なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2at HISTORY2
なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2 - 暇つぶし2ch1:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/10 13:39:47.58 cXeGXjxM0
過去スレ
第二次長州征伐を語る
スレリンク(history板)

第二次長州征伐参加兵力:幕府軍

総督:紀州和歌山藩主・徳川茂承

芸州口(先鋒 彦根藩・越後高田藩 約3千)
   (本隊 紀州藩歩兵、美濃大垣藩歩兵、幕府歩兵連隊 約5千)

石州口(浜田藩、福山藩 約7千)

大島口(幕府海軍:富士山丸、翔鶴丸、旭日丸、大江丸、八雲丸)
   (上陸部隊:松山藩、幕府歩兵連隊、幕府野戦砲兵 兵力不明)

小倉口(小倉藩・肥後藩、柳川藩、久留米藩、中津藩、福岡藩、唐津藩、千人隊 約5万)

補足:
 ・その他参加した藩(安濃津藩・安志藩・今治藩・徳島藩)
 ・富士山丸 (木造機帆軍艦 1000トン 幕府所有)  
 ・旭日丸  (木造帆走船  500トン  幕府所有)
 ・翔鶴丸  (木造外輪汽船 350トン  幕府所有)
 ・八雲丸  (汽船     トン数不明  松江藩所有)
 ・千人隊は八王子千人同心の流れをくむ幕府の部隊だそうです。

とりあえずこんなところでしょうか?

2:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/10 13:40:18.04 cXeGXjxM0
長州が逆襲して侵略した領土
1 小倉藩
2 浜田藩
3 大森代官所領

3:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/10 13:41:46.37 cXeGXjxM0
関が原   負け
四国艦隊戦 負け
禁門の変 負け

小倉城攻防戦 勝ち
浜田城攻防戦 勝ち


負け越し~

4:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/10 23:29:24.83 E/eDqDtV0
>>2
むしろ”なんで圧倒的な兵力を持つ幕府軍が守らなかったのか(注;守れなかったのではない!w)”だろw


5:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/10 23:54:36.41 EecoUTOm0
明らかに勝ち戦だよなこれ。
倍の兵、大義名分(朝敵討伐)、地の利(包囲殲滅)
なぜ負けた・・・

6:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/11 01:16:36.35 0PRALTRU0
>>5
倍どころか10倍以上だもんなあ
現場の士気が低かろうが、普通は勝つと思うよなあ慶喜らも

7:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/11 21:51:14.19 YwlYiD140
やっぱり武器の差かね

8:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/11 23:37:07.69 aTmykTcR0
第一次長州征伐で実戦するまえに長州藩が恭順する姿勢を見せて完全に幕府がわが優勢なのだと
そうタカをくくってしまってたんだろうなあ。
そのうえ、長州征伐がすんだら、幕府にとって邪魔な藩を順次平伏させるつもりだという
レオン・ロッシュの計画が越前あたりから噂としてもれだしていたという話もある。
幕府陸軍を先鋒にして、徹底的に殲滅作戦をとっていれば、武器の差で緒戦敗退になっても
長期にわたって包囲し続ければ、再び長州は降伏をせまられていたかもしれないけども、
内戦の長期化はこころある人々にとって、清国の太平天国の乱の末期みたいに、外国の
介入を招く恐れもあって、そうなると、各藩はどうしたって幕府には協力できなくなる。
それやこれやで、結局はどうしたって幕府の完全勝利の道は絶たれていたとも
考えられる。長州は、藩内が焦土になっても戦うつもりでいたといわれているので、
そうしたあたりも考えあわせると、実戦でいくら勝っても、薩摩藩あたりが途中で介入
していた可能性もあるから、幕府の完全勝利の目はなかったかも・・・
ロッシュの助言が、結局は幕府にアダになったんじゃないかなあ。


9:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/12 23:43:04.25 ll8uxf5x0
結論から言うと…

