なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2at HISTORY2
なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2 - 暇つぶし2ch222:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 19:54:14.74 C+U7oCKV0
>218
>欧州ではその戦争を梃に軍事技術の進化や行政、財政の合理化効率化が進みましたから
>戦乱の有無は一長一短ですね。

それは戦争に勝って自国が壊滅的な被害を被ることを免れた側にのみ言えることで、
実際に蹂躙されて国土を踏み荒らされた国の住人にとっては、あまり聞き入れられる
内容のことではないと思います。

戦後の高度成長期には戦争中に軍の機構に携わっていた人々が民間に移ってきて
その技術を活用したおかげで発展した産業などもありましたが、だからといって
「あの戦争」をやって良かったと考える人がほとんどいないという事例もありますし。

欧州での軍事技術や行政・財政の合理化効率化をちゃっかりと身につけて強大な国家を
作り上げた大日本帝国という事例もありますので、「200年間の平和な時代は、
全くの無為な時間だった」という意見対して、私は首肯できません。

江戸期の日本が、相応に合理化や効率化を推し進めて国民に豊かな生活をさせられる
国家であったという様々な例証は数多く上がっていますし、進歩したという欧州諸国が
自国民に幸福な生活を約束し得ていたかというと必ずしもそうでない部分もありますから。

また、軍事技術を身につけた彼等がアジア・アフリカ・南米で行った数々の非道を
考えるにつけ、欧州での「進歩」というのが無条件に賛美されるべきものなのかどうか
という視点も必要とされるものなのでないでしょうか。


>幕府に於いても天保改革が失敗し慶応改革がそれなりに成功したのは、長州征討があったから

これに関しては、同意します。
明治維新にしても、戊辰戦争という形での流血の事態がなかったならばあそこまで上手く改革が
進むことはなかっただろうとも思っていますから。

日本は近代を成し遂げた国家としては例外的なくらいに「流した国民の血」が少ない国ですが、
そういう利口な立ち回りが可能だったのも、江戸期が相応の時間をかけて育んだ優秀な国民と
指導者とに恵まれたからだと考えています。


>文化面においてもルネサンスや東山文化のように戦乱の時代でも花開く事もありますから。

「戦乱の時代に文化が花開いた」というのと、「文化が花開くには戦乱が必要」というのとは
イコールではないですよね。

江戸期にも元禄文化や化政文化といった文化が花開いておりますので、戦乱が必要という
ことではないのではないでしょうか。

戦乱に巻き込まれていつ殺されるか分からないような国にいるよりも、殺されるような
事態がそうそう起きない国に住む方がおそらくは幸せであろうという考えのもとに、
「軍配を上げる」と申し述べました。

223:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 20:12:35.08 C+U7oCKV0
>221
>それ以前にも飢饉は存在しますが規模が違います。
>また飢饉の記録は存在します。養和や寛喜の飢饉などは有名です。
>それぞれ方丈記や吾妻鏡などに記録がのこっております。

では、具体的な飢饉による死者の規模の違いを提示して下さい。
また、ご指摘頂いた飢饉の記録も、西日本から中四国の記録が主で、
九州や東北地方の記録は少ないようですが。


>江戸時代の飢饉はただの気候変動などよりも、行政のミスにより起こったものです。

これは否定しません。
幕府は中央集権的に強大な権力を持った政権ではなく、地方のことはそこの領主に
相当の権限を許す体制だったので、無能な領主の元では不必要に甚大な被害が
発生したことは否めません。


>江戸滞在費と参勤交代の費用は遠方に住む外様諸藩では藩の出費の半分以上を占める莫大なものでした。
>これらの出費は全ての諸藩に重くのしかかっており、その負担は諸藩の民が背負う事になっております。

何度も言うように江戸時代というのは全期間を通じて武士の経済的な余裕が失われて行き、
農民・町民・商人たちにその富が移っていった時代なのです。

武士の財政が苦しくなっていったからには、地方の農民達から過酷な収奪をしていたに
違いないとお考えのようですが、実際にはそのような傍若無人な行政を行っていると
幕府の側から叱責を被ったり、領民が他領に逃げてしまって非耕作地が広がって
年貢収入が減ってしまい、なおのこと武士が貧乏になるという構造が存在していました。


>輸送コストも跳ね上がり、移動するためのコストも非常に高くなってしまったからです。
>それまでは良くも悪くも地産地消で、一部の物意外は現地でなんとかなっていました。

つまり、それらの輸送コストが掛かるということはその輸送に携わる膨大な雇用が存在した
ということでもあり、地産地消をせずに都市や街道に物産を輸送することで利益を上げられる
くらいに商品経済や貨幣経済が発達していったということでもあります。

どちらも支配階級である武士の側に有利な事柄ではなく、底辺の庶民や農民にとって
ありがたみのある事柄だったように思います。

224:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 20:43:33.11 2VlnCEMz0
>>208
>また、「東北諸藩の人口の伸びが悪い・西国の方が人口が増えている」というにしても、

正しくは東北では微減、北関東では激減、西国で増加。
で、日本全部でみると人口が停滞していたのが江戸中期以降です。
そして明治になると数十年で人口は倍増します。気候は寒冷のままです。
江戸幕府の統治に問題があるだけですよ。
結果的にはいかにして民を苦しめるかという時代だったのです。

>>212
寒冷期で戦乱が起こるのはむしろ普通です。そしてだからといって、
寒冷期で人口が伸びないわけじゃないのです。
戦国時代は寒冷期でしたし、戦争が起こっていたわけですが、人口は増えてます。

>>210
日本社会を停滞させることで安定といわれましても。
ただたんに貴方幕府の政策ならなんでも賛美するだけじゃないんですか?
日本が列強から、辺境の小国になってしまったのはこういう「規制」により、
社会の発展が阻害されたからなんですが?

225:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 21:09:01.85 C+U7oCKV0
>224
>日本全部でみると人口が停滞していたのが江戸中期以降です。

その当時の日本で養いうる人口の上限がそのあたりだったということでしょう。


>そして明治になると数十年で人口は倍増します。

明治になって人口が極端に増えていったのは、医療の発達と戦端的な技術の導入が
速やかに行われていった結果だと考えておりますが、あの当時の西欧列強の
植民地化政策を免れ得たのは徳川幕府の統治が盤石であったことに
その原因を求められると思います。

欧米から与えられる技術に魅せられてその侵入を容易に許した国々が、
さんざんな目に遭ってきたのは近代のアジア史を調べてみれば容易に先例が
見つかりますし、幕末の過程においても薩英戦争や戊辰戦争の過程で日本人が
相応の軍事力を持っていることを諸外国認識させたからこそ列強につけいる隙を
与えなかったのです。

そういう環境を形作り、調えてきた幕府の施策に対して、私は評価すべき事柄は
多々あると感じております。


>日本が列強から、辺境の小国になってしまった

現在の日本も戦前の列強の一角から憲法で軍事力を縛られた小国に成り下がりましたが、
60年間の平和を守って経済的な大国にのし上がりました。

豊臣秀吉が行った朝鮮出兵に象徴されるように、対外的な武力行使は失敗したときに
かなり大きな痛手を負うことになります。

日本は、戦国期には世界に存在する銃の総数のウチ、かなりの割合を自国で持つに
いたる強大な国家でしたが、あえて外国に侵攻するような武力を封印して、
「元和偃武」を成し遂げたました。

江戸期の日本も当時の世界の中で100万の人口を持つ大都市「江戸」を抱え、
三千万という人口を安定して抱える地域大国では有り続けました。
これは当時のヨーロッパのどの国よりも大きな人口ですし、同時期のヨーロッパで
100万もの人口を抱える都市は数えるほどです。
こういう実績にもきちんと目を向けるべきなのではないでしょうか。

226:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 21:10:36.80 j8dTM+VP0
外敵が来て、攘夷できないから幕藩体制が滅んだんだから。
外敵が存在なかった日本では、国民国家を作り出す基盤があっても中々起きないのは当然。
西洋列強は外敵との争いから、国家が上下左右一致して外敵に当れる統一国家・国民国家を作る必要に迫られたんで。

227:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 21:18:33.32 2VlnCEMz0
>>222
戦争をしない代わりに、戦争よりも飢餓で殺していたら同じ事でしょう。
江戸幕府はそういう政府だったのですよ、
戦国時代以前や明治以降は、米が足らないなら他所から奪う、生産力を増加する、
様々な方法で量を増やすようにします。
ですけど江戸時代とは、量を増やすのではなくて節約というか我慢する時代なのですよ。
行政機構を刷新すると古くからの伝統が崩れ社会が不安定になるのでやらない。
生産力の増加は力をつけてくる奴等がいるので制限する。
他所から奪うのも行わない、他所から奪う為に力をつける事もしない。
軍は官僚機構にはや代わりと。
既得権益を守る事しかやらないから、どうしても社会は発展性を失う。
パイをどんなに上手く分けるか、ではなくてパイを増やす事が必要なのです。

>>223
俗にいう享保、天明や天保の大飢饉になると数十万から一説には100万にも達する規模といわれてますね。
それも江戸時代の飢饉は50年に一度というペースで起こっており、こんな頻発したのは江戸時代だけです。
(数万人規模の飢饉もあわせれば10年に一回くらいのペースです)
そして飢饉として主なのが東北や九州でないから、というだけの話です。

>無能な領主の元では不必要に甚大な被害が発生したことは否めません。

違います、幕藩体制に根本的な問題があるんですよ。
どうやって江戸滞在費や参勤交代費用を捻出するのですか?
商品作物や米の売買以外で捻出しないと、構造的に飢餓移出が発生するわけですが?
ちなみに参勤交代とか無駄ですよね?これなんの得にもなってない。

228:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 21:35:55.28 2VlnCEMz0
>年貢収入が減ってしまい、なおのこと武士が貧乏になるという構造が存在していました。

だから実際そうなっていたじゃないですか。何を言っているんですか。
東北北関東の人口減はこれが原因です。
富など移りはしませんでした、ただ皆が貧しくなったのが江戸時代なのですよ。
貴方の指摘した構造のとおりにみなが貧しくなっていったのです。
それを人返し令とかで強引に戻そうとしても上手くいくわけがないのです。
さらにいうと、そうやって都市部に出てきた者たちは、丁稚奉公などでこき使われて、
大半は子供も残せず死にます。疫病なども大流行ですし、衛生観念などろくにない時代ですから、
ばたばたと死にます。歴史人口学ではこの時期の都市を蟻地獄と読んでいる人もいるくらいです。
既得権益をもった一握りの特権階級は豊かだったでしょうが、そんなのごく一部ですよ。

>地産地消をせずに都市や街道に物産を輸送することで利益を上げられる

地方の富が都市部に移るだけですが?武士が地方で消費活動をすれば地方は潤いますが、
都市部で消費しても地方はうまみがないです。
また輸送コストというのは時間的なロスだけでなく、物質的にもロスします。
難破率が高く商品を安定的に供給できません。小さい船のほうが積載量も小さいので、
その分船も人員が多くかかるのにです。

>どちらも支配階級である武士の側に有利な事柄ではなく、底辺の庶民や農民にとって

武士は重税という形でそれを回収します。よって庶民も苦しくなります。
公務員が高コストの仕事をすることで、確かに潤っている人達もいるでしょう。
けどそれって最終的に税金でまかなっている事を忘れている人が多すぎですね。

苦しい藩では税率だけでなく、税の対象まで広げ、検地も頻繁に行い。民から富を収奪しました。
けど諸藩も好きで苦しめているわけじゃありません、全て幕藩体制という精度が悪いのです。

229:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 22:00:31.50 C+U7oCKV0
>227
>戦争をしない代わりに、戦争よりも飢餓で殺していたら同じ事でしょう。

戦争で死んでいた人数よりも、幕府統治下の平安のもとで飢饉で死んだ人数の方が
確実に多いという根拠はどこにあるのでしょう。

戦乱の最中にでも飢饉というのは起こりうるものだと思いますが。
寒冷化に由来するものならばなおのこと。
寒冷化で生じた飢饉の最中に戦乱が起こるよりも、安定した社会での飢饉の方が
混乱が少なくて済む分だけ死者は少なくて済みそうなものですが。


>戦国時代以前や明治以降は、米が足らないなら他所から奪う、生産力を増加する、
>様々な方法で量を増やすようにします。

戦国期を通じて日本の人口は一千万人台の半ばくらいです。
江戸期に入って三千万くらいに倍増して、そのあとはこの数値で頭打ちになり
微増や微減を繰り返しながら幕末になります。

江戸期にも新田の開発や特産品の奨励など、生産力を増加するという作業は行われており、
その上での限界が三千万くらいというラインだったんです。


>他所から奪うのも行わない、他所から奪う為に力をつける事もしない。

これはむしろ賞賛されるべきことだと思うのですが。
他所から奪うことを作業に伴う非生産的な労力を払うのはトータルで損だと
判断したわけでしょう。
とりわけ日本は島国で、他所から奪って持ってくることに関するコストは
バカ高かったわけですから。
地産地消でいいじゃないですか。


>軍は官僚機構にはや代わりと。

これも賞賛されるべきことでしょう。
治安が安定していて、外敵が攻めてこない状態だったら軍なんて無用の長物。
それを上手く国内向けの官僚組織へと脱皮させたのは英断だと思います。

230:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 22:13:06.91 C+U7oCKV0
>227
>数十万から一説には100万にも達する規模といわれてますね。

記録に残っているそれ以前の飢饉の時の総人口を考えてみて下さい。
鎌倉以前であれば1000万人を切るくらいです。

飢饉が起こったにしても母集団が少ないがために数が少なくて済んだのであって、
総人口に比したパーセンテージで見れば江戸時代と良い勝負だと思います。

もともとから抱えていた人口が養いうる限界に近かったがために
天候不順が一度起これば飢饉の被害が大きなものになってしまうのであって、
抱えていた人口が少なかった時代と直接に比較するのは公平ではないです。


>どうやって江戸滞在費や参勤交代費用を捻出するのですか?

