なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2at HISTORY2
なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2 - 暇つぶし2ch267:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/20 19:12:29.74 qJV8EKY30
江戸時代の基盤があって日本は成功した。
生活水準は当時のヨーロッパと変わらないし質は上。
ヨーロッパは18世紀に寒冷化と飢餓とペストがあり人口停滞。
日本は江戸時代に入り18世紀寒冷化。
ヨーロッパが富強になり人口が増えるのは産業革命以後。
岩倉使節団もヨーロッパ各国の文明富強を目撃をすれば、ヨーロッパが元から商利を重じ固有の物と思うが違う。
ヨーロッパが今日の富庶を見るのは、1800年以後の事でわずか40年前であると書いてる。

268:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/20 21:16:44.86 GaTRnXgK0
>>263
肥後藩だけでも上回っていないか?

269:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/20 23:37:37.14 Uy26qxDH0
一応当時の幕府海軍はアジア最強の海軍だったはずだからな。
長州征伐で戦果を挙げられなかったのが悲しい。

270:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 00:20:58.82 UKW5NgZK0
>>264
そういやそいつはその功績で老中になったんだったな忘れてた。
>>267
江戸時代は戦国時代の恩恵で続いていただけ、
むしろ世界有数の大国だった日本を落ちぶれさせたのは幕府。

>>263
大半はミニエー銃だったと思う。これが二万丁くらいあり、
ほぼ全ての歩兵が携帯していた。スナイドル銃やスペンサー銃もそれなりにもっている。
ただし戊辰後期の話だけどね。
四境戦争の頃はまだまだミニエーだろうね。

271:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 00:23:59.56 wtlU9ixc0
当時の軍艦の大砲の射程や威力、絶対数と火力はたかがしれてるでしょ。
幕府艦隊が味方地上軍を艦砲射撃で援護してもどれだけ陸戦に寄与できるか。

272:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 01:09:06.64 co+Uh1VM0
>255
>50年に一度の大飢饉、数十年に一度の飢饉です。大飢饉は数年から長いときは10年近く続きます。(種籾もなくなるから)
>だから人口が減っているわけですよ。

私がお伺いしたのは、江戸時代ではなくそれ以前の戦国期・室町期・鎌倉期、それ以前の飢饉の頻度なのですが?

それらの正確なデータが出てこないことには、江戸期との比較など出来ませんよ。
何度もいいますが、江戸期には全国的にくまなく行政が行き届いたがゆえに信用性の高い正確なデータが残っています。
それに比肩しうる正確なデータが残っていない限り、妥当な「戦国期と比べて」とか「鎌倉期と比べて」とかの
それぞれの政権が採った政策の比較評価は出来ないと申し上げているのです。

>江戸初期にしても戦国時代の恩恵で増えていただけです。

なにをもって「戦国期の恩恵」と断言しうるのか、その根拠の方をお伺いしたいですね。
自説に都合の良いことは「戦国期のおかげ」、都合の悪いことは「幕府のせい」と
単純に盲信しているだけのように思えますが。

>自国の農民から収奪するのと、他国の農民から収奪するのとでは他国から収奪したほうがいいですよね?
>自国の民を養う為に他国から奪うのは当然でしょう。自国の民を餓死させるのがよいと?

意味不明。
北朝鮮の指導者様じゃあるまいし、そんな乱暴が許される社会状況とそうでない社会状況とを
ごっちゃにするのはそもそも認識不足です。

戦国時代に「飢えるから他所から奪う」という行為が存在したのは、「飢えた隣人から襲われる」
というリスクと隣り合わせのモノだったということをお忘れ無く。

「米がなければ泥棒すればいいじゃない」とお気楽にのたまうのはあなたの勝手ですが、
多くに人々は「いつ襲われるか分からないんじゃ安心して生活できない」という実感が
強かったからこそ幕府による安定した政治が受け入れられたのです。

「他所から奪えばいい」という論理を支持する人々が多かったのなら、戦国時代はもっと長く
延々と続いていたことでしょうよ。

>藩には毎年の借金の支払いがあるんですよ。参勤交代と江戸滞在もね。
>免除になった事なんて江戸時代通じて殆どない。

無知乙。
病気だのなんだのの理由を付けて、参勤の免除を申し立てた事例などいくらでもありますよ。
2年に一度を3年に一度にするとか、1年在府しなければいけないところを半年だけにしてくれとか。
単にあなたが勉強不足なだけでは?

>どこの藩の話ですかそれは?

天明の大飢饉:上杉鷹山:松平定信、適当にググって下さい。
これら「名君」と呼ばれた大名の治績は幕府から称揚され、多くの大名が参考にしています。

>戦国時代のように農村が独自に自衛している時代じゃないんですから、お上には逆らえません。

まるで戦国時代は農村が自衛していたから守護大名からの無理難題を退けられたとでもいわんばかりですね。
手前勝手なことを主張する農民のクビなど、簡単に撥ねる事の出来たのが戦国時代なんですが。

>戦乱でありながら人口が五割も増え、江戸中期以降完全な停滞なのに、何を言っているんですか。

1200万が1500万に、50%増というのは少々過大評価では?
25%増がいいとこでしょう。
1500万が3000万は、完全な倍増。100%増です。
増加率でいえば4倍ですね。

273:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 01:37:28.59 co+Uh1VM0
>256
>>そうでなければあっという間にのたれ死にでしょ?
>実際そうですけど?

そのわりに、幕末の志士と呼ばれる人々は割と気楽にあっちに行ったりこっちにいったりという
行動を取っておりますけれども。
のたれ死にと背中合わせというのであれば、あんなにも長く(人によっては5年とか10年とか)、
長距離の移動を行い続け得るとも思いにくいのですが。

金を送金して貰う当てがあったり、蓄えがあったからこそのことだと考える方が自然ですよ。


>特権階級が裕福に暮らして、庶民から収奪していた時代を富を再分配していた、すばらしい時代とか、
>とんちんかんな事いうから批判しているんですよ。

ですから、実際に富の再分配が相応に行われており、一部の大商人や豪農などが富裕な生活を
行っていても、その余録にあずかれる庶民が相応にいたという事実を申し上げているのです。

一部商人が富を独占し、それ以外の農民が餓死寸前で生活していたり、切り捨て御免の特権を
武士が行使していて町民があちこちでバッサリ斬られてばかりいた、などという世迷い言を
あなたが言っているから批判しているんですよ。

>ありませんね、そんな話は。なら枚挙してください。

間宮林蔵、最上徳内、勝海舟の祖父、榎本武揚の父、川路聖謨など。

貧乏人でもこつこと働いて小金を貯めたり、仕事が出来ると認められた人間であれば、
御家人の家に養子に入る(こういう戸籍上の操作を行い事を「御徒の株を買う」と言います)
ことを通じて御家人になれました。

後世に名前が残っているだけでもこれだけ居るんですから、数万と言われた江戸の御家人や
諸藩の陪臣まで含めれば相当数が居たと推測しても間違いではないでしょう。


>間違いですな。そのまま継ぐのが普通です。商家の跡取りは飲む打つ買うと遊び放題ですよ。
>そうやって人脈を作って、家を継ぐわけです。江戸時代はコネと賄賂の時代。
>どうせ独占企業がやっているので、経営もクソもありません。東電が潰れないのと一緒です。

単なるあなたの思い込みですね。
史料の提示をお願い致します。

>それはその日暮らしのぷータロー。

そういう人間が太平楽に暮らしていけたのならば、それで充分に幸福な社会でしょう。
現代の価値観で当時の人々の処世方を批判するのは僭越というモノですよ。

274:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 02:56:29.68 co+Uh1VM0
>257
>江戸の男女比は7;3から、8;2さらの女の数割は女郎とかだったりするので、
>実際の既婚はさらに減ります。

それは前期から中期までの話。
徐々に定住層が拡大していくことで、幕末までには男女比はおおよそ10:9くらいの
割合になっていきます。


社会実情データ図録 「江戸・大阪の町人人口と性比(江戸時代)」
URLリンク(www2.ttcn.ne.jp)

「ところが、こうした状態は江戸時代を通じて変化した。
江戸時代末期の江戸では、ほぼ性比は100、大阪でも100に近づいている。
すなわち男女のバランスはとれていったと考えられる。
江戸については、奉公人人口比率が江戸時代末にかけて大きく低下し、
奉公人が雑業者層に代替されたからである。
大阪においては商家を中心に奉公人が多かったが、女子奉公人、
都市内婚姻の増加が想定される
(斎藤修「江戸と大阪―近代日本の都市起源」、図録7855参照)。」


東京都の統計
URLリンク(www.toukei.metro.tokyo.jp)
付録 *「江戸の人口について」*
URLリンク(www.toukei.metro.tokyo.jp)
「この記録された町人人口の推移をみると、享保年間から幕末まで、総数は大きく変動し
ていないが、女子の割合は次第に増え、幕末には男子とほぼ同数に達した。これは、江戸
へ移住した者が一家を成し、郷里から母や妻を呼びよせたり、妻帯したりする場合が多く
なったこと等が一因と考えられている。」


歴史的に見た日本の人口と家族
URLリンク(www.sangiin.go.jp)
「上記人口を見て気づくのは江戸中期における男女比の異常である。享保6年の男女比は
男100 に対し女55 であり、当時の江戸が異常な「男性過多」社会であったことがわかる。
天保14 年は89 となっており、男女比は均衡しつつあるが、いずれにせよ男性の流入民に
より人口が増大してきた江戸の性格がここに示されていると言えよう。」

275:263
11/09/21 02:59:09.91 zwp0KPhL0
>>268
アームストロング砲ももっていました。

>>269
宝の持ち腐れ。

>>270
そうでしたか?

276:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 03:28:40.45 co+Uh1VM0
>258
>>この場合は軍事力というよりも、「長州征伐」という軍事行動
>既にライフルを装備し高い士気と優れた戦術要していた長州軍と
>旧式装備で戦術も稚拙、士気も低いと軍事力に如実に差があります。

装備していた銃器の質に関しては、前々年の禁門の変、前年の第一次長州征伐時には
長州側も装備していなかったわけで、この短期間でこれだけの軍備を調え得た
長州側の方が異常だったと言うべきでしょう。

士気の低さに関しても、やはりその原因はもっぱら政治的拙劣さに由来すると言うべきです。
現に幕府歩兵は長州に匹敵するだけの装備を持っていました。
『長州戦争―幕府瓦解への岐路』
『幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団』

総じて、第二次征長戦争における幕府の敗北に関しては、軍事的側面よりも
政治的拙劣さに多く拠っているように思います。

>欧州では戦争により行政や財政の効率化がおこり、植民地貿易により富を獲得し、それを
>投資し産業革命が起こります。幕府の鎖国政策はどちらもの芽も摘んでしまい

欧州で起こった産業革命は、それこそ人類史におけるある種の奇跡と言っても過言ではないでしょう。
幕府がその政策を変えていたとしても自然発生的に自国内で産業革命が起こった訳はないし、
うかつに国を開いて技術を取り入れようとした場合には、西欧列強につけいる隙をあたえてしまい、
植民地化される恐れとても充分にあったと思います。

攘夷意識という対外的な強烈なアレルギー反応が起こったからこそ、そうした危機を回避する
エネルギーが供給されたと考えることも可能でしょう。
不平等なモノとはいえ、穏便な形で条約を取り結ぶことが出来たのも、冷静な対外認識と
危機意識とが幕府を動かしたからだと思います。

少なくとも、長州や薩摩があの時点で政権を取っていたら、無謀な攘夷戦争を仕掛けて
清におけるアヘン戦争後の半植民地化を強いるような条約を結ばされていたと思います。

277:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 03:29:14.09 co+Uh1VM0
>258
>大開墾時代であった17世紀と打って変わって18世紀から19世紀の停滞を生んでしまいます。
>特に人口を見ればあきらかです。故に後半の幕府は個人的に評価が低いのです。

このような意見をネット上で見つけました。
ご一読下さい。

東京都統計協会
トピックス 「江戸の人口停滞と近代への胎動」
URLリンク(www.metrosa.org)

2 大開発の時代と人口の激増

江戸時代の前期に人口が激増した要因について、「参勤交代や明暦の大火を重視する見方」と、
「耕地面積の拡大を重視する見方」があります。
前者の見方は、参勤交代により、全国の諸大名が強制的に江戸に居住させられたため、
また、明暦の大火後に、江戸の拡大が進むと同時に、大火後の復興景気を当て込んで、
大勢の商人が江戸に進出したため、商業が活発になり江戸に人口が集中したと考えます。
なお、この江戸の拡大の過程で、いわゆるドーナツ化現象が発生したことが当時の記録に
残っています(甲斐庄正親「御役人代々記」1673~1704年)。
後者の見方は、江戸時代前期は、大開発の時代といわれるほど、全国的に新田開発が行われ、
農産物の生産量が飛躍的に増えた結果、出生率が上昇し、農村で過剰になった人口を都市が
吸収したと考えます。いわば高度経済成長と同様にみなすのです。
これら発想の異なる考え方は、多角的な視点から観察や分析することの必要性を思い起こさせてくれます。

