11/10/22 23:22:46.65 lowYP5m70
>>358
美祢市の史料は、地元の記録と奇兵隊の記録が照応する(両方から裏を取れる)
一例を示しただけで、奇兵隊が仰せ付け、もしくは願い出と言っても徴兵に近い形の隊士募集を行っていたのは事実
事実上の徴兵の中ではっきりそう確認できる一例を示しただけだが。
>>359
それは西郷隆盛の主観であって、事実ではないね。
しかし鳥羽伏見戦争では新政府軍5000、幕府軍は8000と言うところ。
現実には1対10なんて兵力差を士気の差で覆した例は…
戊辰戦争の「戦闘」ではなく「戦争」レベルでは、存在しない。
>江戸時代では軍事システムが長い太平のため軍事的合理性とは関係ない非合理的な理由により
>権威をもってしまい、幕末になっても軍事改革には抵抗が付きまとった。
>しかし、長州は攘夷を梃子にそのような抵抗を一掃し幕府より、より過激に軍事改革を行えた。
抵抗を一掃して過激に軍事改革を進めれば一騎当千の強者が出来上がるなら苦労はない。
長州藩は士気、装備、組織、訓練の総合体で軍事力を高めたのであって、
君の議論は士気のみを論じ、装備、組織、訓練の要素を等閑視している。
そんな精神主義的な議論は太平洋戦争の御前会議でやってくれ。
常識的に考えても、幕長戦争は長州に原因を求めるより、
客観情況および攻める幕軍の側に原因を求めるほうがはるかに説明しやすい。
家近良樹は戦争の帰趨を決めた要因として、完全にそのような常識論に立っている。