幕府は資金難で苦しんでいた為、幕府歩兵といった直卒部隊を出したくなかった。
そこで「関ヶ原合戦」の故事に習い、まず外様に戦わせようと考えた。
長州藩を屈服させつつも、外様大名の力も削ぐという一石二鳥の策だった。
ところが、動員された大名達もそれが解っていたので戦う気がまるで無し。
総督になった紀州徳川家もやる気無し。
戦う気のない大名だらけの幕府軍に対し、朝敵のレッテルで外交解決が不能となり、
戦う以外の道が無い長州藩。

勝負見えてるよw


10:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/16 14:12:00.53 EX4nFFQW0
幕府がフランスに助けを求めたのがそもそもの間違いの始まりだった。
不良品をぼったくられ

武器・弾薬でイギリスから密輸した薩長にまったく歯が立たなかった。
25m先の標的物にすら当たるか当たらないか分からない銃で戦うのはほぼ無謀に等しい。

11:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/16 14:40:04.63 s/bSYaik0
旧幕府軍は宇都宮城の戦いでは
江戸時代の装備そのままで勤皇側に付いた宇都宮藩を一旦占領している。
(鳥取や土佐、佐賀藩兵が来て、新政府が盛り返して旧幕府軍は追われたが。)

ゆえに、旧幕府軍の装備に欠陥があったとは思えない。
あと、薩摩は正規輸入も行っているし藩内で重火器の生産も行っている。

君の話にソースが見えない。

12:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/16 15:01:37.06 EX4nFFQW0
ミニエー銃・エンフィールド銃(薩長) vs 刀や槍や甲冑(幕府軍)

しかも第二次長州征伐は薩長同盟の直後だった。
敗戦後にやっとこさ徳川慶喜がフランスに支援してもらって軍事改革を行う。

銃器の射程の違いで、長州軍から遠距離から射撃されて幕府軍は近づくことさえ出来なかったんだよ。

13:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/16 15:44:03.84 Jp8xayb7O
徳川家単独で勝てないようならもう何やっても幕府は詰みだろ
外様の力を使って長州を潰したところで幕府の西国への影響力は喪失する

14:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/18 09:08:05.22 NlchFCB10
>>9
紀州藩については山陰側の部隊は旧装備・低士気でかなりアレだが、
広島口の部隊の方は装備優良で幕軍の中でも精鋭の部類だろう。
井伊榊原が壊走した後は幕府歩兵と紀州で長州の侵攻を食い止めたんだし、
攻勢も一部で成功させてる。

数の差で押し切れなかったのは、やっぱ道が狭いとかだろうか。

15: 【東電 83.7 %】
11/04/23 22:35:08.84 gEkJtybI0
そういえば幕末の紀州藩って影が薄いよな。

16:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/24 06:26:25.80 S6eVg3pW0
>>9
それは関係ないでしょ。
芸州口は彦根高田を先鋒に出してるし、
当初は長州を囲む西南諸藩の参加を予定していただけの話

長州戦争当時は幕府と京の一会桑との関係が改善したとは言え、
彼らだけで長州の処分を決めたことには強い反発があった。

>>15
紀州藩は派手に活躍してないだけで、武装や藩政改革に関しては凄い。
鳥羽伏見でも紀州藩の動向を疑う声が大坂撤退を決定づけた一因になっている

17:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/24 06:30:00.57 S6eVg3pW0
>>8
幕府が高をくくったと言うより、
長州藩処分の最終決着に向けた交渉が初っ端から躓いた結果進軍を余儀なくされた
長州藩の幕府に対する不信感が予想以上に強かった

18:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/25 11:23:53.92 pySTpeT40
まぁ最終決着というか、追加要求というか
全権委任だった筈の慶勝面目丸潰れ

19: 【東電 79.1 %】
11/04/29 09:49:23.83 0dUpPhqT0
大村益次郎が購入した銃器の価格
銃種 挺数 洋銀 洋銀/挺 両/挺 1両
長ミニエー 160 3,360 21 13.125  
短ミニエー 60 1,440 24 15.000  
ミニエー弾         50発
カラベイン 49 2,450 50 31.250  
大型拳銃     33 20.625  
小型拳銃     25 15.625  


20:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/04 17:19:25.73 EvXXIXkN0
徳川vs毛利
信長の野望でよく選ぶ戦国武将だ

21:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/05 18:27:49.48 Sko9v0HA0
>>3の訂正

関が原の戦い 味方の内通によりあり得ない負け
馬関攘夷決行 勝ち
馬関攘夷戦争 長州藩は引き分け・江戸幕府の不戦敗
禁門の変 先遣隊だけ負け

小倉城攻防戦 勝ち
浜田城攻防戦 勝ち

鳥羽伏見の戦い 勝ち
中越戦争 勝ち
会津戦争 勝ち
箱館戦争 勝ち

日清戦争 勝ち
日露戦争 勝ち

長州軍、薩長同盟締結から薩長政府まで(1866年から山縣有朋の死の1922年まで)
負け知らず、全戦全勝のまま歴史から消える。薩摩軍も西南戦争を除いて全く同様。


スゲェーーーーッ!!!!!

22: 【東電 86.7 %】
11/05/06 21:42:32.36 7tBhW1MJ0
島津は強すぎる。
島津と伊達、上杉、どこでこんなに差がついたのか。慢心、、、

23:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/06 23:47:40.33 ysn8iscL0
島津が強いってのは、北朝鮮が強いのと同じこと

24:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/08 21:39:29.49 HIZbJ7N60
薩摩は、日々ひえもんとりで鍛錬に励んでいたりと、
戦争することその一点のみに持てる国力の全てを割り当てて
幕末まで機会を伺い続けてきた藩だからな。

25:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/08 23:02:40.90 eptkCr1n0
長州:散兵戦術
幕府:密集突撃戦術

26:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/09 08:11:22.53 I8Fo7RVb0
>>23
北朝鮮って強いか?

27:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/09 09:53:08.12 iTtxkIHC0
北朝鮮の場合、掛け声と狂信では地球上でも特筆すべきものがあるから、
幕末の会津藩や、現在の福島県西部地域にいる歴史狂信者あたりには匹敵するかもしれない。

もっとも、狂信は迷妄に直結する。
幕末の自殺藩会津は言うに及ばず、
会津武士道が流布した戦前の社会は対米戦争へと突き進んだし、
会津武士道が復権した平成の日本社会は、清貧の名の下に経済から自殺行為を重ね現在に至る。

要するに、会津武士道とは自殺の美学なのさ。
彼ら会津人の信じるものを日本が信じたときに、日本は崩壊する。

28:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/09 21:28:44.72 o8VQxMxq0
我々は、この鹿児島蛮族が何故このようなスレを立てたのか?という
疑問を解決するため、1の故郷である鹿児島のとある寒村に向かった。

持参したドコモの携帯をみる、そこには「圏外」の2文字・・
さらに、もう一台持参したauの携帯も「圏外」の2文字・・・
「ここは、本当に日本なんだろうか?…」 「もしかしてここは北朝鮮なのか?」
思わず口に出てしまった言葉を同行した上司に「こんなことを言ったら殺されるぞ」と咎められた。

29:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/09 21:29:33.45 o8VQxMxq0
小人が住むような小さな家、ツギハギだらけの服を着る農夫や漁夫たち、
それら農夫や漁夫を監視している小役人やオイコラ警官、海上保安官たちの傲岸不遜な姿・・・・。
(注:警官や海上保安官等「公安系公務員」は、鹿児島人が異常に多いらしい)

それらとは対照的に立派な「鹿児島の偉人」西郷隆盛の銅像・・・
「まるで北朝鮮の金日成の銅像みたいじゃないか・・・・・藁」と小声で言ったところ
前出の小役人、それにオイコラ警官が私たちのもとに脱兎の勢いですっ飛んできて
「そこのヨソモン!西郷南洲翁をバカにする奴は俺が死刑にしてやる!!」と大声で
私たちに食ってかかるではないか(注:このときは鹿児島語訛りの標準語で罵倒された)

30:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/09 21:30:19.64 o8VQxMxq0
どうやらこの地では、西郷隆盛をバカにすると、役人や警察官が自己の判断で死刑に
していいらしい。なんという野蛮な土地だ、鹿児島は・・・・。