3 人口の停滞と少子化・晩婚化

江戸時代の後期に人口が停滞した要因についても、「飢饉の頻発を重視する見方」と、
「出生率の低下と晩婚化を重視する見方」があります。
前者の見方は、小氷河と呼ばれる気候寒冷化により凶作が頻発したり、大地震や富士山・浅間山の
噴火など相次ぐ自然災害により飢饉が頻発したため、人口が停滞したと考えます。
後者の見方は、大開発の時代が終焉して、耕地の拡大が鈍化するとともに、文明が成熟して、
出生率の低下と晩婚化が起きたと考えます。
つまり、女子は、早く結婚してたくさんの子供を生む必要がなくなって、商家や武家へ奉公に
出るようになり、少子化が始まったのです。
人口停滞は、耕地開発の鈍化に対応した、豊かな生活を維持するための、意識的な出生抑制の効果で
あるとみなすのです。
こうして総人口の増加がストップした結果、高齢者の比率が上昇して、高齢化も進みました。
そのうえ寿命(平均余命)も伸びたと考えられています。このあたりは、現代における経済成長の
鈍化と少子高齢化の関係と似通っています。

278:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 03:49:27.59 co+Uh1VM0
>259
>日本も不平等条約を結ばされ国内に外国人居留地ができています。

清がアヘン戦争の敗北後にイギリスの武威によって強制的に結ばされた条約の内容と、
幕府がそのイギリスが要求するであろう過酷な要求を退ける目的でアメリカと結んだ
条約とでは、そもそもその「不平等」の度合いが根本的に違います。

>それらから植民地にならなかったのは新政府による近代化が成功して条約改正して
>取り返したからです。つまり日本も一度負けているのを取り戻したわけですよ。

違います。
そもそも幕府が条約を結んだのは1859年。
新政府が誕生する10年も前です。
では、新政府が条約改正を勝ち取るまでの間は日本は植民地になっていたかと言えば、
そんなことはありません。


>賠償金は新政府が引き継いで財政、徴税制度の近代化を行い返済しています。

分割返済ということを認めてくれたからこその話で、強引に領土の割譲や
租借を押しつけらてしまっていた可能性だって皆無ではないのですよ。


>そもそも賠償金が膨らんだのは幕府による政治戦術により兵庫港の延期させた
>ことも一因ですし。

幕府がそういう戦術を採らざるを得ないまでに追い詰められたのは、
もっぱら長州を中心とした破約攘夷を唱えていた急進的な排外主義者たちの
ためなのですが。

279:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 04:00:27.82 co+Uh1VM0
>260
>>変化への対応の遅れを「絶対悪」のようにして批判するのもどうかと思います。
>少なくても対応できなかった以上高い評価は与えられません。もちろん欧州と比べて
>であって、非欧州国では優れた対応と認識しています。

欧州で起こった体制変革・義塾革命は、それこそ人類史の中で特筆大書するべき
特異な出来事であって、それに対応できなかったことを指して非難するのは、
あまりにも「後世の視点」から当時を断罪するという部分が強いように思います。

それまでの数千年の人類の歩みの中でも、まったく未知な出来事が起こったのですから。


>小さな政府はその記事にも書いてあるように「政府の市場への不要な介入を最小限にすることを目指す。」
>ですから鎖国を行っている幕府は小さな政府とはいえないと思います。

鎖国を行っていても、「国営事業の民営化・私企業化」「国有資産の売却」は可能なのではないでしょうか?
海外との貿易を禁止していることを指して「規制の撤廃」をしていない、とは言いうるでしょうが、
大筋においては幕府の施策の大部分は「小さな政府」を目指したものと言って良いと思います。

そして、その「小さな政府」を実現するためにも、鎖国という経済活動上の大枠を維持することは、
「必要な介入」だったと判断したのだと思います。

280:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 04:22:47.64 co+Uh1VM0
>261
>>18世紀と21世紀とを同列に比べる?
>鎌倉時代と江戸時代を比べている人に言われても困りますがw

<221>
>それ以前にも飢饉は存在しますが規模が違います。
>また江戸時代の飢饉はただの気候変動などよりも、行政のミスにより起こったものです。
>また飢饉の記録は存在します。養和や寛喜の飢饉などは有名です。
>それぞれ方丈記や吾妻鏡などに記録がのこっております。

先に鎌倉時代の話題を出してきたのはそちら様だったように記憶しておりますが。


>>どちらの方が「劇的」と形容されるべきでしょうか?
>戦国時代ですな、江戸時代は中期以降から全く増えてませんから。
>増加率で見ると低いです。初期だけは戦国時代の恩恵で増えただけです。

>277 をご参照下さい。
人口の停滞を悪政のみに由来すると見なすのならば、1億2千万をピークに
人口が減少に転じた戦後の日本も相当酷い時代だとご認識なのでしょうね。


>>何度も言うけど、「記録に残っていないだけ」ってことは考えないの?
>史料にも存在しない事を言われても困りますな。

ですので、江戸期以前の正確な人口動態を記録した史料を出してきていただきたいと
申しているのですが。

そうした史料抜きに一方的に「甚大な被害を出した飢饉は江戸時代ばかりで起こっていて
それ以外の時代ではあまり起こっていない」という発言には説得力がないと申し上げているのです。

281:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 04:23:31.76 co+Uh1VM0
>261
>>天明の飢饉などのように周辺の領地一帯でも膨大な犠牲者が出るような大規模な飢饉だったら
>飢餓輸出をしてもお咎めなしという事ですね。13万もの人間を殺しておいてね。
>周辺の藩も同じ事、幕藩体制に殺されたわけですから。

江戸期に養い得ていた人口を3000万人程度。
戦国期に養い得ていた人口は1500万人程度。

差し引きで考えれば、戦国期は江戸期に比べて1500万人程度を殺していた、とも言えますね。
3000万人生存することが可能な国土において、1500万人しか生かせなかったのですから。

一方に3000万の貯蓄がある人があり、もう片方に1500万の貯蓄しか無い人がいるとして、
前者が100万の損失を計上し、もう片方は損失が無かったとしても、保有する可処分金額は
前者が2900万、後者はやはり1500万です。

どちらの方が「フトコロが豊かだ」と考えるべきなのでしょうかね。

>>ほぼ一様に、武士階級に属する人々の礼儀作法や立ち居振る舞いの美しさを賞賛し、
>非生産的な事しかやっていなかった事例ですね。
>礼儀とかいって無駄な作業ばっかり増やして、無駄な仕事を作る、まさにお役所仕事。

その武士層が、対外的な外交交渉を巧みに行ったおかげで植民地化の危機を免れ得たのであり、
西欧列強の持つ先端技術や知識の速やかな消化吸収が可能になったのですけれども。

知識と教養を身につけておくこと、そういった積み重ねが非常時にどれほど役に立つのかに
ついて、ご理解いただけないというのはとても残念ですね。
そういった教養層を培養しておかなかった他の非西欧諸国がどうなったのかについても
少しは知識を身につけていただきたいものです。

282:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 19:20:09.41 3knOqADW0
江戸時代の天下泰平の功、特に流通路の拡大と商業の発展は評価しても良いと思うが。

>>271
関門海峡で部隊移動や補給を寸断できれば、かなり効果があったと思われ。
まぁ砲台も再建されてたらしいから注意が必要だが。
ただ、赤坂沖まで長州藩艦隊の進出を許してるのは明らかに怠慢。

>>273
男谷検校は富農だったろ。武士株が小金で買えるほど安かったとは思えんが。
累積した借金とかも相続することになるんだし。
ただ武士株は有名だし、低い身分の者が才や功によって取り立てられた例もあることは間違いない。
前者は結構な数が居そうだが、後者はジョン万次郎とかの例もあるにせよ
それほど数は多くなさそうだが。
そういう人は、抜擢理由の能力や功績によって大体史書に名を残すから。

>>278
兵庫港開港問題については、破約攘夷派は余り関係ないぞ。
これの最大の壁は孝明帝。

>>279
最後の方、問題は鎖国か否かではなく、市場への介入の方じゃね
あの頃はむしろ専売制の強化で民営化とは逆に向かってた様に思うが。
極一部の例外を除いて諸藩もそう。
あと庶民も含めた倹約令も経済統制の一種だな。
小さいか大きいかについての論争はお任せします。

283:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 20:05:46.68 UKW5NgZK0
>>272
>それらの正確なデータが出てこないことには、江戸期との比較など出来ませんよ。

大規模な飢饉が起きていれば記録は必ず残る。おきてないから記録には残っていない。
そういう事、江戸時代なみの頻度で飢饉が起きていたと主張するなら、飢饉の記録持ってきて欲しいね。
というか君は相手にソースを求めるだけですね。
江戸時代以前は飢饉の記録がない比較すべきではない→私が飢饉の記録をだす→いやまだ飢饉が頻発していたが記録が残っていない可能性がある
大規模な飢饉が起こった場合、飢饉の記録が残っているのは証明しました。
なのにもっと頻繁に起こっているはずだ(根拠なし)と主張されてもね。悪魔の証明は出来かねます。

>なにをもって「戦国期の恩恵」と断言しうるのか、その根拠の方をお伺いしたいですね。

明治期の成功を江戸時代の恩恵とか意味不明な事を主張している貴方がそれを言いますかw

戦争しまくっていた時代は何気に急速に発展するものです。でないと他国に食われますから。
欧州が発展をし、アジアが遅れたのは戦争をしていたか、していなかったかの違いでしかない。
二期作や三期作が全国的に広まったのはこの頃で、鉄製の農具や土木などが全国的に普及しだしたのもこの頃。
灌漑設備などが整って、人口が爆発的に増えたんだよ。
江戸初期は比較的温暖であったので、これに拍車をかけた。
江戸幕府がなにか農業、農法の改革をしたから増えたわけじゃない。
幕府にイジメられていた外様諸藩が収入が足りないから、必死に開墾していただけ。

>多くに人々は「いつ襲われるか分からないんじゃ安心して生活できない」という実感が

だからこそ農村はある程度の自治権をもっており、自分らで武装していました。
だから領主が増税といっても簡単には受け入れません。反抗する力を持っていましたからね。
だけど江戸時代になると、兵農分離や領主に敵がいないので、好き勝手できたのですよ。
そして食わせられないなら、他国で略奪をするというのは悪い事ではないですよ、
食わせられないから、餓死させてしまったよりもね。

>「他所から奪えばいい」という論理を支持する人々が多かったのなら、

だから最終的に徳川が全国から奪って言ったんですよ、富をね。
参勤交代や江戸滞在などで諸藩の富を奪い、都市部で消費させ、
商人からは屋敷の大きさや、株などの特権に応じて金を取るという方法でね。

>病気だのなんだのの理由を付けて、参勤の免除を申し立てた事例などいくらでもありますよ。

殆ど認められてません。天明の大飢饉クラスがおきて初めて認められたくらいで、
それも次の年からは参勤交代を強制されています。どの藩も江戸時代を通じて数例もないですよ。
250年間でたった数例です。

>これら「名君」と呼ばれた大名の治績は幕府から称揚され、多くの大名が参考にしています。

レアケースである事にかわりませんな。それに上杉庸山は天明の大飢饉ではかなりの餓死者をだしてます。
その前の宝暦の飢饉でもね。数千から万単位のね。
殆ど出さなかったのはその後の天保の大飢饉です。このときには庸山はもう死んでます。

>手前勝手なことを主張する農民のクビなど、簡単に撥ねる事の出来たのが戦国時代なんですが。

江戸時代に比べて、領主の村の力関係に差は小さいですよ。そして戦国時代にも法はありますし、
それにそって行われるので、無茶苦茶な事はできません。

>1500万が3000万は、完全な倍増。100%増です。

かかった時間は計算に入れないのですかね?江戸時代は260年あるわけですが?
そして江戸初期は戦国時代と違い、温暖な気候です。それで人口が増えただけですな。
戦国時代のように寒冷化すると人口は増えてません。

284:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 20:57:12.24 UKW5NgZK0
>>273
>そのわりに、幕末の志士と呼ばれる人々は割と気楽にあっちに行ったりこっちにいったりという

気楽に?命がけですが?志士が気軽に移動していたとか笑える話ですね。

>金を送金して貰う当てがあったり、蓄えがあったからこそのことだと考える方が自然ですよ。

藩の金で動いている人はそりゃ裕福でしょうな。で?それが何か関係あるんですか?
送金?当時にそんな金融システムはないですよ。
伊勢参りは一生に一度というもの、一生かかって貯めれば一度は旅行できるかもねって話。

>その余録にあずかれる庶民が相応にいたという事実を申し上げているのです。

それは富の再分配とはいわんよ。金持ちが道楽をしてそれで景気が良くなった事は再分配とは言わん。
税などによって再分配しないとね。当時は商業活動に対しての税金などないよ。
特権組織である株仲間からの上納金や、土地に応じての税金はあるけどね。
そして貧民に分配していたわけでもない。あくまで武士の給料になっていただけ、ただの収奪行為。

