこらせる気はないな。
長州戦争は会津も薩摩も参加していない政治交渉の延長上の戦闘なんだからなおさらだ。
政治プロセスは江戸の幕閣、幕臣、朝廷、将軍、一会桑、それを支える諸藩、批判的な諸藩、
民衆、これらの当事者の間で成立していた。極論すれば対長州方針はその反射に過ぎない。

442:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 20:32:30.01 D0k71tU/0
その程度の当たり前のこと偉そうにいわんでもw

たしかに長州マンセーが行きすぎるのはキモいが、
このスレの主旨からいっても長州側の勝因をいろいろ語るのは当然

幕府側に敗因があるってのはわかってるから
人の意見叩き潰して悦にいるよりも
どうしたら幕府側が勝てたのか語れば?

443:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 20:35:25.92 ZSEv1Dc1O
圧倒的な海軍力を活かすために、榎本が帰国するまで延期かな?

444:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 21:57:36.08 S8xJEH5u0
>>437
>お前、結局、家近の換骨奪胎による反論は諦めて軍事力万能論に転換したと言うことだろ?
初めから軍事的失敗とくにシステムと言ってるだろーが。家近氏をだしたのは
あなたが家近氏を引用しているのに
>幕府にとっては勝敗がクリティカルではなかった戦争と言わざるを得ない
何て言ったからだよ。

>薩摩藩しか同盟藩って、薩摩藩が参戦しなかったから萩直行便を免れて助かったんだろう
>お前は圧倒的な維新の主役である薩摩藩に対する感謝の念が足りない。
>参戦した大藩がどのような状態だったかは小倉口に象徴される通りだ。
>先鋒総督を出した紀州藩ですら茂承が7月初めに辞任を言い出す騒ぎになっている
>これでどう戦意が騰がるんだよ。幕軍は政治解決が失敗して進撃せざるを得なくなったツケが出て、
>開戦後わずか半月で長州と交渉を始めてるんだが。
>どうでもいいが薩摩藩の協力の成果を認めたと言うことは1人で10人を破ったとかいうアホ伝説は信じなくなったわけだな
感謝ってなんだよw感謝ってwwアホな伝説も何も動員兵力差を比べれば間違ってねーだろ。

>前に見たように幕軍の敗北の原因は装備もあるが、最大原因は指揮の不徹底。
装備といより幕府の兵制だと原則諸藩の軍事編成に口出しできないのよ。

>つまり言いだしっぺの一橋慶喜が直属兵力である会津藩兵を投入すればいくら犠牲が多くても征長令が出ている以上、
>政治的効果は絶大なんだよ。紀州の辞任騒動も、雄藩の引き上げもその瞬間になくなる。
>慶喜の最大の弱点は、手持ちの兵力のなさだからね。会津藩兵投入は局面を大きく打開する可能性が高かった
いくら征長令が出ていても虎の子の軍事力を使ってもそれを実行する力が無ければ、ますます政治的失墜が
酷くなるだろ、普通に考えれば。

445:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 22:12:00.97 RRE+BJGq0
>>440
偶然でないな海軍奪ってるし
幕府海軍にも奇襲成功させてる
だから高杉は天才といわれてるんだよ

446:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/29 22:36:20.76 ZSEv1Dc1O
長生きしていたら奇兵隊の反乱に、参加しましたかね。

447:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 07:34:03.71 hnSZwhR7O
長生きしてたら井上コース
旧士族の決起に同情するような性格ではないだろう
ただ、高杉が死ななかったら前原が活躍することもなく、
萩の乱は前原が関わらない違う形になったかもね

448:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 09:03:11.45 1olvxQqYO
この時代の幕府の最大兵隊動員って、どれくらいできたの?30万くらい?

449:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 12:14:32.85 wMoHXPsO0
>>437
>どうでもいいが薩摩藩の協力の成果を認めたと言うことは1人で10人を破ったとかいうアホ伝説は信じなくなったわけだな

間違っているな、長州は一人で30人くらいを破った計算になる。

>先鋒総督を出した紀州藩ですら茂承が7月初めに辞任を言い出す騒ぎになっている
>開戦後わずか半月で長州と交渉を始めてるんだが。

その時点ではもう三方面でボロ負けじゃないか。
小倉でもボコボコにされている最中。そりゃ勝てないとなるよ。

>つまり言いだしっぺの一橋慶喜が直属兵力である会津藩兵を投入すればいくら犠牲が多くても征長令が出ている以上、

会津藩の兵がきても勝てるわけねーだろwつかあいつら戊辰戦争でも何したんだよw
後で略奪してただけだろうが。そんなの来ても鎧袖一触で蹴散らされるだけ。

つかんなこというなら、萩口に幕府自らこいよw
一番大変で危険な萩口を薩摩に投げて、薩摩が動けば勝てたはずとかw
そりゃ薩摩だってそんな被害が出そうな所に進撃したくないに決まっているだろ。
幕府が上陸作戦で萩占拠とかやればよかっただろw薩摩でもそんなの絶対に無理だが。
上陸作戦という難しいもので、お膝元を占領とかできるわけがない。
ただでさえそこには大村がいたってのに。

450:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 12:48:57.72 wMoHXPsO0
>>438
>まともな正規軍であれば秩序と規律が重視されるから、アナキスト民兵のように即決処刑や虐殺なんてそうそう起きない

長州の規律ある奇兵隊と違って、会津の正規軍は滅茶苦茶だろ。
略奪徴用のオンパレード、おまけに街道に火を放って焦土作戦。

>奇兵隊日記やその他の郷土の史料に登場する凄まじい数の粛清やリンチは、

ならその史料をだせよ。具体的にな。

>入口が志願であっても途中で国家の戦争機械化しないと使えないと言うのは分かるな?

訓練その他は当然あるだろうな。でそれが何か?彼らが志願兵で士気が高く、
幕府の大軍を蹴散らしたのはかわらんよ。

451:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 16:31:13.70 XfNSN6zP0
>>442
その当たり前のことをまるで分かってないじゃん。
長州戦争において重要なファクターはほぼ幕軍で起きてるんだが
なぜ長州征伐において、長州藩兵側からの戦闘の経過記述しかないの?
防長回天史を引き写してた時代と全く変わらない古色蒼然たる人間ばっかり集ってるんだけど

452:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 17:07:16.48 SGNHUlA80
>>445
白石が暴挙と記したのは三田尻襲撃の後だよ
>>450
ただの訓練ではない。日本軍では軍法会議によらない私刑による殺人は横行していない。
ましてや出自が判明しただけで殺された例など…
薩摩藩や会津藩ですらこんな例は聞いたことがない

それと幕府の大軍、幕府の大軍と言うけど幕軍の内情は右の通り

453:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 17:09:10.93 SGNHUlA80
と言うか「幕府の大軍を蹴散らす」と言う発想そのものが固定観念なのだけどな
なぜなら幕府は開戦直後に休戦交渉を始めているから(これが原因で紀州藩の総督辞任騒動が起きている)
この時期の戦争は政治プロセスの延長だから、幕長戦争そのものが政治の誤算で開始された戦争

幕府海軍も連携より船の損傷を恐れている状態なんだから全く戦意がない
幕府軍は何を目標にしていいのか分からないのだから、戦略的勝利などあり得ないんではないかな
第1次征長戦から1年半も経過した以上、無駄な戦争を避けることが勝利の方法だった。
ただし、これを幕府内部から見ると無駄と言い切れない面が出てくる

長州戦争は幕府の統制力の問題と言うより、ひとえに「予定にない戦争」だったんだよ
幕閣内部はこの時期に京と江戸の政権が曲がりなりにも一体化している

454:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 17:14:38.63 SGNHUlA80
まあベトナムが米軍に勝ったからベトナムはアメリカより強いと思ってるような時代には、
長州藩が民衆パワーで幕軍を蹴散らしたと言う発想が相性が良かったのかも知れないな

455:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 17:22:12.94 SGNHUlA80
>>449
ちなみに
>幕府が上陸作戦で萩占拠とかやればよかっただろw薩摩でもそんなの絶対に無理だが。
>上陸作戦という難しいもので、お膝元を占領とかできるわけがない。