そして彼らは余所者で身なりのいい我々を監視する様に見詰めている。
そして、意味不明の「鹿児島語」と呼ばれる暗号のような言語でなにやらひそひそと
語り合っている・・・。多分、我々のことを鹿児島語で嘲り笑っているに違いない。

IT革命だの、ヤフーBBだの、ブロードバンドだの、聖域なき構造改革だので浮かれていた我々は
改めて鹿児島という「閉じられた人権抑圧戦闘国家」の現状を噛み締めていた。

31:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/09 21:30:59.18 o8VQxMxq0
ボロ屑のような家(この家も西郷隆盛の肖像画が鎮座していた)に居たのは老いた母親一人
我々を見るなり事態の全てを悟ったのか、涙ながらに
「息子がクソスレ立てて申し訳ありません」と我々に何度も土下座して詫びた。
(↑注:鹿児島語を解せないので、鹿児島語←→日本語の通訳官を介しての会話)

我々はこの時初めて「鹿児島犬人すべてをジェノサイドしてやりたい」と思った。
誰が悪い訳ではない、鹿児島の全てが「日本の害悪=日本のエボラウィルス」なのだ。
我々は1の母親から貰った鹿児島特産(藁 のかるかんと辛島美登里のCD
小西真奈美の写真集?、山田孝之のブロマイドを手に憤りの余り「鹿児島逝ってよし!」
と叫びながら東京へと帰路についた。

32:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/12 09:02:03.72 YDotlhJZO
こんなの幕府が勝手に弱ったからに決まってるだろ

雄藩大名や有能な官吏を謹慎・追放させまくった井伊のチャカポンさえいなけりゃ
佐賀に見放されることもなかった

33:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/12 21:36:47.46 E1QAn+n+0
佐賀藩が後ろから薩長を突けば明治維新は起こらなかった。

34:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/12 22:22:22.47 Ga4L1saX0
島津斉彬と仲良かった開明家の鍋島さんがそんなことするわけないじゃん


35:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/21 08:49:54.35 4q4+71QY0
大島口は宇和島藩、小倉口は佐賀藩、萩が薩摩藩、有力諸藩がことごとく不参加
しかも幕府海軍はこの段階ではまだ整備されていない
その上に京阪神は一揆の嵐
もう対長州戦は終わったと思ってたので、財政に困窮していた諸藩は猛反発(幕臣ですら)
親幕的な肥後藩ですら小倉藩を見捨てて勝手に撤兵する始末
芸州口は幕府歩兵や紀州藩が参加してから長州藩は苦戦したが自然休戦

長州が強かったから勝った戦争ではないのは確か。

36:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/21 19:36:15.72 78HC6FVM0
兵力差を見るとやっぱそれなりに強かったと思うわ

37:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/22 09:28:44.54 W677v8pU0
日本史では政権交代の時期になると、
いかに大軍を投入しても少数の反乱軍に敗北する

・倶利伽羅峠の戦い
・千早城の戦い
・近江六角征伐
・第二次長州征伐

38:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/22 12:22:06.81 OjdTUYEO0
>>35
もう少し、補足説明してあげよう。

芸州口は、芸州藩が「幕府方に大義名分が無い」と猛反発し、芸州領内での戦争に難色を示していた。
その為、幕府軍は長州領内に攻め込んで戦おうとしたが、緒戦に台敗北した為、結果的に主戦場が芸州領内になってしまう。
長州藩は、芸州領内の幕府軍と戦い勝利を収めたり、幕府歩兵に阻まれて負けたりしていた。
戦いに消極的になり、戦おうとしない幕府軍に対し、積極的に戦いを挑んだ長州軍を恨む芸州藩士が増え、対長州参戦が芸州藩論になりかけたりしている。
こうした情勢を見た井上馨が、自発的に長州全軍を芸州口から撤退させた為、結果的に休戦になった。