>一部商人が富を独占し、それ以外の農民が餓死寸前で生活していたり、切り捨て御免の特権を

私は切り捨てごめんがまかり通っていたなどとは主張してませんが?
勝手に人の発言を作らないように。ただ前者は事実ですな。
一部の特権商人が富を独占して、農民は餓死ですよ、いや町民もかな。
飢饉が発生したら、米価が高騰し都市部でも餓死がごろごろ出ます。
その為打ち壊しなどが多発したわけですから。
蔵元や札差は投機目的で米を扱い莫大な利権を上げました。
新規参入などは基本的にできない特権商人ですね。

>間宮林蔵、最上徳内、勝海舟の祖父、榎本武揚の父、川路聖謨など。

全員違いますね。貧乏人が金をためて、株を買って株仲間に入って巨利をあげたケースを聞いているんですよ?
なに話を変えているんですか?
その武士になった人達もとても珍しいから有名になっただけなんですがね。

>単なるあなたの思い込みですね。史料の提示をお願い致します。

江戸マンセーの杉浦さんだって言っているでしょう。若旦那=遊び人で問題ないんですよ。
ていうか若い頃からむしろ率先して遊び人であることが求められます。
江戸時代はコネの時代、そうやって一緒に遊んで金使って人脈作るのが若旦那の仕事です。
店の経営は番頭の仕事です。
落語とかでも若旦那は何時も道楽者でしょ?なんでそうなのか少しは考えて欲しいものですねえ。

>そういう人間が太平楽に暮らしていけたのならば、それで充分に幸福な社会でしょう。

だから暮らしていけないわけですが、正社員になれるのは親が正社員の場合のみ。
それ以外は一生派遣です。
江戸時代は職業も管理されていた社会で、外部の人間が新規に入れるところは決まっています。

285:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 21:29:54.70 UKW5NgZK0
>>274
>徐々に定住層が拡大していくことで、幕末までには男女比はおおよそ10:9くらいの

嘘ですね。中期以降では都市部の人口が減っただけです。
つまり余剰人員を養う事が出来なくなっただけです。
鬼頭さんの研究じゃ100万人くらい三都で人口が減ってます。
ここにも少しのってますね。人口の推移が。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
江戸時代は身分社会、身分についていないと職という食い扶持はありません。
実力でその身分を勝ち取れる人がいないわけじゃないですが、
(丁稚から番頭に成り上がったり、養子などで跡取りになったりね)
その身分という枠に入らないと暮らせません。中期以降はその身分以外の人間が死に絶えたという事です。
家族を持てるのは、その身分をもてた人達だけです。
たとえば番頭まで出世しないとまず結婚できません。
つまり出稼ぎにきていた労働者は定住などできずに野垂れ死にして、人口が減り、
人口の流入も減った為、男女比が均等化したという事です。
最盛期には武士も合わせて100万とも200万とも言われていた江戸ですが、
明治の正確な人口統計では80万人しかいません。
これはつまり、中期の人口が嘘か。後期に大幅に人口が減ったことを意味します。
武士分を除いてもほんと少なくなっています。武士という消費者でもっていた社会が江戸なんですよ。

ちなみに貴方が持ってきたものにも、かかれてますが、既婚男女がとても少ないとなってますね。
つまり子供をもち家庭を持っていた人が少なかったのですよ。

>>278
何が何でも幕府が悪くないと言いたげですが、そもそも下関の賠償金など払う必要などないんですよ。
列強が求めたのは開港であって、賠償金は開港しないなら払えというものです。
そして幕府は愚かでしたので、賠償金を選びました。
そして案の定払えなくなり、借金の返済の延長の変わりに開港することになります。
はっきりいって馬鹿です。元々払う必要のない借金を払う事になったのは幕府の失政です。

そして新政府は幕府の借金を引き継いだら、前倒しで借金を返済しておりつけ入る隙を与えていません。
これ一つとっても幕府の無能と、新政府の有能さが際立って分かります。

286:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 21:45:21.63 R5OLPBjL0
幕末幕府の対外外交の失策と、江戸時代の統治はまず別だわね。
江戸時代は独力で産業革命前まで発展してた。
ヨーロッパが人口増えるのも産業革命以後。
イギリスの場合1800年代まで1000万も人口なく、1900年代で4000万まで増える。

幕府は米国の脅しに屈し、不平等条約を結ばされ、金流出が起こり急激なインフレになり倒幕された。
幕府が結んだ不平等条約は、領土割譲以外などは阿片戦争で清が結んだ条約と大して変わらないしね。
ペリーが開国を迫り戦争すると脅した時、吉田松陰など先覚的尊攘派は国内一致で当れば逆に戦争にならないと相手の手の内を見透かしてるしね。
幕府は国内をまとめられなくなり、武権として対外能力が衰えたから座から下ろされただけ。

287:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 22:00:11.37 7MuHlbsV0
まー藩士がお役目や許可なしに藩外を出歩くことは出来ん罠。
それなしだと脱藩するしかないし、無許可でそれをすれば、甘いので有名な長州藩でも
士籍家禄の剥奪ぐらいはされてたね。吉田松陰とか。江藤新平なんかは永蟄居。
ちなみに脱藩後は、方々で講義とかして旅費を稼いだ例(吉田松陰とか)、
豪商や豪農のパトロンを得た例(白石正一郎とか)、他藩の庇護を得た例(高崎崩れとか高見弥市とか)
などがある。一般的なのは吉田松陰の例かな。脱藩した後、塾を開いた頼山陽とか。

ちなみに新撰組は、幕府の許可を得た浪士組として上洛してる。

288:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 22:03:54.14 UKW5NgZK0
>>280
>先に鎌倉時代の話題を出してきたのはそちら様だったように記憶しておりますが。

話をそらさないで下さい。
鎌倉時代をだしたのは、お前さんが江戸時代以外の飢饉の記録は残ってない。
などと電波を飛ばしたからです。私が江戸時代以前でも飢饉の記録は残る事を証明しました。

そして貴方は鎌倉と江戸時代では人口が違う、人口比で被害が違うと主張しました。
なので私は人口比なら、今100万の餓死者がでても人口が江戸時代の四倍だから、被害は小さいのかと反論すると、
貴方は時代が違えば出る被害が違うのが当然といいました。
それに対して私は、なら鎌倉時代に比べて社会が江戸時代のほうが発展しているのだから、それを指摘するのがおかしいと指摘しましたら、
この答えですよ。貴方の理屈なら江戸時代は鎌倉時代に比べても餓死は減ってないといけない。
けど江戸時代のほうが規模も頻度も明らかに増している。

>人口が減少に転じた戦後の日本も相当酷い時代だとご認識なのでしょうね。

平成の今の世がいい時代だと思っているんですか?自民党が問題を先送りにし、
民主党によって日本人虐殺されている、といってもいいくらいなのに。

>それ以外の時代ではあまり起こっていない」という発言には説得力がないと申し上げているのです。

何を言っているのやら、私は江戸時代は飢饉が多発したと主張しています。
そして記録などをみてもそれは明らかです。
それに対して貴方は、鎌倉時代にも飢饉が起きたかも知れないが、実は史料が残っていないのだ、
だから私に鎌倉時代の餓死の史料を出せといっているんですよ。
どっちに提出義務があるのかくらい考えて欲しいですね。
私の主張を否定したいなら、江戸時代以上に飢饉が起きたことを史料を添えて証明しなさい。
なんで私が存在しない史料を探さないといけないんですか。
江戸時代の飢饉の記録ならだしましょう。大飢饉といわれるものだけで、
寛永、延宝、元禄、享保、宝暦、天明、天保 ほかにも私が知らない小規模な飢饉はあるでしょうね
まあ小規模といっても万単位は餓死しているでしょうが。

でこれくらいの頻度で数十万単位の大飢饉が発生した事がかつてあったんですか?

そして明治になると爆発的に増加しますよね?

>>281
明治になると50年ほどで人口は倍になりました。
なら明治政府と違って、幕府は3000万人ほど殺していたという事ですね。

289:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 23:33:18.50 FOGTt9Tl0
>>287
長州の甘さは異常。高杉晋作は6回か7回脱藩しているけど怒られたのは3回目だけだしなあ。

290:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/22 00:20:44.06 NGl1J7uF0
なんだ?徳川幕府時代が悪かったというなら
戦国時代の豊臣政権が続いて豊臣幕府かもしくは織田信長が殺されずに天下を取って織田幕府のほうがよかったのだろうか?

291:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/22 00:27:57.58 D8NkyjKv0
馬鹿は口はさまない方がいいと思うぜw
俺も含めて。

292:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/22 06:14:19.69 B+5CyHIz0
38のソースは・・・・・。

293:194
11/09/22 20:01:17.63 M6W05vJB0
>>262
諸藩は軒並み財政が悪化してましたのでもともと士気が低くかった。
幕府軍は確かに海軍に関しては長州より優勢でしたね。失念していました。
陸軍に関してはライフルは導入中という記述を見たので、オールライフルの長州と比べて
劣っていると評しました。


294:194
11/09/22 20:52:53.88 M6W05vJB0
>>276
>士気の低さに関しても、やはりその原因はもっぱら政治的拙劣さに由来すると言うべきです。
>現に幕府歩兵は長州に匹敵するだけの装備を持っていました。
>『長州戦争―幕府瓦解への岐路』
>『幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団』
その二つの書にも書いてあるように、長州軍は志願兵でしたけど、幕府歩兵は嫌々ながら
徴集されてましたから。

>総じて、第二次征長戦争における幕府の敗北に関しては、軍事的側面よりも
>政治的拙劣さに多く拠っているように思います。
政治的拙さでいえば当事の長州の方が追い込まれているのですよ。
長州・・・朝敵認定をくらい官位を剥奪され、同盟軍は薩摩だけ。
幕府・・・長州征討の勅許えて、諸藩十数藩を動員。

>幕府がその政策を変えていたとしても自然発生的に自国内で産業革命が起こった訳はないし、
戦争と貿易はあくまで必要条件ですからね。しかし、必要条件である以上それが無いと近代化は
できないのですよ。例えば幕府でも天保の改革での上知令は既得権益層の反対で頓挫しました
がそれ以上に過激な慶応改革はそれなりの成果をあげてました。もっとも長州に比べれば、まだ
甘かったのですが。

>少なくとも、長州や薩摩があの時点で政権を取っていたら、無謀な攘夷戦争を仕掛けて
>清におけるアヘン戦争後の半植民地化を強いるような条約を結ばされていたと思います。
薩摩は当初から開国派ですし、長州も航海遠略策を出してますよ。

295:194
11/09/22 21:31:26.64 M6W05vJB0
>>278
>では、新政府が条約改正を勝ち取るまでの間は日本は植民地になっていたかと言えば、
>そんなことはありません。
居留地も清の租界も当初は同じようなものでした。ところが清は失政を重ね租界は侵略の
拠点になってしまいました。居留地がそのようにならなかったのは新政府の近代化が成功
したからですので>つまり日本も一度負けているのを取り戻したわけですよ。
と評しました。

>分割返済ということを認めてくれたからこその話で、強引に領土の割譲や
>租借を押しつけらてしまっていた可能性だって皆無ではないのですよ。
近代化に成功した史実の日本はロシアやドイツからも領土を得ているので
たとえそうなっても問題なかったと思われます。ただあくまでこれはifですので
どうとでも言えますから。難しい。

>幕府がそういう戦術を採らざるを得ないまでに追い詰められたのは、
反対体制派にそこまで追い詰められるのは拙いですよ。


296:194
11/09/22 22:04:56.17 M6W05vJB0
>>279
>あまりにも「後世の視点」から当時を断罪するという部分が強いように思います。
欧州諸国と比べるから筆が厳しくなるのであって、他の非欧州諸国、例えば清やオスマン帝国
と比べると逆に甘くなりますよ私はw
「後世の視点」からといわれても、私は後世の人間ですので。

>大筋においては幕府の施策の大部分は「小さな政府」を目指したものと言って良いと思います。
小さな政府という言葉における政府の対義語は市場なのですよ。その市場に鎖国という強い規制を
かけている以上小さな政府の概念とは違うものになる。ただ財政状況が悪いというだけではそうは
いえないと思います。

297:194
11/09/22 22:15:08.27 M6W05vJB0
>>286
イングランドの人口は1700年で520万、1800年で890万ですよ。
それにヨーロッパも18世紀は成長期です。
URLリンク(www2.ttcn.ne.jp)

逆に日本は低定期。
URLリンク(www2.ttcn.ne.jp)


298:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/22 23:59:57.89 ESxm6S890
世界各国は貿易で開国通商で植民地にされたんだから。
日本だけが開国に成功したんで、開国して貿易すれば近代化とかそんな単純でないわね。
江戸時代に産業革命に乗れる基盤が作られ、明治維新で西洋における絶対主義と国民国家建設が両方同時期に成功して開国近代化も成功したんで。
ヨーロッパでも列強なんてのはイギリス、フランス、ドイツくらい。
逆にスペイン、ポルトガル、オランダは落ちたんで。