年貢の中からですよ。当然でしょう。
江戸時代には大名や旗本が勝手不如意だからといって気軽に税負担を重くするような
ことは許されておりませんでした。

江戸時代初期には、大名の経済状態は年貢収入だけでも結構裕福な状態で、
それだからこそ参勤交代のコストも払い得ていたのですが、貨幣経済が発達し
参勤交代や江戸在府にかかるコストが上昇して行くにつれてその余裕は失われ、
かつ年貢収入の増加もそれほどではなかったがために徐々に経済状態は悪化し、
出入りの商人に頭を下げて金を借りたり、大名行列の人数を外注したりするような
ハメに陥りました。

>ちなみに参勤交代とか無駄ですよね?これなんの得にもなってない。

経済というのは膨大な浪費が元になって貨幣が潤滑に流通することによって活性化します。

各地に割拠する領主が年貢を年々貯め込んで民間に廻すことをせず、あまつさえ軍事力を
養って他国に攻め込もうなどと考えはじめるとろくなことにはなりません。

参勤交代はそうした地方の領主の力を適度にそぎ、民衆から吸い上げた年貢を再度民間に
流すための回路として機能していたという側面があり、全くの無駄とは言い切れません。

231:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 22:31:47.46 C+U7oCKV0
>228
>富など移りはしませんでした、ただ皆が貧しくなったのが江戸時代なのですよ。
>貴方の指摘した構造のとおりにみなが貧しくなっていったのです。

私は新撰組モノなどの小説から歴史の分野に興味を持った人間なのですが、
これらのいわゆる「幕末の志士」とやらが澎湃として日本中からわき出てくる
その母体は何だったのだろうかというのが興味の対象でした。

それまで教科書で習っていた「百姓は生かさず殺さず」という幕府の政策が
行われていたのであれば、あのように大量の人間があっちこっとに移動したり
農作業もせずに食えていけるというのはおかしいと考えたからです。

そしてあれこれと調べていくうちに、当時の農民は「食うや食わず」などという
過酷な状況に置かれていた訳ではなく、それなりに円満で穏やかな生活を
営みうる程度にはちゃんと食えていたし、そうした余裕を生み出しうるだけの
しっかりした基盤を持っていたことが分かってきました。

全員が貧しくなったというのは認識の仕方が間違っていると申し上げます。
より正確には、「支配階級側の富が民間に移った」というのが実情であり、
その中で豪農や豪商といった富裕層は存在したにしても、総体的には
富の再分配が着実に行われていた社会であったと考えます。


>丁稚奉公などでこき使われて、大半は子供も残せず死にます。

丁稚奉公で順調に出世してのれん分けをされたり番頭として商家の差配を
するまでになれるのはごく少数です。
ではそうなれなかった人々はどうしたかというと、奉公の年季が明ければ
実家に帰って農業に戻ったり、武家の雇いモノになったり、日雇いの労働などで
それなりに食っていける道を探せたのです。

丁稚奉公というのを過酷な奴隷労働か何かとお考えなのかもしれませんが、
わりと緩い勤務形態でしたし、それがイヤであればドロップアウトすることも
可能なくらいに柔構造の体制だったんですよ。


>疫病なども大流行ですし、衛生観念などろくにない時代ですから、ばたばたと死にます。

これは中世ヨーロッパなどでも同じ事です。
産業革命以前のヨーロッパは酷いモノだったんですよ。


>既得権益をもった一握りの特権階級は豊かだったでしょうが、そんなのごく一部ですよ。

いったいどこのマルクス歴史学を習ってきたのですか?
そういう前世紀の歴史理論は近年では退けられています。


>武士は重税という形でそれを回収します。よって庶民も苦しくなります。

この認識がそもそもの間違いです。
何度も言いますが、簡単に重税を課して農民を搾取することが可能なのであれば、
もっと手軽に出入りの商人たちに重税を課しますよ。

江戸時代にはそれまで取っていなかった税金を取るという行為は簡単には
認められませんでした。
だからこそ武士階級は貧乏になっていったのです。
重税を課すことが出来ていたのであれば、武士は貧乏にはなっていません。

232:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 22:41:07.18 2VlnCEMz0
>>225
>その当時の日本で養いうる人口の上限がそのあたりだったということでしょう。

間違いですね。
農業や農法は劇的には進化しませんよ。少なくともいきなり倍にはなりません。
つまり江戸時代は幕府の失政で減っていただけです。
実際東北や北関東は減っています。つまり上限値はもっと上だったのです。

>明治になって人口が極端に増えていったのは、医療の発達と戦端的な技術の導入が

違います食料の生産量が増えたからです。
そして幕府に殺される民衆がいなくなったからです。

>植民地化政策を免れ得たのは徳川幕府の統治が盤石であったことに

新政府のおかげであって、幕府が統治していたら植民地化ですよ。
幕府では近代化できないか、近代化の金を借金でまかなうのが計画ですから。
鉄道なども敷設権を与えています。自分で作るわけじゃないんですよ。

>そういう環境を形作り、調えてきた幕府の施策に対して、私は評価すべき事柄は

その上の文章を読み限り、薩英戦争やら戊辰戦争なので幕府関係ないと思われますが。

>豊臣秀吉が行った朝鮮出兵に象徴されるように、対外的な武力行使は失敗したときに

国内的にマイナスがあったとは思えませんが?
そして江戸時代は経済的にも貧しくなった時代ですよ。戦国時代は世界有数の鉱山をもち。
人口も当時の欧州とは比べ物になりません、中国の人口も6000万から一億くらいで、
日本は1500万から2000万くらいです。江戸時代は3000万で頭打ちですが、
中国は数億人にまで増えました。中国と比べても駄目なレベルなんですよ。
戦国時代の日本は世界を震撼させる大国だったというのに。

>これは当時のヨーロッパのどの国よりも大きな人口ですし、同時期のヨーロッパで

欧州にはそもそもあまり人口いませんから、そして江戸時代の都市化は諸藩の苦しみの上に成り立っているのですよ。
江戸は政治的な都市です。自然発生したわけじゃないのです。
諸藩の江戸滞在を強制させる事で生み出されたものなのです。

233:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 23:03:14.42 2VlnCEMz0
>>229
>戦争で死んでいた人数よりも、幕府統治下の平安のもとで飢饉で死んだ人数の方が

数十万単位の人が死ぬ合戦などありません。
戦国時代にも飢饉はありましたが、人口は順調に増えていました。
ですが江戸時代は増えません。なんでしょうね。

>寒冷化で生じた飢饉の最中に戦乱が起こるよりも、安定した社会での飢饉の方が

食料の量によりますから変わりませんよ、そして江戸時代の場合、
購買力のある江戸の富裕層や江戸に滞在するものたちに、米が買われます。
諸藩は借金をして参勤交代を行っているので、国内で餓死者がどんなにでても、
売らないわけにはいけません。なので領民から食料を奪って、江戸で売るわけです。
餓死というのは食料が足りなくなるのと同時に、購買力のないほうからある方へと移って起こるものです。
だから江戸時代の飢饉は構造的な問題だと言っているのです。日本史のほかの時代にはありえない事です。
だって参勤交代みたいなクソな制度は存在しませんから。

>他所から奪うことを作業に伴う非生産的な労力を払うのはトータルで損だと

当時の武士の大半は仕事なんてしてません。行政機構の維持にあれだけの武士がいるわけないでしょ。
実際明治政府は武士の大半の首をきっても、行政機構を回しています。
役所でお茶飲んでいる無駄な公務員みたいなもんですよ。

234:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 23:16:58.12 2VlnCEMz0
>>230
一説では100万近く餓死者がでたのが数十年おきですよ。こんな時代他にないですよ。
それも100年以上にわたってね。
そして江戸時代の餓死とそれ以前の餓死の違いが分かってない。
なんで頭打ちになったのかをね。
諸藩は金銭的に苦しい。だから金を作る為に商品作物を奨励した。
けどこれが上手くいかないと食べ物が買えないという代物。もしくは飢饉がおきて食料が減ったら、
米価が上がって米が買えなくなってやっぱり餓死。
米が高かったときに東北の不毛のところでまで米作をしたことで、寒冷化で頻発する飢饉。
全て幕藩体制が生み出した人災です。

>江戸時代には大名や旗本が勝手不如意だからといって気軽に税負担を重くするような

嘘です。藩によって税率はばらばらです。さらに租税の対象もばらばらです。
藩によっては畑や庭になっている柿木ですら税の対象にした藩もあります。
勝手に気軽に税を重くするのが当たり前だったんですよ。

>各地に割拠する領主が年貢を年々貯め込んで民間に廻すことをせず、あまつさえ軍事力を

他国から奪うで何が悪いんですが、西洋はそれで発展しました、日本も戦国時代それで発展を遂げました。
そもそも戦争とは巨大な消費であり、経済活動でしょ。
参勤交代はよいが戦争は駄目というのは理解できませんな。

>参勤交代はそうした地方の領主の力を適度にそぎ、民衆から吸い上げた年貢を再度民間に

支出の半分以上が適度?そして地方の民衆から吸い上げたものを。江戸や街道筋の民衆が吸うのが妥当だと?
地方の富を搾取しているだけではないか。
東北で大飢饉で藩によっては人口が半減したところもあるのに、
江戸では白米が普通に食べられていた。今の北朝鮮と同じだよ。
一部の特権階級とそのおこぼれに預かる人間だけ豊か。地方の農村は死屍累々。

235:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 23:29:46.43 C+U7oCKV0
>233
>数十万単位の人が死ぬ合戦などありません。

戦乱というのは、戦闘で死ぬ人間の数だけでなく、その背後に膨大な量の
不安定な地域を生むことで国土を荒廃させるのです。

戦闘で勝った側が、負けた側の土地に住んでいた住人達から食糧を奪ったり
住人を過酷な労働に使役することによっても死亡する人間は出ます。

戦闘で死ぬのは武士達ですが、戦闘によって田畑が荒らされて食っていけなく
なるのは主として農民ですよ。

>戦国時代にも飢饉はありましたが、人口は順調に増えていました。

「増えていた」と胸を張れるほどの増加だったのでしょうか?
江戸時代は戦国期の倍以上の人口を養っていますよ。


>諸藩は借金をして参勤交代を行っているので、国内で餓死者がどんなにでても、
>売らないわけにはいけません。なので領民から食料を奪って、江戸で売るわけです。

飢饉の時に借金の返済を滞らせたり、参勤交代の免除を幕府に申し出るくらいのことは
どこの藩でもやっています。

所領の中で餓死者が出ているときに、呑気に参勤交代をしたり米を売ったりしているような
領主ばかりだったら江戸時代には人口がもっと減っていますよ。
そういうバカな統治をしている藩は容赦なく石高の低い国にお国替えをさせられたりしています。

無能な領主が悪政の限りを尽くしているようなイメージを持たれるのは勝手ですが、
そういうイメージは実際の姿を反映しておりません。


>当時の武士の大半は仕事なんてしてません。
>行政機構の維持にあれだけの武士がいるわけないでしょ。

その大半の武士はかつかつの生活をしており、傘貼りの内職をしたり
庭に作物を植えて食糧を確保するなどの涙ぐましい努力をしていました。

高等遊民のように優雅な生活を送っている武士もおりましたが、そんなのは
それこそごく少数。
ほとんどの武士は、生活が苦しい中で、武士としての矜恃や教養を身につけようと
悪戦苦闘していました。

幕末に劇的な体制の変換を成し遂げたのはこうした下級士族層です。
彼等のような存在を養い得ていたというだけでも、幕藩体制というのは
相応に意味のあるモノだったと考えています。

236:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 23:50:29.19 2VlnCEMz0
>>231
>私は新撰組モノなどの小説から歴史の分野に興味を持った人間なのですが、

だから無知なのですね。新撰組(笑)なんてただのちんぴらごろつきですし。
池田屋事件はただの捏造。拷問で「自白」させただけの架空の計画。その後も京都を火の海にしたりと最低の連中ですよ。
京都の町民から勝手に徴発はする。小説家や江戸時代はよかったとか、
見てもいないのに空想で書く江戸マンセー作家に貴方は汚染されてますね。

>あのように大量の人間があっちこっとに移動したり農作業もせずに食えていけるというのはおかしいと考えたからです。

農業では食えなくなったので流民になっただけなんですが?