勝海舟と長州藩の間で停戦が成立したが、あくまでも停戦であって戦争が終わった訳ではなかった。
慶喜は勅命をもって、長州藩に終戦を突き付けたが文面が「相変わらず罪は長州にあり」であった為に、長州藩側が終戦を拒否。
それでも長州側に攻め掛かるほどの力は無く、戦争は一時的な停戦のまま日が過ぎ去っていった。
長州藩は、朝敵を指定を解除する方法として、長州に罪有りとする徳川幕府を打倒する以外に無いという結論となる。
そして大政奉還、王政復古を向かえてようやく罪が許されたのであるが、”許された”という表現から、
”一時朝敵であったが、その罪は許された”という形であり、罪はあるか無いかという点においては、幕府側の主張が通っている。
これは多分に”薩長同盟の相手、薩摩藩は長州に罪が有った形でないと、第一次に長州征伐に大賛成して攻め込んだ薩摩藩の立場が無い”という事を考慮した上での妥協だった。
結局の所、朝廷の汚名は解除されたが罪はついて回った為、この罪を作り出した徳川家を徹底的に攻撃するという感情のはけ口を求め、東征軍戊辰戦争を戦う事になる。
ちなみに、幕府はこの件に関してはあくまでも逃げ腰で議論を行わず、玉虫色を狙っていたがそのまま江戸無血開城を向かえ、徳川家幕府としての結論はうやむやになっている。


39:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/22 20:59:41.21 LiNX3FcwO
大村の軍略

40:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/22 21:16:51.95 OjdTUYEO0
>>39
大村は長州の軍政を近代化する時に活躍した。
戦争がはじまると、彼は石州口指揮官となり、石州口の幕府軍の侵攻を頓挫させた。
それだけだね。小倉口や芸州口の戦いには何の影響も与えていない。
大島口に至っては、大村方針だと最初から放棄して見捨てる予定だった(理由:海軍持っている幕府に勝てないから)。
でも、フタを開けてみれば一端は幕府に取られたものの、逆上陸作戦で幕府軍を駆逐し大島を奪還してしまっているw
大村の軍略が素晴らしいというよりは、むしろ幕府軍が異常に弱い。
弱いというよりは、戦う気がまるで無い烏合の衆というのが率直な感想。

41:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/23 23:19:11.62 OqLDPPyFO
>>40
大村の役割は軍備の近代化だけではなく全体の見通しつまり戦略を立てることではなかったのかな
全体の見通しを立てることができたのが大村だと思うのだが
大島の処置もその意味では正しいだろう
この手腕がその後、江戸開城後に手詰まりに陥っていた新政府を救い戊辰戦争で新政府勝利に導くことになる

42:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/25 00:26:42.40 RMziEtUz0
>>41
戦いが始まる前は、大戦略的な計画は大村がやったんだろうと思う。
ところが、いざ戦いが始まってみると……

幕府軍を構成すると思われた藩の多くが勝手に中立になったりw
幕府軍の中核と思われた芸州藩が長州にやたらと同情的だったりw
征長総督の紀州徳川軍がメチャメチャ消極的で進軍して来なかったりw
最強と恐れられた幕府海軍が全然出撃してこなかったりw

で、大村の計算し尽くした戦略が効果を発揮する以前に幕府軍の方がボロボロw

しかも、味方である長州軍が戦争したがりで、意味のない攻撃をしたりしているので、大村の戦略を生かしているとは思えんw。
基本戦略はあったんだろうけれど、途中で芸州を味方にしようという政治政略の方が優先されて、戦争中なのに芸州領から全面撤退とか臨時にやっている。
近代戦の常識を照らすと「考えられん!」非常識な戦いをやっとるのよ長州軍w。
臨機応変で上手いことやったといえば聞こえはいいけどなw。
戦争のやり方としては下手としかいいようがない。それなのに圧勝したのは、それ以上に幕府軍が弱い…というか戦う気まったく無しだったと言うべきか。


43:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/25 01:19:07.55 rl4f4ZfI0
臨機応変な対応は現場ではむしろ当たり前でないか?
別に大元の方針に反することまでやっているわけではない。
そもそも征長反対の藩を増やす工作は木戸が一貫してやってきたことだと思うが。
対芸州だってその結果。そういうことも含めて戦略(&政略)なんだから。

44:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/25 10:14:51.45 APRoT4YSO
「タクチーキのみを知ってストラトギーを知らざる者は、ついに国家を過つ」
の言葉通り、各方面の戦略(つーか戦術)は政略の一部にすぎない。
戦いを避けられるならそれに越したことはない、政略を優先するのは当たり前だよね。
まあ当たり前と口で言うのは簡単だが、実際に出来たのは木戸(政府)の政略に忠実に従う大村・高杉(軍)、
という関係がしっかりしてたからだろうけど。

どうもこの時の慶喜は小手先ばかり気にして全体が見えてない印象
鳥羽伏見後の決断は上記の言葉を十分理解しているようで流石だなあとは思うが

45:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/25 12:04:39.26 Ww3OcWZHO
紀州は負けてくるなか奮戦していましたよ

46:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/25 15:14:49.03 SYJopCxj0
芸州口の幕府歩兵隊と紀州藩兵は主力に相応しい働きだったな。
兵力で圧倒的に勝ってる割には一進一退だったけど。

>>42
政略より戦略を優先したら、昭和の大日本帝国になりましたとさ。
近代戦の常識て。
あと、大村が石州口で大勝したあと、余剰兵力を他の方面に振り分けたって
のぐっちが書いてた。

47:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/25 18:14:59.42 j4aXMi4p0
そうだよな~。
対芸州で井上が自身の判断で兵を退いたなら、
それは井上が木戸の方針、っていうか長州にとって必要なことが
よくわかっていて正しく判断できたってことにすぎないじゃないか。
戦って勝つことが最終目的じゃない。
何より長州の朝敵解除と藩侯父子の名誉回復、幕府の力を弱め新しい国体を目ざすこと、
そのためには自己の正当性を示し、味方となる藩をふやすことは必須だし、
この戦争ですべてが終わるわけじゃないから力の温存だって重要だ。
それをやらずにひたすら戦って勝つことが近代戦だというのなら、
近代戦ってのはまさに「政略なき戦争」に過ぎないってことになる。

48:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/25 20:59:29.51 wMidtJBj0
紀州は彦根や越後高田ボコボコにされるなかで、よく奮戦していましたよ。
小倉か石見への援軍に、回っていたらどうなっていたでしょうか。
プロシアから顧問団を招いて、訓練していたようですね。

海軍も榎本武揚が指揮していたら、その力を発揮していたでしょう。


49:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 17:27:43.03 1oKUKBRI0
政治家としての榎本は兎も角、軍人としての榎本にそんな凄いって所は感じないが、
少なくとも史実のような醜態は晒さなかっただろうな。
海峡襲撃は長州藩が砲台再建してたからどうなるか分からんが、
少なくとも赤坂沖まで貧弱な長州海軍の進出を許すようなことはしなかっただろう。

ただ、ネックは小倉口の指揮官が小笠原ってとこだw

50:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 21:09:28.45 JNfTGvjT0
>>46
中公で一躍有名になった野口だが、彼は「幕府歩兵隊や洋式縦隊を異常な熱意で贔屓する」悪癖がある。
史料の解釈も恣意的で、平等な判断とは言えない。
そもそも、野口は昭和の軍隊と政治、明治の軍隊と政治の区別出来ない人でしょw。
解るのは幕末だけでw

51:48
11/05/26 22:32:56.45 cRoxxvtvO
>49
小笠原長行のことですか?
開陽や回天がありますので、射撃をして援護できましたよね。

52:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 23:03:10.61 jvT7fZF50
幕府の洋式歩兵隊って装備は最新かもしれないけど、練度はどうだったの?
兵士って一種の洗脳までいかないと突撃とかできないよね?
長州軍が凄いと思うのは、奇兵隊とか短期間のうちに突撃できるレベルに仕上げてきてるでしょ。
山県とか山田が凄かったのかもしれないが。

53:48
11/05/26 23:06:34.02 cRoxxvtvO
やる気がなかったのでしょ

54:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 23:23:17.39 7pyRCu0I0
長州は、武器を買い、兵士を訓練し、士官を育て、
農民らを含め全長州に大義名分のビラを撒いて戦いの理念を叩き込み
藩外にも大義名分ビラを撒いて民衆世論を味方につけ
薩摩と組んで長州征伐の不条理不合理を他藩に宣伝し征長消極派を増やして
そのうえで幕府の進攻を待ち構えた
普通に考えれば不利だからこそ、それだけの下準備をして戦いに臨んでいる
幕府がぼろぼろだったというけれど、戦う前に張りぼてに開いた穴を広げたのは長州の政略だよ