清の場合、イギリスが好んだ清の茶などとイギリスの銀の貿易が行なわれ、イギリスが銀を失うのを防ぐ為に三角貿易で阿片を輸出しはじめた。
清は風紀が乱れ、逆に清が銀を失うはめになった。
清にも林則除という攘夷派が居ることには居て、阿片を没収し全て焼き阿片通商を拒否した。
イギリスの軍事行動を当然見越してた。
砲台を築いたり義勇兵を募り作戦も練って戦争準備もしてた。

ここでイギリス軍は直接清政府を脅した、清政府は屈して砲台や義勇軍などを解除し、さらに林則除に賄賂拒否された勢力が付け入り林則除は解任。
穏健派が台頭して代わりに和平交渉したが、武装解除した為舐められ横暴な要求を突きつけられ、軍を解除した状態で戦い敗北。
その後駐屯したイギリス軍が庶民に横暴した為、怒った民衆が義勇兵を募り挙兵。
民衆軍は矛など古典的な装備だったが、地の利や天候を味方に付け巧みに戦い、イギリス軍を包囲全滅に追い込んだ。
イギリス軍が清政府に国際法違反と抗議し、民衆を止めないと報復すると脅すし、清政府はまた屈し要求を呑んだ。
阿片戦争なんて、まともに戦わずして終わった。
そもそも対外戦を戦えない国内体制に屈してるんで。

近代国家を作るのには、体内資源がないと無理なんだよ。
単に開国すればよいと言うもんでない。

299:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/23 00:12:22.88 6dK5xVoI0
>>297
ヨーロッパ別の人口推移
URLリンク(www2.ttcn.ne.jp)

300:194
11/09/23 16:03:10.31 7H5bui4P0
>>299
ヨーロッパ別の人口推移では無くて
ヨーロッパ地域別人口分布の超長期推移であって
>ヨーロッパが人口増えるのも産業革命以後。
の証左にはなりませんよ。

301:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/23 18:04:12.37 X6aCp+sd0
近代日本の経済成長は江戸時代の遺産の上に築かれた。
発達した市場経済、情報流通のネットワーク、高い農業生産力、読み書きの普及、出生抑制と結び付いた比較的高い生活水準。
エネルギー資源は、森林、家畜や人間の筋力、風や水の自然力であった。
江戸時代は当時の技術とエネルギー事情から日本列島の人口収容力ぎりぎり水準で精一杯の人口を養っていた。
18世紀から人口は停滞していたが、民衆の生活は向上していたのであった。
江戸時代は持続可能な開発を見事に実現していたのであった。
17世紀から世界的に寒冷な時代で、18世紀いっぱいまで続いた。
江戸時代は、寒冷化の真っただ中で始まったのであった。
ヨーロッパは17世紀の危機と呼ばれる人口停滞があったのに対して、江戸時代前半は寒冷化であったにもかかわらず、大きな人口増加をみた。
反対に、人口が停滞したのは文明システムが成熟化した時代である。
18世紀から19世紀にかけて、2歳時の平均余命は男女とも3年から4年くらい、長くなっている。
江戸時代後半を通じ、農民の寿命は明らかに伸びていたのである。
生活水準が上昇したことのあらわれである。
江戸時代中期の人口停滞は、出生率の低下にあったと言ってよい。

302:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/25 01:20:59.57 E869cY6i0
長州側の銃の配備はどのような状況だったのでしょうか?
薩摩から購入したミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺と
大村が購入した数十挺は有名ですが
他どのくらい所持していたのでしょうか?

4分した迎撃部隊が約4000だけでなく、
山口や萩等拠点防御戦力が1000以上必要なことを考慮すると
迎撃部隊が完全にミニエー銃を配備させるには不足しているので
石見口は多め、大島口は少なめと言った具合に方面ごとに配分されていたと思うんだが。

303:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/26 16:31:56.26 I09tviPs0
第二次長州征伐までの最終的な輸入総数が分からないからなぁ。
薩摩に名義借りる前もルート開拓頑張ってたみたいだけど、輸入まで漕ぎ着けた例は少なそう。
中には時間が掛かりすぎて第二次征長に間に合わなかったのもw

芸州口・小倉口・石州口の正規軍3000はミニエーだったんじゃない?
それ以外の部隊も存在してて、たとえば大島口だと、ゲベールや火縄銃で武装した
大島代官指揮下の大島兵や、周辺の島の領主である村上一族の手勢が最初の迎撃に当たっている。
また、大島奪還の基幹兵力は第二奇兵隊や浩武隊などの正規軍だが、
それ以外に阿月浦家、三丘宍戸家の手勢+上記の大島防衛軍が参加している。
また、ゲベール銃を輸入する際に「豪農が買うっつってるから」とか言ってることから、
豪農や豪商が組織した民兵部隊もあったかもしれない。
おそらくそれら郷土防衛隊的な位置づけの兵力が、沿岸警備や重要拠点の防衛に
当たっていたんじゃないかと思われる。

上記の第二奇兵隊・浩武隊は、大島陥落後そこを拠点に徳山などへ侵攻される可能性が高いため、
特に予備兵力として配備されていたものと思われ。

304:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/26 20:04:55.37 K09q7Grz0
>>302
萩拠点防衛用で石見に侵攻したんだよ。

305:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/26 22:01:15.99 kA6ShZCD0
>>303
その村上一族ってのは戦国時代の村上水軍の子孫ですか?

306:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/27 08:01:31.34 yrklIZ7t0
>>305
そう。村上武吉の末裔

307:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/27 09:04:04.41 8TBE93po0
>>305
そうですね。
能島村上の裔は村上元吉系が村上亀之助、村上景親系が村上河内で、
因島村上の裔が村上太左衛門……らしい。間違ってたらサーセン。
大島口に全員参戦。毛利家御船手組ですな。
ちなみに猟師を集めて狙撃兵にもしてたそうな。

308:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/27 09:45:32.20 UuHl/eh60
長州征伐の時の長州兵の射撃の腕はかなりやばかったらしいな。
当時の銃にそんな命中性能があるのか?レベルで。

309:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/27 09:50:18.27 QVF7Vw290
200メートル先のコインを撃ち抜けた?とかだっけ。
そりゃ甲冑に勝ち目はない。

310:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/30 19:50:53.05 uLI+bNeR0
長州征伐とか長州藩の危機に奮戦した岩国藩6万石って
男爵扱いなんだな

何もしていない連中でも15万石以上で侯爵、5万石以上で伯爵、1万石以上で子爵なのに
あれだけ働いてその下扱いとは酷い話だな。

311:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/02 10:14:57.95 T76xdkl00
吉川経健はのちに子爵になってるぞ。
他の支藩主が一律子爵なのを考えると当初の男爵は頭一つ低いとも言えるが、
岩国藩が正式に藩になったのと同じ年に藩と認められた紀伊新宮藩主も男爵になってる。
時期が悪かったとしか。
ただ、吉川経健の贈従二位は他の支藩主と比べると図抜けて高い方。

312:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/12 23:55:52.26 8fY6w08x0
>>310
岩国藩は長州の支藩ではなく陪臣扱いだから、男爵で仕方ない。

313:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/18 10:18:46.11 0Cs+kS2u0
>>294
長州諸隊=義勇兵=士気が高い と言う認識そのものが俗説すぎる。
史料的にも事実上の兵賦、徴兵がなされた例が多数確認できる。

例えば美祢市が発行している冊子では、伊佐徳定村の10代~50代までの適齢者27人が
入隊を「勧誘」されたが、断る者が多く、元治元年7月に5名が入隊(以後、徐々に差出あり)しているが
これは「仰せ付け」と言う形を採っている(奇兵隊日記。志願兵の場合は「願い出」と記される)
でその5人の内訳をみるとほとんど当主多忙や生活苦による子供の差出

また義勇兵なら出自でなく軍隊内の階級で身分を判断されるはずだが、
実際には奇兵隊は袖印の着用を義務化し、処刑まで予告して厳守を徹底している。
諸隊も他藩の徴募隊と同じく「階級上昇」と「雇用」が大きな魅力だったので
義勇兵と傭兵と言う対立項は必ずしも成立しない

マナーも特段よかったわけではなく、報国隊士の「つかずの灯篭」事件に見るように
泥酔して市民を斬殺したり、良民に「手の付けられない荒くれ者」と見られていたのは確か。

このあたり、奇兵隊日記を読んでも分かるし、90年代頃からとっくに指摘されてるだろ。

314:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/19 09:57:25.29 3knOcWhE0
>>313
当時は多産で家主と跡継ぎ以外は養子として転がりこまないと、
食い扶持がないから生きていけない時代。
子供が志願兵になるのは別に珍しくもないよ。
だから一発逆転を狙って士気が高かったんだから。
長州は寺子屋などで尊王思想を徹底的に叩き込まれるから、後から後から人が来るわけ。
最終的には二万はいるんじゃないかな。

315:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/19 10:03:23.78 3knOcWhE0
ついでにいうと報国隊は長府藩の藩士の隊であって奇兵隊じゃないよ。

316:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/19 19:10:44.16 lX+E2JRU0
志願兵の士気は高いが、その士気ゆえにたまに暴走するのが困りもの。

>>313
まだ戦争=武士が崩壊し始めたばかりの元治元年だったからってのはない?
大村益次郎の軍制改革で諸隊が正規軍になった際は、諸隊の隊員数が多すぎて
定員数に合わせた大幅な削減や無断入隊の禁止を何度か布告してる。
士官や装備の数には限りがあったしね。
ただ、諸隊も隊員を無理矢理追い出す訳にもいかないから、2直制にしたり
削減緩和願を出したりしてるね。

あと、諸隊としては慶応元年に正式な苗字帯刀の許可が出てたかな。

317:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/20 00:42:41.10 /g2cE4w60
>>314
いや>>313は「仰せ付け」になってるんだよ。
当主が働き手の主力は勘弁してくれと言って子供を差し出してるの。志願ではない
まあ差し出されたからって士気が低いとは限らないけどね。
奥羽戦争でも15歳くらいの少年農兵が勇敢に戦って薩摩藩の隊長を感服させているし
>>315
報国隊のは諸隊の乱行で残っている一例を適当に示しただけだよ

長州藩諸隊=志願兵制=士気が高い と言うのは幻想で、もちろん一藩攘夷に踏み切ったから
「御国」の危機を救おうと言う草莽も多かっただろう
ただ、現実には戦時の徴募の方法はほぼ村方や町方の有力者に割当を行うもので、
幕府、関東や奥羽諸藩の農兵の徴募と大差なかった。関東でも暴動に対抗するために商兵、農兵が自主組織されている。
彼らも士気は高かったよ。

一方で長州も攘夷戦争の最中に、戦争を引き起こした藩に憤慨して長州藩の大砲の撤去作業に加わった百姓がいたのも事実。
アーネスト・サトウはその両者について記述している。

318:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/20 00:45:05.55 /g2cE4w60
ちなみにリストラについては幕府歩兵も改組の時に大幅な余剰人員が発生し、
銃の扱いに習熟した農兵が大量に都市に滞留し、社会問題になったので再雇用を行っている。

319:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/20 00:58:03.46 /g2cE4w60
ちなみに家近良樹は第2次幕長戦争において
「長州の勝因」より「幕軍の敗因」を重視して「負けるべくして負けた戦争」と言うが、
そこで挙げられている長州側の勝因は
・装備の充実
・宍戸備前の捕縛拘束による反幕感情の刺激
・「最も重要なのは下関を経由して大坂に回送される物資、特にコメを当地で差し押さえたこと」
なんだな。この3番目が非常に大きかったと思われる。

また熊本藩が小倉口の長州藩兵と互角に戦い、天狗党には負けた幕府歩兵も善戦していることを考えても、
熊本・久留米の解兵、薩摩藩(萩口)、宇和島藩、佐賀藩など有力諸藩の不参加や、諸藩の指揮不統一が大きかった。
薩長同盟も第1条で薩摩藩兵2000の上洛、1000の上坂を定めており、
長州藩が負ける要素はまずなかったと言える。
その証拠に第3条は
「万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付」
と強い自信を示している。

320:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/20 07:06:19.15 BI02oiX00
後出しだからなんとでも言える
実際は長州藩が負ける要素だらけじゃん

321:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/20 16:51:46.75 6wAZxVaw0
>>317
あんた言っている事おかしいわ。
「奇兵隊日記」に志願兵なら「願い出」と記される事と、美祢の村落の「志願兵」が「仰せ付け」
である事は別に矛盾せんだろ。記載したものが違うんだから。
そして当主多忙だからというが、普通当主が戦争に行くことはない。
明治の徴兵令でも当主と跡継ぎは徴兵されない。
これら者が徴兵を断るのは当然の話。それをもって言うのはおかしいんだよ。
そしてその藩からの募集のあった隊ってほんとに奇兵隊なの?
藩でも諸隊を形成しているんだけど?
志願兵が隊として認められたケースも少なくないけどね。

>報国隊のは諸隊の乱行で残っている一例を適当に示しただけだよ

奇兵隊の乱交でもなんでもないのを例にあげたのは何故?
これ長府藩の正規の隊だよ、志願兵や義勇兵じゃない。

>長州藩諸隊=志願兵制=士気が高い と言うのは幻想で、もちろん一藩攘夷に踏み切ったから

なら士気が低いという例を出さないと、出してないよね?君は。
正規の部隊との比較をしないといけないのに、正規の部隊の乱交をあげて何を主張したいのかな?
それどころか徴兵だからといって士気が低いわけではない例を挙げているだけ。


322:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/20 18:35:16.62 VU7M2XfX0
奇兵隊の構成員には神主や藩外の浪士までいるのに義勇兵で無いというには
無理があるだろう。隊内部に会議も要しているわけだし。
義勇兵的要素が弱いとするなら元治内乱における藩政府への反乱と勝利が
説明つかない。

>>319
全て軍制改革の成功が前提になってるのにそれを軽視するのは
どうよ。長州藩が諸藩と同じ軍制なら、長州は負けてたよ。


323:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/20 18:58:33.81 Aheihfkx0
>>319
>熊本藩が小倉口の長州藩兵と互角に戦い、天狗党には負けた幕府歩兵も善戦していること

幕府歩兵隊なんかは既にミニエー銃装備では?
それと幕府歩兵隊と共に戦った紀州藩のこと、たまにでいいので思い出してあげてください……
あと熊本藩は交戦後の援軍要請を無視されたのにブチ切れて勝手に退却してたと思うが、
熊本藩単独での戦線の維持に嫌気が差す程度には損害が出ていたということでは?