>富の再分配が着実に行われていた社会であったと考えます。

どこで再分配されたというんですかw、
そもそも富の再分配された社会がいいとかいうのはマルクス主義に汚染されますよw

>いったいどこのマルクス歴史学を習ってきたのですか? そういう前世紀の歴史理論は近年では退けられています。

おいおいおいおいw江戸時代は完全な階級身分社会ですよ。商人でも扱う商品が決まっており。
株をもった人間だけで独占されて運営されていました。結果的にこれが江戸の高物価を生み出しました。
これは世襲で身分と職を受け継ぐ商人に代々継承されていきます。
競争などもありません。新規参入もありません。
これを既得権益といわず何を言うんですかw
こんなの商人だけに留まりません。農民でも莫大な農地を持つ豪農も似たようなものですし。
職人もほぼ世襲の特権階級ですから、競争もクソもない。彼らが物を作るからどうしても高くなる。
カルテルを結んだ存在が市場にとって害悪でしかないのは分かるでしょうに。
江戸の高物価とはこういう幕府のゆがんだ政治により行われ、それによって諸藩が苦しめられたのです。

>それがイヤであればドロップアウトすることも可能なくらいに柔構造の体制だったんですよ。

だからそれ現代でいえば派遣でしょ。特権階級の商人や武士の下働きで終わる人生ですよ。
自分一つ食わすのがやっとで、子供なんてとてもとても。
江戸の町民の大半はそういう状況下で、退廃的かつ享楽的で刹那的な生き方をしてました。
別にそれが悪いとはいいませんが、とても不安定な立場だったって事ですよ。

>江戸時代にはそれまで取っていなかった税金を取るという行為は簡単には

これが間違いです。新たに税を課すのは諸藩の自由裁量です。
藩によっては検地が頻繁に行われ、それまで課税対象ではなかったものまで、
収入とみなされて重税が課されました。

237:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 23:57:58.67 C+U7oCKV0
>234
>一説では100万近く餓死者がでたのが数十年おきですよ。こんな時代他にないですよ。

だから、総人口の推移のことを考えなさいってば。
鎌倉以前の人口が数百万くらいしかいなかった時代と、三千万の人口を擁する江戸期とを
同じ基準で比べようってのがそもそもの間違いです。


>諸藩は金銭的に苦しい。だから金を作る為に商品作物を奨励した。
>もしくは飢饉がおきて食料が減ったら、 米価が上がって米が買えなくなってやっぱり餓死。

飢饉が起きて米が不作だったときに、換金作物がちゃんと収穫できれば
そのお金で他所から米を買うことも出来るでしょ。

リスクを分散する手法としても、山がちな国で水田のための広い面積を
確保できない地域にも生計の手段を図るための手法としても有益です。


>米が高かったときに東北の不毛のところでまで米作をしたことで、寒冷化で頻発する飢饉。

で、その東北では江戸期以前にどれだけの人口を養っていて、
飢饉はどのくらいの規模・頻度で起こっていたんですか?

どうもあまりしっかりした記録が残っていないように思うのですが。


>勝手に気軽に税を重くするのが当たり前だったんですよ。

特異な例を出して全体を推し量ろうという乱暴な手法です。
それこそ「おにぎり食べたい」といって餓死した老人のニュースをもって
「日本は餓死者が続出している」というミスリードをするのに似ています。


>他国から奪うで何が悪いんですが、西洋はそれで発展しました、日本も戦国時代それで発展を遂げました。

それでオッケーなのであれば徳川時代を通じて戦乱が絶えず、人口も増えないままだったの
ではないでしょうかね。
戦国期に増えた人口なんて、それこそ「微増」と言って良いレベルですよ。


>そもそも戦争とは巨大な消費であり、経済活動でしょ。
>参勤交代はよいが戦争は駄目というのは理解できませんな。

合意の元に行われる経済行動と、強盗とを一緒に並べるようなモノですね。
「活発な経済とは金を回すことだ」とはいいましたが、泥棒をしてその金を使って
消費するのが善であるなどと申し上げた覚えはありませんよ。


>そして地方の民衆から吸い上げたものを。江戸や街道筋の民衆が吸うのが妥当だと?
>地方の富を搾取しているだけではないか。

おや、あなたは戦争によって他者から食糧を奪うのを奨励していたのではなかったのですか?
合法的な搾取はダメで、暴力的な収奪はオーケーというのはよく分からない基準ですね。


>東北で大飢饉で藩によっては人口が半減したところもあるのに、江戸では白米が普通に食べられていた。

で、そういった地域の藩が自国民を飢えさせて米を換金していたというのはどこから出た話ですか?
飢饉の時にはもっぱら他領から米を買って自国の領民に食わせていたという記録の方が多いのですが。

238:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 00:32:26.39 r/0+aDma0
>236
>農業では食えなくなったので流民になっただけなんですが?

実家から仕送りをもらっていたり、国元を出るときにけっこうな額の金を
貰ってきていたりもしていますよ。
そうでなければあっという間にのたれ死にでしょ?

そういう「志士」を送り出すだけの基礎体力を農村が持っていたということです。

>富の再分配された社会がいいとかいうのはマルクス主義に汚染されますよw

あなたはどこにスタンスを置いているのか分からない人ですね。
さんざん一部特権層とやらを攻撃しているのに、「富の再分配とかw」という発言が
どうあなたの中で繋がっているのかをお教え願いたいものです。

>株をもった人間だけで独占されて運営されていました。結果的にこれが江戸の高物価を生み出しました。

株というのは売買されもしましたし、貧乏人が金を貯めて株を買って成り上がっていった
という話も枚挙にいとまがありませんよ。
そもそも士族である「御徒」の株でさえ買うことが可能だったんですから。

勝海舟の祖父はそうやって武士になりましたし、日田の代官の手代の息子だった
川路聖謨は武家の養子になって幕臣となり、刻苦勤勉を重ねて出世していき
勘定奉行にまで上り詰めました。

あなたのいうように、「ガチガチの身分社会で身分の上昇などは不可能」という
江戸期の社会の理解は間違っているとしか言えません。

>これは世襲で身分と職を受け継ぐ商人に代々継承されていきます。

それから、商家においては世襲といいつつも息子が後を継ぐということは
結構少なく、丁稚奉公を勤め上げてその人格を認められた番頭や手代が
入り婿という形で迎え入れられる例がかなりあります。

有能な人間に後を継がせなければ家が傾くという「生活の知恵」が働いていたのか、
商家の若旦那がそのまま家を継ぐというような太平楽な世襲制度ではありませんよ。

>職人もほぼ世襲の特権階級ですから、競争もクソもない。

特殊技能を持つ宮大工とかならともかく、その辺の植木屋とか鋳掛け屋なんかは
かってに仕事をしていましたよ。
仕事の内容に満足して金を払う人間がいれば仕事を続けられるし、技量がまずくて
仕事が途切れればまた別の仕事を探すってだけで、世襲制度でガチガチの社会だなんてのは
それこそ前世紀の歴史学の認識です。

落語で裏長屋に住んでる「八っつぁん、クマさん」みたいな連中が相応にいたんですよ。
大工でも左官でも、とりあえず五体満足ならば食っていく事が出来るだけの仕事に
ありつくことができて、長屋に住んでりゃ家賃もそれほど高くはなかったから
けっこう呑気に暮らしていました。

239:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 00:33:09.91 r/0+aDma0
>236
>だからそれ現代でいえば派遣でしょ。特権階級の商人や武士の下働きで終わる人生ですよ。
>自分一つ食わすのがやっとで、子供なんてとてもとても。

その理屈で行くと、江戸の町民には子供がぜんぜんいなくって、成人になって
流民として農村から出てきた人間だけが食うや食わずで生活していて、
子供を産まずに死んでいき、そのあとをまた流民が埋めてというサイクルですよね。

常識的に考えておかしいとは思いませんか?
町民の子供が学んでいた寺子屋はいったいどうやって成立していたんですか?

>藩によっては検地が頻繁に行われ、それまで課税対象ではなかったものまで、
>収入とみなされて重税が課されました。

そういう政治を行っていた藩が領民からどんなしっぺ返しを喰らっていたのかが

『百姓たちの江戸時代』 渡辺尚志
『逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦』宮崎克則

といった本の中では書かれているのですが。
ちゃんとお読みになってます

240:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 01:11:04.26 ECxFC0X40
おい、誰かに襲われたのか?

241:194
11/09/19 01:38:18.64 gTIgKGo80
私も含めて論争してるのは3人?コテをつけてくれたらわかりやすいのだけれども。

>>220
>幕府歩兵の人数はそこまで多くはなかったと思いますが。
長州軍は2、3千人。幕府軍は1万。だったはず。

>軍事組織として統一が取れているわけでもなく、てんでんばらばらな指揮系統ですから、
それが出来ていないからこそ幕府の軍事力への評価は低くなるわけで。新政府が戊辰戦争
の際に諸藩を組み入れた時は指揮系統を統一し諸藩の軍備にも容喙しています。

>勝っていれば良かった、というのは結果論の話で、そういう一か八かの選択に出てしまった
>こと自体が政治的な失敗です。
当事者の認識では逆に薩長側が一か八かで、慶喜側は兵力的にも政治的にも有利な
状態で開戦したわけですよ。それが、軍事改革の不徹底による人事的硬直と慶喜の不決断に
よって敗北してしまったわけですが。

結局幕府は寛政年間以来、効果的な軍事改革に失敗し続け討幕に至るわけですから、
幕府に対する評価としては軍事的に脆弱というこになると思います。
最も17世紀に於いては欧州もそこまで強く、幕府も戦国時代の遺産がありますから
ここまで脆弱では無かったのですけれども。


242:194
11/09/19 01:52:45.63 gTIgKGo80
>>222
>それは戦争に勝って自国が壊滅的な被害を被ることを免れた側にのみ言えること
むしろ負けた側が合理化を進める場合が多い印象です。例えば幕末でも下関戦争に負けた
時の長州の軍制改革、長州征討に負けた時の幕府の慶応改革、ナポレオンに負けた際の
プロイセンのシャルンホルストらによる改革。18世紀でもマリア・テレジアの改革はオーストリア
敬称戦争に負けた雪辱を晴らすために始められました。

>「あの戦争」をやって良かったと考える人がほとんどいないという事例もありますし。
限定戦争と国家総力戦は違いますからね。

>「200年間の平和な時代は、全くの無為な時間だった」という意見対して、私は首肯できません。
私は別に江戸時代を全否定したいわけでなく、前半はむしろ大発展時代と評価していますよ。
ただ欧州が本格的に発展しだした18世紀に鎖国をしていた故に乗り遅れたのはもったいないなあと。

>「戦乱の時代に文化が花開いた」というのと、「文化が花開くには戦乱が必要」というのとは
>イコールではないですよね。
ええ、文化の発展に戦争か平和かはあまり関連性が無いという意味です。

>戦乱に巻き込まれていつ殺されるか分からないような国にいるよりも、殺されるような
>事態がそうそう起きない国に住む方がおそらくは幸せであろうという考えのもとに、
>「軍配を上げる」と申し述べました。
幸せかどうかは主観的な問題で、例えば現代に於いても日本より経済的に劣っている国の方が
幸福度が高いというアンケートもあるのでちょっと・・・


243:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 02:19:17.75 r/0+aDma0
>241
>コテをつけてくれたらわかりやすいのだけれども。

こんなに話が長くなるとは思わなかったのから、面倒だったんで
コテを付けなかったんですよね。

今から思えば付けていた方が分かりやすかったですね。


>>幕府歩兵の人数はそこまで多くはなかったと思いますが。
>長州軍は2、3千人。幕府軍は1万。だったはず。

私の記憶では幕府歩兵は五千人くらいだったかと思いましたが。
まぁ、それでも確かに長州側よりは多いですけれども。


>それが出来ていないからこそ幕府の軍事力への評価は低くなるわけで。

この場合は軍事力というよりも、「長州征伐」という軍事行動だったが故に
諸藩の足並みが揃わなかったという側面もあるわけで。

「外国人を打ち払え」という攘夷気分自体はどの藩にも多かれ少なかれ共有されていたので、
実際に攘夷戦争を行った長州藩に対して、「困った問題を起こしてくれた」と頭を抱えつつ
内心では「よくやった、あっぱれ」と感じている士民は相当にいましたから。

また、一度は謝罪恭順した(第一次長州征伐)長州に対して、あまりハッキリとした
理由もなく再度の軍事侵攻を決定した幕府の方針に対しては、諸藩は不信感を持っていた
という状況ですから、政治的にはかなりまずい選択でしょう。


>当事者の認識では逆に薩長側が一か八かで、慶喜側は兵力的にも政治的にも有利な
>状態で開戦したわけですよ。

ならばなおのこと、そんな一か八かの勝負を仕掛けてきている相手の誘いに
乗る必要はまったくないですよね。

兵力的には優位でも、一つ間違えて躓いてしまえば全てを失ってしまう賭なんですから。
相手の一か八かの誘いに乗るということが、そもそも政治的には愚策です。


>結局幕府は寛政年間以来、効果的な軍事改革に失敗し続け討幕に至るわけですから、
>幕府に対する評価としては軍事的に脆弱というこになると思います。

欧米列強に比して脆弱だったという意見には同意致しますけれども、
私はそうした幕府の軍事的な弱体化は、幕府によって国内にもたらされた平和と安寧の
恩恵との価値を、天秤で量ってみるべきモノだと思います。

私は二百年に及ぶ戦乱のない時代の現出の方の価値を重くみます。

244:194
11/09/19 02:24:23.72 gTIgKGo80
>>222
>また、軍事技術を身につけた彼等がアジア・アフリカ・南米で行った数々の非道を
>考えるにつけ、欧州での「進歩」というのが無条件に賛美されるべきものなのかどうか
>という視点も必要とされるものなのでないでしょうか。
欧州が非欧州に対して軍事的経済的に優位であったからこそ、それらに対して
自らの意思を強要できたわけで、その押し付けられた意思の倫理性とは別に
その優位な能力に対しては評価するべきだと思ってます。
自国の意志を貫徹するのにはその能力が必要ですから。

>>199
>貿易の窓口を小さくすることと、行政コストをあまりかけない「小さな政府」というのは
>別段両立し得ないことでもないと思いますが。
小さな政府とは自由貿易が前提ですので。

レスが前後して失礼。





245:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 02:43:59.94 r/0+aDma0
>242
>むしろ負けた側が合理化を進める場合が多い印象です。

あくまで印象の話、なのではないでしょうか?

