11/05/31 11:15:20.87 GxekY3WN0
桑名や会津って言うか、桑名やんそれ!
>>95
幕府歩兵隊は、大島口と芸州口で交戦してなかったっけ。
小倉口のは持ち腐れたようだが。
101:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 11:17:46.06 KN57YYce0
立見が活躍するようになったのは、鳥羽伏見での敗戦後に銃器中心の近代歩兵部隊に主軸が移ってからの話でしょ。
刀槍部隊が主力・主流だった時期の桑名や会津で頭角を現すことは難しかったのではないかと。
102:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 11:30:58.79 KN57YYce0
>100
戦ったけど、訓練不足と士気不足で戦線崩壊したんで、彦根その他の旧式装備の軍勢と一緒に撤退してお終いだった。
でも、この戦いを通じて銃砲の持つ力を認識した慶喜らの意識が変わって、それが慶応の軍制改革に繋がった。
やっぱり、戦いの中で血を流して得た教訓はしっかりと身につく。
「ちゃんと失敗をしない」ってのは、短期的には利益のように見えても、長期的にはマイナスを生む場合の方が多い。
生麦事件の処理で、英国との戦争を回避した幕府と、あくまで突っぱねて戦った薩摩。
置かれていた立場や状況が違うから単純な比較は出来ないけど、示唆するものは大きいと思う。
103:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 20:17:04.88 9vy4Z5u50
>102
争いを回避するのも重要なことだと、思いますよ。
104:メーソン?いいえ、治郎丸です。
11/06/04 00:45:49.71 Qcd8rVOm0
/\
/ ⌒ \
/ (山口県) \
/ \
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___________
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/:::::::::::::/TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT\
/:::::::::::::::::/TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT\
/____/_____________________\
105:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/04 16:12:11.58 dcD8PpVR0
>>103
イケイケドンドンばかりでは勝てないのは幕末の幕府が証明しているが
争いの回避ばかりでは他人の強要に逆らうことが出来ないってのも加賀藩が証明してる
106:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 14:54:30.86 FxWy1kPU0
徳川慶喜=ヘタレ
107:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/12 23:50:47.86 htM6X9g70
だがまぁ慶喜がイケイケドンドンだったとしても、あそこから勝つのは無理じゃね?
108:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/13 00:12:38.46 t2pKNst10
個人的には、鳥羽・伏見の戦いをやらずに大阪に留まれば、
時間が経過するごとに徳川慶喜優位が固まっていたのではないかと思う。
109:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/13 16:07:35.96 x5g/zBzy0
>108
何年か前のNHKの「その時歴史が動いた」で松平春嶽を取り上げたときに、
大政奉還後に大阪城に引き揚げた慶喜が黙ってじっとしていることで政治的な得点を上げて、
京都で周旋をしていた春嶽や慶勝らの活動によって、薩長よりの空気から徳川よりの空気に
諸大名の間の雰囲気を持っていくことで王政復古後の新政体での重要な位置に慶喜が就くという
「名を捨てて実を取る」戦略が実を結ぶ直前だったと紹介してた。
それまで慶喜の言動に支離滅裂なモノを感じていてなんとなく腑に落ちていなかったんだけど、
この視点からこの時期の慶喜の行動を見ることで、いろんな疑問がけっこう氷解した。
家近良樹氏の『幕末維新の個性1 徳川慶喜』はこの辺の力学を詳しく解きほぐしていて
一読者として面白く読めた。
慶喜の大阪城逃亡を「先の見通しのきく政治指導者による、見事な投了の一手」と
評していたのは痛快ですらあった。
110:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/14 00:54:08.77 VeuXy+Aw0
辞官→前将軍を名乗れる上、将軍としての格式も維持されるに変更
納地→徳川家のみの納地が、前大名が石高に応じて全員差し出すに変更(結果、失政による領地削減では無くなり、徳川家の名誉は損なわない)
その上、明治新政府参与(薩長と同格同権限)の役を与える事を岩倉具視が承認。
これらは土佐藩や福井、尾張藩の成果。
慶喜が戦争してまで抵抗する理由は何も無い。
旧幕府軍が暴発しなければ、薩長と同じ権限を持つ参与として徳川家が新政府入りを果たす。
その結果、徳川家支持藩である土佐山内家(徳川に大恩有り)・尾張徳川家(徳川御三家)・福井松平家(徳川親藩)で、精力的には薩長二藩圧倒。
石高に置いても、徳川家単独で圧倒的な石高を誇る。武力も何も失わずに温存されるので、徳川陸海軍が最強のまま維持される。
慶喜どうみても勝ってますよw薩長に。
111:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/14 01:20:47.79 BykEZ2zE0
慶喜たん自体が敵を知り己を知りてで、我が幕府側に西郷・大久保の如き人物がいるかと聞き
居ないだから勝てないと言ってますやん
112:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/14 01:50:37.81 NkcqlgPe0
それは、
大多喜正質や川勝広運、
瀧川具知や竹中重固、
松平容保や松平定敬あたりが
大口を叩いて京都へ向かって進軍し、
薩長よりずっと大軍で装備も良かったのに、コテンパンに負けて帰ってきたので、
指揮が悪いんじゃいくら事前準備をしても勝てないよ、と慶喜が匙を投げた場面です。
軍は整備しておいても、実際に働くかどうかはやってみないとわからないので
鳥羽・伏見の戦いなんて起こさずに、威圧で収めておくべきだったと思うのですよ。
113:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/14 06:40:56.12 NDqWn18/0
>>112
>大口を叩いて京都へ向かって進軍し、
>薩長よりずっと大軍で装備も良かったのに、コテンパンに負けて帰ってきたので、
>指揮が悪いんじゃいくら事前準備をしても勝てないよ、と慶喜が匙を投げた場面です。
違う。瀧川が江戸から兵を連れて大坂に到着し、江戸薩摩藩邸焼き討ちを伝えて開戦を慶喜に迫った時でしょ。
コテンパンに負けた後ではない。戦いが始まる前のワンシーンだ。慶喜は戦う前から、家臣の暴走にサジを投げたというのが正解で、負けた後にサジを投げたのではない。
114:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/14 13:11:11.01 Q7AylzPHO
>>37
脱原発派VS原子力村
の戦いも入れて下さい!w
115:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/14 13:20:48.28 NkcqlgPe0
この言葉、鳥羽・伏見から大阪城へ松平容保や松平定敬が敗走してきて、
大阪城の軍備を使って反転攻勢に出るよう要求した主戦派要人に、徳川慶喜が言った言葉のはずですが。
松平容保関連の伝記は、松平容保がこの際叱責を受けた事を隠すので、この時点の経緯が曖昧にされています。
116:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/14 15:07:19.74 uAgEU1B40
長州征伐軍・・・ベンチがアホやから戦争がでけへん。
117:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/15 23:07:55.51 llpCCAeVO
>>114
福島の事故=桜田門外の変
九電メール=第2次長州征伐
118:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/20 05:42:52.77 zCGjKpefO
長州征伐に関しましては、政府といたしましては、枝野です。
119:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/21 14:51:56.63 hNqyhmg+0
新選組が会津軍に参加して、士気を盛り上げていれば、幕軍は長州如きに負けることはなかったんじゃ!
幕軍大佐松平容保公が英断を下していれば、幕軍は長州を壊滅させ、その勢いに乗って薩摩を倒せたのに…
残念でならぬ!
120:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/21 19:43:27.08 OzD6JF3T0
新選組と奇兵隊の戦闘とかやって欲しかったなぁ
121:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/22 08:45:27.33 51zo1R9K0
ですよねー
122:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/22 16:31:05.27 eh/6QVW20
>>119
会津軍攻めたのは長州じゃないぜ
123:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/22 17:12:09.81 +BQlpF8V0
主力は伊地知の薩摩隊と板垣の土佐隊だよなぁ。
>>119
会津と新撰組は、鳥羽伏見で轡を並べて戦ってるよ。
124:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/22 21:35:26.96 51zo1R9K0
新選組ファンとしては、長州征伐の時に参加して士気を盛り上げてくれていれば…と考えたいが、
鳥羽伏見の惨状を見るにつけてはそんなこと思えないな…
しかし、長州征伐の時も鳥羽伏見の時も幕軍は数では上だったのに…
薩摩がいないだけでこんなにも違うのか?
125:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/25 17:47:04.08 fZuIZi/LO
>>116
小笠原長行らが熊本軍の援軍を、無視しましたね。
>>119
石見口に会津が参加しても新式銃の餌食に、なっただけでしょう。
ですが新撰組と同じく士気が旺盛なのがいたらと、思いました。
>>122 123
両者が陸軍に行かなかったのは、どうしてでしょうか。
>>124
武器の性能が違いますからね。
長州を取り潰せても、薩摩はかなりの犠牲を覚悟しなければ、ならないでしょう。
126:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/26 07:28:15.24 Wp696M1w0
>>21
幕末から日露までの薩長は、まさに神がかり。
これを素直に認められない不誠実な輩は低脳国賊。
それだけは素直に認めよう。
127:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/26 07:52:12.89 iibEh19S0
>>119
>>124
禁門の時点で会津は洋式になる前の長州に押されまくって突破されたわけだし、
その後長州並に軍制改革しない限り、士気が高かろうが勝てるわけもない。
128:125
11/07/26 08:43:08.78 CA99BcnAO
>>126
薩長だけではなかったですが、すごかったですよ
>>127
したくても財源がありません
129:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/26 16:13:44.44 qAkRQc1B0
>>125
板垣は土佐閥の重鎮として、伊地知は片目片脚が不自由で
病弱だったから政治の道を選んだんじゃない?
幕末までの武士は軍指揮官と政治家兼任してたようなもんだし。
130:125
11/07/26 17:50:23.79 CA99BcnAO
板垣は軍人しかだめだと、中江兆民が述べていましたよ。
伊地知はそれらを考慮しても、通用したと思いますね。
両者が陸軍にいけば、我が国の軍事史におおいなる影響をあたえたでしょう
武士は両者を兼任していましたね
131:125
11/07/26 17:59:51.60 CA99BcnAO
長州の味方を広島が、したのでしょうか。
132:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/27 00:12:14.03 HgtAe7Z80
英国相手に一諸侯で互角の戦い出来る薩摩や、4カ国連合艦隊と戦える長州相手では幕軍なんて物の数でもなかったろうな
133:125
11/07/27 09:10:31.66 tZAlH8XpO
>>132
そうだった
134:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 11:36:58.22 YrPTX3pi0
>>132
薩長は互角に渡り合ったといえるのだろうか?
砲台を占拠されたり甚大な被害が出たりしたわけだろ?
それで互角と言っちゃあ欧米が黙っちゃいない
135:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 15:37:15.01 iEXCwMwq0
まぁ禁門の変と同時進行だったのもあるが、死傷者は連合軍側のが多かったとはいえ
砲台占拠されてそれを奪還することも出来なかったんだから、互角とは言えんかなぁ。
役に立った部隊は久坂玄瑞の光明寺党ぐらいのもんだっけ。後の奇兵隊の母体。
136:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 18:54:22.92 YrPTX3pi0
うむ。薩長は外国軍と戦い自らの無力さを思い知って攘夷を諦め開国、倒幕に転じたと学んだぞ。
137:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 21:05:31.85 G3h7+1nJ0
でも負けたのだ、と書く人の言及する被害は長州のみ。
138:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/29 08:11:37.78 /VRx+7or0
幕府側は武士だけの軍勢だったのに対して長州側は武士以外も参加していた。
それは不正規の志願兵が増えるということだけでなく
例えば地元漁師を利用して情報収集に活用できるなどの利点もあった。
戦略の幅が広がればそれだけ有利になるのは当然。
実際に関門海峡渡航準備が察知されて渡航直前に攻撃くらっているしな。
139:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/29 09:22:41.42 +fj4aCbG0
>>137
薩英戦争は微妙かなぁ。
賠償金の獲得だけが目標だったらイギリスの勝利とも言えるが、
生麦の犯人引渡しという点では妥協してるし。
講和条件から見ると、イギリスが多少優位な痛み分けってとこじゃね。
この薩英戦争を教訓に、馬関戦争では砲台のアウトレンジからの砲撃を厳守するようになるから
2回目があったらどうなってたか分からんが。
まぁそれが分かってたから、薩摩もあの講和条件で妥協したんじゃね?
140:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/29 21:14:27.05 N848rbV80
>>138 革命軍と体制維持軍とでは志気が違うしな。
141:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/30 01:02:47.65 W1UKRS9T0
>>138
民衆の活用は長州藩だけの専売特許ではない。
会津藩だって武士以外の民衆を徴発して戦力にした。もっとも練度が低いので多くは期待できず
畳を持たせて前衛に立たせることで弾除けとして利用を試みた程度だが。
結果は銃弾が貫通してしまい戦力どころか壁としてすら役に立たなかった。
142:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/30 03:12:10.80 JpbwDUX70
長州の民衆兵の場合はほぼ自発的参加だろ。訓練もしてる。
民衆を挑発して使うのとはぜんぜん士気も錬度も違いすぎる。
143:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/30 08:37:08.87 m9MHuULA0
>135
向こうは展開戦力に限りある
当時の艦隊じゃ補給もままならないだろ
一方長州は攘夷で次々諸隊国民軍が生まれ連戦で強くなり限りなし
長期戦になればどっち道長州が勝つ
ゲリラ戦に持ち込まれたら対応できないだろう
144:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/30 09:43:21.81 04rur+MF0
>>143
そうとも限らんわい!
145:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/30 18:15:41.29 DIFe06060
会津戦争と長州征伐を比べるなら
長州は挙藩一致で幕府に当たれたけど、会津は民衆が新政府についてしまってる。
長州も天保改革までは南部並の一揆多発藩だったのに。
146:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/30 18:22:02.99 04rur+MF0
そうだったのか、そういう違いもあったんだな。
ああ会津、残念無念也
147:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/30 23:21:27.54 F+kcPtC10
長州は攘夷戦で奇兵隊など生まれ、既に国民国家になりつつあったから
四境戦争の頃には藩内革命経てるし
幕府との戦いの前に長州兵の士気の高さを見た坂本龍馬は感動し長州兵は天下最強であると薩摩に書いてる
板垣は会津攻めは本来負けてもおかしくなかったが、会津市民が駄賃など貰い積極的に新政府に協力したとしてる
これではだめだと
後の藩政改革や自由民権運動する経験になってる
148:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 00:28:15.47 SI7O53HT0
えっ・・・?会津戦争は会津軍が勝てる要素があったの?
もし勝ってたら歴史はどうなってたんだろ
149:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 01:22:42.27 2pC1lZuf0
北海道の一部が日本じゃなくなってたんじゃね?
150:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 12:59:02.14 OYGxc9Hx0
>>143
まぁゲリラ戦に持ち込んで粘り強く戦えば勝てた可能性もあるが、
実際には禁門の変、第一次長州征伐でそれ所じゃ無かった訳で。
>>148
速攻掛けて会津城下まで突出したのは、伊地知と板垣の三千~五千弱?程度の軍だったから。
会津は天下屈指の雄藩だから、士族と民衆が一致団結して抵抗すればこんな少数の軍は
簡単に退けられただろうし、またそうして冬が来たら兵の士気も阻喪するかもしれず、そうなったら
死ぬしかないと覚悟を決めてた。
そんな決意でいざ城下まで進出したら、意外にも篭城してたのは士族だけで、一般の人民は
我関せずという状態だった。
みたいなことを、会津戊辰戦争の序文で板垣が書いてる。
151:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 14:10:36.64 ZAnftGAX0
>>141
人間の盾は人心を失う要因になったかも
>>150
京都関係の出費のために領内の税が重くなったことが
会津藩領民と支配層との軋轢を生じてしまったとおもう。
京都守護職は貧乏神
152:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 16:07:10.46 SI7O53HT0
>>150
じゃ会津戦争に会津が勝利してたら・・・というIFを考えるのも面白そうですね。
まず、板垣退助が民権運動を起こすことはなかった。
となると、果たして日本はどうなっていたんだろうか。
153:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 20:10:31.60 pcfezsJKO
>>151
身分差別がきつい所だから余計に乖離しやすいだろうね
外交、内政、軍事が全部ダメダメだったのな…
徳川が大事すぎて会津を顧みることが出来なかった
人としては素晴らしくとも為政者としては最悪
>>152
板垣おらんでも自由民権運動は起きてるだろう
154:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 21:27:51.07 SI7O53HT0
でももし会津軍が会津戦争で土佐軍を敗走させてても大勢に影響はないとみる?
155:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 21:32:27.24 xUR0tHSH0
土佐の評判が落ちるだけで大勢に影響はでないな
156:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 22:54:31.63 SI7O53HT0
なんだそうなのかガッカリ
俺的にはそのまま奧羽越列藩同盟が盛り返して官賊軍を打ち破って東京まで進出、
明治天皇を奪還して新たな政府を作る、ってところまで思い浮かべたよ。
まあリアリティはないが。
157:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 01:50:19.38 BFF6v6PgO
>>37
原子力村は滅亡確定だねw
158:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 03:08:50.18 0iIe9jt+O
人心も金もないんだからできるわけ無いだろ(笑)
薩長恨んでアホなオナニーする暇合ったら勉強しろ夏厨
159:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 10:47:33.21 oF/RrDoz0
>>156
それを考えるなら、まず白河城攻防戦で同盟軍が勝利するのが
最低条件だろうな。
あそこを抜かれたら、中通-会津への峠の守備で攻勢所じゃなくなる。
あと、北越戦線も長岡城での大崩壊が起きた後だときつい。
160:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/05 09:18:35.32 jTNPZfHI0
一個大隊1000人の自衛隊と、
地方公務員事務方で構成された一個師団がタイマンしてどちらが勝つか。
161:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/06 21:19:06.31 PBtHHbp60
>>160
前者でしょ。
162:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/07 00:31:44.42 +ImSFw6G0
>>1 長州鉄砲部隊と幕府抜刀部隊の戦力差だろう。
163:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/09 21:26:52.66 bdyyR8qx0
>>1
直参が戦場行きたく無さに子供に跡目継がせたりして隠居するとか、無駄飯ぐらいの有害無益集団だったから
164:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/10 00:55:07.16 B3T6/izQ0
もともと幕府の旗本って行政職の侍だったり、血筋だけはいいボンクラだったり、
外様の小領主だったりで、武勇伝とか一切無い家がほとんど。
精鋭集団でもなければ、戦う軍団でもない。
165:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/15 01:11:24.13 9xy0yH9s0
>>1
長州に大村がいたから
166:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/15 17:07:38.92 4mpyHpj90
戦前、司馬遼太郎公認の腰抜け軍隊だったのが大阪人
167:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/15 18:40:39.39 LdtWvIHv0
江戸体制の文は三河の百姓でもできたが。
武は作らないとできないということだろね。
168:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/16 17:09:15.89 H+wJyy2W0
士気も装備も低い軍隊じゃ勝てないからなあ。
斜陽の政府が、小規模な反乱にも勝てずに滅んでいくのは、日本ではよくあること。
そして一度そうなったら、もう立て直せないのもよくある事。
人間ってのは空気に流されるからね。後は雪崩をうって崩壊する。
169:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/16 20:29:56.91 EQeF64N+0
ここでは長州藩内部での会所の圧政により頻繁に起きた一揆はガン無視されるのがデフォ。四国艦隊が下関を砲撃しているときに長州は存亡の危機に立っていた・・・のは無視して下さい。でないと事実、事実、事実を積み上げて萌えを潰しま
す。
170:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/16 23:05:57.71 Rjdzoz880
まぁ落ち着け。
171:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/17 06:34:58.61 972xWXYX0
>>169
その多発していた一揆を収める為に、色々やった結果が後の長州藩なんだけどな。
だから長州征伐の頃は一揆は殆ど起こっていない。確か新たに占領した支配地域あわせて、
数例しかないそうだ。
幕府はその頃物価高騰に苦しむ民が、打ちこわしで暴れまわり、農村でも一揆が多発。
四カ国艦隊の時もそう。かなりの苦境で戦い続けた結果、
何をすれば勝てるのかを学び、実践した事で未来が開けた。
172:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/17 11:56:28.36 36Vhrkoz0
天保年間は確かに一揆が頻発してた。大一揆もあったし。
天保年間の後から明治に入るまでは、村落を越えて広がる大規模な一揆は無かったと思うが。
第二次長州征伐のときの、長防士民合議書の発想も面白い。
それに長州存亡の危機は、四カ国連合艦隊よりも、幕府による第一次長州征伐の方が
深刻だったろう。
あそこで降伏を認められなければ、ゲリラ戦とかでどれだけ粘るにせよ、最終的に長州は負けてた。
まぁ、ただでさえ財政が窮乏してた諸藩としては戦役が長引くとか悪夢だから、
慶勝の寛典論にも余り異議がなかったのだろうがw
この時点では、幕府の強硬論と諸藩の寛典論のどちらも正しいと思うけどね。
173:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/17 13:27:40.00 fBBfLtos0
そもそも長州が恭順した後に高杉みたいに藩をひっくり返す狂人がでてくるとは
誰も想像できないよな
174:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/18 17:04:13.33 PiKq1eGf0
結局寄せ集めだから勝てるわけがない
175:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/18 19:02:24.58 vZFuc5zg0
高杉の政権掌握の過程を見ると成功した2・26事件って感じ。
176:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/19 21:44:52.72 HqwpEAZx0
高杉は農村や都市の中小ブルジョワ層に圧倒的な人気があった。中小ブルジョワは農村や都市で賃金労働者や農奴を搾取している。これのどこが成功した二・二六なのか。一声で 言えば細川護煕だろう
177:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/20 18:45:30.41 +Ta4xliA0
急進的国家改造を掲げ、クーデターで政権掌握を目指したなら共通してるでしょ。
ともかく、小金持ち層なら現状維持が普通じゃないのかな?
よく高杉を支持したね。
よほどの閉塞感を長州の保守派、幕藩体制に感じたか、具体的な利害対立があったの?
178:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/12 23:36:52.65 tqLJ5KBO0
なんてって長州では百姓でさえ刀を持てばサムライになれたんでしょ。
179:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/13 02:21:14.65 ResNHH4D0
長州の百姓は銃や刀を手にしたが、長州以外の百姓は刀を持とうとしなかった。
学がある百姓は少数で、多くの学のない百姓は日本の未来とか武士がなぜ戦っているのかなんて理解出来ない。
百姓は物価高騰するか飢饉になって自分が困った時だけ蜂起する存在。
180:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/13 06:27:57.16 gaq/i1KB0
大体高杉自体が上級武士
高杉について破産した商人の白石とか国学が元
百姓が無教養ってのも無いだろう
初代総理の伊藤自体百姓の中でも下位出身
長州と違い会津が地元の庶民を味方を付けれなかったのは統治が駄目だったからに過ぎないだろう
181:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/13 21:04:06.66 DV0hMjakO
>>179
学があるとか無いとかじゃなくてさ、百姓にとって
搾取・凌辱を繰り返してきたお侍のために好き好んで血を流す道理はないでしょ。
長州が特別だっただけで。
182:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/14 08:42:10.63 FtPrdrQ50
改易で領主が変わっても自分たちには関係ないしな。国替えが頻繁にある国なんか領主意識も低いだろうし。
183:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/14 22:16:03.68 6WIvNod10
山口県は、長野県に次いで寺小屋数全国2位だったんだっけ。
長州藩の他にも、庄内藩とかは領民に慕われてたな。
184:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/15 13:39:07.43 HU2YbIFn0
藩版も水戸や薩摩と同じく盛んだったはず
185:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/15 19:58:33.44 22nfzmGM0
維新はそもそも攘夷から始まってるんで。
外国に植民地化されない為どうすりゃ良いかと主導したのが江戸時代に教養化された武士。
基礎作って自階級を切腹が明治維新。
庶民がフランス革命で王様をギロチンにかけたのと違う。
武士は一定の税取る権利と、政治軍事の負担と権利権利持ってたけど土地所有者でないし。
大抵の武士はその辺の裕福な百姓商人より貧乏で民間のが金持ちだった。
186:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/16 11:38:41.60 631XSyeg0
>>181
長州の場合、馬関戦争で外国軍に武士が負け、複数の村を破壊されたからね。
長州の庶民はこの時、武士は自分達の村を守れない。自分の村は自分達で守るしかないと自覚させられた。
その結果、生まれたのが奇兵隊などの諸隊。
>>185
明治維新が起きなかったら……幕府体制のままでユルユルと近代化できたのではないかという話しも聞くが、
開国が必然である以上、権利という思想も輸入されてしまう。維新が起こらなかったら、いずれヨーロッパ式の革命が起こされたと想像する。
この時、たぶん天皇・将軍・大名・武士は皆殺しにされてただろうね。フランスみたいに。
本来であれば、自由民権運動でこの革命が起こったはずだが、自由民権運動のリーダー達が皆武士だったのでそうはならなかったな。
187:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/16 19:12:25.96 vzMOxmRM0
>>183
確か岡山についで2位だったかと。
あと領民には慕われてないと思うぞ、長州はかなり重税。それも税の対象がかなり広い。
検地も頻繁に行われる。
何故かと言うと120万石から36万石、さらに幕府から目をつけられていたから、
賦役とかも多いし、城を作るのも山陰の萩とかイジメ。
結果負担が多いから、その分領民が苦労した。
ただ長州は寺子屋や藩校などが多く、さらに寺子屋は藩が率先して立てていた、
その代わりその先生は武士がやっており、藩の思想教育などもおこなっており、
また知識があるから尊攘派が非常に多かった。幕府にもイジメられていたのもあるだろうしな。
結果的に革命だああああとなっちゃったわけ。
188:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/16 19:23:52.11 fGME7OvF0
江戸期は基本善政だろう
ペリーが来なくても幕府は倒れてたろうが。
鎌倉、足利、徳川が倒れた様、朝廷の権威が使われたろう。
尊皇攘夷は士民の常識だったし、外国の貴族の場合は富と権力の独占者だからやられたんで。
ロシアなんか領地にそのまま人民が付属してつくから。
武士は名誉と政治権こそあったが、その分軍事負担あったし、経済力は民間のがあった。
民は戦国末期に決められた税さえ払えば良く、江戸期に新しく開拓した税は払う必要なかった。
一方でどの藩も藩財政がボロボロだったのはその為。
武士も250年形而上学問ばっかやってたから、政治は徳治主義で近代国家も西洋文明も理解する事ができた。
結果尊皇攘夷と明治維新が生まれた。
一般からすればむしろ明治のが負担増。
武士廃止の代わりに軍事負担として徴兵が必要になり、地租改正で税逃れなくなり、米でなく金で払わなければならない。
軍事や産業や近代化の為に莫大な税が必要になった。
武士の役目もする以上、政治権を持つのは当然の流れで。
民権運動も必然の延長戦でしかない。
189:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/16 20:29:33.67 2C5ur6fo0
>江戸期に新しく開拓した税は払う必要なかった
江戸期にも検地は行われてますけど。
>武士は名誉と政治権こそあったが、その分軍事負担あったし
軍事的に脆弱な軍事負担なんて無駄そのものだな
>武士も250年形而上学問ばっかやってたから、政治は徳治主義
>で近代国家も西洋文明も理解する事ができた
幕府は蘭学を弾圧したけどね。
日本が列強から後進国に落ちた時代なのに
江戸時代を評価しすぎだな。
190:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 08:32:59.90 pKb+7q8S0
江戸時代日本は先進国だった!