>「万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付」

これは国境線で負けた後の戦略。
ゲベール銃を豪農豪商に卸したり、長州藩の大義を書いた本を庶民にまで配っていたことから
ゲリラ戦のようなものでも考えていたと思われ。
こういう戦い方自体、兵士や民衆の士気も高くないと採れないよ。会津藩みたいに、徴兵した農兵が即座に逃亡なんてことになる。

324:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/20 20:27:58.09 sp7FPblp0
熊本藩は戦闘に参加してないよ。
やっと初参戦した時に長州と対等以上に戦ってるんだよ。
だから長州が小倉口で勝てた。それだけの話。

>>323
幕府歩兵は2年前まで天狗党に負けてたレベルだよ

325:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/20 20:29:52.49 sp7FPblp0
>>321
いやお前さんのほうが矛盾してる。
仰せ付けと願い出を分けて記述していて、その村の場合は仰せ付け。
つまり員数差出が義務化されていた。

326:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/20 20:32:02.77 sp7FPblp0
そもそも、革命や武力クーデタが起きて成立した政府がその権力を守ろうとする時に、
純然たる義勇兵に頼るなんてことはあり得ない。フランス革命でもロシア革命でもそんなことは起きてない。
民衆の強制動員を否定するのは長州藩の臨戦体制を否定するのと同じこと。

327:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/20 20:34:06.93 sp7FPblp0
長州諸隊マンセーの人には気の毒だが、徴兵が士気が低く、志願兵が士気が高い
と言う方程式が必ずしも成立しないことは鎮台兵が証明してくれてるし、
各藩の農兵・商兵が証明している。

328:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/20 20:54:57.97 BI02oiX00
>>324
5000と800で200ずつ損害出して長州側が撤退したので肥後側の戦略的勝利だけど
よくよく考えれば長州側に壊滅的損害を与えたとはいえ
5分の1の相手に同数の損害を受けた肥後の戦術的劣勢は否めない。

329:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/20 22:32:45.34 VU7M2XfX0
>>326
国民衛兵や赤衛隊は?
フランスやソヴィエトは膨大な兵数を用意したけど長州は
それほど多くないのだけれども。

>>327
そりゃ四民平等の国民軍と中世的賦役は違うから。
奇兵隊は過渡的なものだけれども。

>>328
熊本藩は銃兵隊も要しているが、槍隊もある旧式制度だから
全ライフル兵の長州と比べたら不利だわな。

330:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/21 06:43:12.39 i5GfkY4c0
肥後藩はアームストロング砲とミニエーの鬼装備だぞ?


331:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/21 08:27:46.87 1WDOf3j50
>>328
ていうかその後も普通に長州は渡航して攻撃しているしな。
ただ肥後はよく守ったといえる。
そして長州藩の渡航の邪魔くらいしろと幕府にいったけど、長州のオンボロ海軍にボコボコにされて逃げ出す幕府海軍と。
どんどん送られてくる長州兵をみてやる気がなくなった。

>>330
肥後藩の装備は当時としては一流。
>>325
だからそれは奇兵隊なのかどうかと言っているだろうか。
>>326
わかってないなあ。当時の長州は革命戦争やってんの。
20万部とも言われるほど本刷って、全ての世帯に長州の正義を宣伝して一億玉砕火の玉だ。
ってやったわけ。
だから後から後から志願兵が来たわけ。
>>327
いいかげんにお前は長州の志願兵の士気が低い例を挙げてみろ。
各地の農兵が士気高く活躍ってのもねえ。たいていの民兵は正規軍がいなくなることで、
治安が悪化するので農民の反乱などの為に編成されたものばかりだぞ。
庄内藩みたいに本間が金にものを言わせて装備を整えた民兵隊もないことはないが、
そんなのはレアだ。当然士気は低い。

332:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/21 10:31:17.57 WWV0cjwC0
肥後藩のアームストロング砲は凄いですね。

333:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/21 11:44:16.69 i5GfkY4c0
>>331
長防士民合議書と大島の虐殺この2点が士気高揚に通じたとおもう。
民間人が小倉戦争作戦要図を作製するための情報収集に協力したり
能動的な行動が見受けられる。

334:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/21 19:03:52.51 c2XLgyja0
>>327
長州マンセーてwww
特に前近代の徴兵制は、何も分かってないようなのを布団から叩き出して
そのまま戦場に放り込むのが多いから、当然のように士気が低いんだよ。
徴兵でも士気が高い軍が存在するが、それには政府による仁政や国民教育、あるいは軍隊教育を通して
共通の大義名分を叩き込むのが前提条件。
それが出来なきゃ、ペリー艦隊を見物に行った江戸の町民と同じだよ。
政治や軍事は武士の物だから俺らは関係ないって考えのままで兵士にしても、士気が上がる訳がない。
フランス革命まで国軍としての国民兵が誕生しなかったのはそのせいでもある。
大義名分自体は、朝廷の為でも将軍の為でも恩を施してくれた藩の為でもおらが村を守るためでも何でもいい。
ただし、単なる功利はダメな。国民軍が編成されるようになって傭兵が廃れたのは、スイス傭兵やランツクネヒトなど
極少数の例外を除いて、兵士が従うべき最大単位が金をくれる部隊・部隊長であり甚だしくは自分のみだったから。
だから傭兵部隊は逆境に弱く、崩れ始めたら止まらないから当てに出来ない。

志願兵はそれらの教育を事前に受けた状態で、最初から仕上がってるから士気が高いってだけの話。
それと同じ意味で、そういう教育を信奉してきた薩摩藩や鳥羽伏見の会津藩などは、士族部隊にも関わらず士気が高かった。

335:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/21 22:11:50.29 OS0F8ale0
>>330
だから旧装備では無く旧制度と。
戊辰戦争の時に新政府に編成を変えろと注文つけられているから。

336:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/21 22:36:44.90 qoJZeaPN0
熊本藩の場合、小倉藩との対立から最初の戦闘には加わらず、
ようやく催促されて戦った直後に帰っちゃったんだよな。
で、小倉が孤軍となってそのまま長州藩兵が進撃。
この方面では事実上、小倉藩だけが長州藩の敵。
あと落城後の小倉藩兵がゲリラ戦に転じたらかなり長州藩を苦しめたのは周知の通り。

そして熊本藩の引き上げを見た小笠原長行が戦線維持は無理と判断して上洛。
これで慶喜が長州打ち込みを断念と言う流れ。
結局、大藩の不参加が一番大きかったんだわ

>>334
>特に前近代の徴兵制は、何も分かってないようなのを布団から叩き出して
>そのまま戦場に放り込むのが多いから、当然のように士気が低いんだよ。

長文の割にはすごい無知晒してるけど、農村出身兵は下手な志士気取り士気高いぞ。
なぜか分かる?卑怯な振舞いをしたら村落共同体で生きていけない、
逆に功労を挙げれば村内での地位が上昇する。旧日本軍の日本兵の強さを支えたのもこの種の農村の縛り。
逆に志願兵や志士気取りは意外と弱い。まず志士は意見対立ですぐ戦線から離脱する。
志願兵と言っても要は農村の中核から外れ、組織のタガが弱いあぶれ者が中心だから極めて扱いにくい
ムラ社会を舐めるなかれ。

337:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/21 22:41:08.85 qoJZeaPN0
>>333
ただ、この時も実は長州藩の領民は幕軍の手引きをした者もいたんだよね。
事前に一揆が起きてるし。長州藩はそれを徹底的に弾圧して禍根を断ったわけだが

338:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/21 22:47:59.10 qoJZeaPN0
>いいかげんにお前は長州の志願兵の士気が低い例を挙げてみろ。

だから長州は義勇兵ばかりじゃなかったと言ってるだろ。

>各地の農兵が士気高く活躍ってのもねえ。たいていの民兵は正規軍がいなくなることで、
>治安が悪化するので農民の反乱などの為に編成されたものばかりだぞ。
>庄内藩みたいに本間が金にものを言わせて装備を整えた民兵隊もないことはないが、
>そんなのはレアだ。当然士気は低い。

一揆鎮圧のために結成された関東の農兵は極めて士気が高いよ。なまじな藩兵なんかよりはるかに使えた。
庄内藩農兵に至っては敵中突撃まで敢行して、多くの戦死者や捕虜を出しているが、
その捕虜たちが捕まった以上は早く首を刎ねろと言いだして薩摩藩の隊長を
「こっちの武士より全然ましだなあ」といたく感心させている。

339:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/21 23:10:35.85 WWV0cjwC0
>>338
御用盗を取り締まったのは当然です。

340:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/21 23:54:03.43 Y26COrSg0
どっちが強いか一概に言えないけどね。
明治後の反乱見ると士族は圧倒的に強かった。

341:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 07:56:18.60 dq6qXrXv0
>>336
小倉藩が優位になったのは高杉晋作がいなくなってからだからなあ

342:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 08:37:20.93 6mdHgSFn0
>>336
そら前線に出るの嫌がるだろうね。
既に門司から赤坂まで小倉藩見殺し状態なのに、自藩が出てって同じように見殺しにされたらどうすんのって話。
長州軍の急所である馬関海峡での輸送妨害ですら、小倉藩の輸送船飛龍丸が決死で突入してるのを尻目に傍観決め込んでたでしょ、幕府海軍。
しかも戦った直後に帰っちゃった理由が、熊本藩からの援軍要請の無視でしょ。そら誰だって怒るよ。
小倉の幕府歩兵隊だけでも援軍に出せば違っただろうにね。

ただでさえ幕府の私戦だと言われてるのに、その幕府軍が陸海どちらでも矢面に立たない所か動く気配すら感じられないんだから、
付き合ってる諸藩が幕府に不信感抱いて戦いたがらないのも当然だよ。
芸州口では第一陣が敗走した後すぐ幕府歩兵隊出してかなり頑張ってるから、小倉口の指揮が無能だったとしか思えないね。

343:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 11:08:04.88 3PN7UkDU0
小倉に戦力を集中させていたらなぁ。

344:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 12:21:59.65 6mdHgSFn0
>>336
いや君のそのレス、似たような事を述べてるのに、そこを理解できてないよ。

>卑怯な振舞いをしたら村落共同体で生きていけない、
>逆に功労を挙げれば村内での地位が上昇する。

これ自体が、「村が藩に対して貢献しなければならない」って意識を前提にしてるよね。
その帰属意識を醸成できないと、その前提自体が崩壊するんだよ。
顕著な例を挙げるなら、領民が三方領地替えに抵抗した庄内藩ね。藩の為に働こうという意識があるから、庄内藩の農兵は強い。
逆に会津藩の場合、幕府から受け継いだだけの新潟領で徴兵された農兵はあっという間に逃げ散って、
中にはその足で新潟の民衆の信望が厚かった米沢藩に従軍を願い出た隊まである。
山入村の戦いでは、頑強に交戦した伝習隊第二大隊が壊滅した一方で、仙台・二本松・会津農兵は死傷者僅か3名にも拘らず
真っ先に敗走し、大鳥は「益々三藩の兵の頼むに足らざるを知れり」と嘆いている。
また母成峠の第三線では、大鳥がここで敗れれば会津は滅亡、今一度戦えと叱咤するが、留まった者は僅か数人だった。
この時の敵手だった板垣は、会津戊辰戦争の序文で会津を含む列藩同盟に同情しつつも、僅か5千未満の官軍に会津藩が敗れたのは、
会津の民衆に会津藩を守ろうという気持ちがなく、上下一心にして力を尽くすことがなかったからだと述べている。

旧日本軍についても、士気が高いと言われるようになるのは、国家への帰属意識や奉仕が
名誉であるという公の意識を公教育・軍隊教育を通じて敷衍し、藩という概念を脱して文字通り国民軍となった日清・日露の頃からだよ。
日清戦争については、士気がやたらと低かった清軍と比較しての話だが。

それと、志願兵の士気が低いなんて君の話以外で聞いたことがないよ。
色眼鏡なしで長州藩以外の志願兵部隊を調べてみたら?
仙台衝撃隊、丹波山国隊、桑名雷神隊、土佐断金隊、士気が低かったり、部隊の体を成していないものがあるか?

345:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 12:31:24.24 1nOHMAYd0
>>336
>結局、大藩の不参加が一番大きかったんだわ
幕府側には紀州、彦根、熊本藩、松江などの大藩を動員して
長州側はゼロ、薩摩藩の局外支援だけ。
大藩の動員が勝敗の差なら、より多くの大藩を動員している
幕府が負けた説明がつかないぞ。

>>338
>だから長州は義勇兵ばかりじゃなかったと言ってるだろ。


346:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 12:35:40.33 1nOHMAYd0
>>338
>だから長州は義勇兵ばかりじゃなかったと言ってるだろ。
一部の例外を過大評価しすぎだろ。奇兵隊が志願兵でないと
評価してるのなんて、見た事ないぞ。
『戊辰戦争』保谷徹でも志願兵による有志隊と評してるし。

347:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 13:34:49.21 kgR0QJ9y0
>>342
どうもありがとう。つまり幕軍は指揮不統一の状態で、
参加した大藩にも戦意がなかったと君は自ら証明してくれた。
なぜ幕軍が指揮不統一だったか?それは幕府の予定にない戦争だったから。
幕府は長州藩への寛典を決めて、ヒアリングのための呼び出しを行ったが長州は応じなかった。
従って軍を進発せざるを得なくなった。この間、幕府の大軍が京阪に滞留して無為に日を過ごしている。

348:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 13:42:56.60 kgR0QJ9y0
>>344
>これ自体が、「村が藩に対して貢献しなければならない」って意識を前提にしてるよね。

江戸時代は村落は自治を認める代わりに貢納を代行するので、藩への貢献も何もないよ。
江戸時代の村落共同体がまるで一方的な弾圧の対象だったような理解は全く不正確
と言うより30年ほど前の小学校の教科書的な理解

あと庄内藩と会津藩を何か対立物のような言及をしているが、
実際は庄内藩もそれなりに収奪を行っており、天領が庄内藩の統治に委ねられそうになると反対運動が起きている。
また盛岡藩、久保田藩でも農兵は活躍している。
庄内藩と会津藩の相違は純然たる収奪の差と言うより、「武士の軍隊」を徹底して民衆の武装を禁じるか、
それとも「士庶共同の藩防衛」に転換するかの差。
会津藩も、例えば猟師を組織して狙撃隊を作っているがこれはそれなりの戦果を挙げている。
また会津藩統治下の民衆も、藩軍と共同して官軍への抗戦を手伝った事例もある。

一言で言えば、会津は民衆を戦力とすることの害悪のほうが大きいと判断したんだよ。

349:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 13:52:33.08 kgR0QJ9y0
>>344
衝撃隊は結成経緯を見てもかなり「志願兵」に近い部隊と言ってもいいんだが、
正規軍に編入されて行動すると以前のような活躍は出来なくなっている
また戦後に衝撃隊は仙台藩軍に準じて取り扱われたがこの時期に色々騒動を起こしている。

あくまでゲリラ戦や偵察行動を行う「奇兵」として意味があった部隊。
庄内藩農兵、幕府歩兵、長州藩諸隊のように正規軍の戦闘序列に入ることは出来なかったと言っていい
細谷はこうした特色を踏まえて運用していたんだよ

350:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 13:59:29.45 kgR0QJ9y0
>>345
幕長戦争は前述の通り、幕府の予定になかった戦争。
諸藩は幕命により参加したものの戦意はほとんどなかった。
(そもそも薩摩、佐賀、宇和島、さらには会津藩ですら藩内の反対もあり参加していない)

その結果、小倉口は小倉藩が事実上孤軍となって戦うしかなくなり、
熊本藩の解兵が報じられると慶喜は簡単に陣頭指揮を諦め勅命による停戦を求めている。
つまり幕府側としては長州戦争は交渉がこじれて軍を進発せざるを得なくなった戦争でしかなく、
収まりがつけばどうでもよかった。勝つも負けるも止めるも、その主導権は終始幕府にあった。

実際、長州戦争後に慶喜は薩摩藩との融和に努め、幕薩間の関係は一時的に融和となっている。
こんなこと、ちょっと長州戦争の経緯を調べれば大体書いてあるのに、
幕軍の士気を過大に高く見積もり「数十万の大軍を押し返した」などと言ってる時点で、
太平記と大して変わらんことを言ってるね君は。

351:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 14:03:24.78 kgR0QJ9y0
>>346
奇兵隊が志願兵、他藩の徴募兵が徴兵、よって前者が優れている
と言う図式化の無意味さを指摘したわけなんだが。
奇兵隊は仰せ付け、願い出の両方の方式で兵を徴募しており、当然員数差出を義務化された例もある。
また入隊後は実は新撰組顔負けの過酷な演習と隊内秩序によって縛り上げられているし、
処刑、またリンチと思われる事例も多数記されている。

我々が想像するような「志願兵」なら円満脱退も可能だったはずだが、実際には違う。

352:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 14:12:03.31 kgR0QJ9y0
つまり「志願兵」は組織への帰属意識や忠誠心が高く、従順に上からの命令に従うことが必要で、
そのためには一定のトレーニングが必要。奇兵隊でもここは一番苦労した部分
なぜなら百姓上がりが勝手に政事を論じるようになっては困るから。

農兵の場合、領民と藩の意思疎通が円滑であれば帰属意識と忠誠心の部分はかなりカヴァーされている。
会津・二本松のように武士と民衆の区分を厳しく引き、
戦力としての価値より武装の危険を重視した藩は、当然、農兵の参戦意欲は低い。

353:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 14:24:10.14 kgR0QJ9y0
「長州がなぜ勝ったのか」から考えると、1人で10人に当たる異常に高い士気とか天才的な指揮能力とか、
非現実的な想定をせざるを得なくなる。幕府軍のほうに原因を求めるのが自然な発想。
高杉の小倉口の戦略も、幕軍の内情を計算した上で組み立てられている。

軍隊が一時的な熱狂のみで成立するものならこれほど楽なことはない
しかし現実にはアナーキストの民兵が多く参加したスペイン内戦を見れば分かる通り、
必ず分派が出来、内部対立が起き、最後は引き締めを行わなくてはならなくなる

半年前にエジプトやチュニジアで革命を先導した若者はどこに消えてしまっている?
最後は日頃から活動を行っている宗教組織だけが残る。最後は組織、組織、組織だよ

354:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 15:47:06.46 j7aMmAWl0
東国の農兵っていうのは自警団的なものや韮山代官所のものを除けば農兵といっても博徒や猟師が中心だよ。
武州世直し一揆や出流山挙兵の鎮圧に活躍した岩鼻代官所の農兵も発端は近隣農村の自警団だが
渋谷鷲郎に従って上記の行動に参加した農兵というのは300人程度で博徒や猟師が中心だ。
背景には目明しの存在に代表される関東取締出役と村役人と博徒の関係があったわけだが
これを一般農村に広げて農兵を徴発しようとした時に激しい反対闘争が起こって渋谷鷲郎は逃亡、
上州世直し一揆となり上州、野州の支配体制がほぼ崩れるに至っている。

355:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 17:43:49.80 8Qr1WGsY0
>>347
>参加した大藩にも戦意がなかったと君は自ら証明してくれた。
熊本藩に戦意がなかったら、命じられても前線には出てこないでしょ。その場で帰国すればいい。
幕府の行動によって、戦意より幕府への不信感が勝ったという話ですよ。
味方の戦意を掻き起こし高めるのではなく、戦意を落とさせてどうするんですか。それも司令官が。

>なぜ幕軍が指揮不統一だったか?それは幕府の予定にない戦争だったから。
>この間、幕府の大軍が京阪に滞留して無為に日を過ごしている。
予定に無くても、この期間が丸々余裕ですよね。
この間に長州藩は準備してるんですけど。

>>348
>村落は自治を認める代わりに貢納を代行するので、藩への貢献も何もないよ。
下記にある”功労”は、藩への貢献の結果ですよね。
>逆に功労を挙げれば村内での地位が上昇する。(>336)
暗黒史観などとは関係ありませんし、この場合でも問題なのは藩(国)への帰属意識です。

>実際は庄内藩もそれなりに収奪を行っており、天領が庄内藩の統治に委ねられそうになると反対運動が起きている。
軍隊の士気の話ですよ。
これについて庄内を挙げなかったのは、新潟で庄内藩が徴兵を行った事例を見つけられなかっただけです。

>一言で言えば、会津は民衆を戦力とすることの害悪のほうが大きいと判断したんだよ。
しかし結局、切羽詰まってから農兵隊を組織していますよね。
君が>352で指摘しているように、領民と藩の意思疎通が円滑であれば臨時徴集でも農兵の士気は高くなると思いますが、
会津藩では苛政と身分意識がそれを妨げ、僅か5千の官軍の前に敗れたと板垣は指摘しています。
苛政については、京都守護職の出費という斟酌すべき点もあるとは思いますが。

>>349
問題行動があったことを含めて、異論は全くありませんが。

356:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 18:46:25.39 3PN7UkDU0
5000人とはいえ新式の武器があるしそのあと援軍がくるるので・・・・・。

357:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 21:20:01.24 1nOHMAYd0
>>350
>幕軍の士気を過大に高く見積もり「数十万の大軍を押し返した」などと言ってる時点で
勝手に人の発言を捏造しないでくださいよw

>つまり幕府側としては長州戦争は交渉がこじれて軍を進発せざるを得なくなった戦争でしかなく、
>収まりがつけばどうでもよかった。
そんな軽いものではありませんよ。徳川が諸侯の上に立っている正当性である
軍事的優位(武威)の失墜が明らかになったのですから。

358:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 21:22:56.74 1nOHMAYd0
>>351
>当然員数差出を義務化された例もある。
だから少数の例外を過大評価しすぎだと

>新撰組顔負け
そりゃ新鮮組みとの類似性が見られるのは当然でしょう
新撰組も義勇兵適要素があるのですから。それは、新撰組結成の過程を調べれば明らかです。

>我々が想像するような「志願兵」
あなたはどのような志願兵を想像しているのですか?

359:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 21:39:02.77 1nOHMAYd0
>>353
>1人で10人に当たる異常に高い士気とか天才的な指揮能力とか、
>非現実的な想定をせざるを得なくなる。
非現実的ではありませんよ。10倍の敵にも士気旺盛に戦う軍は戦史上にいくつも例があるでしょう。
西郷隆盛もこの戦いを見て『幕府の兵十人に我が兵一人の算盤を立てて行けるといふ決心を
立てた』と言ってます。

スペイン内戦とアラブの春との対比ですが、前近代から近代への過渡期と
現代では状況が違うので比べようがありません。
江戸時代では軍事システムが長い太平のため軍事的合理性とは関係ない非合理的な理由により
権威をもってしまい、幕末になっても軍事改革には抵抗が付きまとった。
しかし、長州は攘夷を梃子にそのような抵抗を一掃し幕府より、より過激に軍事改革を行えた。

360:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 22:55:23.55 lowYP5m70
>>354
まず2つ論点があって
・東国は攘夷戦争を起こしたわけではないから、賊徒からの自警団的な組織で足りたのは当然。
・幕府歩兵の改組前は普通に知行地から徴募した農兵や、郷土で組織した農兵が存在する
博徒・猟師だけなどと言う驚くべき指摘は聞いたこともない(時期間違えてない?)
長州藩諸隊も、攘夷戦争と言う対外戦争に際して(と言うより攘夷戦争を利用して)民衆動員に成功したもの。

>>355
熊本藩ですら解兵したから慶喜は大打ち込みの中止を決めたんだよ。
君の指摘は「戦場における幕軍の指揮不統一」を一生懸命論証しようとしているが、
それはつまり「長州戦争の帰趨を決めたのは幕軍内部の要因にある」ことの立証に他ならない。

それと幕軍が京阪地方に長期滞留を余儀なくされたことによる財政的影響、
さらに物価やら民衆感情への影響も考えないのか君は?長州戦争が尻すぼみに終わった最大原因は、出費だぜ。

361:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 23:02:27.52 lowYP5m70
>下記にある”功労”は、藩への貢献の結果ですよね。
>>逆に功労を挙げれば村内での地位が上昇する。(>336)

何を言いたいのかよく分からない。村落共同体と藩を同一視するなと教えたはずだが。
繰り返すが、江戸時代は村落共同体は自治を認められる代わりに貢納を行う関係にある。
単純な支配-被支配の関係ではないし、村落の中で生きていくこと=藩に忠節を尽くすこと ではない。

>軍隊の士気の話ですよ。
>これについて庄内を挙げなかったのは、新潟で庄内藩が徴兵を行った事例を見つけられなかっただけです。

これも何を言ってるのかさっぱり分からない。徴兵・志願兵の別と士気が直結するものではないと指摘したはずだが。

>会津藩では苛政と身分意識がそれを妨げ、僅か5千の官軍の前に敗れたと板垣は指摘しています。
>苛政については、京都守護職の出費という斟酌すべき点もあるとは思いますが。

君は一体何を反論したいんだ?庄内藩と会津藩の民衆の武装についての思想が異なると私は指摘したんだが、
板垣の言ってることはまさにそれだろう。会津藩は民衆の武装のほうにより大きな害悪があると判断した。
私の言ってることをいちいち補強しているのか?

362:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 23:07:50.45 9CvE4lCf0
結局統率士気の差
政治が上手く行なわれなければ民衆が戦うだけの士気も道理も起きない

363:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 23:12:12.70 lowYP5m70
>>356
何度も言うように、熊本藩は最初から戦闘に加わらず、
唯一参加した戦闘の直後に解兵している。来援がどこから来る。
薩摩、佐賀、宇和島、芸州など西日本雄藩はおろか会津藩ですら参戦慎重論が強かった。
慶喜は自前の兵力がゼロなんだが。

>>357
確かに幕府(と言うより一会桑政権)が主導した戦争で戦果が挙がらず、武威が低下したと言う効果はあるよ。
それは長州戦争の「結果」であって「敗因」ではないけどね。
しかし、現実には慶喜はその後、対薩融和路線を取ることによって慶応3年中盤まで政治的優位を保っている。
慶応3年の四候会議などで島津久光らを慶喜が一蹴したのは説明するまでもないね
薩長を討幕に踏み切らせたのは長州戦争の幕軍の敗北ではないし、幕府が倒れた直接の原因でもない。

慶喜は勅命と言う形を取っての停戦が可能だった。幕府にとっては勝敗がクリティカルではなかった戦争と言わざるを得ない。
幕府にとっては、長州戦争が予想外の敗北に終わっても政治的に巻き返すことが可能だった。

364:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 23:22:46.65 lowYP5m70
>>358
美祢市の史料は、地元の記録と奇兵隊の記録が照応する(両方から裏を取れる)
一例を示しただけで、奇兵隊が仰せ付け、もしくは願い出と言っても徴兵に近い形の隊士募集を行っていたのは事実
事実上の徴兵の中ではっきりそう確認できる一例を示しただけだが。

>>359
それは西郷隆盛の主観であって、事実ではないね。
しかし鳥羽伏見戦争では新政府軍5000、幕府軍は8000と言うところ。
現実には1対10なんて兵力差を士気の差で覆した例は…
戊辰戦争の「戦闘」ではなく「戦争」レベルでは、存在しない。

>江戸時代では軍事システムが長い太平のため軍事的合理性とは関係ない非合理的な理由により
>権威をもってしまい、幕末になっても軍事改革には抵抗が付きまとった。
>しかし、長州は攘夷を梃子にそのような抵抗を一掃し幕府より、より過激に軍事改革を行えた。

抵抗を一掃して過激に軍事改革を進めれば一騎当千の強者が出来上がるなら苦労はない。
長州藩は士気、装備、組織、訓練の総合体で軍事力を高めたのであって、
君の議論は士気のみを論じ、装備、組織、訓練の要素を等閑視している。
そんな精神主義的な議論は太平洋戦争の御前会議でやってくれ。

常識的に考えても、幕長戦争は長州に原因を求めるより、
客観情況および攻める幕軍の側に原因を求めるほうがはるかに説明しやすい。
家近良樹は戦争の帰趨を決めた要因として、完全にそのような常識論に立っている。

365:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 23:31:24.77 lowYP5m70
長州藩諸隊の強さに勝因を求める議論は、どうしても精神主義や革命万能論になりやすい。
しかし例えば熊本藩、紀州藩、まだ未完成だった幕府歩兵がそれなりに健闘している事実を考えれば、
長州藩は幕軍の不統一を衝いて局所的勝利を積み重ね、同時に京阪地方への物資補給や民衆暴動、
さらに大軍の滞留による巨額の出費を強いられ、進軍の必然性が乏しかった幕軍が自壊した
と考えるのが最もバランスのよい説明である。長州藩サイドの要因だけ指摘しても30点程度しか貰えないだろう。
なぜなら薩摩藩が萩口に攻め込んだだけで、もしくは会津藩が前線投入を受け入れただけで、
先手の戦意は大きく変わったはずだ。薩摩藩が参戦したら長州は間違いなく敗北しているし、
会津藩兵その他が投入されても長州藩は大変な苦戦に陥ったと思われる。

しかし実際はそのような兆候はなかった。会津藩は逆に西南雄藩の反発を恐れ、
長州に対して慶喜よりはるかに寛大な条件を提示する有様だった。
薩長盟約第3条の自信もここからきている。
今日では長州藩諸隊にひたすら勝因を求めていくような議論は既に廃れている。

366:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 23:44:59.96 lowYP5m70
>>355
最後に、君は結成経緯から参戦までが「志願兵」に極めて近い衝撃隊について
>問題行動があったことを含めて、異論は全くありませんが。
と述べている。つまり組織行動を叩きこまれていない志願兵の限界を認めたわけだ。

細谷十太夫は自身が結成した衝撃隊の特徴を良く把握しており、
偵察や夜襲と言った、正規軍とは離れた軍事行動に衝撃隊を使用した。
しかし正規軍と同じ戦闘序列に加えられてからの衝撃隊は、特徴を消されて苦戦しているんだよ。
志願兵は「上からの」厳しい規律と秩序を叩きこまれて「戦争マシン」にならないと、
基本的にそういう使い方しかできないの。衝撃隊の場合はそれをやってる時間がなかったんだが

スペイン内戦のアナーキスト民兵は志願から実戦の過程で「軍隊組織」になることを拒否したために、
勇敢ではあったが規律ある行動がとれず、無駄な損害を積み重ね、さらに残虐行為が頻発している。
志願兵への美しい幻想を払拭するためにあえて説明したんだが分からなかったか?


367:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 23:46:02.33 9CvE4lCf0
長州の諸隊が強かった長州の士気の高さが要因
統率と兵站が優れてたから士気が高かったわけだ
逆に力を集中できるだけ巧みに政治が行なわれてたわけだ
鳥羽伏見も日露戦争も似たような松陰だね
太平洋戦争は士気はあったが兵站で敗れただけで

368:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 23:51:36.39 lowYP5m70
>>346
無理やり引っくくって作ったわけではない、と言う意味では、
確かに有志隊ではあるんだよ。ただしそれも諸隊の入口をくぐるまで。
その後は徹底的に藩国家の兵士としての規律と秩序を叩きこまれる。
もちろん死や暴力と言った厳しいサンクションを課せられ、脱走は敵前逃亡になる。

有志隊=志願兵、参加・離脱自由な義勇兵 ではない。甘っちょろい幻想が多いねえ。

369:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 23:52:29.46 lowYP5m70
>>367
郷土防衛だから当然、士気は高いが、士気よりも装備の充実のほうが大きかったでしょうな。

370:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/22 23:55:10.38 lowYP5m70
あと鳥羽伏見に関しては、幕軍が平和的上洛が可能だと考えており、
ろくに戦闘態勢に入らず行軍していたのが大きい。
日露戦争に至ってはロシア兵の士気もまた非常に高かった。
日本でも紹介されていたが、ロシア兵の士気が低下したのは敗退が続き、
指導部への疑問が生じてから。

この両者に関しては、兵個人個人の士気より、軍指導部の問題が大きい。

371:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 00:08:20.24 koY7QgPd0
会津戦争を見れば郷土防衛だから士気が高いと限らない
日露戦争は装備や兵站面ではロシアが勝ってた
統率で日本が上回ってたため勝利できた

372:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 02:14:36.92 S7Jy840R0
>>360
>>>354
>まず2つ論点があって
>・東国は攘夷戦争を起こしたわけではないから、賊徒からの自警団的な組織で足りたのは当然。
>・幕府歩兵の改組前は普通に知行地から徴募した農兵や、郷土で組織した農兵が存在する
>博徒・猟師だけなどと言う驚くべき指摘は聞いたこともない(時期間違えてない?)
>長州藩諸隊も、攘夷戦争と言う対外戦争に際して(と言うより攘夷戦争を利用して)民衆動員に成功したもの。

というわけで長州のと関東の農兵は比較にならないね。とりあえずそれだけわかってくれればいいよ。

373:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 07:57:41.94 S2BacBll0
>>371
会津戦争だけ見た場合、会津兵の士気は高かったよ。
ただ戦略が間違っており、トンチンカンな場所に主力を配置した為に、
弱点の母成を突破されて決戦を行う事無く籠城戦になっただけでしょ。

374:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 08:57:54.01 58rFcDAu0
そもそも劣勢な側が海上封鎖している幕府海軍を退かせて
九州側に渡航して攻撃する発想なんてあるのか?
普通は地の利生かして籠城するものじゃね?

375:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 09:39:23.99 hmTQKaxz0
>>338
>だから長州は義勇兵ばかりじゃなかったと言ってるだろ。

義勇兵は士気が高く、義勇兵以外も村社会という事で士気が高かったという話にしかならんぞ。
お前の主張だとwで、士気が低かった隊ってどこよ。

>一揆鎮圧のために結成された関東の農兵は極めて士気が高いよ。なまじな藩兵なんかよりはるかに使えた。

それは幕府の兵士に比べたらであって、長州の奇兵隊などと比べたら雑魚レベルだよ。
薩長の隊が突っ込んできたら、基本的に止められないからね。
最も戊辰戦争でも最前線を任せられた兵は、薩摩長州などの隊ぐらいのもので、
後は後方支援や占領地の管理などなんだから。
>>336
熊本藩は要地赤坂口を守っていたので動かなかっただけ、
長州が攻撃してきたら、きっちり守りきっている。
ここは山と海に挟まれた狭い街道であり、ここが抜かれると小倉城まで守れる場所はない所。

ただ流石の熊本藩長州の突撃を受けて損害を受けたので、守備変わってくれといわれたわけだが、
熊本藩以外守れる藩はいないし、誰もやりたくなかったので断った。援軍も送らなかった。
熊本藩はうちだけに厳しい戦いだけさせるのかといって、ぶちきれて撤退となった。
あわててその場所に小倉藩が守りに入ったけど、当然防げるわけもないのでそのまま押し込まれた。
戦線が崩壊してしまい、諸藩は退却、さらに家茂が死んだ事で小笠原は逃げ出したと。
後は城を捨ててゲリラ戦。幕府が馬鹿なんだよ。

376:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 09:42:47.10 bJs9fmY+0
会津は市民が傍観してた
長州と違って根本的に統率の体制に欠陥さらしてる
幕府も体制に欠陥あるから、尊王が叫ばれるようになった
鳥羽伏見の薩長は3千程度
幕軍は統率が効いてなく当然作戦もなく負けた
結局軍の強さと勝敗を分けるのは統率面が大きい

377:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 10:16:36.15 hmTQKaxz0
>>347
大阪で軍事訓練しとったやん。
戦争経験のない素人だけ集めたわけだから、軍として動かすのもとても大変だしね。
で、そうやって脅しをかけとけば従うとか甘い事考えていたのも不味かった。
諸藩への根回しも不充分、幕府が無理難題を押し付けているようにしか見えず、
別に幕府に恩顧があるわけでもない西南の諸藩が動くわけがない。西南の藩は外様ばかりだしね。
>>348
長州の場合はここが違う。長州は領民に対する思想教育などを行っており、
寺子屋などを藩が直営で立てて、そこの講師に武士を派遣しており、直接的な統治形態に近かった。
こうやって思想的にまとめ領民を「自発的」に志願させて高い士気と目的意識をもった兵士を作り上げた。
散兵戦術が出来たのはこういう所が大きい。国民国家までは行かないが、挙藩一致体制を構築できた。
大砲作るからって、自発的に領民が鉄などを持ち寄り、多くの志願兵が集まった、(なお長州の場合武器は自分で買うシステム)

>また会津藩統治下の民衆も、藩軍と共同して官軍への抗戦を手伝った事例もある。

それは詭弁というもの、一部の反例を挙げても全体はかわらん。
大半の民衆は新政府軍になだれをうって降り、逆に案内人なるほどだった。
板垣が駄目だこりゃとなったのも当然の話。
なお猟師は無理やり徴用された領民と違い、高給で雇われているからそりゃ真面目にやるよ。



378:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 10:27:24.71 hmTQKaxz0
>>374
その場合長州藩内が戦闘になるだろ。
領内があらされるのが嫌だったんだよ。
大島みたいに無茶苦茶されると思ったんだろ。
特に領民の支持が必須なわけで、領内でゲリラ戦や抵抗を続けるのは、
長州藩としては出来ない相談。
>>371
装備や備品などは実はロシア軍より日本軍のほうが優れていた。
帝政ロシアの兵士の武装なんて酷いものだったんだよ。
日本が戦闘で勝ったのは、要所要所への兵力の集中運用と、優れた武装と、高い士気。
いわば勝つべくして勝っただけ、日露戦争を調べてみると奇跡も偶然もない。
ロシアとして本土でないから、何が何でも守りきる必要もなかったので、
遅滞戦術でよかった。日本は戦債を売る為にも目先の勝利がほしかった。

379:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 10:39:03.20 bJs9fmY+0
日本のが優れてたは無いわ
陸軍は弾丸欠乏症に悩まされてたし兵力も補充もロシアが上
海軍力も戦力差は3倍ある

380:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 10:43:32.48 hmTQKaxz0
兵力が上でも極東に送るのが手間。
徴兵してシベ鉄で送るのに長い時間がかかるが、日本だと海渡るだけなので、
輸送が楽だったのが大きい、
シベ鉄の複線化前に戦争を仕掛けたのはこういう理由。


381:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 10:48:26.63 bJs9fmY+0
日本はそもそも補充が無い状態
毎度の決戦もロシアが兵力でも火力でも上
旅順も攻め側は本来3倍の兵力が必要

382:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 11:16:36.87 hmTQKaxz0
>>381
実はそうでもない。最初の鴨緑江は倍以上、南山も倍以上、得利寺も兵力では負けていたが火砲で圧倒、大石橋でも倍近い。
兵力で負けてきたのは遼陽あたりからだね。
そして兵力では負けても火砲や機関銃の数では勝っていたりするので、何とかなった。


383:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 11:46:29.09 a1jayhkv0
>382
日露戦争後に大本営が戦訓として導き出したのは、「敵に勝つのならば敵よりも多い兵力・火力を
ぶつけること」というしごく当然のもので、日露戦争に参戦した指揮官たちはそれを良く承知していた。

けれども、国力の関係でどうしても敵と同等の兵力・火力で布陣するしかない場合も多々あって、
そうなった場合に前線指揮官が突撃をためらったり、積極的な指揮を執らなかったために
均衡が崩れて敗走した部隊が出たことを過度に気にして、「戦闘の勝敗を決定づけるのは
兵の士気の高さだ」という精神論を高く掲げることを選択してしまった。

そうした「ホンネ」と「タテマエ」の戦訓が並立していて、その実態が記憶に留められている
ウチは良かったんだけど、いつしか威勢の良い言動を良しとする軍人特有の空気感が支配的に
なっていくにつれて、「タテマエ」の方が強く残ってしまったのが、昭和に入ってからの陸軍が
暴走したあげくに非合理的な戦場での兵員配置を録り続けた理由でもあったんだろうね。

384:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 12:25:28.50 hmTQKaxz0
ちなみに遼陽あたりからは日本軍はかなり苦戦している辛勝レベル。
けっこう想定どおりの結果だと思うよ。
旅順も第一次は酷いもんだけど、二次以降は避難されるようなものでもない。

>>383
まあ士気はとても大切なものではあるけどね。
士気が低い軍はまず勝てないし。士気が高ければ軍はまず崩壊しないから、
最後まで粘り強く戦うし。無茶な突撃も実行できる。

スローガンとして言っていた人は分かるけど、真面目に信じていた人達がいたのが問題。
昭和期の東北軍閥のみなさんとかね。

385:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 12:27:13.30 QF1lvQ5m0
典型的なGHQ史観ですな
そもそもアメリカ相手に火力で上回る事など無い
戦争理想論に過ぎない
日露戦争も力をつけてから戦争すべきと主張した戦機を知らないのが居たが
そもそも日本が圧倒する力を備えていれば初めから戦争には至らない
むしろ火力で上回れない以上より士気が決する
士気が敗れない限り最終的に敗れる事はない
ベトナムやイラクはアメリカの士気を完全に破ったから勝てたわけだ
日本が敗戦から復興したのも最終的な士気は敗れなかったからだ

386:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 14:39:45.28 NyjFt5BL0
日本はなんだかんだ言って資本主義が根付く前の時代から要はお金が全てだったんですね。

387:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 16:26:38.54 /1cODVoR0
>>363
>慶喜は勅命と言う形を取っての停戦が可能だった。幕府にとっては勝敗がクリティカルではなかった戦争と言わざるを得ない。
長州再征は、幕末政治史上の一大事件であり、幕府支配を決定的に揺るがす役割を果たしたことは、
周知のことである。と家近良樹編『もうひとつの明治維新』にもあるんですけど。

388:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 16:33:24.83 /1cODVoR0
>>364
>長州藩は士気、装備、組織、訓練の総合体で軍事力を高めたのであって、
>君の議論は士気のみを論じ、装備、組織、訓練の要素を等閑視している。
軍事システムとその改革について述べているのに、何故そうなるのよ。

>幕軍の側に原因を求めるほうがはるかに説明しやすい。
幕府側というか、長幕双方の軍事に求めるべきであり、政治に求めるなら
政治的に幕府より圧倒的に不利な状況におかれている長州が勝った説明がつかないじゃん。

389:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 16:36:14.39 /1cODVoR0
>>365
>会津藩兵その他が投入されても長州藩は大変な苦戦に陥ったと思われる。
幕府側が軍事システムを改革して投入するならともかく
そのまま投入しても、結果は変わらん。鳥羽伏見で会津軍を見れば
そう考えるのが自然。

390:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 16:40:35.74 /1cODVoR0
>>368
>有志隊=志願兵、参加・離脱自由な義勇兵 ではない。甘っちょろい幻想が多いねえ。
変な幻想を抱いているのはあなたでしょう。奇兵隊は当初は義勇兵的性格を有していたけれども
それは慶応改革で藩政府の指揮下におかれ義勇兵的要素は弱体化したんですから。


391:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 16:55:02.10 6C5FmJesO
>>389
鳥羽伏見どころか、禁門の時点で長州に押されてる会津が、
軍政改革後の長州に挑んでも彦根の二の舞を演じそうだね

392:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/23 17:32:04.36 ct6c+DK/O
すくなくとも戊辰よりかは、ましになっていたかな。

たまよけ程度には利用できたでしょう。

393:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 04:24:12.88 4PSTHhPs0
>>353
実際に10倍の相手に勝っているからね。
いや10倍じゃなくて30倍くらいか。最も日本の歴史上では10倍の敵にかったケースは別に少なくないが、
源平合戦の平家側は途中までほんと酷いものだったし、その鎌倉が楠木すら倒せなかったのも時代の流れ、
戦国時代でも川越の野戦などなくはないケースですな。
日中戦争になると10倍くらいなら余裕で勝てるというのが日本軍の認識でした。
(士気の高い共産党軍は除く)
戦争ってのは士気が崩壊するか、部隊が全滅するまで終わらないものです。
部隊が全滅する前に士気が崩壊して、壊走状態になるだけでね。
>>365
萩には元々大村がいるので打ち破るのは薩摩でも容易ではない。
そして薩摩が動かないと分かったので、石見方面に進撃したんだし。

んで会津なんて来ても相手にならんよ。200人くらいの隊が一つあれば余裕で撃破だろう。
数合わせにしかならん。一度でも会津が長州に勝った事があるのかね?


394:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 05:39:35.41 Q67abPbs0
>393
>戦争ってのは士気が崩壊するか、部隊が全滅するまで終わらないものです。
>部隊が全滅する前に士気が崩壊して、壊走状態になるだけでね

これはいささか乱暴すぎる論理だと思いますよ。
士気が崩壊する前に、被害状況を冷静に見定めてお互いに矛を収める場合だってあるんですから。

東條英機みたいに「負けると思ったときが負け、負けないと思っている限りは負けない」とかいうのは
無能な指揮官のタワゴトです。

>365
>萩には元々大村がいるので打ち破るのは薩摩でも容易ではない。

その薩摩を経由して買った武器があるからこその長州の勝利では?
薩摩が敵に回っていたのならば武器は手に入らないので、大村の戦術は根本から崩れます。

>一度でも会津が長州に勝った事があるのかね?

禁門の変の時には勝ってますよ。
薩摩の援軍云々はあるにせよ、結果として敗走する長州勢を掃討したのは会津藩兵。

395:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 05:41:55.87 nade5K5U0
家近良樹さんは、『孝明天皇と一会桑』で会津の軍事力を
高く評価してんだよな。長州戦争に会津兵が参戦していたら、
戦争の行方はどうなっていたか分からないと。

396:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 05:59:42.13 +6TANqL4O

高杉晋作、桂小五郎が長州の士気を巧みに上げ…
大村益次郎の名参謀が相手の意表をついた奇策、戦略、戦術を用いて相手のハナをあかした。
近代兵器をここぞという場面で効果的に使った事が、極めて的確だった!
幕府側の被害も甚大になり、士気が下がり敗走するに到る。
こうなると長州側の攘夷のボルテージは必然的に上がり、各地へ飛び火し国内は攘夷の流れに感化されていった。
薩摩も小倉の戦いまでは、正直なところどっちつかずで傍観に徹し旗色を伺っていた感はあるのでは?
西郷はあわよくば…棚ぼた的な漁夫の利をねらっていたのではとたまに思う。
幕府も長州も疲弊している訳だしね。

それを考えると、やはり長州は勇敢だったと思う。大村益次郎の存在の大きさには感嘆する。



397:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 06:18:40.36 +6TANqL4O

盛岡はアホだったよな…黙って中立しときゃよかったのにさ…
秋田が倒幕になったからという安易な理由で佐幕になる始末。
会津も、庄内も既成のしきたりや形に無意味にすがる傾向あるよな?
画期的な事が出来ないというか、それが時代遅れでも間違っていても、よゐこちゃんでいたい的なさ。

秋田だけだよ北で感心できるのは!確かに知的好奇心の高い土地柄ではある。

でも北は総括的には陰湿さや内向的さは感じる。
コレを俗に村意識が強いとか閉鎖的や陰湿と揶揄される由縁なんだろうな。

東北の知り合いも少し変わった突飛さは罪になると嘆いていたわい。



398:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 08:46:12.97 FXrult5H0
>>394
根本的な知識が不足している
グラバーを通して密輸ルートは保持していたが薩摩への利益供与のためにあえて倍の不利なレートで購入した。
また禁門の変においても会津自体は突破されている。

399:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/24 17:26:07.77 4PSTHhPs0
>>394
薩摩は密輸ルートの一つであって、薩摩を経由しないでも密輸は可能。
元々上海ルートで密輸する予定だった。
また薩摩に対価で米送っている。
また上でも言っている人がいるが。禁門の変でも会津は破れており、
その後薩摩が追い返しただけ。
撤退中の追撃戦で勝った?w

そして被害状況が大きいから手打ちにしようとなったら、負けている側には勝利なわけで、
士気が崩壊しない限り問題ないという話になるよ。

400:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/26 04:03:37.51 cwW71r+r0
>>396
その辺りがまさに胸躍る奇跡的な個性配置の妙ですな
もちろん紛れもない無比無類の天才軍師・大村益次郎の
神がかり的な采配、功績は今更いうまでもないが
個人的は大村にMVP

401:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/26 10:19:08.16 8ygpFky+0
最強議論の際に
戦国時代は戦術が誇張された上杉謙信が最強といわれるのに
幕末は個人武芸に秀でた新選組が最強とか言われる不思議。

幕末こそ個人武芸がクソほどの役に立たず
戦術家大村益次郎などが評価されるべきなのに。

402:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/27 08:31:36.18 FZPOWwCZO
大村の真骨頂は戦術よりも、農兵の組織化やそれを活かす為の指揮官の教育じゃないかな
単純に近代兵器を購入して兵に与え訓練させるまでは、借金さえすればどこでも出来たが、
近代戦術を現場指揮官に叩き込んで合理的な指揮をさせたから長州は第二次長州征伐に勝ち、
それが出来なかった幕府は鳥羽伏見で(兵力、装備では)圧倒的有利なのに敗北した訳だし

403:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/27 09:53:40.21 SS02si/g0
戦術レベルの敗北の積み重ねが最終的に戦略レベルの優勢を覆してしまったんだよな。
なのに作家等は「長州が勝つべくして勝った(キリッ」とかほざいている。
大鳥など優秀な人材を掣肘せずその才覚を発揮させることができていれば
戊辰戦争は違った結果になったろうな。

404:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/27 10:43:28.92 jazQUWSwO
>>403
大鳥と大村は緒方こうあん一門ですね。

大村が幕府歩兵隊を指揮していたら・・・・・・

405:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/27 12:23:30.18 q1IvMQfzO
>>385
最後の一行の強引なとってつけ方にワロタw

406:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/27 12:33:27.04 FZPOWwCZO
>>403
人材登用にかけては幕府も結構実力重視だから大村に並ぶ人材はいたかもしれないのにね
しかし大きな権限を与えるには身分制が邪魔をした、そこが幕藩体制の限界なんだよな
その点、長州は殿様が木戸や高杉に丸投げ状態だから、
医者の大村に軍を統括させることが出来た
大村が幕臣なら、ここぞと言う時に重用されずに宝の持ち腐れになってただろう

407:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/27 21:32:59.88 K0Q6OLqL0
>>401
土方なんかが評価されてるのは新撰組組織を作ったからだろ?
新撰組はかなり近代的な組織だったから。


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