実際には負けたあげくに合理化を進めるだけの余力を奪われて、国家としては
成り立たなくなったという事例も、欧州史にはけっこうあるように思います。

インドや清のように植民地状態に陥っても、「そこから這い上がればよい」と
考えて、「負けて良かった」と考えるのでしょうか?

私はあまり同意できません。


>例えば幕末でも下関戦争に負けた時の長州の軍制改革

あのときはその負けた長州の尻ぬぐいを幕府が肩代わりさせられました。

ケツを持ってくれる人間がいたからこその話であって、もしも各国が長州に
賠償金の支払いをあくまで求めていたら、いったいどうなっていたでしょうね。


>私は別に江戸時代を全否定したいわけでなく、前半はむしろ大発展時代と評価していますよ。

その点では同意をしていただけるようですね。
私が幕府の治世を評価するのも、この前半期に確立された制度なりシステムなりの
優秀さに対しての評価が大きいです。


>ただ欧州が本格的に発展しだした18世紀に鎖国をしていた故に乗り遅れたのはもったいないなあと。

産業革命という機械文明の発達は、その威力なり効力なりを実際に目の当たりにしない限りは
なかなか納得できないモノだと思いますし、遠く離れた地域にいて欧州の発展ぶりの情報が
なかなか入ってこない状態だったのは、ある意味やむを得ないかと。

入ってくる情報にしても、三十年戦争だとか宗教戦争だとか植民地獲得戦争だとかの
物騒な話題ばかりですから、あまり積極的に付き合いたいとも思わなかったでしょうし。


>幸せかどうかは主観的な問題で、例えば現代に於いても日本より経済的に劣っている国の方が
>幸福度が高いというアンケートもあるのでちょっと・・・

日本では当たり前の「水道をひねれば安全に飲める水が無尽蔵に出てくる」「警官に賄賂を
渡さなくともちゃんと働いてくれる」「電気もガスも安定して供給されていて、停電などは
よっぽどのイレギュラーでなければそうそう起こらない」といったことが成立しない国だって
かなりありますけど、それらの国では「それが当たり前」だから自然に受け入れているだけです。

日本の状況を体感して、その上で自国に戻ったら同じ意見が出るかどうかは分からないのでは?

やはり多少なりとも客観的な基準でもって、「むやみやたらと殺されたり、強盗被害にあったり
しない」とか、「餓死スレスレの状態にいる国民の数が全国民のうち何パーセントか」とかの
具体的な指標が必要じゃないかと思いますよ。

246:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 02:57:56.35 r/0+aDma0
>244
>その優位な能力に対しては評価するべきだと思ってます。

西欧文明が優れていること自体は私も承知していますし、人道上の判断に
振り回されて、その優位性を否定するという考えは持っていません。

けれども、最低限の武備を保って外敵の避けつつ、国内的には武装の解除を
進めることで安定した社会を築こうという幕府が選択した政策に対しては
相応に評価するべきだと思っています。

また、幕府の対外的な軍事の脆弱化にしても、十八世紀以降の産業革命や宗教革命等の
劇的な技術進歩・社会変革が幕府には予想し得なかったという要素も加味すべきですし
それらの変化への対応の遅れを「絶対悪」のようにして批判するのもどうかと思います。


>小さな政府とは自由貿易が前提ですので。

・小さな政府
URLリンク(ja.wikipedia.org)

「民間で過不足なく供給可能な財・サービスにおいて政府の関与を無くすことで、
政府・行政の規模・権限を可能な限り小さくしようとする思想または政策である。」

私はこのように理解しておりました。
必ずしも貿易に関する取り決めなどは前提とはならないと考えています。

247:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 07:36:44.69 g+etQ/Cn0
>>245
>もしも各国が長州に賠償金の支払いをあくまで求めていたら

彦島が99年間租借され香港化して関門海峡の通行税がとられるだけ。
幕府は存続するが英国の傀儡としてインドと共に英露戦争の前線となっていただけじゃね?

248:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 16:45:04.21 +zzl1iAe0
>>231
江戸時代の商人がほぼ野放しだったのは、会計技術の未発達により
資産経済どころか実体経済の把握すら困難だったからで、搾取しなかったっつーより出来なかっただけだぞ。
できたのはせいぜい、適当な豪商に難癖付けて財産没収するぐらい。
それに、商人を下手に叩きすぎると年貢を売って金を得るという幕府・諸藩財政の根幹が立ち行かなくなるし、
同時に商人が握る流通が滞れば、幕臣や江戸町民の生活もオワタ式になるから。

物価の安定は江戸中期以降常に幕府の至上命題だったが、結局は庶民まで含めた倹約令によって
経済全体を停滞させるぐらいしか対策がなかった。
ただしこれは不景気を招いて庶民の不満を増加させる諸刃の剣。素人じゃなくてもお勧めできない。
江戸期の三大改革の基幹が悉く復古主義であるように、米を投機の対象とするまでに発達した経済に対して、
最後まで農本主義から脱却できなかった幕府の敗北と言ってもいいと思う。
米将軍とも言われる吉宗はそれに気付いて、なんとかして米価格を安定させようと奮闘したが無為に終わった。
幕府でこの問題にある程度対応できたのは、重商主義に移行しようとした田沼意次ぐらいじゃない?
これだけでは不十分だったが、換金作物の奨励・専売化も、この経済構造の変化に対応しようとした
幕府や諸藩の必死の努力の跡。
専売制が反対一揆や抗議で頓挫した例も枚挙に暇が無いが。
ここからもう一歩進んだのが長州藩で、専売制撤廃による生産及び藩内流通自由化の代わりに
運上銀による生産高に対する課税と、藩外輸出の管理と課税で利益を上げるシステムを作った。
また、膨大な利益を上げた越荷方は上記の米・商品の投機化を逆に利用したもの。

>>247
300万ドルっつーと、180~200万両ぐらいなんだっけ?
この額で合ってれば、分割なら払えたと思われ。
あと彦島割譲話も本当にあったかどうか?だったような。

249:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 20:01:32.66 HkW20lYO0
長州の攘夷戦はいくつか狙いあったが、幕府や諸藩が足引っ張ったから講和に切り替えたんで。
長州が外国と戦ってる最中に長州征伐なんてやるから。
日露戦争の最中に国内で戦争するようなもの。
これが封建制の限界なんで。

尊王攘夷運動は、尊皇攘夷が確立してないから運動してる。
日本は列強の様に国内一致の統一国家、国民国家でないのに、列強と同じと勘違いし通商すれば諸外国の例に従い植民地になると攘夷派は見てる。
長州や尊攘派だけが、統一国家樹立の意識で動いてるから、他から見れば暴走してる様に見える。
四境戦争、鳥羽伏見、戊辰戦争も長州の攘夷戦と同じで、戦ったのは一部だけで他は傍観。

300諸侯の内、幕末の時勢を担当した雄藩は極一部しかなく、加賀百万石なんて存在感無い。
佐賀藩も近代化はしてたが、幕末の時勢にほとんど出てこない。
封建体制は各藩が独自の思惑で動く為、一致した行動で外に当れない。
各藩が独自の政治と軍隊を持ち、身分制で別れ、利害バラバラで皆自藩の利害を優先する。
統一国家樹立の為に倒幕に行くのは当然の事。

清国も国内一致不可能で、攘夷を確立できず植民地化された。
政治は賄賂で腐敗してたし足の引っ張り合いが起きる、清の正規軍は戦う士気も無い。
清自体も異民王朝でナショナリズム運動が反清になる可能性もある。
太平天国の乱はむしろ弾圧してる。
本来純軍事的に清を植民地にするなら、100万の兵が必要。
そこを列強は外交を活用し相手が攘夷一致できない体制を見透かし、なだめたり恫喝したり軍事力駆使し有利な条約を結ばせ植民地にした。
他の国々に対しても同じ。
中南米なんかも初め友好的に通商しましょうと未開な原住民に近寄り、相手が大した事ない場合は軍事行動を起こす。
相手が手に余ると見れば、引いて外交を駆使しじわじわと行く。

250:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 20:48:05.14 r/0+aDma0
>248
>搾取しなかったっつーより出来なかっただけだぞ。

んなこたーない。
商品経済の流れに関してはかなりの程度まで外部からも把握可能だったし、
やろうと思えば経済活動に税をかけることだって可能だ。

株仲間というのは幕府が認めた組織なのだから、そこに課税する方法だって検討されてた。

幕府がそうした課税を行わなかったのは、幕府の経済体制が「農民からの年貢」というのを
基礎に置いていて、商人からの税の取り立てという仕組みを持っていなかったこと。
また、全ての商品は作物なり材木なりが収穫された時点で税を取っているから、流通過程の
段階で税を取ることには「二重課税」という批判を受けることへのためらいがあったから。

また、幕府の政治は「諸藩のお手本」として天下にその威厳を示すという建前があったので、
新しい徴税手段をあれこれと考えることは「みっともない」という気分が幕府官僚の中に根強かった
こともある。

>物価の安定は江戸中期以降常に幕府の至上命題だったが、結局は庶民まで含めた倹約令によって
>経済全体を停滞させるぐらいしか対策がなかった。
>幕府でこの問題にある程度対応できたのは、重商主義に移行しようとした田沼意次ぐらいじゃない

江戸の三大改革と呼ばれる倹約主体の改革は、実際のところはほとんど効果がなかった。
では、それで江戸幕府が立ちゆかなくなったかというとそうではない。

実際には、田沼意次の時代や水野忠成時代のように経済がうまく回転して好景気に沸いた時代があり、
これらの時代に積み上がった富によって幕府は多大な利益を得ていた。

その利益の源泉は貨幣の改鋳益や、南鐐二朱銀や天保一分銀のような「銀貨で代用した金貨」といった
カラクリで生み出していた純粋な利益金。

この辺のことは佐藤雅美の『将軍たちの金庫番』に詳しい。
要約を載せた書評があるんで、とりあえずURLを貼っとく。
URLリンク(lounge.cafe.coocan.jp)

「十一代将軍家斉の時の老中が水野忠成である。
金を何とかしろと言われて、手をつけたのが貨幣の改鋳であった。改鋳には二通りある。
品位を落とすものと、「官府の印理論」を応用したものである。水野はこの両方を行った。
結果として、貨幣の改鋳を行った年から四十年間で千七百九十六万九千五百両余、
年で平均四十四万九千二百両の益金を得たという。
重要なのは、「官府の印理論」を応用した改鋳は世人に貨幣改鋳と悟られなかった。
幕末の俊才・川路聖謨ですらそのことを知らなかった。
幕府の唯一の成功した改革・享保の改革など足元にも及ばない成果を上げたのだ。」

「官府の印理論」というのが何かというと、同じ重さでくらべれば1対15くらいの価値の違いがある
金貨と銀貨とを、幕府の刻印を打つことによって1対5くらいの価値で銀貨を流通させるというモノ。
つまり、本来であれば一分銀4枚の重さでは1/3両程度の価値しか無いのにもかかわらず、
幕府がその銀貨に「一分銀」という刻印を打つことによって1両分の価値をそこに持たせるという手法。

今の一万円札は紙幣の原価としては十数円程度のモノだけれども、そこに「日本国政府」の権威を
持たせることで一万円として流通させうる、という考え方に近い。

251:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 21:01:49.23 ZmJ0mnCE0
>>237
>鎌倉以前の人口が数百万くらいしかいなかった時代と、三千万の人口を擁する江戸期とを

それは事実を矮小化しているだけですね。今一億二千万人いますから、100万人餓死しても江戸時代の四分の一の被害とでも?
それにここまで大規模な飢饉が頻繁に飢饉が起きたのを否定する事にはなっていません。

>飢饉が起きて米が不作だったときに、換金作物がちゃんと収穫できれば

その場合米価が高騰していますので、商品作物では米が十分に買えません。
また都市部の武士や商人などの購買力のある人達にはどうしても勝てませんので、彼らは餓死します。
また物価は一握りの特権商人が独占で商いしている為、投機目的であがります。

>「増えていた」と胸を張れるほどの増加だったのでしょうか?