スレリンク(history板:401-500番)
191:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 13:10:06.77 x2jwE8ci0
>189
対外国向けの軍備としては問題があったかもしれないけど、江戸期の軍備ってのは
基本的に国内の治安を主眼としたモノだったのだから、「脆弱」と言って切って
捨てるのはどうかと思う。
江戸期の日本がそれなりに豊かで落ち着いた生活環境をその国民に与え得たのは、
司法や行政、それに軍備といった「公権力」が肥大化するのを抑えて、国家運営に
かかるコストを切り詰めたこと。
それから、支配階級が被支配階級から過酷な収奪をしないという基本的な統治方針が
堅持されていたことに理由を求めることが出来ると思う。
鎖国をしている間に西欧各国から後れを取って後進国化してしまったことは事実だけど、
教育の水準を高めて(識字率の高さ・教育機会の均等化)、独特の分化を醸成して、
国民が「太平の眠り」に沈むことが出来るくらいに、安定して穏やかな社会を築いていた
こと自体は、賞賛されて良いことだと思う。
192:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 18:43:45.23 HV9jIlfm0
>>191
成功した商人や豪農は豊かだっただろうけど、農民もそんな生活を享受できてたら、
命懸けで一揆や打ち壊しを起こす必要がないでしょう。
南部藩なんか、一揆勢が仙台藩まで行って直訴してるし、財政再建策として
検地及び新田没収を行い、一揆を起こされた例もある。
そもそも財政が悪化する一途だから、飢饉などの非常時にも有効な対処ができない訳で。
どっかの藩みたいに、困窮する民を放っといて大阪に回米するのはかなりアレだが。
それに一口に財政悪化と言っても、その原因は農本主義と経済構造の変化が
深く関わっている訳で、倹約しただけでどーにかなるようなもんではない。
財政再建で名声を得た徳川吉宗も、晩年その課題をどうにかしようと苦心するが、
結局根本的な解決はできなかった。
これに対応して成功を収めたのは、江戸時代を通じてもほんの一握りの政治家だけ。
193:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 18:59:57.72 PrZEQ71m0
一揆や打ち壊しは不作になればおこる
反乱を起こさせれば領地召し上げになるから大名からしても戦々恐々
幕府の大塩平八郎などは、農民が苦しんでるのを知らせる目的の為に幕府に反乱起こした
フランス革命は餓死線上にあった農村が、重税と我慢の限界で土地所有を求めた革命
194:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 20:55:06.10 IHGBephE0
>>191
幕府が軍事的に弱かったからこそ、米国の要求を飲まざる得なかったし
長州征討にも敗北し、鳥羽伏見にも敗北したわけだから
これこそが最も重要だろう。
195:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 21:42:11.40 PrZEQ71m0
維新が出来たのは日本だけ
清だって大国だが100年以上も植民地化された
日本は江戸期の蓄積あったから独力で出来たと見なければ
維新を主導した側だって江戸時代が生んだ武士
196:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 22:02:28.76 CQYAcBhK0
経済的なことでいえば、革命を主導した長州と薩摩は異例に、金満といっていいほど財務状態が良好でした。
この二藩が他藩同様余裕の無い状態だったら、倒幕と維新はどうなっていましたかね?
197:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 23:37:39.81 19OaTwSI0
明治維新は必要だったのか
198:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 00:13:16.34 ltUJQOsK0
幕府がいらなくなったから維新が起きたんだろ
199:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 04:26:43.67 C+U7oCKV0
>192
>成功した商人や豪農は豊かだっただろうけど、農民もそんな生活を享受できてたら、
>命懸けで一揆や打ち壊しを起こす必要がないでしょう。
それがそうとも言いにくい。
一揆が命がけの行動だったのは江戸の初期までで、綱吉から吉宗にいたるあたりで、
暴力的な行動が行き過ぎなければ「ただの抗議行動・示威行為(デモの一種)」と
みなされて、過酷な処罰を行うことが控えられるようになっていた。
大名は「領地内を混乱無く納めて善政を敷いているかどうか?」というのを
幕府から評価されるか否かの基準にされていたので、うかつに過酷な取り立て
などを行って一揆が頻発すると、国替えやお手伝い普請などの罰則的な仕打ちを
受けることを覚悟しなけりゃならなかった。
また、幕府の方もそうやって手綱を引き締める一方で、そう簡単には「取り潰し」
という強硬手段を封印することで大名を暴発させないようにと手加減していた。
江戸期の二百数十年間続いた幕府政治の中で、飢饉と呼びうるほどに大きな
天候不順が起こったの期間は、トータルではそれほど多くはない。
また、東北が飢饉に襲われていても西国はそうでもなかったりと地域差もあるから、
「どこそこでこういう行動が行われた史料がある」というのが必ずしも全国的で
継続的な事例だとも限らないみたい。
どこかの県で、生活保護の受給を打ち切られた人が「おにぎりが食べたい」と
書き残してアパートの一室で餓死してた、みたいなニュースがあったけど、
今の日本人すべてが餓死するほど追い詰められているかって言うとそうではないでしょ。
>そもそも財政が悪化する一途だから、飢饉などの非常時にも有効な対処ができない訳で。
>それに一口に財政悪化と言っても、その原因は農本主義と経済構造の変化が
>深く関わっている訳で、倹約しただけでどーにかなるようなもんではない。
財政が悪化したのはあくまで武士の側、つまり支配階級側。
なぜ支配階級が財政が悪化しているのに、商人や豪農が富裕になったかと言えば、
彼等を対象にして過酷な収奪を行い得ないような社会体制が存在していたから。
そして、支配側が放埒に振る舞えない環境下では、その下の国民はわりと安心して
生活が出来るし、だからこその「太平の眠り」が存在していたわけです。
200:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 04:54:05.90 C+U7oCKV0
>194
>幕府が軍事的に弱かったからこそ、米国の要求を飲まざる得なかったし
当時の米国の要求を蹴るぐらいの軍事力っつったら、国民全員が餓死しても
賄いきれないぐらいの金が必要になっていたと思うけど。
「小さな政府」を目指して行政や軍事をスリム化し、行政コストを民間の自治を
活用することで外注化していたような統治機構なので、そもそも「強大な国家」を
優先していなかったのだから仕方がないことだったとも思う。
むしろ、何千キロも離れた国から海を越えて軍事力を搭載した外国が
攻めてくるような事態を想定していなかったから。
実際、巨大な蒸気軍艦が造られはじめたのはペリー来航のほんのちょっと前だし、
そもそもそんな軍事力を持っている国自体がそう沢山は無かった。
アヘン戦争で英国がそうした力を持っていることを認識したのが
このほんの十数年前。
幕府の対外認識が甘かったという批判自体には私も同意するけれども、
じゃあ認識できたとしてそれに有効な手立てを打つことが出来たかどうかに関しては
個人的にはあんまり幕府を批判は出来ないような気がしてる。
>長州征討にも敗北し、鳥羽伏見にも敗北したわけだから
>これこそが最も重要だろう。
このどちらの軍事行動も、軍事の前にまず政治で敗北してたと言っても良いからなぁ。
「徳川と薩長の私戦だ」と見なされて諸藩は協力的ではなかったし、大義名分も
あまり無かったからそもそも勝ち目の少ない状態に入ってからの軍事行動だった。
長州征伐にしても、ホンの二年前の「蛤御門の変」の時には打ち破っているし、
その後の馬関戦争で四カ国連合軍にコテンパンにやられているから、
まさか外国と手を結んで武器の輸入をしているとは思っていなかった、
と考えるのも無理はなかったかなぁ、と。
201:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 05:05:46.35 C+U7oCKV0
>195
天保時代に改革を行っておらず、藩が貧乏なままだったなら維新は無かったかもしれませんね。
薩摩は調所広郷が行った改革がなかったら500万両の借金で首が回らない状態だったろうし、
長州も村田清風が行った諸々の改革がなかったら、薩摩ほどではなかったにせよ借金が多くて
なかなか派手な行動は取れなかったろうね。
特に長州は、幕府に追い詰められた後でも下関を舞台にした貿易によって力を付けていたけど
それが出来る体勢が出来ていたのは村田の改革に拠るところが大きかった。
特産品の奨励と、その貿易を藩が一手に行うことで利益を上げるというシステムがなければ、
幕末の長州の大暴れはまずあり得なかったと思う。
202:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 05:11:14.49 2VlnCEMz0
>>199
江戸時代中期以降の日本は地獄だよ。明治になるまでね。
寒冷化の影響などもあるけど(ていうか今も寒冷期にあたるが)
ここまで大規模な飢饉が続いたのは江戸時代のみ。
日本の三大飢饉は全部江戸時代だしな。
お前さんは比較的温暖であった江戸時代初期などもあわせてトータルでみるとか詭弁使っているだけ、
気候変動などをみれば寒冷期の合間にたまに温暖な時代があるだけなんだよ。
奇跡的に温暖であった時代もあわせてそんなに多くないというのは詭弁である。
また江戸時代の飢饉は幕府の行政に問題がある。
参勤交代や江戸滞在などで莫大な出費を諸藩は強いられた事により、諸藩は重税に苦しみ、
借金の返済の為に飢餓移出が起こった。
資金的にも苦しくそれを捻出する為に商品作物なども行われたり、東北で無理な米作りなどをした結果の失敗も大きい。
これはアジアなどで行われたプランテーションにより、現地で餓死が生まれた構図と同じ。
そもそも国換えとか普請で諸藩の財政を悪化させて領民を間接的に苦しめていたのが幕府なんだよ。
203:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 05:57:34.58 C+U7oCKV0
>202
>ここまで大規模な飢饉が続いたのは江戸時代のみ。
>日本の三大飢饉は全部江戸時代だしな。
>奇跡的に温暖であった時代もあわせてそんなに多くないというのは詭弁である。
同意しかねます。
4大飢饉と一言に言うけど、それ以前に起こった飢饉が記録に残されていないだけ、
という側面は考慮に入れないんですか?
平安時代とかに東北や九州で飢饉が起こったとしても、記録なんか残らないと思いますけど。
江戸期に飢饉が頻発したように見えるのは、政治的に安定していたがために、
きちんと行政が行き届いて記録が残されているからという事情と、
安定した生活が行われていたから不作になって食糧が足りなくなっても
「隣村を襲って皆殺しにして食糧を奪う」的な乱暴な解決策をとれなくなったから
という側面もあるのではないでしょうか。
鎌倉・室町時代などの記録を見ると、農村部における秩序は必ずしも整然としたモノでは
無かったようですから。
>参勤交代や江戸滞在などで莫大な出費を諸藩は強いられた事により、諸藩は重税に苦しみ、
>借金の返済の為に飢餓移出が起こった。
>そもそも国換えとか普請で諸藩の財政を悪化させて領民を間接的に苦しめていたのが幕府なんだよ。
この辺のことは、明治政府が徳川幕府の施策を否定的に宣伝するために流布させたプロパガンダが
明治時代を通じて勢力を保っていたために主流になってしまった認識で、近年の研究の結果からは
逆の事例が多数存在していたことが分かってきています。
『百姓たちの江戸時代』 渡辺尚志
『逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦』宮崎克則
こういった本の中で、「虐げられた百姓」というこれまでの歴史学で言い習わされてきた
概念がかなり覆されつつあるというのが私の認識です。
204:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 06:15:22.13 4gCPzfp+0
>>203
>大飢饉と一言に言うけど、それ以前に起こった飢饉が記録に残されていないだけ、
>という側面は考慮に入れないんですか?
>
>平安時代とかに東北や九州で飢饉が起こったとしても、記録なんか残らないと思いますけど。
「日本三代実録」とかありますよ。あなたは日本を軽視しているのではありませんか?
205:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 06:28:10.36 4gCPzfp+0
>>203
>江戸期に飢饉が頻発したように見えるのは、政治的に安定していたがために、
>きちんと行政が行き届いて記録が残されているからという事情と、
>安定した生活が行われていたから不作になって食糧が足りなくなっても
>「隣村を襲って皆殺しにして食糧を奪う」的な乱暴な解決策をとれなくなったから
>という側面もあるのではないでしょうか。
それにしては、江戸時代の仙台藩の人口統計では飢饉のたびに人口が減り、再生産ができていません。
そして薩摩の場合、江戸時代になぜか人口が激増しています。他の西南諸藩も軒並み増加が見られます。
江戸時代を良いものだったと言い放つ人は大抵、薩摩では搾取が多く人々は虐げられていたと言って貶しますが、
その人たちがよきものと看做す東北地方は人口が激減し、逆に悪いと言い放つ西南諸藩地域は人口が増加しています。
>この辺のことは、明治政府が徳川幕府の施策を否定的に宣伝するために流布させたプロパガンダが
>明治時代を通じて勢力を保っていたために主流になってしまった認識で、近年の研究の結果からは
>逆の事例が多数存在していたことが分かってきています。
>
>『百姓たちの江戸時代』 渡辺尚志
>『逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦』宮崎克則
>
>こういった本の中で、「虐げられた百姓」というこれまでの歴史学で言い習わされてきた
>概念がかなり覆されつつあるというのが私の認識です。
むしろ、これらの本の記述は実際の人口増減に触れられていない、
徳川施策を肯定的に宣伝するために流布させたプロパガンダに思えてならないのです。
特に、彼らと一緒になって「東北地域主義」を主張した人のしでかした、「東日流外三郡誌」問題や「藤村旧石器」問題の発覚に伴い、
「虐げられた明治」という東北地域主義者の言い習わしてきた概念がかなり覆されつつある、というのが私の認識です。
206:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 06:35:14.83 C+U7oCKV0
>204
私が日本を軽視しているかどうかは、どうぞご勝手にご判断下さい。
私は中世以前の社会では、民衆のレベルでの生活環境や飢饉への対応などが
それほど整備されていたとは思えない、という疑義を提出しているだけです。
少なくとも、江戸幕府以上に民衆のことを考えながら政治が行われていたとは
思いにくいと考えています。
207:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 06:47:59.88 4gCPzfp+0
>>206
あなたは平安時代に東北や九州の飢饉の記録なんて残らないと主張し、実際は記録がある。
発言を後から修正し、元からその主張だったと言い直すのは、不公正ですよ。
208:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 06:58:54.85 C+U7oCKV0
>205
>それにしては、江戸時代の仙台藩の人口統計では飢饉のたびに人口が減り、再生産ができていません。
>そして薩摩の場合、江戸時代になぜか人口が激増しています。他の西南諸藩も軒並み増加が見られます。
仙台の人口統計では確かにさほど人口が増えていませんし、薩摩の場合に激増しているのも確かです。
けれども、この両者ともに当時の人口動態の平均からはちょっと外れた傾向を示していますから、
むしろ「なぜ平均と違う結果が出ているのか?」というのを基準にして考えていった方が
良いのではないかと思います。
また、「東北諸藩の人口の伸びが悪い・西国の方が人口が増えている」というにしても、
全国的な平均という尺度を基準にすれば「誤差の範囲」と言いうるもののような気がします。
>徳川施策を肯定的に宣伝するために流布させたプロパガンダに思えてならないのです。
これに関しては、 何とも言いかねます。
上記の著作を読んでみた限りでは、その手のルサンチマンが書き手にあるとは思いにくかったので。
ただ、「虐げられた明治」という東北地域主義者の言い習わしてきた概念がかなり覆されつつある、
という部分に関しては同意見です。
明治政府の諸施策を見ても、ことさらに東北地方を差別的に扱ってきたという部分はむしろ少なく、
相当に気を遣いながら行政を行っているように見えるので。
東北出身者が官界や政界で阻害されることはままあったにしても、それは国家の上層での勢力争いという
限定された局面での話で、国家の政策として東北を痛めつけたり差別をしたりという政策を採っていた
とする見解は、かなりの部分それこそ「ルサンチマン」のなせるワザなのではないかと考えています。
209:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 07:02:30.62 4gCPzfp+0
>>206
>私は中世以前の社会では、民衆のレベルでの生活環境や飢饉への対応などが
>それほど整備されていたとは思えない、という疑義を提出しているだけです。
>
>少なくとも、江戸幕府以上に民衆のことを考えながら政治が行われていたとは
>思いにくいと考えています。
論拠が見えません。あなたの主張した、平安時代の東北や九州の飢饉記録など抹殺されている、という主張は成立していないのに。
結局、江戸時代を偉大だと捏造したいという思い入れしか、あなたの言葉には無いように思います。
あなたの言う明治プロパガンダではなく、あなたの心の中の江戸プロパガンダに問題があるのではないでしょうか。
江戸時代はあなたの思うほど良いものではありませんよ。五街道は大型車両の通行が禁止され、舟も大型船が作れず技術の退化すら発生した。
この困窮社会を、「足るを知る質実剛健主義! ああなんて素晴らしい!」と言い換えることこそが、悪質なプロパガンダと思います。
210:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 07:10:34.00 C+U7oCKV0
>209
>五街道は大型車両の通行が禁止され、舟も大型船が作れず技術の退化すら発生した。
これらの施策はもっぱら内乱の発生を抑止したり、急激な社会変動による統治システムの変化を
嫌ったがためのモノであったろうと考えています。
トータルで見て、二百年以上に及ぶ「戦乱のない時代」を現出せしめた功績の方に
私ならば軍配を上げます。
211:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 07:51:08.80 S6wiJ3PsO
戦乱が起こってなけりゃそれでいいってもんじゃないだろ。
アフガン・イラクで交戦中のアメリカと北朝鮮、どちらに住みたいかって話だ。
戦乱がなかろうが、領民は、飢餓だの疫病だの斬り捨て御免だの政治の責任で
戦乱期以上に苦しみ悶えボロボロ死に続けていた。それが江戸時代。
212:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 08:12:59.22 C+U7oCKV0
>飢餓だの疫病
戦乱が起こっている状態でこんなことになったら、その被害は桁違いのモノになるとは思わないか?
気候が寒冷化していたというのなら、飢饉が起こること自体は避け得なかったわけだし。
>斬り捨て御免
時代劇の見過ぎです。
詳しくはWikiで「切捨御免」の項を参照して下さい。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
むやみやたらと無礼討ちをしようものなら、斬首された上にお家断絶も
覚悟しなけりゃならないような制度ですよ。
切り捨て御免が実際に行われた事例は、かなり少ないと考えられているようです。
213:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 12:59:45.11 +jCc56//O
人権ボーイの論理破綻が恥ずかしい。
214:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 13:23:07.91 U+YUyid+0
うむ。やはり薩長は悪!幕府は正義!
この考え方に変わりはない。
215:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 13:54:34.82 9aZJIvMO0
>>199
話それるけど北九州の餓死事件はウラが胡散臭い。
「男性は持ち家に暮らしていたし、同じ同和部落内に家族が生活していた」という謎の背景もある。
市が生活保護を打ち切ったのは不正受給を疑って強硬手段にでた側面もあるよ。あのへん工藤会の組員だらけだし。
216:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 14:31:42.86 emupeT000
斬り捨て御免って教科書にも載ってるのか?
217:194
11/09/18 17:50:43.28 4T/efTme0
>>200
>「小さな政府」を目指して行政や軍事をスリム化し、行政コストを民間の自治を
>活用することで外注化していたような統治機構
小さな政府というのは福祉や経済部門であって軍事部門の役割も放棄してい
ませんよ。それに、鎖国という強い貿易統制を強いている幕府を小さな政府とい
うのは無理があると思います。
>むしろ、何千キロも離れた国から海を越えて軍事力を搭載した外国が
>攻めてくるような事態を想定していなかったから。
ラクスマンが来寇した時に松平定信が「江戸湾に侵入されたら永代橋まで突破される」と
認識してますけど、結局ペリーが来寇するまで半世紀以上効果的な政策はとられません
でしたねえ。
>このどちらの軍事行動も、軍事の前にまず政治で敗北してたと言っても良いからなぁ
長州征討では幕府歩兵隊単体の兵数でも長州藩を数倍上回り、さらに諸藩兵も動員できている
のですから、敗北の原因を政治的失敗に求めるよりそれぞれの軍の近代化の深化に求めた方が
自然だと思います。
鳥羽伏見の戦いに於いても新政府の構成員の多数派は親慶喜派で、討幕派が新政府の主導権を
握ったのは1月3日の戦闘に幕府軍が敗北した報が届いた後ですし。
218:194
11/09/18 18:05:22.58 4T/efTme0
>>210
>トータルで見て、二百年以上に及ぶ「戦乱のない時代」を現出せしめた功績の方に
>私ならば軍配を上げます。
欧州ではその戦争を梃に軍事技術の進化や行政、財政の合理化効率化が進みましたから
戦乱の有無は一長一短ですね。
幕府に於いても天保改革が失敗し慶応改革がそれなりに成功したのは、長州征討が
あったからですし。
文化面においてもルネサンスや東山文化のように戦乱の時代でも花開く事もありますから。
個人的には歌川広重は好きですね。
219:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 19:20:06.15 C+U7oCKV0
>217
>小さな政府というのは福祉や経済部門であって軍事部門の役割も放棄していませんよ。
実際問題、外敵が攻めてくるということが全くない状態が長年続いていましたから、
建前上は軍事の看板を下げていなくとも実質的にはなんら軍事的な備えをせずに
そこにかかる経費を節約していました。
外敵に備えるのであれば本格的に必要とされるはずの各地の湊を守るための砲台や
軍船といった軍事施設・軍事組織が必要とされますが、そんなところにかける経費は
無いとばかりにまったく予算を計上しようともしなかったし、そういう組織を作ろう
という機運もありませんでした。
>鎖国という強い貿易統制を強いている幕府を小さな政府というのは無理があると思います。
貿易の窓口を小さくすることと、行政コストをあまりかけない「小さな政府」というのは
別段両立し得ないことでもないと思いますが。
>松平定信が「江戸湾に侵入されたら永代橋まで突破される」と 認識してますけど
そういう認識を持った個々の政治家や官僚はいたとしても、組織としてまた国家として
そういう事態に備えようということはありませんでした。
かつての地震の例があるからと三陸海岸に15メートル超クラスの堤防を築く必要が
あると認識した政治家はいましたけど、現実的な「予算」という壁の前に断念する
という事例もありますよね。
また、関東大震災の例を元に、再度の震災の発生を懸念する人々もいますが、
東京への一極集中や高層ビルのむやみやたらな建設に歯止めをかけようという
現実的な動きにはなかなか結びつきません。
当時の幕閣が外敵の侵攻を「想定外」として棚上げしていたのも、実際問題として
手の付けようもなかったからという面があっただろうと思います。
220:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 19:31:54.21 C+U7oCKV0
>217
>長州征討では幕府歩兵隊単体の兵数でも長州藩を数倍上回り、
幕府歩兵の人数はそこまで多くはなかったと思いますが。
>さらに諸藩兵も動員できている
ほとんどの藩は「金もないしやる気もない」という状態で、まともに戦う気を
持っていた藩はごく少数。
軍事組織として統一が取れているわけでもなく、てんでんばらばらな指揮系統ですから、
そういう藩を動員するハメになったこと自体が政治的な敗北です。
なにしろ大阪に滞留しているだけで幕府の年間予算の何割かを食いつぶしましたから。
>敗北の原因を政治的失敗に求めるよりそれぞれの軍の近代化の深化に求めた方が自然だと思います。
幕府軍・諸藩兵の近代化がなっていなかったことに大きな原因があることは承知していますが、
あの時点での長州征伐が政治的にも大失敗だったということも敗北の原因だと考えています。
>鳥羽伏見の戦いに於いても新政府の構成員の多数派は親慶喜派で、
>討幕派が新政府の主導権を握ったのは1月3日の戦闘に幕府軍が敗北した報が届いた後ですし。
ですから、あの局面では軍事的に攻め上るよりも大阪で事態が有利になるのをゆっくりと
待っていることが政治的な勝利への道であり、鳥羽伏見に軍を勧めたこと自体が
政治的な失敗だったと申し上げております。
勝っていれば良かった、というのは結果論の話で、そういう一か八かの選択に出てしまった
こと自体が政治的な失敗です。
221:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 19:33:44.30 2VlnCEMz0
>>203
それ以前にも飢饉は存在しますが規模が違います。
また江戸時代の飢饉はただの気候変動などよりも、行政のミスにより起こったものです。
また飢饉の記録は存在します。養和や寛喜の飢饉などは有名です。
それぞれ方丈記や吾妻鏡などに記録がのこっております。
最もこれらの飢饉は天候不順や異常気象などで、江戸時代にように構造的に飢饉を生んだわけではありません。
>近年の研究の結果からは逆の事例が多数存在していたことが分かってきています。
一部の事例を曲解しているだけですね、お話になりません。
江戸時代以上に地方が搾取された時代はありませんので。
江戸滞在費と参勤交代の費用は遠方に住む外様諸藩では藩の出費の半分以上を占める莫大なものでした。
これらの出費は全ての諸藩に重くのしかかっており、その負担は諸藩の民が背負う事になっております。
そういう構造を押し付けて、幕府の政策に問題がなかったは無理がありますよ。
江戸幕府とは、諸藩を締め付けて、日本全体の歩みを止めることで、太平を作ったのですから。
反乱が起きないように力を常にそぎ、その結果が地方の餓死ですよ。
