11/09/18 20:12:35.08 C+U7oCKV0
>221
>それ以前にも飢饉は存在しますが規模が違います。
>また飢饉の記録は存在します。養和や寛喜の飢饉などは有名です。
>それぞれ方丈記や吾妻鏡などに記録がのこっております。
では、具体的な飢饉による死者の規模の違いを提示して下さい。
また、ご指摘頂いた飢饉の記録も、西日本から中四国の記録が主で、
九州や東北地方の記録は少ないようですが。
>江戸時代の飢饉はただの気候変動などよりも、行政のミスにより起こったものです。
これは否定しません。
幕府は中央集権的に強大な権力を持った政権ではなく、地方のことはそこの領主に
相当の権限を許す体制だったので、無能な領主の元では不必要に甚大な被害が
発生したことは否めません。
>江戸滞在費と参勤交代の費用は遠方に住む外様諸藩では藩の出費の半分以上を占める莫大なものでした。
>これらの出費は全ての諸藩に重くのしかかっており、その負担は諸藩の民が背負う事になっております。
何度も言うように江戸時代というのは全期間を通じて武士の経済的な余裕が失われて行き、
農民・町民・商人たちにその富が移っていった時代なのです。
武士の財政が苦しくなっていったからには、地方の農民達から過酷な収奪をしていたに
違いないとお考えのようですが、実際にはそのような傍若無人な行政を行っていると
幕府の側から叱責を被ったり、領民が他領に逃げてしまって非耕作地が広がって
年貢収入が減ってしまい、なおのこと武士が貧乏になるという構造が存在していました。
>輸送コストも跳ね上がり、移動するためのコストも非常に高くなってしまったからです。
>それまでは良くも悪くも地産地消で、一部の物意外は現地でなんとかなっていました。
つまり、それらの輸送コストが掛かるということはその輸送に携わる膨大な雇用が存在した
ということでもあり、地産地消をせずに都市や街道に物産を輸送することで利益を上げられる
くらいに商品経済や貨幣経済が発達していったということでもあります。
どちらも支配階級である武士の側に有利な事柄ではなく、底辺の庶民や農民にとって
ありがたみのある事柄だったように思います。