劇的に増えてますね、戦国初期は1200万程度といわれていますが、戦国末期1600年ごろには、1500万から1800万人まで増えていたといわれています。
一説には2000万人はいたとも言われていますね。石高などからするとそのくらいが妥当かもしれません。
子供を入れるか入れないかでも変わってきますのでなんともいえませんが、
短期間で1,5倍くらいは増えてます。江戸初期の人口増加は戦国時代の惰性といってよいでしょう。
実際江戸初期しか人口は増えてません。

>戦闘で死ぬのは武士達ですが、戦闘によって田畑が荒らされて食っていけなく

江戸時代のように幕府と領主の圧政と失政で死んだ人よりははるかに少ないですね。
江戸時代の東北や北関東は村ごと人が逃げ出すなんて珍しくありませんでした。
飢饉により身売りも盛んに行われ、人身売買が横行しました、戦国時代とやっている事はかわりません。
いや被害はもっと酷い。年貢が払えなくて人を売っていたのが当時の北関東と東北です。

>そういうバカな統治をしている藩は容赦なく石高の低い国にお国替えをさせられたりしています。

津軽藩は領民の半分を餓死させましたが、お咎めなどありません。
蝦夷警護で逆に加増されているくらいです。なおお役目の出費がとても重く、
領民に重税を強いて、一揆が多発しましたが、幕府からのお咎めもありません。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
江戸時代はこんなんばっかりですよ。

>その大半の武士はかつかつの生活をしており、傘貼りの内職をしたり

そりゃいらないもの。やる事のない扶養家族をどれだけ養っている事やら。
そして上級の武士は豪農や豪商と変わらずいい暮らしをしてますよ。
そういう時代なんですから。

252:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 21:39:01.90 HkW20lYO0
幕藩体制の問題上げても仕方ないわねw
100年以上の戦国時代を何とか治めた。
中世ヨーロッパは人口の3分の1が死んでるくらいだし。
しかも日本と違うのは土地所有権を求めて、フランス革命が起こった。
自由平等とうたった後、ナポレオンが皇帝なってるし。
日本の場合は幕藩体制があって、教養人となった武士が主導したのが明治維新。
根本的に海外の貴族と違うしね。

253:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 22:13:05.10 r/0+aDma0
>251
>今一億二千万人いますから、100万人餓死しても江戸時代の四分の一の被害とでも?

18世紀と21世紀とを同列に比べる?
アホですか。
科学技術も生活環境も何もかも違うのに比べようという発想がおかしい。


>それにここまで大規模な飢饉が頻繁に飢饉が起きたのを否定する事にはなっていません。

だから、鎌倉以前に記録に残っていないような飢饉が起こっていた可能性は?
基本的にこの頃の歴史の資料って、せいぜい北関東から越後あたりまでで、
奥羽から北の記録は残って無さそうですけど?


>その場合米価が高騰していますので、商品作物では米が十分に買えません。

借金すれば良いだけのこと。
その後の何年間かは金欠で苦しむだろうけど、死ぬよかマシだ。

>また都市部の武士や商人などの購買力のある人達にはどうしても勝てませんので、彼らは餓死します。
>また物価は一握りの特権商人が独占で商いしている為、投機目的であがります。

その弊害は、戦国時代でも構造は同じでは?

>>「増えていた」と胸を張れるほどの増加だったのでしょうか?
>劇的に増えてますね

戦国期の人口増が、300万~500万、おおよそ40%前後。
江戸期は1600年から1700年までの百年間で3000万まで、ほぼ倍に増えてます。
パーセンテージでいえば150~200%増。

どちらの方が「劇的」と形容されるべきでしょうか?


>江戸時代のように幕府と領主の圧政と失政で死んだ人よりははるかに少ないですね。

何度も言うけど、「記録に残っていないだけ」ってことは考えないの?
戦乱の最中に山奥の村で数百人が餓死してたって記録にも残らないでしょ。

江戸時代に飢饉が大量に起こっているように見えるのは、人口調査が全国くまなく行われて
正確な領民数の把握が行われたことと、行政が整備されてしっかりと記録が残されるように
なったからという側面があるのではないですか?

254:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 22:13:59.91 r/0+aDma0
>251
>江戸時代の東北や北関東は村ごと人が逃げ出すなんて珍しくありませんでした。

逃げ出していった先では食えたってことでしょ。
それこそ『逃げる百姓、追う大名』のタイトル通りですね。


>飢饉により身売りも盛んに行われ、人身売買が横行しました、戦国時代とやっている事はかわりません。
>いや被害はもっと酷い。年貢が払えなくて人を売っていたのが当時の北関東と東北です。

あなたの主観ですね。
有無をいわさずに暴力的に殺されたり誘拐されるのと、飢饉や天候不順という天災を前にして
泣く泣く子供を手放すのと、どちらの方が酷いのでしょうか。


>津軽藩は領民の半分を餓死させましたが、お咎めなどありません。

いつの飢饉の話ですか?
天明の飢饉などのように周辺の領地一帯でも膨大な犠牲者が出るような大規模な飢饉だったら
一藩だけにお咎めを下すようなことが出来るわけ無いでしょ。


>>その大半の武士はかつかつの生活をしており、傘貼りの内職をしたり
>そりゃいらないもの。やる事のない扶養家族をどれだけ養っている事やら。

おやおや。
幕末に日本に来た西洋人達が武士に接して漏らした述懐をご存じない?

ほぼ一様に、武士階級に属する人々の礼儀作法や立ち居振る舞いの美しさを賞賛し、
それらを身につけていない町人や商人達を「同じ民族なのか?」と感じるくらいに
評しておりますよ。

こうした武士階級の存在こそが欧米列強が日本を植民地化することにためらいを
抱かせる原因の一つとなったと思いますけれども。


>そして上級の武士は豪農や豪商と変わらずいい暮らしをしてますよ。

「上級の武士」ってのが人口総数のうち何パーセントくらい居たとお思いで?
笑ってしまうくらいにごくわずかの人数ですよ。

255:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 22:52:17.83 ZmJ0mnCE0
>飢饉はどのくらいの規模・頻度で起こっていたんですか?

ただたんに貴方が知らないだけでは?
50年に一度の大飢饉、数十年に一度の飢饉です。大飢饉は数年から長いときは10年近く続きます。(種籾もなくなるから)
だから人口が減っているわけですよ。

>特異な例を出して全体を推し量ろうという乱暴な手法です。

特異な例ではなくて普遍的な例ですが?藩の徴税権は諸藩が勝手に決めています。
幕府が税率や税の対象を決めているわけじゃなんですよ。収入が悪化したら検地や増税を行っていたのが江戸時代。
戦国時代のように農村が独自に自衛している時代じゃないんですから、お上には逆らえません。

>戦国期に増えた人口なんて、それこそ「微増」と言って良いレベルですよ。

戦乱でありながら人口が五割も増え、江戸中期以降完全な停滞なのに、何を言っているんですか。
江戸初期にしても戦国時代の恩恵で増えていただけです。

>合意の元に行われる経済行動と、強盗とを一緒に並べるようなモノですね。

自国の農民から収奪するのと、他国の農民から収奪するのとでは他国から収奪したほうがいいですよね?

>おや、あなたは戦争によって他者から食糧を奪うのを奨励していたのではなかったのですか?

自国の民を養う為に他国から奪うのは当然でしょう。自国の民を餓死させるのがよいと?

>で、そういった地域の藩が自国民を飢えさせて米を換金していたというのはどこから出た話ですか?

藩には毎年の借金の支払いがあるんですよ。参勤交代と江戸滞在もね。免除になった事なんて江戸時代通じて殆どない。
収入は米しかない。年貢はとうぜん取り立てます。支払いは米で行われて領民は餓死です。
津軽をはじめとする東北の諸藩で餓死がでたのはこういう事情です。

>飢饉の時にはもっぱら他領から米を買って自国の領民に食わせていたという記録の方が多いのですが。

どこの藩の話ですかそれは?

256:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 23:19:51.09 ZmJ0mnCE0
>>238
>そうでなければあっという間にのたれ死にでしょ?

実際そうですけど?街道で行き倒れ、都市にきて行き倒れ、どれも珍しくありません。
あとは身売りみたいな形で都市部に出稼ぎにいくわけです。これだけ野垂れ死ににはなりませんね。

>さんざん一部特権層とやらを攻撃しているのに、「富の再分配とかw」という発言が

特権階級が裕福に暮らして、庶民から収奪していた時代を富を再分配していた、すばらしい時代とか、
とんちんかんな事いうから批判しているんですよ。
そして富の再分配も特権階級の収奪にも反対派ですよ。

>貧乏人が金を貯めて株を買って成り上がっていったという話も枚挙にいとまがありませんよ。

ありませんね、そんな話は。なら枚挙してください。
貧乏人が買えるような価格じゃありません。それも売る相手もけっこう限られていて、
事業を独占する為に同じ一族にばら撒いたり、長年使えている番頭などですよ。

>あなたのいうように、「ガチガチの身分社会で身分の上昇などは不可能」という

そんな事を言っていません、どこに書いてありますか?
がちがちの身分社会で差別社会で、その上賄賂社会なので身分を買うことも出来るだけです。
身分を買える事と身分社会である事は矛盾しません。

>商家の若旦那がそのまま家を継ぐというような太平楽な世襲制度ではありませんよ。

間違いですな。そのまま継ぐのが普通です。商家の跡取りは飲む打つ買うと遊び放題ですよ。
そうやって人脈を作って、家を継ぐわけです。江戸時代はコネと賄賂の時代。
どうせ独占企業がやっているので、経営もクソもありません。東電が潰れないのと一緒です。
だから経営などは番頭がやる事なのですよ。
婿も普通には取れないから、養子などを駆使して、法を潜り抜ける必要があります。
身分社会であった事を、それを潜り抜ける裏技があることで否定できるわけがない。

>落語で裏長屋に住んでる「八っつぁん、クマさん」みたいな連中が相応にいたんですよ。

それはその日暮らしのぷータロー。景気が悪化したら野垂れ死に。



257:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 23:37:42.04 ZmJ0mnCE0
>>239
>子供を産まずに死んでいき、そのあとをまた流民が埋めてというサイクルですよね。

はい実際そうですね。だからあり地獄といわれるゆえんです。
(実際三大都市は中期に人口のピークを迎えた後は減少に転じている)
江戸の男女比は7;3から、8;2さらの女の数割は女郎とかだったりするので、実際の既婚はさらに減ります。
まあ早い話が殆ど結婚できないんですよ。だから女郎屋が大繁盛。
子供ってのはたいてい子連れででてきたものや、元々番で出てきたものです。

>そういう政治を行っていた藩が領民からどんなしっぺ返しを喰らっていたのかが

一揆はあるでしょうね。けど同じ事です、

258:194
11/09/20 00:08:16.24 bpM0pkut0
>>243
>この場合は軍事力というよりも、「長州征伐」という軍事行動
既にライフルを装備し高い士気と優れた戦術要していた長州軍と
旧式装備で戦術も稚拙、士気も低いと軍事力に如実に差があります。
地方政府より中央政府が軍事的に劣っていては評価が低くなるのは
仕方ない。

>相手の一か八かの誘いに乗るということが、そもそも政治的には愚策です。
確かにあれは慶喜の失策でしたね。幕府軍の過大評価して血気盛んな状
態を統率できなかった。

>私はそうした幕府の軍事的な弱体化は、幕府によって国内にもたらされた平和と安寧の
>恩恵との価値を、天秤で量ってみるべきモノだと思います。
欧州では戦争により行政や財政の効率化がおこり、植民地貿易により富を獲得し、それを
投資し産業革命が起こります。幕府の鎖国政策はどちらもの芽も摘んでしまい大開墾時代
であった17世紀と打って変わって18世紀から19世紀の停滞を生んでしまいます。特に人口
をを見ればあきらかです。故に後半の幕府は個人的に評価が低いのです。


259:194
11/09/20 00:28:55.86 bpM0pkut0
>>245
>インドや清のように植民地状態に陥っても、「そこから這い上がればよい」と
>考えて、「負けて良かった」と考えるのでしょうか?
日本も不平等条約を結ばされ国内に外国人居留地ができています。インドや清と違い
それらから植民地にならなかったのは新政府による近代化が成功して条約改正して
取り返したからです。つまり日本も一度負けているのを取り戻したわけですよ。

>あのときはその負けた長州の尻ぬぐいを幕府が肩代わりさせられました。
>ケツを持ってくれる人間がいたからこその話であって、もしも各国が長州に
>賠償金の支払いをあくまで求めていたら、いったいどうなっていたでしょうね。
賠償金は新政府が引き継いで財政、徴税制度の近代化を行い返済しています。
そもそも賠償金が膨らんだのは幕府による政治戦術により兵庫港の延期させた
ことも一因ですし。

>三十年戦争だとか宗教戦争だとか植民地獲得戦争だとかの
三十年戦争や宗教戦争は17世紀や16世紀ですよ。

>具体的な指標が必要じゃないかと思いますよ。
222で国に住む方がおそらくは幸せであろうという考えのもとに、
「軍配を上げる」と申し述べました。
と書かれていたので。


260:194
11/09/20 00:36:24.93 bpM0pkut0
>>246
>変化への対応の遅れを「絶対悪」のようにして批判するのもどうかと思います。
少なくても対応できなかった以上高い評価は与えられません。もちろん欧州と比べて
であって、非欧州国では優れた対応と認識しています。

>必ずしも貿易に関する取り決めなどは前提とはならないと考えています。
小さな政府はその記事にも書いてあるように「政府の市場への不要な介入を最小限にすることを目指す。」
「小さな政府」では、市場の失敗などが起きず民間でも問題なく運営・供給可能な事業においては、極力民間
に行わせることを目指す。そのため、国営事業の民営化・私企業化(privatization)や、規制の撤廃、国有資産
の売却などを行う。
ですから鎖国を行っている幕府は小さな政府とはいえないと思います。



261:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/20 00:59:03.63 v2tgR6Ba0
>>253
>18世紀と21世紀とを同列に比べる?