連合艦隊は上陸して長州藩の民衆の協力を経て砲台を撤去してますが何か?
萩口が実現していれば長州藩は守備兵力を大幅にそちらに向けざるを得ないから、
時間差で芸州→石州→小倉と各個撃破していった作戦が完全に狂うことになる
薩摩藩が参戦していても(第1次征長戦の初期の西郷の構想ではまさに長州滅藩だったわけだが)
長州が勝てたとかどれだけ戦況を楽観視してるのかと。

456:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 19:06:19.62 wMoHXPsO0
>>452
そもそもそれがフィクションだろ。
もしそんな例があるなら示せ。
部落民まで隊に入れることを認め屠勇隊が結成が許され、
さらには諸隊の中には参加を許されたのは長州くらいのもんだろう。
他藩の扱いと比べても雲泥の差だな。
他藩で彼らへの武装の許可などできるわけがない。

457:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 20:35:20.98 88ve4Qix0
>>454
ベトナムに限らず戦争形態や独立戦争全てそうだっての
ナポレオンがなぜ強かったかというと国民軍を率いたから
当時欧州諸国は金で雇う傭兵
ナポレオンはヨーロッパを制覇したが、諸外国に模範されて勝てなくなった

458:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 20:56:10.60 zqQmehL+0
ナポレオンの国民軍と比べて奇兵隊の凄まじいところは
奇兵隊以外の全世界を敵にまわしたところだね

459:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 21:41:18.41 l4qF5XO40
そもそもベトナム戦争は戦場では米軍が圧倒していたのだから
長州征討とは状況が全然違うな

460:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 21:44:55.64 88ve4Qix0
フランス革命時ヨーロッパは戦争は傭兵がよいとされた
しかし兵を集めるには金がかかる
ヨーロッパ全土を敵にしたフランスは滅亡に直面し兵を集める為に徴兵制を断行
民衆を集めて四方から殺到して来る職業軍人の連合軍に対抗
革命で生じた体制軍制の変化を新しい戦略で運用したのがナポレオン
ナポレオンは諸国と対等のことをやったのではなく、諸国とシステムが違う体制戦略を活用した
ナポレオンにボロカスにやられ、その体制を諸外国も模範した
以後ナポレオンは戦争に勝てなくなる

461:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/30 22:08:11.48 l4qF5XO40
>>453
戦略的勝利は幕府自信があげているように長州処分の執行だろ。
勅許と台命という当時の最高意志をえているにそれを貫徹できなければ
既存のシステムへの正当性が喪失する。

462:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 03:49:20.39 5vlTrL1X0
>>459
ベトナム戦争では現地の最高司令官が開戦直後に休戦を申し出たりはしてないし、
米軍部隊が離反して帰国したりもしてないな。長州征討のほうがはるかに大変だ

>>461
勅許がなかなか出ないから大変だったんだけど。

463:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 03:59:08.13 5vlTrL1X0
>>456
小郡宰判出身兵が奇兵隊に入隊し、即座に処刑された事例は超有名
論文でも奇兵隊の性格を論ずる際に触れられる
>>457
ナポレオンが率いたのは「徴兵制によって徴募した兵士」ですよw

464:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 04:07:28.22 5vlTrL1X0
だいたい芸州口の緒戦で活躍した維新団も慶応2年5月に藩命によって組織されたもので、
服はおろか笠まで黒ずくめの服装をするよう規則で命じられていた。もちろん正規軍にはカウントされてない。
事前の風当たりが非常に強かったのが窺える。被差別部落出身兵を別組織にしたい思惑が明らか。
被差別部落側も身分解放への希望を繋いで奮戦したんだけどね

465:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 04:19:14.20 5vlTrL1X0
あと上関茶筅隊の強制解散も有名。
部落解放史ではやかましい論争があるんだが、
少なくとも出身地を離れて自主的に結成の動きを示した賤民については
長州藩はこれを徹底的に弾圧している。あくまで藩命に従って結成されたもののみ公認。

466:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 04:33:52.10 5vlTrL1X0
何というのか、諸隊はあくまで入隊許可制、設立許可制であって
屠勇隊も明らかに攘夷戦争の際の戦力不足を補うために賤民を動員したもの

藩秩序を守るのが目的だから良民の隊と一緒にする考えは最初からない
動員令に触発されて良民の隊に紛れ込んだ兵は容赦なく処刑されたんだけどね

467:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 07:57:01.76 NxzZ2FKo0
>>453
開戦直後から負けまくりだろ、そりゃ適わないとみて停戦交渉するのは当たり前。
>>455
連合艦隊?あれアヘン戦争並の戦力だぞ、17隻の艦隊数百の砲門と2000の海兵隊からなる大軍だ。
それでも長州よりも死傷者が多かったくらい損害が出ている。
それと同じ事をどこがやるんだよw

>時間差で芸州→石州→小倉と各個撃破していった作戦が完全に狂うことになる

時間差じゃないな。そもそも芸州口と石見口と小倉口は同時に行われている。
大島が少し速く始まっているが、大島の戦闘が終わる前に他の方面が戦争を開始している。
萩に上陸していれば石見口の侵攻作戦がなくなるだけ。

468:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 08:49:36.89 NxzZ2FKo0
>>465
それ集めた奴が新撰組と繋がっている可能性があったから解散させられただけ。
んな胡散臭い奴等を認めるわけないだろうが。
それ以外の隊はたいてい認められているのと比べて、何故解散させられたのかくらい思考しろよ。

そもそもこの事例が上の464はお前の意見を否定しているな。
つまり当時の長州では自主的に多くの隊があちこちで結成されたという事だよ。
その後藩に認められただけの話。
藩命に従って結成されたもののみ公認されたわけじゃない。
自主的に多くの隊が当時長州では作られていた、そしてその多くが隊として正規軍として認められたという事だ。
一部敵と通じている疑惑のあったところは解散させられたが当然の事だろう。
また奇兵隊にも部落民の入隊は許されているよ。

>被差別部落側も身分解放への希望を繋いで奮戦したんだけどね

そもそもこれがフィクション、藩はそんな約束してないし、
彼らもその為に戦ったわけじゃないだろ。まあそんな奴がいないとまではいわんけどね。
維新団にしても功績が良かったので士分取立てを提案されたが、その分金や土地くれと言った者ばかりだったし。
また奇兵隊にも部落民は入隊しているだろ。

つか部落なんて大半は今で言えば、下っ端役人なわけで、
獄吏とか警邏、処刑とかやっていたわけで、警察や刑務みたいな事やっていたんだよ。
ただ武士の手先となり農民を支配し、彼らが対処するわけだから当然大多数の農民から恨まれる。
間接統治のクッションの役割に近い。戦争の時の徴用されるのは別におかしくないだろ。

つかね部落差別なんて、明治以降作られた幻想みたいなもんだがな。
農民の不満を抑える為に、身分的に士農工商の下においただけで、
実際は武士の命令で農民を支配する手伝いしていただけなんだよ。

469:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 17:35:20.08 ZhjHBlcG0
>>462
ベトナム戦争とは過程も時代も違うのにどちらが大変かなんて
比べられんよ。
和平交渉もそもそも、本荘が宍戸と小田村を解放した6月25日時点で
既に芸州口は撃退、逆襲され、大島は奪還され、石州口では益田が失陥、
大敗をきっしている。たとえ本荘が和平工作をしなくても結果は変わらないよ。


470:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 18:26:17.40 Dmml4gC2O
萩に上陸するのでなく、艦砲射撃はどうかな。

その前に日本海で決戦ですね。

471:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 19:26:52.12 W5NwjSpw0
>>467
>開戦直後から負けまくりだろ、そりゃ適わないとみて停戦交渉するのは当たり前。
6月20日過ぎに「負けまくり」で休戦を申し入れる理由がない。事前の政治交渉の延長
この段階では芸州口は紀州藩の参戦で長州藩の大野攻略が失敗しているし、
小倉口も石州口もまだ戦闘が開始されて数日に過ぎない
慶喜が8月に陣頭指揮を1回は決意していることを考えたら、明らかに幕閣内部での対長州方針の混乱を示すもの