55:48
11/05/26 23:30:57.23 cRoxxvtvO
攻めてこなかったら、どうなっていたでしょうか。

56:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 23:33:58.24 bRNaBsEU0
やはり高杉が名将過ぎた
海軍じゃ幕府が圧倒的有利だったのに
世界史初の海での夜襲奇襲食らってピヨった

57:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 00:06:14.43 A+i9Khn80
大村は軍制や自軍の兵力、火力、兵站を数量で計算しつくし作戦を立てるのは得意だが
四境戦争では数的計算上大島を見捨てると決めてたし、鳥羽伏見でも敗戦を計算してた
一方天才戦略機略家の高杉は大島が占領されたという報が届くと、三田尻から藩の小軍艦に乗船し大島沖に眠る幕府艦隊に夜襲をかけた
この奇襲が高杉の思惑通りに成功し、一夜にして大島を奪還

実際に大村の考え通り大島を見捨ててたらこの方面はどうなってたか分からない
見捨てた波及効果もどう影響出るか分からない
高杉が天才と呼ばれるのはその辺だろう

58:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 00:26:39.51 yqz30Wf+0
高杉が独断で大島奪回したのは創作だろ
実際には幕府が民衆に想定外の手出しをしてあまりの状況だったから藩の方針として奪回

59:48
11/05/27 08:31:15.39 qgk8Zl9IO
高杉晋作は天才ですが、維新を迎えられなかったのが、残念でした。

奇兵隊はとともに、最後を迎えたのでしょうか?

60:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 11:28:18.40 g64L/5TX0
>>51
軍艦が積んでる砲の威力は相当なもんだが、沿岸を進んでくれないとどうにもならないのが
当時の砲の限界なのよね。
陸戦隊上げて襲撃って手もないではないが。

>>50
幕末が分かるかどうかが肝要じゃね?
まぁあの人の慶喜叩きはどうかと思うがw

61:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/28 17:59:02.25 SA3E+eRF0
大島を実際に奪還したのは世良な

62:48
11/05/28 20:20:56.63 m8aN7dqIO
>60
接近すればそれだけ、攻撃をくらいやすいですね。
陸戦隊ですが幕府海軍に、あったのでしょうか。

既出ならすみませんが、薩摩は介入してきましたかね。

63:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/29 15:25:07.41 qiTimfKr0
>>60
>幕末が分かるかどうかが肝要じゃね?
まぁ、幕末が解らなかったら本書くなという話しだからねぇw幕末ぐらいは詳しくないとw
野口は武器性能と洋式戦術やそういったものに詳しいが、幕末期日本の軍事思想(西洋軍事思想ではなくw)に弱いよ。
むしろ西洋軍事思想で戦った大村や大鳥が特別だったのであって、蘭学者出身じゃない武士指揮官たちの評価が彼の中ではグダグダになる。
ましてや政治思想となると言わずもがな…
戦略無きところに戦術はなく、政治無きところに戦略はない。戦術論だけでは……。

>陸戦隊ですが幕府海軍に、あったのでしょうか。

>>60じゃありませんが、お答えします。
幕府軍に海軍附屬の陸戦部隊はありません。しかし、海軍の船で移動して戦った部隊…たとえば幕府歩兵隊はあります。
大島口の幕府歩兵がまさに陸戦隊的な戦い方をしていますね。

>薩摩は介入してきましたかね。

薩摩藩兵による戦争の介入はありませんでした。
しかし、薩摩藩兵は京都大阪に退去集結しており、その上で”幕府の対長州出兵要求を拒絶”しています。
長州には行かないが、京大阪に大兵力を集めるという謎の動きに対し、会津守護職会津藩は厳戒態勢に入り、
禁裏守衛総督であった一橋慶喜は、京都近隣諸藩に”長州征伐とは別”に、出陣要請を出して京都へ兵力の集中を計っています。
その一方で、大久保利通は「幕府の招集征伐は不当」と朝廷工作中。