鎌倉時代と江戸時代を比べている人に言われても困りますがw

>だから、鎌倉以前に記録に残っていないような飢饉が起こっていた可能性は?

飢饉というのは収穫量の低下以外に、購買力のあるものが、購買力のないものから取ることで起こるので、
それ以前に大規模な飢饉が発生する構造的な要因がないですね。
つか悪魔の証明を要求されてもこまりますね。
また江戸期で東北で飢饉が多発したのは、商品作物や米を作っていたからで、
当時の東北ではありえない事です。米が豊作で米価が高いと大もうけできますが、
米が不作だったり、米価が安いと大変な事になります。早い話がばくちなんですよ。
ばくちで負けると餓死者が多数。

>その後の何年間かは金欠で苦しむだろうけど、死ぬよかマシだ。

小規模な農家にそんな借金をさせてもらえる信用などありません。
だから身売りや田畑を手放す事になるんですよ。

>その弊害は、戦国時代でも構造は同じでは?

戦国時代の場合は農村がかなり強く、そんな無茶な事したら大変な事になります。
戦争してないからこそ、藩が無茶できたんですよ。

>どちらの方が「劇的」と形容されるべきでしょうか?

戦国時代ですな、江戸時代は中期以降から全く増えてませんから。
増加率で見ると低いです。初期だけは戦国時代の恩恵で増えただけです。

>何度も言うけど、「記録に残っていないだけ」ってことは考えないの?

ならそれを証明してください。実は死んでいたかも知れないとか、史料にも存在しない事を言われても困りますな。
そして何度も述べたように、江戸時代の飢餓は構造的な問題であり、ほかの時代に参勤交代などで、
無駄な出費を地方に強いて、領民を餓死させるような体制はありません。

>逃げ出していった先では食えたってことでしょ。

都市部にきて疫病で死ぬか、街道で死ぬか、身売りなどで奴隷生活って所ですね。
そのままいて餓死よりはマシかな?

>泣く泣く子供を手放すのと、どちらの方が酷いのでしょうか。

同じでしょう。

>天明の飢饉などのように周辺の領地一帯でも膨大な犠牲者が出るような大規模な飢饉だったら

飢餓輸出をしてもお咎めなしという事ですね。13万もの人間を殺しておいてね。
周辺の藩も同じ事、幕藩体制に殺されたわけですから。
で、飢饉で国替えされた藩ってどこですか?会津藩とか凄まじい数の人間を餓死させましたが、
そのままですよねえ。

>ほぼ一様に、武士階級に属する人々の礼儀作法や立ち居振る舞いの美しさを賞賛し、

非生産的な事しかやっていなかった事例ですね。礼儀とかいって無駄な作業ばっかり増やして、
無駄な仕事を作る、まさにお役所仕事。

262:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/20 01:37:27.02 Wn4byAEf0
>>258
揚げ足取りっぽくなるけど
征長軍が最初から士気が低かったわけではないし、装備が旧式装備ばかりだったわけではないでしょ。
装備の質も物量も幕府方のほうが長州より何倍も多い。海軍戦力に至っては長州を圧倒する軍艦の差があった。
にもかかわらず戦力差を覆されて各方面で苦戦をした結果士気が低下しただけ。
すべては小笠原ら各方面司令官の戦術の拙さにつきる。

263:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/20 12:54:20.24 Vx+ezDr70
>>262
長州のほうが新式銃がおおかったでしょ。

264:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/20 13:14:28.32 AJuLpvPIO
>>255
横レスすまん
他藩から米買って自領民に与えたのは松平定信だな、他の例は知らんが。
自領から餓死者を出さなかったものの、大量に米を買われて価格が急騰し、
米を確保出来ず餓死者を増やした他藩(特に隣の会津藩)はとんだとばっちりだ

265:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/20 15:24:52.07 rpzM6Zow0
>>263
幕府歩兵隊は1864年からエンフィールド銃を装備してる筈。
まぁ何部隊出征したのかは知らんけど。

>>250
大体の流れを把握することと、それの金額まで把握して課税する手法は全くの別物だぞ。

寡占体制を容認し、大体の流れを自主的に決めさせて、代わりに運上金や冥加金を徴収するのが株仲間制度。
この株仲間の制度が、時代によって容認されたり奨励されたりはたまた中止されたりを繰り返したのは、
寡占体制の弊害や儒教思想と商人からの税の徴収を天秤に掛けた結果だよ。
あと、生産者と流通者、販売者にそれぞれ税を課しても二重課税にならないやり方は幾らでもある。
今でもそれぞれから所得税や法人税を取ってるが、二重課税じゃないでしょ。
これは別に幕府や諸藩の怠慢でもなんでもなく、こういう手法が江戸時代には技術的に不可能だっただけ。

それと倹約令には、緊縮財政以外にも物価の安定って目的があったよ。
財政問題だけなら、庶民にも倹約を強制する必要が無いでしょ?

それに改鋳益のことは勿論知ってるがね、財政的には単なる対処療法だから。
その「官府の印理論」は計数銀貨の事を指してるんだろうが、明和南鐐二朱銀だって
すんなり市場に受け入れられた訳じゃないぞ。
明和五匁銀の失敗や、文政の改鋳での混乱の果てに受け入れられたもので、
またそれについても良い事ばかりではなく、銀目取引における銀札の横行や銀相場の高騰を引き起こしてる。
ちなみに計数銀貨が普及した後も、金銀銭相場は変動相場のままだったりする。
つまりそれらの改鋳は現代で言うインフレ政策で、江戸時代が大体においてデフレ傾向で推移してたから
財源抽出策として行われても経済的には何とかなってたものであり、無限の金策を約束するものではない。

266:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/20 17:54:06.90 Vx+ezDr70
>>265
それらを紀州藩か熊本藩というよりか、西洋式の部隊を
一つにまとめて編成すればよかったのに。

267:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/20 19:12:29.74 qJV8EKY30
江戸時代の基盤があって日本は成功した。
生活水準は当時のヨーロッパと変わらないし質は上。
ヨーロッパは18世紀に寒冷化と飢餓とペストがあり人口停滞。
日本は江戸時代に入り18世紀寒冷化。
ヨーロッパが富強になり人口が増えるのは産業革命以後。
岩倉使節団もヨーロッパ各国の文明富強を目撃をすれば、ヨーロッパが元から商利を重じ固有の物と思うが違う。
ヨーロッパが今日の富庶を見るのは、1800年以後の事でわずか40年前であると書いてる。

268:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/20 21:16:44.86 GaTRnXgK0
>>263
肥後藩だけでも上回っていないか?

269:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/20 23:37:37.14 Uy26qxDH0
一応当時の幕府海軍はアジア最強の海軍だったはずだからな。
長州征伐で戦果を挙げられなかったのが悲しい。

270:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 00:20:58.82 UKW5NgZK0
>>264
そういやそいつはその功績で老中になったんだったな忘れてた。
>>267
江戸時代は戦国時代の恩恵で続いていただけ、
むしろ世界有数の大国だった日本を落ちぶれさせたのは幕府。

>>263
大半はミニエー銃だったと思う。これが二万丁くらいあり、
ほぼ全ての歩兵が携帯していた。スナイドル銃やスペンサー銃もそれなりにもっている。
ただし戊辰後期の話だけどね。
四境戦争の頃はまだまだミニエーだろうね。

271:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 00:23:59.56 wtlU9ixc0
当時の軍艦の大砲の射程や威力、絶対数と火力はたかがしれてるでしょ。
幕府艦隊が味方地上軍を艦砲射撃で援護してもどれだけ陸戦に寄与できるか。

272:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 01:09:06.64 co+Uh1VM0
>255
>50年に一度の大飢饉、数十年に一度の飢饉です。大飢饉は数年から長いときは10年近く続きます。(種籾もなくなるから)
>だから人口が減っているわけですよ。

私がお伺いしたのは、江戸時代ではなくそれ以前の戦国期・室町期・鎌倉期、それ以前の飢饉の頻度なのですが?

それらの正確なデータが出てこないことには、江戸期との比較など出来ませんよ。
何度もいいますが、江戸期には全国的にくまなく行政が行き届いたがゆえに信用性の高い正確なデータが残っています。
それに比肩しうる正確なデータが残っていない限り、妥当な「戦国期と比べて」とか「鎌倉期と比べて」とかの
それぞれの政権が採った政策の比較評価は出来ないと申し上げているのです。

>江戸初期にしても戦国時代の恩恵で増えていただけです。

なにをもって「戦国期の恩恵」と断言しうるのか、その根拠の方をお伺いしたいですね。
自説に都合の良いことは「戦国期のおかげ」、都合の悪いことは「幕府のせい」と
単純に盲信しているだけのように思えますが。

>自国の農民から収奪するのと、他国の農民から収奪するのとでは他国から収奪したほうがいいですよね?
>自国の民を養う為に他国から奪うのは当然でしょう。自国の民を餓死させるのがよいと?

意味不明。
北朝鮮の指導者様じゃあるまいし、そんな乱暴が許される社会状況とそうでない社会状況とを
ごっちゃにするのはそもそも認識不足です。

戦国時代に「飢えるから他所から奪う」という行為が存在したのは、「飢えた隣人から襲われる」
というリスクと隣り合わせのモノだったということをお忘れ無く。

「米がなければ泥棒すればいいじゃない」とお気楽にのたまうのはあなたの勝手ですが、
多くに人々は「いつ襲われるか分からないんじゃ安心して生活できない」という実感が
強かったからこそ幕府による安定した政治が受け入れられたのです。

「他所から奪えばいい」という論理を支持する人々が多かったのなら、戦国時代はもっと長く
延々と続いていたことでしょうよ。

>藩には毎年の借金の支払いがあるんですよ。参勤交代と江戸滞在もね。
>免除になった事なんて江戸時代通じて殆どない。

無知乙。
病気だのなんだのの理由を付けて、参勤の免除を申し立てた事例などいくらでもありますよ。
2年に一度を3年に一度にするとか、1年在府しなければいけないところを半年だけにしてくれとか。
単にあなたが勉強不足なだけでは?

>どこの藩の話ですかそれは?

天明の大飢饉:上杉鷹山:松平定信、適当にググって下さい。
これら「名君」と呼ばれた大名の治績は幕府から称揚され、多くの大名が参考にしています。

>戦国時代のように農村が独自に自衛している時代じゃないんですから、お上には逆らえません。

まるで戦国時代は農村が自衛していたから守護大名からの無理難題を退けられたとでもいわんばかりですね。
手前勝手なことを主張する農民のクビなど、簡単に撥ねる事の出来たのが戦国時代なんですが。

>戦乱でありながら人口が五割も増え、江戸中期以降完全な停滞なのに、何を言っているんですか。

1200万が1500万に、50%増というのは少々過大評価では?
25%増がいいとこでしょう。
1500万が3000万は、完全な倍増。100%増です。
増加率でいえば4倍ですね。

273:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 01:37:28.59 co+Uh1VM0
>256
>>そうでなければあっという間にのたれ死にでしょ?
>実際そうですけど?

そのわりに、幕末の志士と呼ばれる人々は割と気楽にあっちに行ったりこっちにいったりという
行動を取っておりますけれども。
のたれ死にと背中合わせというのであれば、あんなにも長く(人によっては5年とか10年とか)、
長距離の移動を行い続け得るとも思いにくいのですが。

金を送金して貰う当てがあったり、蓄えがあったからこそのことだと考える方が自然ですよ。


>特権階級が裕福に暮らして、庶民から収奪していた時代を富を再分配していた、すばらしい時代とか、
>とんちんかんな事いうから批判しているんですよ。

ですから、実際に富の再分配が相応に行われており、一部の大商人や豪農などが富裕な生活を
行っていても、その余録にあずかれる庶民が相応にいたという事実を申し上げているのです。

一部商人が富を独占し、それ以外の農民が餓死寸前で生活していたり、切り捨て御免の特権を
武士が行使していて町民があちこちでバッサリ斬られてばかりいた、などという世迷い言を
あなたが言っているから批判しているんですよ。

>ありませんね、そんな話は。なら枚挙してください。

間宮林蔵、最上徳内、勝海舟の祖父、榎本武揚の父、川路聖謨など。

貧乏人でもこつこと働いて小金を貯めたり、仕事が出来ると認められた人間であれば、
御家人の家に養子に入る(こういう戸籍上の操作を行い事を「御徒の株を買う」と言います)
ことを通じて御家人になれました。

後世に名前が残っているだけでもこれだけ居るんですから、数万と言われた江戸の御家人や
諸藩の陪臣まで含めれば相当数が居たと推測しても間違いではないでしょう。


>間違いですな。そのまま継ぐのが普通です。商家の跡取りは飲む打つ買うと遊び放題ですよ。
>そうやって人脈を作って、家を継ぐわけです。江戸時代はコネと賄賂の時代。
>どうせ独占企業がやっているので、経営もクソもありません。東電が潰れないのと一緒です。