>連合艦隊?あれアヘン戦争並の戦力だぞ、17隻の艦隊数百の砲門と2000の海兵隊からなる大軍だ。
>それでも長州よりも死傷者が多かったくらい損害が出ている。

連合艦隊はあくまでも関門海峡の安全航行の保障が目的で、深追いする意図がなかったから
長州は講和程度で助かっている。上陸戦の際、
またアヘン戦争の場合、艦隊が北京の外港の天津沖に出現したから内訌が発生し、
僅か2000人の兵で進撃を許すのはむしろ異常事態
たとえば元寇の際、鎌倉幕府軍の前線は数千程度だったが1日で数万の元軍を撃退している
(上陸後に)
高杉が萩の沖合で空砲をぶっ放しただけで鎮静会が出て来たように、
薩摩藩が萩口に参戦したらまず他の3つの方面で攻勢に出られない。勝利の帰趨は決定的。
薩摩より長州が上とか何の根拠があって思い込んでるんだ

472:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 19:31:19.80 W5NwjSpw0
>時間差じゃないな。そもそも芸州口と石見口と小倉口は同時に行われている。

開戦は同時だが、幕軍は完全にバラバラに戦ってるし戦況もまちまち。
戦闘の経過が良好な所から膠着状況の所へ兵を向けられる。結果的に時間差になってるんだよ。
長州藩側の史料でも石州口で大勝した余剰兵力を他の口に振り向けたのは明らか。
しかし萩口が実現した場合、余剰兵力の移動そのものが難しくなる上に、
熊本藩・紀州藩が体面上撤兵できなくなり、小倉方面でも長州は劣勢に回る。


473:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 19:37:26.89 W5NwjSpw0
>>468
>それ集めた奴が新撰組と繋がっている可能性があったから解散させられただけ。
>んな胡散臭い奴等を認めるわけないだろうが。
>それ以外の隊はたいてい認められているのと比べて、何故解散させられたのかくらい思考しろよ。

それは粛清の際の口実ね。被差別民出身諸隊は在地を離れたものは強制解散されられている。
お前は被差別民が在地を離れて庶民と共に戦うと言うのがどう言うことか分かってないだろ。
志願さえすれば自由に身分移動を許されるわけだから、士分からなる藩権力にとっては異常事態
だから小郡宰判の兵が「志願兵制」であるはずの奇兵隊でたちまち殺されてるんだよ
しかもこの段階では比較的被差別民に理解のあった吉田利麿や赤根武人がおらず、
保守的な高杉だったから一層弾圧が酷くなった

474:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 19:42:27.03 W5NwjSpw0
>そもそもこの事例が上の464はお前の意見を否定しているな。
>つまり当時の長州では自主的に多くの隊があちこちで結成されたという事だよ。
>その後藩に認められただけの話。

自主的に作られた隊が藩に潰されたと言う証拠しか出てこないけど?

>藩命に従って結成されたもののみ公認されたわけじゃない。
>自主的に多くの隊が当時長州では作られていた、そしてその多くが隊として正規軍として認められたという事だ。
>一部敵と通じている疑惑のあったところは解散させられたが当然の事だろう。

いや、だから諸隊は藩公認制だっつの…
藩が公認しない隊設立あんてあり得ない
お前は自由な隊の設立と言うのが藩権力にとっては危機だと言うのが分からないの?

>また奇兵隊にも部落民の入隊は許されているよ。

それは身分移動を藩が認めた場合ね。その対価は藩の要求する労務や金品の提供
江戸幕府だって労務の提供を行った弾左衛門以下を平民に取り立てている
別段珍しいことじゃない

475:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 19:48:13.12 W5NwjSpw0
>>468
>>被差別部落側も身分解放への希望を繋いで奮戦したんだけどね
>そもそもこれがフィクション、藩はそんな約束してないし、

お前、適当にググってあそこの部落問題のサイト見てきたんだろw
あれはあくまで想像
維新団は士分取立を断ってるがそれは生計の道が断たれるから、土地利用権のほうが切実な問題だったから
藩にとってもそっちのが都合がよかったんだよ。
被差別身分の兵でも、例えば奇兵隊に入隊した小郡宰判の兵は明らかに在地の部落から離れた身分移動を求めている
長州藩の被差別部落民が身分解放を求めていなかったなんて超絶理論を打ち立てるとはね。
知ったかぶりはするなよ

476:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 19:54:44.18 W5NwjSpw0
>つか部落なんて大半は今で言えば、下っ端役人なわけで、
>獄吏とか警邏、処刑とかやっていたわけで、警察や刑務みたいな事やっていたんだよ。
>ただ武士の手先となり農民を支配し、彼らが対処するわけだから当然大多数の農民から恨まれる。
>間接統治のクッションの役割に近い。戦争の時の徴用されるのは別におかしくないだろ。

農民だって戦時徴用は別におかしくないよ。
おかしくないから徴用はされて当然だとか言い出したら、
理想に燃えた志願兵たる諸隊の意義を自己否定することになるが構わんのか?w
幕府と違って雇い兵やら徴兵じゃなく、あくまで志願兵だから長州藩の諸隊は優秀だったんだろw

>つかね部落差別なんて、明治以降作られた幻想みたいなもんだがな。
>農民の不満を抑える為に、身分的に士農工商の下においただけで、
>実際は武士の命令で農民を支配する手伝いしていただけなんだよ。

じゃなぜ弾左衛門が幕府や政府に繰り返し身分解放、醜名除去の確認を求めているのか説明してくれや。
弾左衛門は大富豪だから経済的差別なんて存在しないよ。残るのは社会的差別だけだろ。

477:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 19:59:05.48 W5NwjSpw0
>和平交渉もそもそも、本荘が宍戸と小田村を解放した6月25日時点で
>既に芸州口は撃退、逆襲され、大島は奪還され、石州口では益田が失陥、
>大敗をきっしている。たとえ本荘が和平工作をしなくても結果は変わらないよ。

は?芸州口では長州藩はこの時点で2度にわたって大野奪取に失敗しているし、
小倉口も最初の戦闘があっただけ
パークス小笠原会談が行われたのは26日だからまだこの段階では下関への攻撃の芽は残っている
それと本荘が停戦を求めたのは「25日以前」 であって25日じゃないよ

478:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 20:09:15.67 W5NwjSpw0
身分引上と醜名除去
URLリンク(ritsumeikeizai.koj.jp)

一応参考までにこれ弾左衛門の事例ね。明らかに身分移動を求めているし、
幕府は弾左衛門以下60余名の身分引上、および「手下の者」の醜名除去を認めている
まあ弾左衛門に関しては長州戦争以前から幕府の引立てがあったのだけど

479:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 20:18:37.80 W5NwjSpw0
幕府軍は既にこの段階で1年も京阪に滞留して多大な乱費を余儀なくされた上に、
直前に薩摩藩が正式に不参加を通達し、芸州や佐賀ら他の諸藩も右へ倣えでアフガンの治安維持よりはるかに酷い状態
士気が著しく下がってるから幕府海軍も艦隊温存を第一にして出撃しなかったんだよ

だから開戦直後から本荘が見切り発車してるの

480:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 20:27:13.37 W5NwjSpw0
あと長州オタはよく「死傷者は連合艦隊のほうが多かった」と言うけど、本当に印象操作だね。
薩英戦争の薩摩藩は死傷者数や士官の犠牲で比べたらイギリス艦隊に圧勝。

481:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 21:42:43.08 W5NwjSpw0
長州藩が粛清の大義名分に新撰組を使うと言うのは周知の事実だと思ってたけど、
まだ間違える奴がいるんだね…驚いた
この時期の長州藩の粛清事例を見ると、新撰組は長州藩に1万人くらい工作員を潜伏させてたみたいだけどねw

482:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 22:26:08.55 ZhjHBlcG0
>>477
大野が攻撃を受けているから逆襲されていると評したんだよw
それに下関攻撃もパークスの圧力が無くてもできたか疑問。
幕府海軍は戊辰戦争を見る限り練度が高くない。


>>479
アフガンではソ連もアメリカも正規戦では勝ってたけど。
幕府は正規戦で大敗しているから、アフガンとも状況は違うな。


483:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/31 23:33:01.44 wdDGKr2r0
国民国家を形成した国ほど強い国は無いわけ
幕府が弱く長州が強いのは当然だね
植民地化された国は全部形成できなかった国
独立した国は形成できた国
日本は植民地にされる前に自力で形成した世界でも珍しい国だね

484:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 00:59:36.65 eVQZHs1+0
>>482
大野の奪取を2回も失敗してるじゃん
幕府海軍と言うより、この時期の海軍は命中精度は低いよ。
阿波沖海戦でも薩摩海軍と幕府海軍が撃ち合ってほとんど当たってない
それでも阿波沖海戦で幕府海軍は薩摩海軍を追っ払ってるけどね
日本海海戦のように練度が高い方がむしろ異常
ロシア太平洋艦隊もウラジオ艦隊は捕捉されなかったが、彼らは石炭代も惜しんで演習もできないありさまだった
薩摩海軍ですらしかり、にわか仕立ての長州海軍は奇襲くらいしかできない