特に江戸や街道筋は物価が高く、それらで強制的に消費させられますので、
地方の富が都市部や街道筋に吸収される事になりました。
街道や大型船の事にも触れておられる人がいますが、
それにより、輸送コストも跳ね上がり、移動するためのコストも非常に高くなってしまったからです。
意図的に川から橋を除いたケースも少なくなく、当然大変な事になりました。
それまでは良くも悪くも地産地消で、一部の物意外は現地でなんとかなっていました。
ですが江戸時代は江戸や街道筋を消費をされ、当然それらは生産地ではないため、
輸送が必要、そして輸送の邪魔をしていたのが幕府の御政道というわけです。
222:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 19:54:14.74 C+U7oCKV0
>218
>欧州ではその戦争を梃に軍事技術の進化や行政、財政の合理化効率化が進みましたから
>戦乱の有無は一長一短ですね。
それは戦争に勝って自国が壊滅的な被害を被ることを免れた側にのみ言えることで、
実際に蹂躙されて国土を踏み荒らされた国の住人にとっては、あまり聞き入れられる
内容のことではないと思います。
戦後の高度成長期には戦争中に軍の機構に携わっていた人々が民間に移ってきて
その技術を活用したおかげで発展した産業などもありましたが、だからといって
「あの戦争」をやって良かったと考える人がほとんどいないという事例もありますし。
欧州での軍事技術や行政・財政の合理化効率化をちゃっかりと身につけて強大な国家を
作り上げた大日本帝国という事例もありますので、「200年間の平和な時代は、
全くの無為な時間だった」という意見対して、私は首肯できません。
江戸期の日本が、相応に合理化や効率化を推し進めて国民に豊かな生活をさせられる
国家であったという様々な例証は数多く上がっていますし、進歩したという欧州諸国が
自国民に幸福な生活を約束し得ていたかというと必ずしもそうでない部分もありますから。
また、軍事技術を身につけた彼等がアジア・アフリカ・南米で行った数々の非道を
考えるにつけ、欧州での「進歩」というのが無条件に賛美されるべきものなのかどうか
という視点も必要とされるものなのでないでしょうか。
>幕府に於いても天保改革が失敗し慶応改革がそれなりに成功したのは、長州征討があったから
これに関しては、同意します。
明治維新にしても、戊辰戦争という形での流血の事態がなかったならばあそこまで上手く改革が
進むことはなかっただろうとも思っていますから。
日本は近代を成し遂げた国家としては例外的なくらいに「流した国民の血」が少ない国ですが、
そういう利口な立ち回りが可能だったのも、江戸期が相応の時間をかけて育んだ優秀な国民と
指導者とに恵まれたからだと考えています。
>文化面においてもルネサンスや東山文化のように戦乱の時代でも花開く事もありますから。
「戦乱の時代に文化が花開いた」というのと、「文化が花開くには戦乱が必要」というのとは
イコールではないですよね。
江戸期にも元禄文化や化政文化といった文化が花開いておりますので、戦乱が必要という
ことではないのではないでしょうか。
戦乱に巻き込まれていつ殺されるか分からないような国にいるよりも、殺されるような
事態がそうそう起きない国に住む方がおそらくは幸せであろうという考えのもとに、
「軍配を上げる」と申し述べました。
223:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 20:12:35.08 C+U7oCKV0
>221
>それ以前にも飢饉は存在しますが規模が違います。
>また飢饉の記録は存在します。養和や寛喜の飢饉などは有名です。
>それぞれ方丈記や吾妻鏡などに記録がのこっております。
では、具体的な飢饉による死者の規模の違いを提示して下さい。
また、ご指摘頂いた飢饉の記録も、西日本から中四国の記録が主で、
九州や東北地方の記録は少ないようですが。
>江戸時代の飢饉はただの気候変動などよりも、行政のミスにより起こったものです。
これは否定しません。
幕府は中央集権的に強大な権力を持った政権ではなく、地方のことはそこの領主に
相当の権限を許す体制だったので、無能な領主の元では不必要に甚大な被害が
発生したことは否めません。
>江戸滞在費と参勤交代の費用は遠方に住む外様諸藩では藩の出費の半分以上を占める莫大なものでした。
>これらの出費は全ての諸藩に重くのしかかっており、その負担は諸藩の民が背負う事になっております。
何度も言うように江戸時代というのは全期間を通じて武士の経済的な余裕が失われて行き、
農民・町民・商人たちにその富が移っていった時代なのです。
武士の財政が苦しくなっていったからには、地方の農民達から過酷な収奪をしていたに
違いないとお考えのようですが、実際にはそのような傍若無人な行政を行っていると
幕府の側から叱責を被ったり、領民が他領に逃げてしまって非耕作地が広がって
年貢収入が減ってしまい、なおのこと武士が貧乏になるという構造が存在していました。
>輸送コストも跳ね上がり、移動するためのコストも非常に高くなってしまったからです。
>それまでは良くも悪くも地産地消で、一部の物意外は現地でなんとかなっていました。
つまり、それらの輸送コストが掛かるということはその輸送に携わる膨大な雇用が存在した
ということでもあり、地産地消をせずに都市や街道に物産を輸送することで利益を上げられる
くらいに商品経済や貨幣経済が発達していったということでもあります。
どちらも支配階級である武士の側に有利な事柄ではなく、底辺の庶民や農民にとって
ありがたみのある事柄だったように思います。
224:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 20:43:33.11 2VlnCEMz0
>>208
>また、「東北諸藩の人口の伸びが悪い・西国の方が人口が増えている」というにしても、
正しくは東北では微減、北関東では激減、西国で増加。
で、日本全部でみると人口が停滞していたのが江戸中期以降です。
そして明治になると数十年で人口は倍増します。気候は寒冷のままです。
江戸幕府の統治に問題があるだけですよ。
結果的にはいかにして民を苦しめるかという時代だったのです。
>>212
寒冷期で戦乱が起こるのはむしろ普通です。そしてだからといって、
寒冷期で人口が伸びないわけじゃないのです。
戦国時代は寒冷期でしたし、戦争が起こっていたわけですが、人口は増えてます。
>>210
日本社会を停滞させることで安定といわれましても。
ただたんに貴方幕府の政策ならなんでも賛美するだけじゃないんですか?
日本が列強から、辺境の小国になってしまったのはこういう「規制」により、
社会の発展が阻害されたからなんですが?
225:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 21:09:01.85 C+U7oCKV0
>224
>日本全部でみると人口が停滞していたのが江戸中期以降です。
その当時の日本で養いうる人口の上限がそのあたりだったということでしょう。
>そして明治になると数十年で人口は倍増します。
明治になって人口が極端に増えていったのは、医療の発達と戦端的な技術の導入が
速やかに行われていった結果だと考えておりますが、あの当時の西欧列強の
植民地化政策を免れ得たのは徳川幕府の統治が盤石であったことに
その原因を求められると思います。
欧米から与えられる技術に魅せられてその侵入を容易に許した国々が、
さんざんな目に遭ってきたのは近代のアジア史を調べてみれば容易に先例が
見つかりますし、幕末の過程においても薩英戦争や戊辰戦争の過程で日本人が
相応の軍事力を持っていることを諸外国認識させたからこそ列強につけいる隙を
与えなかったのです。
そういう環境を形作り、調えてきた幕府の施策に対して、私は評価すべき事柄は
多々あると感じております。
>日本が列強から、辺境の小国になってしまった
現在の日本も戦前の列強の一角から憲法で軍事力を縛られた小国に成り下がりましたが、
60年間の平和を守って経済的な大国にのし上がりました。
豊臣秀吉が行った朝鮮出兵に象徴されるように、対外的な武力行使は失敗したときに
かなり大きな痛手を負うことになります。
日本は、戦国期には世界に存在する銃の総数のウチ、かなりの割合を自国で持つに
いたる強大な国家でしたが、あえて外国に侵攻するような武力を封印して、
「元和偃武」を成し遂げたました。
江戸期の日本も当時の世界の中で100万の人口を持つ大都市「江戸」を抱え、
三千万という人口を安定して抱える地域大国では有り続けました。
これは当時のヨーロッパのどの国よりも大きな人口ですし、同時期のヨーロッパで
100万もの人口を抱える都市は数えるほどです。
こういう実績にもきちんと目を向けるべきなのではないでしょうか。
226:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 21:10:36.80 j8dTM+VP0
外敵が来て、攘夷できないから幕藩体制が滅んだんだから。
外敵が存在なかった日本では、国民国家を作り出す基盤があっても中々起きないのは当然。
西洋列強は外敵との争いから、国家が上下左右一致して外敵に当れる統一国家・国民国家を作る必要に迫られたんで。
227:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 21:18:33.32 2VlnCEMz0
>>222
戦争をしない代わりに、戦争よりも飢餓で殺していたら同じ事でしょう。
江戸幕府はそういう政府だったのですよ、
戦国時代以前や明治以降は、米が足らないなら他所から奪う、生産力を増加する、
様々な方法で量を増やすようにします。
ですけど江戸時代とは、量を増やすのではなくて節約というか我慢する時代なのですよ。
行政機構を刷新すると古くからの伝統が崩れ社会が不安定になるのでやらない。
生産力の増加は力をつけてくる奴等がいるので制限する。
他所から奪うのも行わない、他所から奪う為に力をつける事もしない。
軍は官僚機構にはや代わりと。
既得権益を守る事しかやらないから、どうしても社会は発展性を失う。
パイをどんなに上手く分けるか、ではなくてパイを増やす事が必要なのです。
>>223
俗にいう享保、天明や天保の大飢饉になると数十万から一説には100万にも達する規模といわれてますね。
それも江戸時代の飢饉は50年に一度というペースで起こっており、こんな頻発したのは江戸時代だけです。
(数万人規模の飢饉もあわせれば10年に一回くらいのペースです)
そして飢饉として主なのが東北や九州でないから、というだけの話です。
>無能な領主の元では不必要に甚大な被害が発生したことは否めません。
違います、幕藩体制に根本的な問題があるんですよ。
どうやって江戸滞在費や参勤交代費用を捻出するのですか?
商品作物や米の売買以外で捻出しないと、構造的に飢餓移出が発生するわけですが?
ちなみに参勤交代とか無駄ですよね?これなんの得にもなってない。
228:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 21:35:55.28 2VlnCEMz0
>年貢収入が減ってしまい、なおのこと武士が貧乏になるという構造が存在していました。
だから実際そうなっていたじゃないですか。何を言っているんですか。
東北北関東の人口減はこれが原因です。
富など移りはしませんでした、ただ皆が貧しくなったのが江戸時代なのですよ。
貴方の指摘した構造のとおりにみなが貧しくなっていったのです。
それを人返し令とかで強引に戻そうとしても上手くいくわけがないのです。
さらにいうと、そうやって都市部に出てきた者たちは、丁稚奉公などでこき使われて、
大半は子供も残せず死にます。疫病なども大流行ですし、衛生観念などろくにない時代ですから、
ばたばたと死にます。歴史人口学ではこの時期の都市を蟻地獄と読んでいる人もいるくらいです。
既得権益をもった一握りの特権階級は豊かだったでしょうが、そんなのごく一部ですよ。
>地産地消をせずに都市や街道に物産を輸送することで利益を上げられる
地方の富が都市部に移るだけですが?武士が地方で消費活動をすれば地方は潤いますが、
都市部で消費しても地方はうまみがないです。
また輸送コストというのは時間的なロスだけでなく、物質的にもロスします。
難破率が高く商品を安定的に供給できません。小さい船のほうが積載量も小さいので、
その分船も人員が多くかかるのにです。
>どちらも支配階級である武士の側に有利な事柄ではなく、底辺の庶民や農民にとって
武士は重税という形でそれを回収します。よって庶民も苦しくなります。
公務員が高コストの仕事をすることで、確かに潤っている人達もいるでしょう。
けどそれって最終的に税金でまかなっている事を忘れている人が多すぎですね。
苦しい藩では税率だけでなく、税の対象まで広げ、検地も頻繁に行い。民から富を収奪しました。
けど諸藩も好きで苦しめているわけじゃありません、全て幕藩体制という精度が悪いのです。
229:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 22:00:31.50 C+U7oCKV0
>227
>戦争をしない代わりに、戦争よりも飢餓で殺していたら同じ事でしょう。
戦争で死んでいた人数よりも、幕府統治下の平安のもとで飢饉で死んだ人数の方が
確実に多いという根拠はどこにあるのでしょう。
戦乱の最中にでも飢饉というのは起こりうるものだと思いますが。
寒冷化に由来するものならばなおのこと。
寒冷化で生じた飢饉の最中に戦乱が起こるよりも、安定した社会での飢饉の方が
混乱が少なくて済む分だけ死者は少なくて済みそうなものですが。
>戦国時代以前や明治以降は、米が足らないなら他所から奪う、生産力を増加する、
>様々な方法で量を増やすようにします。
戦国期を通じて日本の人口は一千万人台の半ばくらいです。
江戸期に入って三千万くらいに倍増して、そのあとはこの数値で頭打ちになり
微増や微減を繰り返しながら幕末になります。
江戸期にも新田の開発や特産品の奨励など、生産力を増加するという作業は行われており、
その上での限界が三千万くらいというラインだったんです。
>他所から奪うのも行わない、他所から奪う為に力をつける事もしない。
これはむしろ賞賛されるべきことだと思うのですが。
他所から奪うことを作業に伴う非生産的な労力を払うのはトータルで損だと
判断したわけでしょう。
とりわけ日本は島国で、他所から奪って持ってくることに関するコストは
バカ高かったわけですから。
地産地消でいいじゃないですか。
>軍は官僚機構にはや代わりと。
これも賞賛されるべきことでしょう。
治安が安定していて、外敵が攻めてこない状態だったら軍なんて無用の長物。
それを上手く国内向けの官僚組織へと脱皮させたのは英断だと思います。
230:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 22:13:06.91 C+U7oCKV0
>227
>数十万から一説には100万にも達する規模といわれてますね。
記録に残っているそれ以前の飢饉の時の総人口を考えてみて下さい。
鎌倉以前であれば1000万人を切るくらいです。
飢饉が起こったにしても母集団が少ないがために数が少なくて済んだのであって、
総人口に比したパーセンテージで見れば江戸時代と良い勝負だと思います。
もともとから抱えていた人口が養いうる限界に近かったがために
天候不順が一度起これば飢饉の被害が大きなものになってしまうのであって、
抱えていた人口が少なかった時代と直接に比較するのは公平ではないです。
>どうやって江戸滞在費や参勤交代費用を捻出するのですか?
