11/09/19 20:48:05.14 r/0+aDma0
>248
>搾取しなかったっつーより出来なかっただけだぞ。
んなこたーない。
商品経済の流れに関してはかなりの程度まで外部からも把握可能だったし、
やろうと思えば経済活動に税をかけることだって可能だ。
株仲間というのは幕府が認めた組織なのだから、そこに課税する方法だって検討されてた。
幕府がそうした課税を行わなかったのは、幕府の経済体制が「農民からの年貢」というのを
基礎に置いていて、商人からの税の取り立てという仕組みを持っていなかったこと。
また、全ての商品は作物なり材木なりが収穫された時点で税を取っているから、流通過程の
段階で税を取ることには「二重課税」という批判を受けることへのためらいがあったから。
また、幕府の政治は「諸藩のお手本」として天下にその威厳を示すという建前があったので、
新しい徴税手段をあれこれと考えることは「みっともない」という気分が幕府官僚の中に根強かった
こともある。
>物価の安定は江戸中期以降常に幕府の至上命題だったが、結局は庶民まで含めた倹約令によって
>経済全体を停滞させるぐらいしか対策がなかった。
>幕府でこの問題にある程度対応できたのは、重商主義に移行しようとした田沼意次ぐらいじゃない
江戸の三大改革と呼ばれる倹約主体の改革は、実際のところはほとんど効果がなかった。
では、それで江戸幕府が立ちゆかなくなったかというとそうではない。
実際には、田沼意次の時代や水野忠成時代のように経済がうまく回転して好景気に沸いた時代があり、
これらの時代に積み上がった富によって幕府は多大な利益を得ていた。
その利益の源泉は貨幣の改鋳益や、南鐐二朱銀や天保一分銀のような「銀貨で代用した金貨」といった
カラクリで生み出していた純粋な利益金。
この辺のことは佐藤雅美の『将軍たちの金庫番』に詳しい。
要約を載せた書評があるんで、とりあえずURLを貼っとく。
URLリンク(lounge.cafe.coocan.jp)
「十一代将軍家斉の時の老中が水野忠成である。
金を何とかしろと言われて、手をつけたのが貨幣の改鋳であった。改鋳には二通りある。
品位を落とすものと、「官府の印理論」を応用したものである。水野はこの両方を行った。
結果として、貨幣の改鋳を行った年から四十年間で千七百九十六万九千五百両余、
年で平均四十四万九千二百両の益金を得たという。
重要なのは、「官府の印理論」を応用した改鋳は世人に貨幣改鋳と悟られなかった。
幕末の俊才・川路聖謨ですらそのことを知らなかった。
幕府の唯一の成功した改革・享保の改革など足元にも及ばない成果を上げたのだ。」
「官府の印理論」というのが何かというと、同じ重さでくらべれば1対15くらいの価値の違いがある
金貨と銀貨とを、幕府の刻印を打つことによって1対5くらいの価値で銀貨を流通させるというモノ。
つまり、本来であれば一分銀4枚の重さでは1/3両程度の価値しか無いのにもかかわらず、
幕府がその銀貨に「一分銀」という刻印を打つことによって1両分の価値をそこに持たせるという手法。
今の一万円札は紙幣の原価としては十数円程度のモノだけれども、そこに「日本国政府」の権威を
持たせることで一万円として流通させうる、という考え方に近い。