あと長州と交戦した諸藩は小倉口では小倉藩、
芸州口では急きょ先鋒に繰り上がって武装の指示も受けてない高田、彦根藩
石州口では益田、浜田に旧式装備の紀州藩兵と言った弱兵のみ
芸州口では緒戦の勝利に乗じて攻めかかったら相手が紀州藩の洋式部隊に入れ替わり、
天狗党にコテンパンにされた幕府歩兵も善戦して以後は全く進めなくなっている

あとアメリカはアフガンの軍閥を懐柔して初期に支配を広げてるから、
正規戦で打ち破ってるわけではない。
内乱国家のアフガンと曲がりなりにも権力が藩に一元化されてる長州と一緒にする時点でちょっとね

485:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 01:02:03.61 eVQZHs1+0
長州オタもここまでかな。だんだん勢いがなくなってきたぜw

486:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 01:08:12.03 eVQZHs1+0
天狗党>>>幕府歩兵=長州諸隊 これが真実w
>>483
攘夷戦争での長州の講和条件はアヘン戦争とそっくりだよ。
幕府も米国船来航の兆候はモリソン号の前から把握していたが、
江戸~大阪間の航路が遮断されたらアヘン戦争の二の舞になると判断、
開港を前提に予備交渉で突っぱねてみせ、最も大事な国内商人の保護を図るという落としどころで纏めている

これが全く理解できなかったのが尊攘激派。単に幕府が異国に屈したと見た
現在では幕府の対応は鎖国攘夷の成功に味をしめて大きなしっぺ返しを食った朝鮮と比較して
「およそ考えうる限りもっとも理想的」と言う海外の学究の評価すらある
特に慶喜は個人的魅力で諸外国公使からの信任が厚く、パークスも慶喜追討に関して強く反対している

487:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 01:16:32.37 eVQZHs1+0
幕府オタと思われるのも何だから一言言っておくと、
幕府の意思決定はセーフティだったが遅かった。行政実務はきちんとしていたが政治的決定ができない
文久年間に幕閣首脳部が京と江戸、復古派と改革派、旧南紀派と尊攘派などに細かく分裂した段階で、既に幕府は役割を終え
あとは新しい公儀政体をどう作っていくかの政局に入っていた。
立場的には同輩中の首席に過ぎない徳川家が大政を委任されて単独でやっていくことはもはや不可能だった
なぜなら大政を委任されている以上、徳川家の内部問題が日本の政策問題に直結するから、これは解消するほかない
ここまでは慶喜も含めて全員一致。

だから文久以前の幕府体制のままで近代日本を担えたとは幕臣ですら思ってないわけだが、
(幕権派は幕権派で従来の幕府と違う枠組みを模索していた)それと長州戦争の評価は全く別なんだわな

488:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 08:23:45.03 AUJ9hcXD0
>>470
艦隊が沈められるだけ。480にもよくわかってない馬鹿がいるが、
当時は陸上からの砲撃が圧倒的に有利。いや今でもかな?
馬関戦争でも英国は旗艦に砲撃を食らい、艦長を含む士官が何人も死傷している。
薩英戦争の薩摩も同じく艦長以下を殺傷している。
当時の砲の制度で数メートル程度しかない砲に命中させる事はまず不可能。
たまたま偶然当たるのを待つだけ。
だが陸上からの砲撃の場合は、巨大な艦艇に当てればいいだけなのでけっこう当たる。
だから上陸戦が必須になる。

>6月20日過ぎに「負けまくり」で休戦を申し入れる理由がない。

何言っているの?負けまくりだから休戦を申し込むしかないわけ。だって勝ち目ないからね。
もうこの時点で岩国に侵攻してきた幕府軍は撃退されている。
その後逆激をこうむり10キロだったかな?逆に侵攻している。
あまりに前進しており、また戦場が広島になってしまい。
友誼を結んでいた浅野から、うちでこれ以上やらないでくれといわれて進撃を止めたくらい。
元々この方面は河川を利用して守備に徹する構えだったのにこの始末。

石見方面ももう益田にいる幕府軍は壊滅しているだろ。
大島ももう既に奪還し終わっている頃。もう幕府は詰んでいるんだよすでにね。
大島方面と石見方面から援軍が来る状況になっている。

>僅か2000人の兵で進撃を許すのはむしろ異常事態

連合艦隊の上陸した部隊は砲台を破壊したら、即座に撤退して沖に逃げているが?
長州はそれを修復して砲撃をやり返している。

>薩摩藩が萩口に参戦したらまず他の3つの方面で攻勢に出られない。勝利の帰趨は決定的。

石見方面で攻勢に出られないだけで、他の方面の戦闘結果は変わらんよ。
大島も奪還されるし、芸州方面も大敗して逃げ散って、何とか防いでいる状態。
小倉も大島の援軍が着たら、詰みだな。史実どおりに進む。
石見方面の戦闘がないだけ。
まあ石見方面の軍が萩に来ても結果はかわらんだろうさ。

>薩摩より長州が上とか何の根拠があって思い込んでるんだ

軍の質に大差はない、なら当時の輸送力の上陸戦になる。
補給すら間々ならない状態で城攻めとかw
無理に決まっているだろ。長州よりも小勢で上陸して勝ち目があるわけないだろ。


489:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 08:27:40.72 2H62kQSD0
大島口ぇ・・・・

490:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 08:46:36.06 AUJ9hcXD0
>>472
小倉方面は第二奇兵隊、つまり大島を奪還した部隊が回っている。
石見方面の軍は岩国に回っている。つまり小倉陥落は変わらん。

>だから小郡宰判の兵が「志願兵制」であるはずの奇兵隊でたちまち殺されてるんだよ

そういえばこれ初耳なんだがw有名って誰が言っているんだ?
部落民だから処刑されたとか言っているが。そんなケースは存在しないよ。奇兵隊にはね。
命令を無視して勝手に隊から離れた奴が処刑されたケースはあったが。まさかその事じゃあるまい?

>それは粛清の際の口実ね。被差別民出身諸隊は在地を離れたものは強制解散されられている。

口実?ここ以外で第二奇兵などが出てきて強制解散させたケースなんてないよ。
解散させたケースでも、よくやったと集めた人には、お褒めの言葉と金一封などが下賜されて、兵士はどっかの隊に吸収されるだけ。
そしてこの集めた人は新撰組と実際にあっており、入隊許可などをしていた人。
んな胡散臭い奴が集めた隊を解散させるのは当然の事。

>志願さえすれば自由に身分移動を許されるわけだから、士分からなる藩権力にとっては異常事態

は?身分移動なんてないよ。何言っているの?

491:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 09:43:25.61 AUJ9hcXD0
>>474
>自主的に作られた隊が藩に潰されたと言う証拠しか出てこないけど?

おいおい、当時の長州では志願兵が殺到し、自主的に多くの隊が結成されていたという事だろ。
それが藩に認められて正規軍になったという事だよ。
当時の長州ではそういった諸隊は200くらいは合ったとされている。
その後統廃合されて正規軍として出発するんだよ。

ていうかお前の言っている事と矛盾するじゃないか、お前は長州は兵士がいなかったから、
村に言いつけて、徴兵していたといっていた。
だが史実としては長州の各地で隊を自主的に作っており、全くの逆だ。
お前の言っている事が事実なら、当時の長州は各地で自主的に隊が作られていたが、
藩はそれら志願兵の部隊を強制的に解散した、そして長州藩は今度はむらむらに徴兵を化し、
兵士を無理やり集めたとなるんだがw正気で言っているのかい?
志願者が自主的に隊を作っていたのが事実なのか?それとも藩の命令で徴兵されていたのか?w

>いや、だから諸隊は藩公認制だっつの… 藩が公認しない隊設立あんてあり得ない

違うな、「公認」ではなくて「追認」
自主的に兵を招集して隊を作っていた。藩が公認しない隊なんてそこらにあったんだよ。
その後正規軍として認められた隊と、そうでない隊がいただけの話。
隊号などが藩に認められなかった隊も珍しくない。解散させられた隊も中にはある、
大半は合併でなくなっているがね。

>それは身分移動を藩が認めた場合ね。その対価は藩の要求する労務や金品の提供

そんな条件はないよ。

>お前、適当にググってあそこの部落問題のサイト見てきたんだろw

どのサイトだよ。維新団の話をみても義兵が集結に条件を出していたなんて話出てこないぞ。

>被差別身分の兵でも、例えば奇兵隊に入隊した小郡宰判の兵は明らかに在地の部落から離れた身分移動を求めている

だからそいつ誰だよ?ていうかお前言っている事変わってないか?
お前は463と言っているようだが?入ったら即座に処刑されたんじゃないのか?