年貢の中からですよ。当然でしょう。
江戸時代には大名や旗本が勝手不如意だからといって気軽に税負担を重くするような
ことは許されておりませんでした。
江戸時代初期には、大名の経済状態は年貢収入だけでも結構裕福な状態で、
それだからこそ参勤交代のコストも払い得ていたのですが、貨幣経済が発達し
参勤交代や江戸在府にかかるコストが上昇して行くにつれてその余裕は失われ、
かつ年貢収入の増加もそれほどではなかったがために徐々に経済状態は悪化し、
出入りの商人に頭を下げて金を借りたり、大名行列の人数を外注したりするような
ハメに陥りました。
>ちなみに参勤交代とか無駄ですよね?これなんの得にもなってない。
経済というのは膨大な浪費が元になって貨幣が潤滑に流通することによって活性化します。
各地に割拠する領主が年貢を年々貯め込んで民間に廻すことをせず、あまつさえ軍事力を
養って他国に攻め込もうなどと考えはじめるとろくなことにはなりません。
参勤交代はそうした地方の領主の力を適度にそぎ、民衆から吸い上げた年貢を再度民間に
流すための回路として機能していたという側面があり、全くの無駄とは言い切れません。
231:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 22:31:47.46 C+U7oCKV0
>228
>富など移りはしませんでした、ただ皆が貧しくなったのが江戸時代なのですよ。
>貴方の指摘した構造のとおりにみなが貧しくなっていったのです。
私は新撰組モノなどの小説から歴史の分野に興味を持った人間なのですが、
これらのいわゆる「幕末の志士」とやらが澎湃として日本中からわき出てくる
その母体は何だったのだろうかというのが興味の対象でした。
それまで教科書で習っていた「百姓は生かさず殺さず」という幕府の政策が
行われていたのであれば、あのように大量の人間があっちこっとに移動したり
農作業もせずに食えていけるというのはおかしいと考えたからです。
そしてあれこれと調べていくうちに、当時の農民は「食うや食わず」などという
過酷な状況に置かれていた訳ではなく、それなりに円満で穏やかな生活を
営みうる程度にはちゃんと食えていたし、そうした余裕を生み出しうるだけの
しっかりした基盤を持っていたことが分かってきました。
全員が貧しくなったというのは認識の仕方が間違っていると申し上げます。
より正確には、「支配階級側の富が民間に移った」というのが実情であり、
その中で豪農や豪商といった富裕層は存在したにしても、総体的には
富の再分配が着実に行われていた社会であったと考えます。
>丁稚奉公などでこき使われて、大半は子供も残せず死にます。
丁稚奉公で順調に出世してのれん分けをされたり番頭として商家の差配を
するまでになれるのはごく少数です。
ではそうなれなかった人々はどうしたかというと、奉公の年季が明ければ
実家に帰って農業に戻ったり、武家の雇いモノになったり、日雇いの労働などで
それなりに食っていける道を探せたのです。
丁稚奉公というのを過酷な奴隷労働か何かとお考えなのかもしれませんが、
わりと緩い勤務形態でしたし、それがイヤであればドロップアウトすることも
可能なくらいに柔構造の体制だったんですよ。
>疫病なども大流行ですし、衛生観念などろくにない時代ですから、ばたばたと死にます。
これは中世ヨーロッパなどでも同じ事です。
産業革命以前のヨーロッパは酷いモノだったんですよ。
>既得権益をもった一握りの特権階級は豊かだったでしょうが、そんなのごく一部ですよ。
いったいどこのマルクス歴史学を習ってきたのですか?
そういう前世紀の歴史理論は近年では退けられています。
>武士は重税という形でそれを回収します。よって庶民も苦しくなります。
この認識がそもそもの間違いです。
何度も言いますが、簡単に重税を課して農民を搾取することが可能なのであれば、
もっと手軽に出入りの商人たちに重税を課しますよ。
江戸時代にはそれまで取っていなかった税金を取るという行為は簡単には
認められませんでした。
だからこそ武士階級は貧乏になっていったのです。
重税を課すことが出来ていたのであれば、武士は貧乏にはなっていません。
232:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 22:41:07.18 2VlnCEMz0
>>225
>その当時の日本で養いうる人口の上限がそのあたりだったということでしょう。
間違いですね。
農業や農法は劇的には進化しませんよ。少なくともいきなり倍にはなりません。
つまり江戸時代は幕府の失政で減っていただけです。
実際東北や北関東は減っています。つまり上限値はもっと上だったのです。
>明治になって人口が極端に増えていったのは、医療の発達と戦端的な技術の導入が
違います食料の生産量が増えたからです。
そして幕府に殺される民衆がいなくなったからです。
>植民地化政策を免れ得たのは徳川幕府の統治が盤石であったことに
新政府のおかげであって、幕府が統治していたら植民地化ですよ。
幕府では近代化できないか、近代化の金を借金でまかなうのが計画ですから。
鉄道なども敷設権を与えています。自分で作るわけじゃないんですよ。
>そういう環境を形作り、調えてきた幕府の施策に対して、私は評価すべき事柄は
その上の文章を読み限り、薩英戦争やら戊辰戦争なので幕府関係ないと思われますが。
>豊臣秀吉が行った朝鮮出兵に象徴されるように、対外的な武力行使は失敗したときに
国内的にマイナスがあったとは思えませんが?
そして江戸時代は経済的にも貧しくなった時代ですよ。戦国時代は世界有数の鉱山をもち。
人口も当時の欧州とは比べ物になりません、中国の人口も6000万から一億くらいで、
日本は1500万から2000万くらいです。江戸時代は3000万で頭打ちですが、
中国は数億人にまで増えました。中国と比べても駄目なレベルなんですよ。
戦国時代の日本は世界を震撼させる大国だったというのに。
>これは当時のヨーロッパのどの国よりも大きな人口ですし、同時期のヨーロッパで
欧州にはそもそもあまり人口いませんから、そして江戸時代の都市化は諸藩の苦しみの上に成り立っているのですよ。
江戸は政治的な都市です。自然発生したわけじゃないのです。
諸藩の江戸滞在を強制させる事で生み出されたものなのです。
233:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 23:03:14.42 2VlnCEMz0
>>229
>戦争で死んでいた人数よりも、幕府統治下の平安のもとで飢饉で死んだ人数の方が
数十万単位の人が死ぬ合戦などありません。
戦国時代にも飢饉はありましたが、人口は順調に増えていました。
ですが江戸時代は増えません。なんでしょうね。
>寒冷化で生じた飢饉の最中に戦乱が起こるよりも、安定した社会での飢饉の方が
食料の量によりますから変わりませんよ、そして江戸時代の場合、
購買力のある江戸の富裕層や江戸に滞在するものたちに、米が買われます。
諸藩は借金をして参勤交代を行っているので、国内で餓死者がどんなにでても、
売らないわけにはいけません。なので領民から食料を奪って、江戸で売るわけです。
餓死というのは食料が足りなくなるのと同時に、購買力のないほうからある方へと移って起こるものです。
だから江戸時代の飢饉は構造的な問題だと言っているのです。日本史のほかの時代にはありえない事です。
だって参勤交代みたいなクソな制度は存在しませんから。
>他所から奪うことを作業に伴う非生産的な労力を払うのはトータルで損だと
当時の武士の大半は仕事なんてしてません。行政機構の維持にあれだけの武士がいるわけないでしょ。
実際明治政府は武士の大半の首をきっても、行政機構を回しています。
役所でお茶飲んでいる無駄な公務員みたいなもんですよ。
234:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 23:16:58.12 2VlnCEMz0
>>230
一説では100万近く餓死者がでたのが数十年おきですよ。こんな時代他にないですよ。
それも100年以上にわたってね。
そして江戸時代の餓死とそれ以前の餓死の違いが分かってない。
なんで頭打ちになったのかをね。
諸藩は金銭的に苦しい。だから金を作る為に商品作物を奨励した。
けどこれが上手くいかないと食べ物が買えないという代物。もしくは飢饉がおきて食料が減ったら、
米価が上がって米が買えなくなってやっぱり餓死。
米が高かったときに東北の不毛のところでまで米作をしたことで、寒冷化で頻発する飢饉。
全て幕藩体制が生み出した人災です。
>江戸時代には大名や旗本が勝手不如意だからといって気軽に税負担を重くするような
嘘です。藩によって税率はばらばらです。さらに租税の対象もばらばらです。
藩によっては畑や庭になっている柿木ですら税の対象にした藩もあります。
勝手に気軽に税を重くするのが当たり前だったんですよ。
>各地に割拠する領主が年貢を年々貯め込んで民間に廻すことをせず、あまつさえ軍事力を
他国から奪うで何が悪いんですが、西洋はそれで発展しました、日本も戦国時代それで発展を遂げました。
そもそも戦争とは巨大な消費であり、経済活動でしょ。
参勤交代はよいが戦争は駄目というのは理解できませんな。
>参勤交代はそうした地方の領主の力を適度にそぎ、民衆から吸い上げた年貢を再度民間に
支出の半分以上が適度?そして地方の民衆から吸い上げたものを。江戸や街道筋の民衆が吸うのが妥当だと?
地方の富を搾取しているだけではないか。
東北で大飢饉で藩によっては人口が半減したところもあるのに、
江戸では白米が普通に食べられていた。今の北朝鮮と同じだよ。
一部の特権階級とそのおこぼれに預かる人間だけ豊か。地方の農村は死屍累々。
235:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 23:29:46.43 C+U7oCKV0
>233
>数十万単位の人が死ぬ合戦などありません。
戦乱というのは、戦闘で死ぬ人間の数だけでなく、その背後に膨大な量の
不安定な地域を生むことで国土を荒廃させるのです。
戦闘で勝った側が、負けた側の土地に住んでいた住人達から食糧を奪ったり
住人を過酷な労働に使役することによっても死亡する人間は出ます。
戦闘で死ぬのは武士達ですが、戦闘によって田畑が荒らされて食っていけなく
なるのは主として農民ですよ。
>戦国時代にも飢饉はありましたが、人口は順調に増えていました。
「増えていた」と胸を張れるほどの増加だったのでしょうか?
江戸時代は戦国期の倍以上の人口を養っていますよ。
>諸藩は借金をして参勤交代を行っているので、国内で餓死者がどんなにでても、
>売らないわけにはいけません。なので領民から食料を奪って、江戸で売るわけです。
飢饉の時に借金の返済を滞らせたり、参勤交代の免除を幕府に申し出るくらいのことは
どこの藩でもやっています。
所領の中で餓死者が出ているときに、呑気に参勤交代をしたり米を売ったりしているような
領主ばかりだったら江戸時代には人口がもっと減っていますよ。
そういうバカな統治をしている藩は容赦なく石高の低い国にお国替えをさせられたりしています。
無能な領主が悪政の限りを尽くしているようなイメージを持たれるのは勝手ですが、
そういうイメージは実際の姿を反映しておりません。
>当時の武士の大半は仕事なんてしてません。
>行政機構の維持にあれだけの武士がいるわけないでしょ。
その大半の武士はかつかつの生活をしており、傘貼りの内職をしたり
庭に作物を植えて食糧を確保するなどの涙ぐましい努力をしていました。
高等遊民のように優雅な生活を送っている武士もおりましたが、そんなのは
それこそごく少数。
ほとんどの武士は、生活が苦しい中で、武士としての矜恃や教養を身につけようと
悪戦苦闘していました。
幕末に劇的な体制の変換を成し遂げたのはこうした下級士族層です。
彼等のような存在を養い得ていたというだけでも、幕藩体制というのは
相応に意味のあるモノだったと考えています。
236:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 23:50:29.19 2VlnCEMz0
>>231
>私は新撰組モノなどの小説から歴史の分野に興味を持った人間なのですが、
だから無知なのですね。新撰組(笑)なんてただのちんぴらごろつきですし。
池田屋事件はただの捏造。拷問で「自白」させただけの架空の計画。その後も京都を火の海にしたりと最低の連中ですよ。
京都の町民から勝手に徴発はする。小説家や江戸時代はよかったとか、
見てもいないのに空想で書く江戸マンセー作家に貴方は汚染されてますね。
>あのように大量の人間があっちこっとに移動したり農作業もせずに食えていけるというのはおかしいと考えたからです。
農業では食えなくなったので流民になっただけなんですが?