単なるあなたの思い込みですね。
史料の提示をお願い致します。

>それはその日暮らしのぷータロー。

そういう人間が太平楽に暮らしていけたのならば、それで充分に幸福な社会でしょう。
現代の価値観で当時の人々の処世方を批判するのは僭越というモノですよ。

274:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 02:56:29.68 co+Uh1VM0
>257
>江戸の男女比は7;3から、8;2さらの女の数割は女郎とかだったりするので、
>実際の既婚はさらに減ります。

それは前期から中期までの話。
徐々に定住層が拡大していくことで、幕末までには男女比はおおよそ10:9くらいの
割合になっていきます。


社会実情データ図録 「江戸・大阪の町人人口と性比(江戸時代)」
URLリンク(www2.ttcn.ne.jp)

「ところが、こうした状態は江戸時代を通じて変化した。
江戸時代末期の江戸では、ほぼ性比は100、大阪でも100に近づいている。
すなわち男女のバランスはとれていったと考えられる。
江戸については、奉公人人口比率が江戸時代末にかけて大きく低下し、
奉公人が雑業者層に代替されたからである。
大阪においては商家を中心に奉公人が多かったが、女子奉公人、
都市内婚姻の増加が想定される
(斎藤修「江戸と大阪―近代日本の都市起源」、図録7855参照)。」


東京都の統計
URLリンク(www.toukei.metro.tokyo.jp)
付録 *「江戸の人口について」*
URLリンク(www.toukei.metro.tokyo.jp)
「この記録された町人人口の推移をみると、享保年間から幕末まで、総数は大きく変動し
ていないが、女子の割合は次第に増え、幕末には男子とほぼ同数に達した。これは、江戸
へ移住した者が一家を成し、郷里から母や妻を呼びよせたり、妻帯したりする場合が多く
なったこと等が一因と考えられている。」


歴史的に見た日本の人口と家族
URLリンク(www.sangiin.go.jp)
「上記人口を見て気づくのは江戸中期における男女比の異常である。享保6年の男女比は
男100 に対し女55 であり、当時の江戸が異常な「男性過多」社会であったことがわかる。
天保14 年は89 となっており、男女比は均衡しつつあるが、いずれにせよ男性の流入民に
より人口が増大してきた江戸の性格がここに示されていると言えよう。」

275:263
11/09/21 02:59:09.91 zwp0KPhL0
>>268
アームストロング砲ももっていました。

>>269
宝の持ち腐れ。

>>270
そうでしたか?

276:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 03:28:40.45 co+Uh1VM0
>258
>>この場合は軍事力というよりも、「長州征伐」という軍事行動
>既にライフルを装備し高い士気と優れた戦術要していた長州軍と
>旧式装備で戦術も稚拙、士気も低いと軍事力に如実に差があります。

装備していた銃器の質に関しては、前々年の禁門の変、前年の第一次長州征伐時には
長州側も装備していなかったわけで、この短期間でこれだけの軍備を調え得た
長州側の方が異常だったと言うべきでしょう。

士気の低さに関しても、やはりその原因はもっぱら政治的拙劣さに由来すると言うべきです。
現に幕府歩兵は長州に匹敵するだけの装備を持っていました。
『長州戦争―幕府瓦解への岐路』
『幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団』

総じて、第二次征長戦争における幕府の敗北に関しては、軍事的側面よりも
政治的拙劣さに多く拠っているように思います。

>欧州では戦争により行政や財政の効率化がおこり、植民地貿易により富を獲得し、それを
>投資し産業革命が起こります。幕府の鎖国政策はどちらもの芽も摘んでしまい

欧州で起こった産業革命は、それこそ人類史におけるある種の奇跡と言っても過言ではないでしょう。
幕府がその政策を変えていたとしても自然発生的に自国内で産業革命が起こった訳はないし、
うかつに国を開いて技術を取り入れようとした場合には、西欧列強につけいる隙をあたえてしまい、
植民地化される恐れとても充分にあったと思います。

攘夷意識という対外的な強烈なアレルギー反応が起こったからこそ、そうした危機を回避する
エネルギーが供給されたと考えることも可能でしょう。
不平等なモノとはいえ、穏便な形で条約を取り結ぶことが出来たのも、冷静な対外認識と
危機意識とが幕府を動かしたからだと思います。

少なくとも、長州や薩摩があの時点で政権を取っていたら、無謀な攘夷戦争を仕掛けて
清におけるアヘン戦争後の半植民地化を強いるような条約を結ばされていたと思います。

277:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 03:29:14.09 co+Uh1VM0
>258
>大開墾時代であった17世紀と打って変わって18世紀から19世紀の停滞を生んでしまいます。
>特に人口を見ればあきらかです。故に後半の幕府は個人的に評価が低いのです。

このような意見をネット上で見つけました。
ご一読下さい。

東京都統計協会
トピックス 「江戸の人口停滞と近代への胎動」
URLリンク(www.metrosa.org)

2 大開発の時代と人口の激増

江戸時代の前期に人口が激増した要因について、「参勤交代や明暦の大火を重視する見方」と、
「耕地面積の拡大を重視する見方」があります。
前者の見方は、参勤交代により、全国の諸大名が強制的に江戸に居住させられたため、
また、明暦の大火後に、江戸の拡大が進むと同時に、大火後の復興景気を当て込んで、
大勢の商人が江戸に進出したため、商業が活発になり江戸に人口が集中したと考えます。
なお、この江戸の拡大の過程で、いわゆるドーナツ化現象が発生したことが当時の記録に
残っています(甲斐庄正親「御役人代々記」1673~1704年)。
後者の見方は、江戸時代前期は、大開発の時代といわれるほど、全国的に新田開発が行われ、
農産物の生産量が飛躍的に増えた結果、出生率が上昇し、農村で過剰になった人口を都市が
吸収したと考えます。いわば高度経済成長と同様にみなすのです。
これら発想の異なる考え方は、多角的な視点から観察や分析することの必要性を思い起こさせてくれます。

3 人口の停滞と少子化・晩婚化

江戸時代の後期に人口が停滞した要因についても、「飢饉の頻発を重視する見方」と、
「出生率の低下と晩婚化を重視する見方」があります。
前者の見方は、小氷河と呼ばれる気候寒冷化により凶作が頻発したり、大地震や富士山・浅間山の
噴火など相次ぐ自然災害により飢饉が頻発したため、人口が停滞したと考えます。
後者の見方は、大開発の時代が終焉して、耕地の拡大が鈍化するとともに、文明が成熟して、
出生率の低下と晩婚化が起きたと考えます。
つまり、女子は、早く結婚してたくさんの子供を生む必要がなくなって、商家や武家へ奉公に
出るようになり、少子化が始まったのです。
人口停滞は、耕地開発の鈍化に対応した、豊かな生活を維持するための、意識的な出生抑制の効果で
あるとみなすのです。
こうして総人口の増加がストップした結果、高齢者の比率が上昇して、高齢化も進みました。
そのうえ寿命(平均余命)も伸びたと考えられています。このあたりは、現代における経済成長の
鈍化と少子高齢化の関係と似通っています。

278:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 03:49:27.59 co+Uh1VM0
>259
>日本も不平等条約を結ばされ国内に外国人居留地ができています。

清がアヘン戦争の敗北後にイギリスの武威によって強制的に結ばされた条約の内容と、
幕府がそのイギリスが要求するであろう過酷な要求を退ける目的でアメリカと結んだ
条約とでは、そもそもその「不平等」の度合いが根本的に違います。

>それらから植民地にならなかったのは新政府による近代化が成功して条約改正して
>取り返したからです。つまり日本も一度負けているのを取り戻したわけですよ。

違います。
そもそも幕府が条約を結んだのは1859年。
新政府が誕生する10年も前です。
では、新政府が条約改正を勝ち取るまでの間は日本は植民地になっていたかと言えば、
そんなことはありません。


>賠償金は新政府が引き継いで財政、徴税制度の近代化を行い返済しています。

分割返済ということを認めてくれたからこその話で、強引に領土の割譲や
租借を押しつけらてしまっていた可能性だって皆無ではないのですよ。


>そもそも賠償金が膨らんだのは幕府による政治戦術により兵庫港の延期させた
>ことも一因ですし。

幕府がそういう戦術を採らざるを得ないまでに追い詰められたのは、
もっぱら長州を中心とした破約攘夷を唱えていた急進的な排外主義者たちの
ためなのですが。

279:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 04:00:27.82 co+Uh1VM0
>260
>>変化への対応の遅れを「絶対悪」のようにして批判するのもどうかと思います。
>少なくても対応できなかった以上高い評価は与えられません。もちろん欧州と比べて
>であって、非欧州国では優れた対応と認識しています。

欧州で起こった体制変革・義塾革命は、それこそ人類史の中で特筆大書するべき
特異な出来事であって、それに対応できなかったことを指して非難するのは、
あまりにも「後世の視点」から当時を断罪するという部分が強いように思います。

それまでの数千年の人類の歩みの中でも、まったく未知な出来事が起こったのですから。


>小さな政府はその記事にも書いてあるように「政府の市場への不要な介入を最小限にすることを目指す。」
>ですから鎖国を行っている幕府は小さな政府とはいえないと思います。

鎖国を行っていても、「国営事業の民営化・私企業化」「国有資産の売却」は可能なのではないでしょうか?
海外との貿易を禁止していることを指して「規制の撤廃」をしていない、とは言いうるでしょうが、
大筋においては幕府の施策の大部分は「小さな政府」を目指したものと言って良いと思います。

そして、その「小さな政府」を実現するためにも、鎖国という経済活動上の大枠を維持することは、
「必要な介入」だったと判断したのだと思います。

280:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 04:22:47.64 co+Uh1VM0
>261
>>18世紀と21世紀とを同列に比べる?
>鎌倉時代と江戸時代を比べている人に言われても困りますがw

<221>
>それ以前にも飢饉は存在しますが規模が違います。
>また江戸時代の飢饉はただの気候変動などよりも、行政のミスにより起こったものです。
>また飢饉の記録は存在します。養和や寛喜の飢饉などは有名です。
>それぞれ方丈記や吾妻鏡などに記録がのこっております。

先に鎌倉時代の話題を出してきたのはそちら様だったように記憶しておりますが。


>>どちらの方が「劇的」と形容されるべきでしょうか?
>戦国時代ですな、江戸時代は中期以降から全く増えてませんから。
>増加率で見ると低いです。初期だけは戦国時代の恩恵で増えただけです。

>277 をご参照下さい。
人口の停滞を悪政のみに由来すると見なすのならば、1億2千万をピークに
人口が減少に転じた戦後の日本も相当酷い時代だとご認識なのでしょうね。


>>何度も言うけど、「記録に残っていないだけ」ってことは考えないの?
>史料にも存在しない事を言われても困りますな。

ですので、江戸期以前の正確な人口動態を記録した史料を出してきていただきたいと
申しているのですが。

そうした史料抜きに一方的に「甚大な被害を出した飢饉は江戸時代ばかりで起こっていて
それ以外の時代ではあまり起こっていない」という発言には説得力がないと申し上げているのです。

281:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 04:23:31.76 co+Uh1VM0
>261
>>天明の飢饉などのように周辺の領地一帯でも膨大な犠牲者が出るような大規模な飢饉だったら
>飢餓輸出をしてもお咎めなしという事ですね。13万もの人間を殺しておいてね。
>周辺の藩も同じ事、幕藩体制に殺されたわけですから。

江戸期に養い得ていた人口を3000万人程度。
戦国期に養い得ていた人口は1500万人程度。

差し引きで考えれば、戦国期は江戸期に比べて1500万人程度を殺していた、とも言えますね。
3000万人生存することが可能な国土において、1500万人しか生かせなかったのですから。

一方に3000万の貯蓄がある人があり、もう片方に1500万の貯蓄しか無い人がいるとして、
前者が100万の損失を計上し、もう片方は損失が無かったとしても、保有する可処分金額は
前者が2900万、後者はやはり1500万です。

どちらの方が「フトコロが豊かだ」と考えるべきなのでしょうかね。

>>ほぼ一様に、武士階級に属する人々の礼儀作法や立ち居振る舞いの美しさを賞賛し、
>非生産的な事しかやっていなかった事例ですね。
>礼儀とかいって無駄な作業ばっかり増やして、無駄な仕事を作る、まさにお役所仕事。

その武士層が、対外的な外交交渉を巧みに行ったおかげで植民地化の危機を免れ得たのであり、
西欧列強の持つ先端技術や知識の速やかな消化吸収が可能になったのですけれども。

知識と教養を身につけておくこと、そういった積み重ねが非常時にどれほど役に立つのかに
ついて、ご理解いただけないというのはとても残念ですね。
そういった教養層を培養しておかなかった他の非西欧諸国がどうなったのかについても
少しは知識を身につけていただきたいものです。

282:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 19:20:09.41 3knOqADW0
江戸時代の天下泰平の功、特に流通路の拡大と商業の発展は評価しても良いと思うが。

>>271
関門海峡で部隊移動や補給を寸断できれば、かなり効果があったと思われ。
まぁ砲台も再建されてたらしいから注意が必要だが。
ただ、赤坂沖まで長州藩艦隊の進出を許してるのは明らかに怠慢。

>>273
男谷検校は富農だったろ。武士株が小金で買えるほど安かったとは思えんが。
累積した借金とかも相続することになるんだし。
ただ武士株は有名だし、低い身分の者が才や功によって取り立てられた例もあることは間違いない。
前者は結構な数が居そうだが、後者はジョン万次郎とかの例もあるにせよ
それほど数は多くなさそうだが。
そういう人は、抜擢理由の能力や功績によって大体史書に名を残すから。