>長州藩の被差別部落民が身分解放を求めていなかったなんて超絶理論を打ち立てるとはね。

常識なんだが?そもそも部落差別がーとか言うのは明治以降身分が平等になってから言われだしたこと。
江戸時代は武士の下っ端として、農民の迫害を直接やっていたのが彼らなんだよ。
武士の変わりに汚れ仕事といってもいいかな?
むしろ彼らの身分と安全を保証していたのが武士。既得権益に守られた仕事を世襲していた人達なんだよ。
後は人や動物の死体の処理や、解体業務の人達。処刑とかは刑務系になり、
動物の死体にしても皮剥いだりして、色々作るわけ。
刑務も革製品もどちらも武家の下っ端なので、彼らの庇護下にあるわけよ。
ただ刑務系は農民や町民からすれば当然嫌われるし、「穢れ」である死体の処理をするものは、
生理的に嫌悪される、これは温暖多湿で腐りやすい日本では仕方ない。
こういうのは今で言えば、専門職や官吏の仕事なわけでこれを辞めて、
明日から農民や町民やれといわれても、普通困るだろwどうやって生活するんだよ。
身分開放の為に戦ったとか、当時の参加者が誰か言っているのかい?

勿論中には仕事が嫌で辞めたい人とかいただろうけど、それは別の農民や町民だってそうだからね。
家業を世襲する身分社会が江戸時代なんだから、それを抜け出すには、
その身分を金で買うしかない。


492:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 10:39:49.76 AUJ9hcXD0
>>476
>農民だって戦時徴用は別におかしくないよ。

そうだよ。だけど長州の場合は部落も農民も志願兵でしょ。

>じゃなぜ弾左衛門が幕府や政府に繰り返し身分解放、醜名除去の確認を求めているのか説明してくれや。

幕府のケースであって長州とは関係ないなそれ。
ていうかそいつ代々続く部落利権のドンだろ、今で言えば松本や野中のようなゴミくず。
そして彼らの主張は革製品や刑務などの独占産業を維持したまま、身分上げろというものでしかないな。
そいつの血筋もサラブレッド。

>>477
もう大島でも石見でも大勢は決している、芸州にしても長州の反転攻勢を必死に防いでいるだけ
そして長州としてはこれ以上の進軍は芸州藩が嫌がるので辞めておきたいところ。
>>479
テスト結果が酷かったから、昨日勉強してなかったからだもん、
本気を出さなかっただけとか言い出す餓鬼みたいだなw
つまり外交で失敗して、戦略でも失敗して、戦術でも失敗しただけだろ。
長州が西国の有力大名に根回しをして、出兵をやめてもらうように工作をして、
交渉を長引かせて、その間十分な準備をして、
領民に藩の行為の正統性を宣伝し、多くの志願者をえて高い士気を保ち、訓練の行き届いた兵士を用意したのに比べたら、
幕府はほんと馬鹿だなw

493:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 11:01:12.90 AUJ9hcXD0
>>481
まーたフィクションですかw
ていうか金作が無実だったとか思っているとはおめでたい奴だなw

あと見つけた。URLリンク(eigaku.cocolog-nifty.com)
ここの事か。
部落のやっている事を歴史として知っていれば、普通に分かる事ではあるんだけどな。
明治以降差別ダーとか言い出したのは。元々偏見がある職業。
江戸期は武士の変わりに農民と対立、明治期に解体業の独占を禁止された事。
革製品などを大量に作る必要が生じたため。
彼らの特権が奪われたので、生活が苦しくなったから。

彼らの身分差別というのは武士階級下の最下層的な身分であって、
農民とかとは別系統なんだけどね。まあ不満をそらす意味で農民より下とは位置づけられただろうが。
実質差などない。

494:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 11:22:49.18 AUJ9hcXD0
>>486
長州なんか馬関戦争でも突っぱねているのに。幕府はあっさり屈服した馬鹿だよ。
列強にしても開港して貿易できればよかったのに、開港よりも賠償金を選んで、
結局払えなくなって、開港する始末。
長州が断固として断ったのと比べるとへタレとしか言いようがない。
幕府には貿易利権の独占というのが目的であり、それを他藩に譲りたくなかったから、
開港する場所は極力押さえたかった。
そして無計画に開港、金の流出、国内産業の保護をやらなかったから、
国内の物価が高騰して大変な事になった。生糸が安く買い叩かれた事で、
国内の生糸げ欠乏して、高騰した結果綿製品を作っていたものは大打撃、
そいて国内製品は舶来物に駆逐され、またまた綿製品を作っていたものは大打撃。
国内商人の保護?一部の輸出で儲けた特権商人だけだろw

さらに幕府がやらなくてもいい長州征伐などやっちゃったから、米の買占めと投機が起こり、
米価は八倍にも急騰。打ちこわしが多発。

>これが全く理解できなかったのが尊攘激派。単に幕府が異国に屈したと見た

明治政府が実際に上手く立ち回っているのをみれば幕府が屈しただけなのがよく分かる。

495:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 17:54:52.91 iX+XzQ8y0
>>484
攻め込んだ征長軍が芸州で防戦している時点でダメじゃないか。
それに全く進めなくなるは言いすぎだぞ。宮内を迂回攻撃されて
大野からも撤退してる。
日本海海戦の頃と幕末の海軍を練度だけで命中率比べるのは
不適切よ。当時の海軍は日進月歩だから。
アフガンに関しては状況が全く違うのに比較対象として出した479
に言ってくれ。


496:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 20:00:55.20 j5v3VnSJ0
>>488
長く書けば反論になるってもんじゃないぜw
>艦隊が沈められるだけ

じゃ何で高杉の海軍奪取がクリティカルだったんだよ?それと同じこった
薩摩海軍は上陸戦を必ずしも行う必要はない。下関に砲台設置を禁じられている長州船舶を拿捕し、
萩近辺に軍事的重圧をかければ長州藩内で高杉の時と同じことが起きる。
また石州口や小倉口に関しても薩摩海軍が出没することで進撃が困難になる
この時期長州藩の財源はかなりの部分通商に依存していたから荷を止めるだけでも大打撃
どっちにしても萩口の実現が決定的なのは間違いない

497:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 20:28:23.16 cGfISQhnO
下関封鎖?馬鹿がいるなそんな事したら日本の物流が止まる。
江戸大阪の物価が更に上がり、幕府崩壊だよ。

498:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 20:40:56.28 j5v3VnSJ0
>6月20日過ぎに「負けまくり」で休戦を申し入れる理由がない。

長州藩は19日に水野忠幹率いる新宮藩兵および幕府歩兵隊1個大隊を相手に
山上を占拠して攻撃を加えた。この時点で長州藩は大野奪取を固く決意し勝利を確信していた。
ところが不利な位置に陣取る両軍が前回をはるかに上回る銃撃にも頑強に抵抗し、
長州藩兵に多大な損害が出て20日についに敗退している。
守る紀州藩兵のほうは長州が高所から加える銃撃に対して遺体収容も出来ないほど不利な状態だが、
それでも抜けなかったんだよ。
さらに撤退も困難を極めた。幕府海軍の砲撃を恐れて迂回撤退を行っている。
長州藩はこの戦いで現場指揮官クラスを多く失っており、以後攻勢に出るのが困難となった。
25日に再度攻撃をかけたがまたも撃退されたのは前述の通り。

さらにお前が書いてる通り、芸州藩がこの段階で長州に「何でうちの領内でやるんだ」
とクレームをつけて長州は芸州藩内に押し込むのが難しくなっている。
石州口は津和野の中立で益田までは進んでるが、