>富の再分配が着実に行われていた社会であったと考えます。
どこで再分配されたというんですかw、
そもそも富の再分配された社会がいいとかいうのはマルクス主義に汚染されますよw
>いったいどこのマルクス歴史学を習ってきたのですか? そういう前世紀の歴史理論は近年では退けられています。
おいおいおいおいw江戸時代は完全な階級身分社会ですよ。商人でも扱う商品が決まっており。
株をもった人間だけで独占されて運営されていました。結果的にこれが江戸の高物価を生み出しました。
これは世襲で身分と職を受け継ぐ商人に代々継承されていきます。
競争などもありません。新規参入もありません。
これを既得権益といわず何を言うんですかw
こんなの商人だけに留まりません。農民でも莫大な農地を持つ豪農も似たようなものですし。
職人もほぼ世襲の特権階級ですから、競争もクソもない。彼らが物を作るからどうしても高くなる。
カルテルを結んだ存在が市場にとって害悪でしかないのは分かるでしょうに。
江戸の高物価とはこういう幕府のゆがんだ政治により行われ、それによって諸藩が苦しめられたのです。
>それがイヤであればドロップアウトすることも可能なくらいに柔構造の体制だったんですよ。
だからそれ現代でいえば派遣でしょ。特権階級の商人や武士の下働きで終わる人生ですよ。
自分一つ食わすのがやっとで、子供なんてとてもとても。
江戸の町民の大半はそういう状況下で、退廃的かつ享楽的で刹那的な生き方をしてました。
別にそれが悪いとはいいませんが、とても不安定な立場だったって事ですよ。
>江戸時代にはそれまで取っていなかった税金を取るという行為は簡単には
これが間違いです。新たに税を課すのは諸藩の自由裁量です。
藩によっては検地が頻繁に行われ、それまで課税対象ではなかったものまで、
収入とみなされて重税が課されました。
237:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 23:57:58.67 C+U7oCKV0
>234
>一説では100万近く餓死者がでたのが数十年おきですよ。こんな時代他にないですよ。
だから、総人口の推移のことを考えなさいってば。
鎌倉以前の人口が数百万くらいしかいなかった時代と、三千万の人口を擁する江戸期とを
同じ基準で比べようってのがそもそもの間違いです。
>諸藩は金銭的に苦しい。だから金を作る為に商品作物を奨励した。
>もしくは飢饉がおきて食料が減ったら、 米価が上がって米が買えなくなってやっぱり餓死。
飢饉が起きて米が不作だったときに、換金作物がちゃんと収穫できれば
そのお金で他所から米を買うことも出来るでしょ。
リスクを分散する手法としても、山がちな国で水田のための広い面積を
確保できない地域にも生計の手段を図るための手法としても有益です。
>米が高かったときに東北の不毛のところでまで米作をしたことで、寒冷化で頻発する飢饉。
で、その東北では江戸期以前にどれだけの人口を養っていて、
飢饉はどのくらいの規模・頻度で起こっていたんですか?
どうもあまりしっかりした記録が残っていないように思うのですが。
>勝手に気軽に税を重くするのが当たり前だったんですよ。
特異な例を出して全体を推し量ろうという乱暴な手法です。
それこそ「おにぎり食べたい」といって餓死した老人のニュースをもって
「日本は餓死者が続出している」というミスリードをするのに似ています。
>他国から奪うで何が悪いんですが、西洋はそれで発展しました、日本も戦国時代それで発展を遂げました。
それでオッケーなのであれば徳川時代を通じて戦乱が絶えず、人口も増えないままだったの
ではないでしょうかね。
戦国期に増えた人口なんて、それこそ「微増」と言って良いレベルですよ。
>そもそも戦争とは巨大な消費であり、経済活動でしょ。
>参勤交代はよいが戦争は駄目というのは理解できませんな。
合意の元に行われる経済行動と、強盗とを一緒に並べるようなモノですね。
「活発な経済とは金を回すことだ」とはいいましたが、泥棒をしてその金を使って
消費するのが善であるなどと申し上げた覚えはありませんよ。
>そして地方の民衆から吸い上げたものを。江戸や街道筋の民衆が吸うのが妥当だと?
>地方の富を搾取しているだけではないか。
おや、あなたは戦争によって他者から食糧を奪うのを奨励していたのではなかったのですか?
合法的な搾取はダメで、暴力的な収奪はオーケーというのはよく分からない基準ですね。
>東北で大飢饉で藩によっては人口が半減したところもあるのに、江戸では白米が普通に食べられていた。
で、そういった地域の藩が自国民を飢えさせて米を換金していたというのはどこから出た話ですか?
飢饉の時にはもっぱら他領から米を買って自国の領民に食わせていたという記録の方が多いのですが。
238:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 00:32:26.39 r/0+aDma0
>236
>農業では食えなくなったので流民になっただけなんですが?
実家から仕送りをもらっていたり、国元を出るときにけっこうな額の金を
貰ってきていたりもしていますよ。
そうでなければあっという間にのたれ死にでしょ?
そういう「志士」を送り出すだけの基礎体力を農村が持っていたということです。
>富の再分配された社会がいいとかいうのはマルクス主義に汚染されますよw
あなたはどこにスタンスを置いているのか分からない人ですね。
さんざん一部特権層とやらを攻撃しているのに、「富の再分配とかw」という発言が
どうあなたの中で繋がっているのかをお教え願いたいものです。
>株をもった人間だけで独占されて運営されていました。結果的にこれが江戸の高物価を生み出しました。
株というのは売買されもしましたし、貧乏人が金を貯めて株を買って成り上がっていった
という話も枚挙にいとまがありませんよ。
そもそも士族である「御徒」の株でさえ買うことが可能だったんですから。
勝海舟の祖父はそうやって武士になりましたし、日田の代官の手代の息子だった
川路聖謨は武家の養子になって幕臣となり、刻苦勤勉を重ねて出世していき
勘定奉行にまで上り詰めました。
あなたのいうように、「ガチガチの身分社会で身分の上昇などは不可能」という
江戸期の社会の理解は間違っているとしか言えません。
>これは世襲で身分と職を受け継ぐ商人に代々継承されていきます。
それから、商家においては世襲といいつつも息子が後を継ぐということは
結構少なく、丁稚奉公を勤め上げてその人格を認められた番頭や手代が
入り婿という形で迎え入れられる例がかなりあります。
有能な人間に後を継がせなければ家が傾くという「生活の知恵」が働いていたのか、
商家の若旦那がそのまま家を継ぐというような太平楽な世襲制度ではありませんよ。
>職人もほぼ世襲の特権階級ですから、競争もクソもない。
特殊技能を持つ宮大工とかならともかく、その辺の植木屋とか鋳掛け屋なんかは
かってに仕事をしていましたよ。
仕事の内容に満足して金を払う人間がいれば仕事を続けられるし、技量がまずくて
仕事が途切れればまた別の仕事を探すってだけで、世襲制度でガチガチの社会だなんてのは
それこそ前世紀の歴史学の認識です。
落語で裏長屋に住んでる「八っつぁん、クマさん」みたいな連中が相応にいたんですよ。
大工でも左官でも、とりあえず五体満足ならば食っていく事が出来るだけの仕事に
ありつくことができて、長屋に住んでりゃ家賃もそれほど高くはなかったから
けっこう呑気に暮らしていました。
239:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 00:33:09.91 r/0+aDma0
>236
>だからそれ現代でいえば派遣でしょ。特権階級の商人や武士の下働きで終わる人生ですよ。
>自分一つ食わすのがやっとで、子供なんてとてもとても。
その理屈で行くと、江戸の町民には子供がぜんぜんいなくって、成人になって
流民として農村から出てきた人間だけが食うや食わずで生活していて、
子供を産まずに死んでいき、そのあとをまた流民が埋めてというサイクルですよね。
常識的に考えておかしいとは思いませんか?
町民の子供が学んでいた寺子屋はいったいどうやって成立していたんですか?
>藩によっては検地が頻繁に行われ、それまで課税対象ではなかったものまで、
>収入とみなされて重税が課されました。
そういう政治を行っていた藩が領民からどんなしっぺ返しを喰らっていたのかが
『百姓たちの江戸時代』 渡辺尚志
『逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦』宮崎克則
といった本の中では書かれているのですが。
ちゃんとお読みになってます
240:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 01:11:04.26 ECxFC0X40
おい、誰かに襲われたのか?
241:194
11/09/19 01:38:18.64 gTIgKGo80
私も含めて論争してるのは3人?コテをつけてくれたらわかりやすいのだけれども。
>>220
>幕府歩兵の人数はそこまで多くはなかったと思いますが。
長州軍は2、3千人。幕府軍は1万。だったはず。
>軍事組織として統一が取れているわけでもなく、てんでんばらばらな指揮系統ですから、
それが出来ていないからこそ幕府の軍事力への評価は低くなるわけで。新政府が戊辰戦争
の際に諸藩を組み入れた時は指揮系統を統一し諸藩の軍備にも容喙しています。
>勝っていれば良かった、というのは結果論の話で、そういう一か八かの選択に出てしまった
>こと自体が政治的な失敗です。
当事者の認識では逆に薩長側が一か八かで、慶喜側は兵力的にも政治的にも有利な
状態で開戦したわけですよ。それが、軍事改革の不徹底による人事的硬直と慶喜の不決断に
よって敗北してしまったわけですが。
結局幕府は寛政年間以来、効果的な軍事改革に失敗し続け討幕に至るわけですから、
幕府に対する評価としては軍事的に脆弱というこになると思います。
最も17世紀に於いては欧州もそこまで強く、幕府も戦国時代の遺産がありますから
ここまで脆弱では無かったのですけれども。
242:194
11/09/19 01:52:45.63 gTIgKGo80
>>222
>それは戦争に勝って自国が壊滅的な被害を被ることを免れた側にのみ言えること
むしろ負けた側が合理化を進める場合が多い印象です。例えば幕末でも下関戦争に負けた
時の長州の軍制改革、長州征討に負けた時の幕府の慶応改革、ナポレオンに負けた際の
プロイセンのシャルンホルストらによる改革。18世紀でもマリア・テレジアの改革はオーストリア
敬称戦争に負けた雪辱を晴らすために始められました。
>「あの戦争」をやって良かったと考える人がほとんどいないという事例もありますし。
限定戦争と国家総力戦は違いますからね。
>「200年間の平和な時代は、全くの無為な時間だった」という意見対して、私は首肯できません。
私は別に江戸時代を全否定したいわけでなく、前半はむしろ大発展時代と評価していますよ。
ただ欧州が本格的に発展しだした18世紀に鎖国をしていた故に乗り遅れたのはもったいないなあと。
>「戦乱の時代に文化が花開いた」というのと、「文化が花開くには戦乱が必要」というのとは
>イコールではないですよね。
ええ、文化の発展に戦争か平和かはあまり関連性が無いという意味です。
>戦乱に巻き込まれていつ殺されるか分からないような国にいるよりも、殺されるような
>事態がそうそう起きない国に住む方がおそらくは幸せであろうという考えのもとに、
>「軍配を上げる」と申し述べました。
幸せかどうかは主観的な問題で、例えば現代に於いても日本より経済的に劣っている国の方が
幸福度が高いというアンケートもあるのでちょっと・・・
243:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 02:19:17.75 r/0+aDma0
>241
>コテをつけてくれたらわかりやすいのだけれども。
こんなに話が長くなるとは思わなかったのから、面倒だったんで
コテを付けなかったんですよね。
今から思えば付けていた方が分かりやすかったですね。
>>幕府歩兵の人数はそこまで多くはなかったと思いますが。
>長州軍は2、3千人。幕府軍は1万。だったはず。
私の記憶では幕府歩兵は五千人くらいだったかと思いましたが。
まぁ、それでも確かに長州側よりは多いですけれども。
>それが出来ていないからこそ幕府の軍事力への評価は低くなるわけで。
この場合は軍事力というよりも、「長州征伐」という軍事行動だったが故に
諸藩の足並みが揃わなかったという側面もあるわけで。
「外国人を打ち払え」という攘夷気分自体はどの藩にも多かれ少なかれ共有されていたので、
実際に攘夷戦争を行った長州藩に対して、「困った問題を起こしてくれた」と頭を抱えつつ
内心では「よくやった、あっぱれ」と感じている士民は相当にいましたから。
また、一度は謝罪恭順した(第一次長州征伐)長州に対して、あまりハッキリとした
理由もなく再度の軍事侵攻を決定した幕府の方針に対しては、諸藩は不信感を持っていた
という状況ですから、政治的にはかなりまずい選択でしょう。
>当事者の認識では逆に薩長側が一か八かで、慶喜側は兵力的にも政治的にも有利な
>状態で開戦したわけですよ。
ならばなおのこと、そんな一か八かの勝負を仕掛けてきている相手の誘いに
乗る必要はまったくないですよね。
兵力的には優位でも、一つ間違えて躓いてしまえば全てを失ってしまう賭なんですから。
相手の一か八かの誘いに乗るということが、そもそも政治的には愚策です。
>結局幕府は寛政年間以来、効果的な軍事改革に失敗し続け討幕に至るわけですから、
>幕府に対する評価としては軍事的に脆弱というこになると思います。
欧米列強に比して脆弱だったという意見には同意致しますけれども、
私はそうした幕府の軍事的な弱体化は、幕府によって国内にもたらされた平和と安寧の
恩恵との価値を、天秤で量ってみるべきモノだと思います。
私は二百年に及ぶ戦乱のない時代の現出の方の価値を重くみます。
244:194
11/09/19 02:24:23.72 gTIgKGo80
>>222
>また、軍事技術を身につけた彼等がアジア・アフリカ・南米で行った数々の非道を
>考えるにつけ、欧州での「進歩」というのが無条件に賛美されるべきものなのかどうか
>という視点も必要とされるものなのでないでしょうか。
欧州が非欧州に対して軍事的経済的に優位であったからこそ、それらに対して
自らの意思を強要できたわけで、その押し付けられた意思の倫理性とは別に
その優位な能力に対しては評価するべきだと思ってます。
自国の意志を貫徹するのにはその能力が必要ですから。
>>199
>貿易の窓口を小さくすることと、行政コストをあまりかけない「小さな政府」というのは
>別段両立し得ないことでもないと思いますが。
小さな政府とは自由貿易が前提ですので。
レスが前後して失礼。
245:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 02:43:59.94 r/0+aDma0
>242
>むしろ負けた側が合理化を進める場合が多い印象です。
あくまで印象の話、なのではないでしょうか?