>>278
兵庫港開港問題については、破約攘夷派は余り関係ないぞ。
これの最大の壁は孝明帝。

>>279
最後の方、問題は鎖国か否かではなく、市場への介入の方じゃね
あの頃はむしろ専売制の強化で民営化とは逆に向かってた様に思うが。
極一部の例外を除いて諸藩もそう。
あと庶民も含めた倹約令も経済統制の一種だな。
小さいか大きいかについての論争はお任せします。

283:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 20:05:46.68 UKW5NgZK0
>>272
>それらの正確なデータが出てこないことには、江戸期との比較など出来ませんよ。

大規模な飢饉が起きていれば記録は必ず残る。おきてないから記録には残っていない。
そういう事、江戸時代なみの頻度で飢饉が起きていたと主張するなら、飢饉の記録持ってきて欲しいね。
というか君は相手にソースを求めるだけですね。
江戸時代以前は飢饉の記録がない比較すべきではない→私が飢饉の記録をだす→いやまだ飢饉が頻発していたが記録が残っていない可能性がある
大規模な飢饉が起こった場合、飢饉の記録が残っているのは証明しました。
なのにもっと頻繁に起こっているはずだ(根拠なし)と主張されてもね。悪魔の証明は出来かねます。

>なにをもって「戦国期の恩恵」と断言しうるのか、その根拠の方をお伺いしたいですね。

明治期の成功を江戸時代の恩恵とか意味不明な事を主張している貴方がそれを言いますかw

戦争しまくっていた時代は何気に急速に発展するものです。でないと他国に食われますから。
欧州が発展をし、アジアが遅れたのは戦争をしていたか、していなかったかの違いでしかない。
二期作や三期作が全国的に広まったのはこの頃で、鉄製の農具や土木などが全国的に普及しだしたのもこの頃。
灌漑設備などが整って、人口が爆発的に増えたんだよ。
江戸初期は比較的温暖であったので、これに拍車をかけた。
江戸幕府がなにか農業、農法の改革をしたから増えたわけじゃない。
幕府にイジメられていた外様諸藩が収入が足りないから、必死に開墾していただけ。

>多くに人々は「いつ襲われるか分からないんじゃ安心して生活できない」という実感が

だからこそ農村はある程度の自治権をもっており、自分らで武装していました。
だから領主が増税といっても簡単には受け入れません。反抗する力を持っていましたからね。
だけど江戸時代になると、兵農分離や領主に敵がいないので、好き勝手できたのですよ。
そして食わせられないなら、他国で略奪をするというのは悪い事ではないですよ、
食わせられないから、餓死させてしまったよりもね。

>「他所から奪えばいい」という論理を支持する人々が多かったのなら、

だから最終的に徳川が全国から奪って言ったんですよ、富をね。
参勤交代や江戸滞在などで諸藩の富を奪い、都市部で消費させ、
商人からは屋敷の大きさや、株などの特権に応じて金を取るという方法でね。

>病気だのなんだのの理由を付けて、参勤の免除を申し立てた事例などいくらでもありますよ。

殆ど認められてません。天明の大飢饉クラスがおきて初めて認められたくらいで、
それも次の年からは参勤交代を強制されています。どの藩も江戸時代を通じて数例もないですよ。
250年間でたった数例です。

>これら「名君」と呼ばれた大名の治績は幕府から称揚され、多くの大名が参考にしています。

レアケースである事にかわりませんな。それに上杉庸山は天明の大飢饉ではかなりの餓死者をだしてます。
その前の宝暦の飢饉でもね。数千から万単位のね。
殆ど出さなかったのはその後の天保の大飢饉です。このときには庸山はもう死んでます。

>手前勝手なことを主張する農民のクビなど、簡単に撥ねる事の出来たのが戦国時代なんですが。

江戸時代に比べて、領主の村の力関係に差は小さいですよ。そして戦国時代にも法はありますし、
それにそって行われるので、無茶苦茶な事はできません。

>1500万が3000万は、完全な倍増。100%増です。

かかった時間は計算に入れないのですかね?江戸時代は260年あるわけですが?
そして江戸初期は戦国時代と違い、温暖な気候です。それで人口が増えただけですな。
戦国時代のように寒冷化すると人口は増えてません。

284:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 20:57:12.24 UKW5NgZK0
>>273
>そのわりに、幕末の志士と呼ばれる人々は割と気楽にあっちに行ったりこっちにいったりという

気楽に?命がけですが?志士が気軽に移動していたとか笑える話ですね。

>金を送金して貰う当てがあったり、蓄えがあったからこそのことだと考える方が自然ですよ。

藩の金で動いている人はそりゃ裕福でしょうな。で?それが何か関係あるんですか?
送金?当時にそんな金融システムはないですよ。
伊勢参りは一生に一度というもの、一生かかって貯めれば一度は旅行できるかもねって話。

>その余録にあずかれる庶民が相応にいたという事実を申し上げているのです。

それは富の再分配とはいわんよ。金持ちが道楽をしてそれで景気が良くなった事は再分配とは言わん。
税などによって再分配しないとね。当時は商業活動に対しての税金などないよ。
特権組織である株仲間からの上納金や、土地に応じての税金はあるけどね。
そして貧民に分配していたわけでもない。あくまで武士の給料になっていただけ、ただの収奪行為。

>一部商人が富を独占し、それ以外の農民が餓死寸前で生活していたり、切り捨て御免の特権を

私は切り捨てごめんがまかり通っていたなどとは主張してませんが?
勝手に人の発言を作らないように。ただ前者は事実ですな。
一部の特権商人が富を独占して、農民は餓死ですよ、いや町民もかな。
飢饉が発生したら、米価が高騰し都市部でも餓死がごろごろ出ます。
その為打ち壊しなどが多発したわけですから。
蔵元や札差は投機目的で米を扱い莫大な利権を上げました。
新規参入などは基本的にできない特権商人ですね。

>間宮林蔵、最上徳内、勝海舟の祖父、榎本武揚の父、川路聖謨など。

全員違いますね。貧乏人が金をためて、株を買って株仲間に入って巨利をあげたケースを聞いているんですよ?
なに話を変えているんですか?
その武士になった人達もとても珍しいから有名になっただけなんですがね。

>単なるあなたの思い込みですね。史料の提示をお願い致します。

江戸マンセーの杉浦さんだって言っているでしょう。若旦那=遊び人で問題ないんですよ。
ていうか若い頃からむしろ率先して遊び人であることが求められます。
江戸時代はコネの時代、そうやって一緒に遊んで金使って人脈作るのが若旦那の仕事です。
店の経営は番頭の仕事です。
落語とかでも若旦那は何時も道楽者でしょ?なんでそうなのか少しは考えて欲しいものですねえ。

>そういう人間が太平楽に暮らしていけたのならば、それで充分に幸福な社会でしょう。

だから暮らしていけないわけですが、正社員になれるのは親が正社員の場合のみ。
それ以外は一生派遣です。
江戸時代は職業も管理されていた社会で、外部の人間が新規に入れるところは決まっています。

285:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 21:29:54.70 UKW5NgZK0
>>274
>徐々に定住層が拡大していくことで、幕末までには男女比はおおよそ10:9くらいの

嘘ですね。中期以降では都市部の人口が減っただけです。
つまり余剰人員を養う事が出来なくなっただけです。
鬼頭さんの研究じゃ100万人くらい三都で人口が減ってます。
ここにも少しのってますね。人口の推移が。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
江戸時代は身分社会、身分についていないと職という食い扶持はありません。
実力でその身分を勝ち取れる人がいないわけじゃないですが、
(丁稚から番頭に成り上がったり、養子などで跡取りになったりね)
その身分という枠に入らないと暮らせません。中期以降はその身分以外の人間が死に絶えたという事です。
家族を持てるのは、その身分をもてた人達だけです。
たとえば番頭まで出世しないとまず結婚できません。
つまり出稼ぎにきていた労働者は定住などできずに野垂れ死にして、人口が減り、
人口の流入も減った為、男女比が均等化したという事です。
最盛期には武士も合わせて100万とも200万とも言われていた江戸ですが、
明治の正確な人口統計では80万人しかいません。
これはつまり、中期の人口が嘘か。後期に大幅に人口が減ったことを意味します。
武士分を除いてもほんと少なくなっています。武士という消費者でもっていた社会が江戸なんですよ。

ちなみに貴方が持ってきたものにも、かかれてますが、既婚男女がとても少ないとなってますね。
つまり子供をもち家庭を持っていた人が少なかったのですよ。

>>278
何が何でも幕府が悪くないと言いたげですが、そもそも下関の賠償金など払う必要などないんですよ。
列強が求めたのは開港であって、賠償金は開港しないなら払えというものです。
そして幕府は愚かでしたので、賠償金を選びました。
そして案の定払えなくなり、借金の返済の延長の変わりに開港することになります。
はっきりいって馬鹿です。元々払う必要のない借金を払う事になったのは幕府の失政です。

そして新政府は幕府の借金を引き継いだら、前倒しで借金を返済しておりつけ入る隙を与えていません。
これ一つとっても幕府の無能と、新政府の有能さが際立って分かります。

286:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 21:45:21.63 R5OLPBjL0
幕末幕府の対外外交の失策と、江戸時代の統治はまず別だわね。
江戸時代は独力で産業革命前まで発展してた。
ヨーロッパが人口増えるのも産業革命以後。
イギリスの場合1800年代まで1000万も人口なく、1900年代で4000万まで増える。

幕府は米国の脅しに屈し、不平等条約を結ばされ、金流出が起こり急激なインフレになり倒幕された。
幕府が結んだ不平等条約は、領土割譲以外などは阿片戦争で清が結んだ条約と大して変わらないしね。
ペリーが開国を迫り戦争すると脅した時、吉田松陰など先覚的尊攘派は国内一致で当れば逆に戦争にならないと相手の手の内を見透かしてるしね。
幕府は国内をまとめられなくなり、武権として対外能力が衰えたから座から下ろされただけ。

287:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 22:00:11.37 7MuHlbsV0
まー藩士がお役目や許可なしに藩外を出歩くことは出来ん罠。
それなしだと脱藩するしかないし、無許可でそれをすれば、甘いので有名な長州藩でも
士籍家禄の剥奪ぐらいはされてたね。吉田松陰とか。江藤新平なんかは永蟄居。
ちなみに脱藩後は、方々で講義とかして旅費を稼いだ例(吉田松陰とか)、
豪商や豪農のパトロンを得た例(白石正一郎とか)、他藩の庇護を得た例(高崎崩れとか高見弥市とか)
などがある。一般的なのは吉田松陰の例かな。脱藩した後、塾を開いた頼山陽とか。

ちなみに新撰組は、幕府の許可を得た浪士組として上洛してる。

288:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/21 22:03:54.14 UKW5NgZK0
>>280
>先に鎌倉時代の話題を出してきたのはそちら様だったように記憶しておりますが。

話をそらさないで下さい。
鎌倉時代をだしたのは、お前さんが江戸時代以外の飢饉の記録は残ってない。
などと電波を飛ばしたからです。私が江戸時代以前でも飢饉の記録は残る事を証明しました。

そして貴方は鎌倉と江戸時代では人口が違う、人口比で被害が違うと主張しました。
なので私は人口比なら、今100万の餓死者がでても人口が江戸時代の四倍だから、被害は小さいのかと反論すると、
貴方は時代が違えば出る被害が違うのが当然といいました。
それに対して私は、なら鎌倉時代に比べて社会が江戸時代のほうが発展しているのだから、それを指摘するのがおかしいと指摘しましたら、
この答えですよ。貴方の理屈なら江戸時代は鎌倉時代に比べても餓死は減ってないといけない。
けど江戸時代のほうが規模も頻度も明らかに増している。

>人口が減少に転じた戦後の日本も相当酷い時代だとご認識なのでしょうね。

平成の今の世がいい時代だと思っているんですか?自民党が問題を先送りにし、
民主党によって日本人虐殺されている、といってもいいくらいなのに。

>それ以外の時代ではあまり起こっていない」という発言には説得力がないと申し上げているのです。

何を言っているのやら、私は江戸時代は飢饉が多発したと主張しています。
そして記録などをみてもそれは明らかです。
それに対して貴方は、鎌倉時代にも飢饉が起きたかも知れないが、実は史料が残っていないのだ、
だから私に鎌倉時代の餓死の史料を出せといっているんですよ。
どっちに提出義務があるのかくらい考えて欲しいですね。
私の主張を否定したいなら、江戸時代以上に飢饉が起きたことを史料を添えて証明しなさい。
なんで私が存在しない史料を探さないといけないんですか。
江戸時代の飢饉の記録ならだしましょう。大飢饉といわれるものだけで、
寛永、延宝、元禄、享保、宝暦、天明、天保 ほかにも私が知らない小規模な飢饉はあるでしょうね
まあ小規模といっても万単位は餓死しているでしょうが。

でこれくらいの頻度で数十万単位の大飢饉が発生した事がかつてあったんですか?

そして明治になると爆発的に増加しますよね?

>>281
明治になると50年ほどで人口は倍になりました。
なら明治政府と違って、幕府は3000万人ほど殺していたという事ですね。


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