それとお前は本荘の交渉が「25日」に開始されていたことを前提とするが、
本荘は「25日より前」に交渉を開始して、それが判明したのが25日なんだよ
また本荘はこの後呼び返されるんだが、彼の上申書の内容を見ると
「長州藩内が激徒に固められており、英薩がこれに協力して蒸気船を貸し出したり、
薩摩藩兵が一緒に抗戦している」だとか「西国諸藩や芸州が後備兵を出さす兵糧供給も難儀している」
とか、風聞や幕軍の内情をかなり悲観視して奏上しているのが分かる。
戦闘経過はその補足なんだよ。
彼が「穢兵」の存在を認識していること、またミニエー銃を長州藩兵が全員装備している、
などと語っていることから、芸州口の彦根・高田両藩と維新団の戦闘までは知っていた可能性がある。
とすると、当然小倉口の最初の戦闘での幕軍の内紛も知っていたと思われる。

しかし彼は「佐賀藩、薩摩藩、幕府歩兵」は長州藩に劣らない装備を持っていると認識している。
これを書いた状況からして、おそらく彼は芸州口の新宮藩兵の装備を知らない。
あと「フランスに30隻ほど汽船を借りてくれば絶対に勝てる」などとたわけたことを言っていて、
べつに「敗戦」を予想して停戦交渉を始めたわけではなく
本荘は現地で見聞した内情によって「いまの前線部隊では」勝算なしと判断して、
幕軍を強化して大規模攻勢をかけるほかなし、さもなくば停戦をと要請しているんだよ。

つまり彼は戦闘経過を見てこれを書いたのではなく、開戦前夜の状況からほぼ継続して
交渉を開始してるんだわ。

499:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 20:43:09.42 j5v3VnSJ0
なお本荘は彼自身「浅見にて」と断っており、戦闘経過や幕軍の内情は後付けに過ぎず、
彼自身の意見が先にあったことは明らか。

500:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 20:51:24.50 j5v3VnSJ0
>>496
>連合艦隊の上陸した部隊は砲台を破壊したら、即座に撤退して沖に逃げているが?
>長州はそれを修復して砲撃をやり返している。

だってもともと砲台破壊が目的だものw 砲撃をやり返すって、いつの攘夷戦争の話してんだ?
しかも下関条約で砲台撤去を約束しちゃったから長州戦争の時も桂がイギリスにお伺い立ててる有様だろう。
イギリスは許さなかったけどね

>>497
おやおや、幕長戦争の長州側の最大の強みは下関の流通が止まったからと言う家近説を頭から否定していたのに、
今になって「関門海峡を止めたら大坂が大騒ぎになって戦争継続不可能」ですか。
お前ら本当に都合の良い所で他説を引用するね。
薩摩海軍は日本海岸に艦砲射撃を加えるだけで充分軍事的重圧を加えられる。
また薩摩藩の参加で主攻である萩口が実現した場合、体面上も紀州、熊本の撤退はなくなる。
さらに関門海峡を渡海攻撃していた長州海軍は、薩摩海軍と幕府海軍の挟撃にあったら一瞬で制海権を失う。

501:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 20:58:54.43 j5v3VnSJ0
>>496
>石見方面で攻勢に出られないだけで、他の方面の戦闘結果は変わらんよ。
>大島も奪還されるし、芸州方面も大敗して逃げ散って、何とか防いでいる状態。
>小倉も大島の援軍が着たら、詰みだな。史実どおりに進む。
>石見方面の戦闘がないだけ。

面倒だからお前の言い分で反論してやろう。
石州口の惨敗が本荘の交渉に影響を与えたと主張しているんだから、
石州口で攻勢に出られなくなっただけで停戦の必要性は半減するじゃんか。
芸州口では紀州と幕府歩兵が長州藩を返り討ちにしてるんだし。
それと小倉に関しては上述の通り、退守していた幕府海軍が薩摩海軍の回航で出てくるから、
こちらも関門海峡にまず出てこれない。さらに石州口の兵力が萩に釘付けになるから、
史実では石州口から徐々に回ってきた余剰兵力が7月以降攻勢に出るのも困難になる。

>軍の質に大差はない、なら当時の輸送力の上陸戦になる。

かなり差がある。長州藩兵と薩摩藩兵の動員力だけでも比較してみるといい
薩摩藩は軽く数千は動かせる。戦時体制でもその程度の長州藩のほうが財政的に干上がるよ。

502:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 21:06:05.32 j5v3VnSJ0
×>>496
>>488

>>490
>小倉方面は第二奇兵隊、つまり大島を奪還した部隊が回っている。
>石見方面の軍は岩国に回っている。つまり小倉陥落は変わらん。

だからそれは主攻の萩口が存在しないと言う前提で組み立てられた作戦だからだろ。
薩摩が参戦しないと言う言質を与えてるんだから。
石州口の軍を岩国に回せたから第二奇兵隊が小倉にいられたんだよ。
薩摩海軍が萩の沖合から関門海峡近辺まで遊弋するような状況では兵力の配置が一気に変わってくる

さらに何度も繰り返すけど、大手軍である萩口が実現したら、熊本藩は勝手に撤兵できなくなる。
小倉が陥落したのは熊本藩が終始非協力的で、さらに解兵したことが決定的要因なんだから

503:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 21:14:01.11 T9+1xdQSO
熊本にもアームストロング砲が、あったのは意外だ。

504:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 21:30:09.66 j5v3VnSJ0
>>だから小郡宰判の兵が「志願兵制」であるはずの奇兵隊でたちまち殺されてるんだよ
>そういえばこれ初耳なんだがw有名って誰が言っているんだ?
>部落民だから処刑されたとか言っているが。そんなケースは存在しないよ。奇兵隊にはね。
>命令を無視して勝手に隊から離れた奴が処刑されたケースはあったが。まさかその事じゃあるまい?

存在する。小郡宰判や幕長戦争の時の私刑は奇兵隊日記にも書いてある。
無許可離隊が処刑されるのは当然で、そんなケースをわざわざ研究者は取り上げたりしない。
長州の部落解放史で30年くらい前には少なくとも確認されてるし、
それこそ遠山や田中彰の時代から普通に被差別部落民への長州藩の待遇は記されている。
知らないのが信じられない。

>>それは粛清の際の口実ね。被差別民出身諸隊は在地を離れたものは強制解散されられている。
>口
>>志願さえすれば自由に身分移動を許されるわけだから、士分からなる藩権力にとっては異常事態
>は?身分移動なんてないよ。何言っているの?

ある。非常民は選抜入隊制(定数制限あり)だったが入隊した時は平民取立、苗字帯刀も許されてる。
自分で書いていたことを良く思い出せよ。被差別民、非常民は刑吏邏卒の役割をしてたんだろ。
それが在地を離れて勝手に志願してそれを認めたらどうなるんだ。
非常民を集落ごと管理することが不可能になり、つまり非常民と言う身分そのものが事実上消滅する。
それはどういうことか。良民と非常民が一緒くたに扱われることになる。
となると非常民を良民の監視に当たらせる藩構造が不可能になるばかりか、
良民出身の兵が差別撤廃に強く抵抗する。実際、解放令を出すのが難しかったのはこれがあるから。
だから長州藩は藩が身分移動を許可した兵(弾左衛門と同じく限られた階層だね)のみ入隊を許可し、
それ以外の在地の移動を認めていない。「穢兵」を藩が認めることなどあり得ない。


505:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 21:49:44.66 j5v3VnSJ0
上関茶筅隊で「金作」をはじめとする茶筅を第二奇兵隊が逮捕した一件は、
「金作」が大野を出奔した=在地を離れた人物であり、
さらに他の被差別部落諸隊とは明らかに違う隊中規則を定めたりしたことが藩の警戒感を買ったもので、
新撰組への入隊志願歴は後付けの理由に過ぎない。ましてや「敵との通謀」に至っては完全に事実無根。
そもそも入隊を志願したかどうかも実際には分かっていない。
残っているのは金作の自白だけだが、彼は取調中に恐らく拷問を受けて自殺している。

そもそも慶応元年の結成時点で金作の上方出奔履歴は知られていながら隊結成が許可されているのに、
慶応2年3月に至って突然逮捕されると言うのがおかしいし、茶筅隊の具体的な通敵行動もない。
普通に吉見隊へ付属させられて訓練に励んでいるが、外敵との通謀の兆候など一切ない。
ではなぜ慶応2年段階で粛清の対象になったかと言えば、
慶応軍制改革の結果、諸隊を藩が再編統一する過程で中央集権性が重視されたからに他ならない。
独自の隊規を有する茶筅隊は真っ先に目を付けられたと言うのがいまの有力な見解。