実際には負けたあげくに合理化を進めるだけの余力を奪われて、国家としては
成り立たなくなったという事例も、欧州史にはけっこうあるように思います。
インドや清のように植民地状態に陥っても、「そこから這い上がればよい」と
考えて、「負けて良かった」と考えるのでしょうか?
私はあまり同意できません。
>例えば幕末でも下関戦争に負けた時の長州の軍制改革
あのときはその負けた長州の尻ぬぐいを幕府が肩代わりさせられました。
ケツを持ってくれる人間がいたからこその話であって、もしも各国が長州に
賠償金の支払いをあくまで求めていたら、いったいどうなっていたでしょうね。
>私は別に江戸時代を全否定したいわけでなく、前半はむしろ大発展時代と評価していますよ。
その点では同意をしていただけるようですね。
私が幕府の治世を評価するのも、この前半期に確立された制度なりシステムなりの
優秀さに対しての評価が大きいです。
>ただ欧州が本格的に発展しだした18世紀に鎖国をしていた故に乗り遅れたのはもったいないなあと。
産業革命という機械文明の発達は、その威力なり効力なりを実際に目の当たりにしない限りは
なかなか納得できないモノだと思いますし、遠く離れた地域にいて欧州の発展ぶりの情報が
なかなか入ってこない状態だったのは、ある意味やむを得ないかと。
入ってくる情報にしても、三十年戦争だとか宗教戦争だとか植民地獲得戦争だとかの
物騒な話題ばかりですから、あまり積極的に付き合いたいとも思わなかったでしょうし。
>幸せかどうかは主観的な問題で、例えば現代に於いても日本より経済的に劣っている国の方が
>幸福度が高いというアンケートもあるのでちょっと・・・
日本では当たり前の「水道をひねれば安全に飲める水が無尽蔵に出てくる」「警官に賄賂を
渡さなくともちゃんと働いてくれる」「電気もガスも安定して供給されていて、停電などは
よっぽどのイレギュラーでなければそうそう起こらない」といったことが成立しない国だって
かなりありますけど、それらの国では「それが当たり前」だから自然に受け入れているだけです。
日本の状況を体感して、その上で自国に戻ったら同じ意見が出るかどうかは分からないのでは?
やはり多少なりとも客観的な基準でもって、「むやみやたらと殺されたり、強盗被害にあったり
しない」とか、「餓死スレスレの状態にいる国民の数が全国民のうち何パーセントか」とかの
具体的な指標が必要じゃないかと思いますよ。
246:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 02:57:56.35 r/0+aDma0
>244
>その優位な能力に対しては評価するべきだと思ってます。
西欧文明が優れていること自体は私も承知していますし、人道上の判断に
振り回されて、その優位性を否定するという考えは持っていません。
けれども、最低限の武備を保って外敵の避けつつ、国内的には武装の解除を
進めることで安定した社会を築こうという幕府が選択した政策に対しては
相応に評価するべきだと思っています。
また、幕府の対外的な軍事の脆弱化にしても、十八世紀以降の産業革命や宗教革命等の
劇的な技術進歩・社会変革が幕府には予想し得なかったという要素も加味すべきですし
それらの変化への対応の遅れを「絶対悪」のようにして批判するのもどうかと思います。
>小さな政府とは自由貿易が前提ですので。
・小さな政府
URLリンク(ja.wikipedia.org)
「民間で過不足なく供給可能な財・サービスにおいて政府の関与を無くすことで、
政府・行政の規模・権限を可能な限り小さくしようとする思想または政策である。」
私はこのように理解しておりました。
必ずしも貿易に関する取り決めなどは前提とはならないと考えています。
247:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 07:36:44.69 g+etQ/Cn0
>>245
>もしも各国が長州に賠償金の支払いをあくまで求めていたら
彦島が99年間租借され香港化して関門海峡の通行税がとられるだけ。
幕府は存続するが英国の傀儡としてインドと共に英露戦争の前線となっていただけじゃね?
248:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 16:45:04.21 +zzl1iAe0
>>231
江戸時代の商人がほぼ野放しだったのは、会計技術の未発達により
資産経済どころか実体経済の把握すら困難だったからで、搾取しなかったっつーより出来なかっただけだぞ。
できたのはせいぜい、適当な豪商に難癖付けて財産没収するぐらい。
それに、商人を下手に叩きすぎると年貢を売って金を得るという幕府・諸藩財政の根幹が立ち行かなくなるし、
同時に商人が握る流通が滞れば、幕臣や江戸町民の生活もオワタ式になるから。
物価の安定は江戸中期以降常に幕府の至上命題だったが、結局は庶民まで含めた倹約令によって
経済全体を停滞させるぐらいしか対策がなかった。
ただしこれは不景気を招いて庶民の不満を増加させる諸刃の剣。素人じゃなくてもお勧めできない。
江戸期の三大改革の基幹が悉く復古主義であるように、米を投機の対象とするまでに発達した経済に対して、
最後まで農本主義から脱却できなかった幕府の敗北と言ってもいいと思う。
米将軍とも言われる吉宗はそれに気付いて、なんとかして米価格を安定させようと奮闘したが無為に終わった。
幕府でこの問題にある程度対応できたのは、重商主義に移行しようとした田沼意次ぐらいじゃない?
これだけでは不十分だったが、換金作物の奨励・専売化も、この経済構造の変化に対応しようとした
幕府や諸藩の必死の努力の跡。
専売制が反対一揆や抗議で頓挫した例も枚挙に暇が無いが。
ここからもう一歩進んだのが長州藩で、専売制撤廃による生産及び藩内流通自由化の代わりに
運上銀による生産高に対する課税と、藩外輸出の管理と課税で利益を上げるシステムを作った。
また、膨大な利益を上げた越荷方は上記の米・商品の投機化を逆に利用したもの。
>>247
300万ドルっつーと、180~200万両ぐらいなんだっけ?
この額で合ってれば、分割なら払えたと思われ。
あと彦島割譲話も本当にあったかどうか?だったような。
249:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 20:01:32.66 HkW20lYO0
長州の攘夷戦はいくつか狙いあったが、幕府や諸藩が足引っ張ったから講和に切り替えたんで。
長州が外国と戦ってる最中に長州征伐なんてやるから。
日露戦争の最中に国内で戦争するようなもの。
これが封建制の限界なんで。
尊王攘夷運動は、尊皇攘夷が確立してないから運動してる。
日本は列強の様に国内一致の統一国家、国民国家でないのに、列強と同じと勘違いし通商すれば諸外国の例に従い植民地になると攘夷派は見てる。
長州や尊攘派だけが、統一国家樹立の意識で動いてるから、他から見れば暴走してる様に見える。
四境戦争、鳥羽伏見、戊辰戦争も長州の攘夷戦と同じで、戦ったのは一部だけで他は傍観。
300諸侯の内、幕末の時勢を担当した雄藩は極一部しかなく、加賀百万石なんて存在感無い。
佐賀藩も近代化はしてたが、幕末の時勢にほとんど出てこない。
封建体制は各藩が独自の思惑で動く為、一致した行動で外に当れない。
各藩が独自の政治と軍隊を持ち、身分制で別れ、利害バラバラで皆自藩の利害を優先する。
統一国家樹立の為に倒幕に行くのは当然の事。
清国も国内一致不可能で、攘夷を確立できず植民地化された。
政治は賄賂で腐敗してたし足の引っ張り合いが起きる、清の正規軍は戦う士気も無い。
清自体も異民王朝でナショナリズム運動が反清になる可能性もある。
太平天国の乱はむしろ弾圧してる。
本来純軍事的に清を植民地にするなら、100万の兵が必要。
そこを列強は外交を活用し相手が攘夷一致できない体制を見透かし、なだめたり恫喝したり軍事力駆使し有利な条約を結ばせ植民地にした。
他の国々に対しても同じ。
中南米なんかも初め友好的に通商しましょうと未開な原住民に近寄り、相手が大した事ない場合は軍事行動を起こす。
相手が手に余ると見れば、引いて外交を駆使しじわじわと行く。
250:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/19 20:48:05.14 r/0+aDma0
>248
>搾取しなかったっつーより出来なかっただけだぞ。
んなこたーない。
商品経済の流れに関してはかなりの程度まで外部からも把握可能だったし、
やろうと思えば経済活動に税をかけることだって可能だ。
株仲間というのは幕府が認めた組織なのだから、そこに課税する方法だって検討されてた。
幕府がそうした課税を行わなかったのは、幕府の経済体制が「農民からの年貢」というのを
基礎に置いていて、商人からの税の取り立てという仕組みを持っていなかったこと。
また、全ての商品は作物なり材木なりが収穫された時点で税を取っているから、流通過程の
段階で税を取ることには「二重課税」という批判を受けることへのためらいがあったから。
また、幕府の政治は「諸藩のお手本」として天下にその威厳を示すという建前があったので、
新しい徴税手段をあれこれと考えることは「みっともない」という気分が幕府官僚の中に根強かった
こともある。
>物価の安定は江戸中期以降常に幕府の至上命題だったが、結局は庶民まで含めた倹約令によって
>経済全体を停滞させるぐらいしか対策がなかった。
>幕府でこの問題にある程度対応できたのは、重商主義に移行しようとした田沼意次ぐらいじゃない
江戸の三大改革と呼ばれる倹約主体の改革は、実際のところはほとんど効果がなかった。
では、それで江戸幕府が立ちゆかなくなったかというとそうではない。
実際には、田沼意次の時代や水野忠成時代のように経済がうまく回転して好景気に沸いた時代があり、
これらの時代に積み上がった富によって幕府は多大な利益を得ていた。
その利益の源泉は貨幣の改鋳益や、南鐐二朱銀や天保一分銀のような「銀貨で代用した金貨」といった
カラクリで生み出していた純粋な利益金。
この辺のことは佐藤雅美の『将軍たちの金庫番』に詳しい。
要約を載せた書評があるんで、とりあえずURLを貼っとく。
URLリンク(lounge.cafe.coocan.jp)
「十一代将軍家斉の時の老中が水野忠成である。
金を何とかしろと言われて、手をつけたのが貨幣の改鋳であった。改鋳には二通りある。
品位を落とすものと、「官府の印理論」を応用したものである。水野はこの両方を行った。
結果として、貨幣の改鋳を行った年から四十年間で千七百九十六万九千五百両余、
年で平均四十四万九千二百両の益金を得たという。
重要なのは、「官府の印理論」を応用した改鋳は世人に貨幣改鋳と悟られなかった。
幕末の俊才・川路聖謨ですらそのことを知らなかった。
幕府の唯一の成功した改革・享保の改革など足元にも及ばない成果を上げたのだ。」
「官府の印理論」というのが何かというと、同じ重さでくらべれば1対15くらいの価値の違いがある
金貨と銀貨とを、幕府の刻印を打つことによって1対5くらいの価値で銀貨を流通させるというモノ。
つまり、本来であれば一分銀4枚の重さでは1/3両程度の価値しか無いのにもかかわらず、
幕府がその銀貨に「一分銀」という刻印を打つことによって1両分の価値をそこに持たせるという手法。
今の一万円札は紙幣の原価としては十数円程度のモノだけれども、そこに「日本国政府」の権威を
持たせることで一万円として流通させうる、という考え方に近い。