茶筅隊の解散と維新団の結成はほぼ時期を前後しているが、
維新団の隊規を見ると明らかに茶筅隊と異なり、隊士が「分限を弁えること」を強調している。
これは官製の被差別民諸隊に共通する隊規の傾向。

506:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 21:54:45.34 j5v3VnSJ0
論者によっては維新団が前線に出される確率が異常に高かったことを
「忠誠心を試す意図があった」と見て、維新団が士分取立を辞退したのは
この茶筅隊の粛清で隊士たちが警戒したと言う説もあるくらいだよ。

つまり士分取立にうっかり賛成してしまうと、茶筅隊と同様に粛清の対象になりかねないと。
実際、井上も維新団が辞退するのを見越して士分取立を言っている可能性が強い。
脅迫したのか、経済的実利のほうを選ぶだろうと思っていたのかは定かではないけどね

507:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 22:02:57.93 j5v3VnSJ0
長州藩ではこれ以前にも領民(士分も含む)による非常民の集団リンチ殺人が多発してるから、
維新団側も、士分取立とは言っても生活保障や事後のリンチを警戒したのかも知れない。
ちなみにこの時期、幕府も弾左衛門に命じて長州戦争での人足差出をさせているが、
まず前線で戦わせるような危険なことはさせてないし、家族の生活保障にも応じている。
幕府が人権を尊重したわけじゃなくて、一応、非常民は幕府が委託した業務を行うお役人的側面もあり、
皮革業は軍需物資調達の面でも貴重だから、無茶はさせられなかったのね。
維新団が前線に出されたのは確かに異常。

あとはなんだ、下関条約か。それもとっくに反論が出てるんで後で書こう。

508:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 22:14:57.09 j5v3VnSJ0
>>491
お前の書いてることはぜんぶ主観じゃないか。
「公認制だよ」「いや追認だ」どっちも許可制には変わりない
酷いのは、最初から隊設立を許可しなければいいのに許可した後に
藩の内情で茶筅隊みたいにどんどん潰していくんだよ
被差別部落民の組織は実は俗論派が慶応元年初めから開始して諸隊討伐に当たらせようとしてるんだよ
この段階では当然、藩の「命令」ね。

509:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 22:20:40.79 j5v3VnSJ0
で、正義党政権はそれをそっくり戴いた。ところが慶応2年段階になって突然粛清を始めてる

>>493
と言うかお前、金作の口供(それも拷問に耐えかねて自殺)しか残ってないのに、
なぜ無実じゃないとか分かるんだよ。金作と新撰組の関係を断定できたものなんてないよ

それと長州藩でその前に良民による被差別民のリンチ殺人がたびたび発生していることをどう説明する?
確かに被差別民は「家業」を独占した状態で、良民とは別建ての人たちだったことは確かだが、
社会的差別が厳然として残っていたのは事実なんだが。
何で全国で最も優遇された大富豪の非常民である弾左衛門が「身分取立、醜名除去」を強く要請しているのか
お前はちゃんと説明すべきだな。
だったら解放令なんて出す必要はないじゃん。

510:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 22:30:50.79 j5v3VnSJ0
>>494
長州が下関条約でどう突っぱねてる?
高杉が租借を拒絶したなんて話は伊藤の回顧録に出てくるだけで、
サトウの記録には一切出てこない。
長州が下関開港を勝手に認め、砲台撤去に応じ、償金支払の約束まで応じたのは
アヘン戦争の諸条項と全く同じだぞ。

しかし幸いなことに、米蘭仏はオールコックと異なり、問題への深入りに消極的だった
幕府はそこを衝いて交渉を重ね、事後に「賠償」ではなく「友好関係維持のための補償」
とすることに成功し、同時に長州への懲罰は「大君政府の職務」として勝手な長州攻撃や開港の強要を禁じている。
償金も6回ローンで3回分の支払は慶応2年までに滞りなく済ませている。
明治政府になってからのほうが支払に時間がかかってる

幕府の開港交渉は長州戦争とはスレ違いになるが、
幕府は「開港拒絶→落としどころを探る→最終的には開港を許可した上で商業範囲を限定する」
と言う限定開国を目指してたことは明らか。交渉の主眼は開港の是非でなく開港条件。

ところが内情を知らない尊攘激派には「幕府が譲歩した」と見えたと言うのが実情。
薩摩藩なんかは阿部からこれを伝えられてる

511:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 22:38:35.94 tgpzSxq60
幕府が結んだ条約自体が阿片戦争と同じだよ
だから攘夷論が起きて倒幕に行ったんでしょ
しかも攘夷を約束しながら国内を騙しやらなかったからね
だから倒幕されたんだよ

512:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 22:40:14.03 j5v3VnSJ0
>>495
>宮内を迂回攻撃されて大野からも撤退してる。

それいつの話だ?
もともと幕軍が「出張っていた」前線が大野で、総督辞任騒動が起きてからは大野を放棄してるよ
7月末からの攻勢では幕軍は宮内を通過してるし

513:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 22:40:58.11 j5v3VnSJ0
>>511
アヘン戦争と同じと言われるのは下関条約のほうだよ。租借がないだけで。

514:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 22:44:37.65 j5v3VnSJ0
何か反論このくらいかね。拍子抜けだわ。

515:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 23:08:59.30 j5v3VnSJ0
ちなみに幕府の施策が従来言われていたように幕府による貿易独占を目指してはいなかったこと、
諸藩との情報共有もそれなりになされていたこと、開港条件に際してもかなり粘っていることは、
今日学界ではほぼ周知なんだがお前らどこの大学?

516:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 23:36:38.05 bal8aVMP0
士分と庶民の袖印で区分があり、守らなかったら処刑された話とか知らないんだね
東京招魂社も大村益次郎が「屠卒」は除外してるけど、
その先例は下関の桜山招魂場の「門閥の習弊を矯め、暫く穢多の者を除くの外、士庶不問」
と言う高杉の布告にあることも知らないんだろうか

517:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 23:43:09.30 tgpzSxq60
幕府ってのは徳川家の為の政権なんで国内が統一できない
だから日本の政権、誰もが認める天皇を頂点とした政権を作ろうと尊王論がでるわけね

518:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/01 23:49:32.66 Zr7U7H+50
>>516
それは怪しいんだよなあ。東京招魂社で屠卒に関する論争があったのは事実だが、
真偽不明じゃないか?だいたい良民の部隊に入隊を許可された時点で良民扱いでしょ
仮にそういう事例があったとしても、どうして分かるのかと言う問題がある

高杉のその発言は入隊時に「エタの者を除くのほか」と門前払いした奴が混同されてるんじゃない
まあそっちのほうがさらに酷いけどさ…

519:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/02 00:14:56.06 /9JaFnBq0
>宮内を迂回攻撃されて大野からも撤退してる。

これもしかして8月7日の戦闘じゃないの?
とすれば本荘停戦交渉や紀州の総督辞任騒動と全く関係ないけどw

7月末からの幕長双方の戦闘は相当の激戦になってるが、
28日には幕府歩兵が宮内に進出して占拠、紀州・彦根・幕府歩兵が大野に進撃、
長州は高所からこれを銃撃すると言う全く同じパターン。幕府海軍と紀州海軍が砲撃を加えたことで大苦戦に陥るが、
日没になったので幕府軍は引き揚げ。こっちは海軍の援護射撃つきだから普通に引き揚げ。

第2回の攻勢も幕軍からで、この2回の戦いで彦根藩は奮戦して幕軍は陣地まで構築して事実上占拠に成功したが、
やはり日没を迎えて長州藩兵が後ろに回る懸念があるからと、戦わせてくれと言う彦根藩を引きずるようにして退陣している。

第3回攻勢は連敗に危機感を覚えた長州藩軍が大攻勢を仕掛けたんだが、
台風が襲来して幕軍が凄まじい逆風に晒され視界がほとんど効かなかったために接近に成功している
ここでも奇襲にも関わらず幕軍がどんどん増援に駆け付け、見事に敗退している。
ところが明石を通って宮内の本拠を攻めた部隊は風雨で幕兵の視界が効かないのが幸いして
ここを制圧するのに成功し、せっかく大野にいた幕軍も後ろを取られたから引き上げざるを得なくなっている

一連の戦闘で長州も彦根藩の善戦を第一に挙げて評価しており、
緒戦の戦闘で相手との戦い方が分かった彦根藩は素早く軍装について指示を出し、
以後は旧式装備で、しかも高所を扼されると言う不利な状況でも対等に戦ってるんだよな。


520:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/02 00:20:23.07 /9JaFnBq0
芸州藩がこの段階で廿日市の幕軍と長州の間に入ったのも、
長州藩の領内乱入を警戒したと言うか、主に幕軍を止めてるんだよな。

と言うのはこの時は慶喜が陣頭指揮の意向を紀州藩に伝えたので、
早めに休戦状態を確定してしまわないと、慶喜出陣を控えてまた幕軍が出撃しかねないから

521:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/02 00:40:14.69 /9JaFnBq0
あとこれが残ってるか。
>>492
>そうだよ。だけど長州の場合は部落も農民も志願兵でしょ。

上述したけど、志願兵ではない。基本的に村方や非常民の纏め役に対して兵賦差出を命じ、
一定の集落に対して差し出すべき定員を示す。その上で志願のあったものを選抜するわけ。
もちろん「志願」は願い出で充足されればよいが、充足されない場合も多いため
その場合は代人を立てることになる。まあどこの幕藩でも行っていた方法だよ
例えば願い出によって身分上昇を期待する傾向が強かった非常民集落に対しては
「○○名以上の入隊は認めない」と言うように強く制限している(被差別民だけの部隊であっても)

>じゃなぜ弾左衛門が幕府や政府に繰り返し身分解放、醜名除去の確認を求めているのか説明してくれや。

>幕府のケースであって長州とは関係ないなそれ。
>ていうかそいつ代々続く部落利権のドンだろ、今で言えば松本や野中のようなゴミくず。
>そして彼らの主張は革製品や刑務などの独占産業を維持したまま、身分上げろというものでしかないな。
>そいつの血筋もサラブレッド。

だから、なぜ皮革業において独占的権益を持ち、幕府の機構の一部として「役所」と言う地位にすらあった大富豪が
自分の譜代之家来65名の平民取立、「手下の者」の醜名除去まで願い出てるのかと聞いてるんだよ。
弾左衛門は与力格で、松本良順も普通に先代を診察に行ってるくらい重んじられたが、
それほど政治的、経済的地位の高い弾左衛門が銃隊を創設してまで身分上昇にこだわったのはなぜだ?

どうでもいいけど明治政府は兵部省が皮革を納品する必要上、弾内記(弾左衛門)の力を借りざるを得ず
彼の要求をほぼ通してたんだよw ほぼ弾左衛門の代弁者みたいなもんだな



522:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/02 00:44:51.75 /9JaFnBq0
弾左衛門の要求は明らかに身分差別を前提としてしか考えられない要求だよ。
江戸で1,2を争う大富豪が身分引上を要求したのは、社会的差別を前提にしてしか考えられない
いくら事実上、浅草御役所と言う実態にあっても身分引上げが切実な望みだったんだよ。

523:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/02 01:25:14.90 /9JaFnBq0
茶筅隊事件は、3つの証拠が全て「第二奇兵隊二被召捕茶洗金作、富蔵ニ関スル史料」
に所収されているもので、確実なのは金作が上方に出奔していたことだけ。
ところがここで新撰組から入隊許可を貰ったと言う文書にはおかしな点があり、
慶応元年4月14日の日付と新撰組隊士の名前があるが、
このうち村井善三郎は隊士と確認できる史料がない。尾関弥四郎は文書中に言う摂津難波の屯所万福寺にはいない。
新撰組側の史料にも金作の存在はない。この村井善三郎が易者だと言うんだが、
この人物は隊士ではなく、隊士募集の取り次ぎをしていたか、もしくは実在しなかった人物。
この時期は新撰組が隊士の大拡張を行っていた時期だから、上方で身分上昇の機会を求めて出奔した金作が声をかけられるのは
特段珍しい事情でもない。

ところが金作は結局これに興味を示さず帰郷している。
金作自身が述べる通り「格外出精」が第一目的である以上、郷里の長州で屠勇隊結成が始まったので
新撰組に加わる動機が既にない。よって彼は慶応元年11月に隊結成を許可され隊則を作っている。
結成当初17名だった茶筅隊は4か月で40名に急膨張した。ここで第二奇兵隊が28名を一斉逮捕している。
この規模は明らかに首謀だけでなく、茶筅隊と言う隊そのものを狙い撃ちしたもの。

金作が目を付けられたのは、この「格外出精」=身分上昇を説いて隊を結成した点だな。

524:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/02 01:44:37.88 O3fnDde00
なお慶応年間には長州藩は文久年間と異なり、諸隊の設立の許可を厳しくする方向に転じている。
例えば桂は「みだりに諸都へまかりこし、勝手に農商兵を引き立てるのは厳重に禁止する」と言っており、
また藩令も「銃砲その他の技芸の師弟関係などにより私的に農商兵を取り立てる」ことも禁じている。

これがストレートに出たのが、自主的徴募を行い数百人と言われた小郡宰判の佐分利隊に対して
「軍制改正があったから農兵隊の結成は許可しない」と藩が通達し、布地を渡して解散させている。
軍制改革によって諸隊の自主性が著しく奪われ、それまで私的募集の追認があった庶民兵取立が厳しく制限されている

525:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/02 05:58:25.26 bAi1WHNO0
濡れ衣着せて暗殺 
テロリスト長州藩の面目躍如

526:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/02 06:33:01.52 HLUiAhP00
つまり6月19日、25日の戦闘では幕府軍が長州藩を撃退したがその後に茂承の辞任騒動で1回撤退
7月28日から再会した戦闘では幕軍はその間に大野を占拠した長州に対する攻撃
2回目3回目の戦闘では宮内、大野から長州藩を一貫して押しまくり、駆逐してるんだよな
台風に紛れて宮内への奇襲が成功するまでは

527:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/02 06:39:42.17 HLUiAhP00
あと19日の戦闘は高所から銃撃できた長州藩にも大きな被害が出て
幕府艦隊の砲撃におびえながら徹底してるのに対して、
28日から始まった幕府軍の攻勢は海軍の援護に守られてじわじわ長州側を消耗させている
8月7日の長州藩兵の攻勢も、暴風雨が幕府軍に吹き付ける形で接近に気づかれなかったからで
明石から進撃した部隊だけが攻撃に成功したために幕府軍が撤退せざるを得なくなった

この方面では緒戦でこそ負けたが、長期戦になるにつれ長州兵の戦い方に慣れて次第に幕軍が優勢になってる
幕府歩兵はこの一連の戦闘で飛躍的に強くなってる

528:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/02 07:08:57.90 HLUiAhP00
幕軍は7月上旬には紀州藩が一時撤兵状態になり、7月20日には家茂が逝去。
紀州藩と幕閣の対立も家茂に大きなストレスを与えたようで、
停戦交渉を聞いた9日に激怒し、翌日10日は食事を受け付けない状態になってしまい
病状が急速に悪化している。家茂逝去もかなり急な出来事で、この時点で征長戦は事実上終わっていたと言える

慶喜は宗家相続直後の27日に親征の意思を表明しているので、前線にいつそれが伝わったかは疑わしいが、
芸州口の幕軍の7月下旬の攻勢もあまり準備期間が取れないものになっている。
幕軍は8月20日頃に慶喜が芸州に到着して陣頭指揮を執る予定だった
(紀州藩の主攻は石州口へと変わり、慶喜自らが新補の部隊を率いて到着する)
ので、幕軍も攻勢には出たが、その頃の総攻撃を予定してあまり無理しなかったと思われる。

ところが幕軍が攻勢に出る直前の7月27日、小倉攻撃で熊本藩の来援要請を幕府海軍、小倉藩、
千人隊などが傍観したのが原因で激怒した熊本藩が解兵。小笠原が必死に諸藩を引き留めるが、
久留米、柳川、唐津すら撤兵してしまい、さらに小笠原に家茂逝去の急報が齎されて彼は急きょ上坂、
これに絶望した小倉藩が8月1日、城を自焼

小笠原から諸藩の解兵状況を聞かされた慶喜は一転して出陣を取りやめ、
芸州口の幕軍は予定していた第2次攻勢をすっぽかされてしまった。


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