64:63
11/05/29 15:28:01.83 qiTimfKr0
誤字修正

薩摩藩兵は京都大阪に退去集結しており→薩摩藩兵は京都大阪に大挙集結しており

大久保利通は「幕府の招集征伐は不当」と→大久保利通は「幕府の長州征伐は不当」と

65:48
11/05/29 16:24:11.36 qzEdHh5P0
有難うございます。

もし長州が負けそうになったら薩摩は援軍を、派遣してきたと
思いますか。

66:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/29 18:09:04.73 iIHgQeFS0
幕府軍が勝てなかったのは
勝海舟がボンクラだったからだろw

67:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/29 18:52:02.02 qiTimfKr0
>>66
意味が解らない
佐幕ファンは勝嫌いというが、その戯れ言?

68:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/29 19:09:00.77 qiTimfKr0
>>65
>もし長州が負けそうになったら薩摩は援軍を、派遣してきたと思いますか。

 薩摩藩兵の京大阪集中配備は、薩長同盟の盟約に沿ったもの。その盟約には長州領内に薩摩藩兵の派遣という条文が無いので、援軍派遣はしなかっただろうと思われる。
ただし、京大阪に集結している薩摩藩兵が近畿地区で戦争を起こす可能性は有る。この場合、長州領内の戦いと京都を巡る近畿地区の二方面の戦争が起こる事になると思われるが、
薩摩藩が短絡的に武力に訴えて戦争を起こすとは思えない。
したがって、この場合は会津藩と薩会同盟を組み8.18政変クーデター方式が用いられると思われる。
つまり、幕府が長州領内の戦いに夢中になっているスキに公家を工作し、幕府の征長は不当もしくは戦争は良くないという詔を出させる(大久保利通が動くことになる)。
詔が下れば、直ちに薩摩藩兵が御所に入り、一橋会津桑名両藩を御所から追い落とす。
こうなれば、後は天皇から長州征伐中止の勅を降して幕府に命令し、長州征伐そのものを強制終了させる事が可能となる。

なお、これは私の根拠無き単なる妄想であり、
IF論に過ぎないのでスルーしてもらって良いよw。


69:48
11/05/29 19:28:15.07 qzEdHh5P0
ifは言い出したらキリがありませんから。

70:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/29 19:31:10.35 iIHgQeFS0
>>67
勝は幕府軍の参謀総長のようなもんだろ。
だから幕府軍敗北は勝の責任だよ。
勝以外に他に誰か幕府の責任者がいるかい?

71:48
11/05/29 19:34:50.72 qzEdHh5P0
勝は幕臣だが薩長よりでしたからね。

72:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/29 19:39:27.45 iIHgQeFS0
>>71
そういった話しは信憑性がないが
国軍の参謀長が敵よりなんてバカな話しが事実なら
その方が大問題で、戦後の勝賛美話しは非常に胡散臭い。

73:48
11/05/29 19:40:36.73 qzEdHh5P0
>72
そうですね。

74:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/29 20:36:33.59 +PkA4GfWO
この時期は勝は海軍操練所の件で干されて家茂の側にいるんじゃなかったか?
もし小倉口の指揮官だったら小笠原のような醜態は見せなかったかもね。

で、実際はやっと停戦交渉の役目貰って締結したものの慶喜「やっぱナシで」で面目丸つぶれ

75:48
11/05/29 20:45:25.97 qzEdHh5P0
>74
海軍の指揮を取らせても余り期待できない。

76:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/29 21:21:50.75 zv/NOAnt0
アメリカ行った時も船内でゲロ吐いてばかりだしな
そもそも当時海戦での夜襲は戦術的にありえないタブーとされてたから
小笠原に特別な落ち度あったわけでもない

77:48
11/05/29 22:14:23.47 qzEdHh5P0
>76
それもありますが長州に同情的なので、
当てになりませんよ。

78:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/29 22:55:05.82 jcn1r9pM0
どっちにしろこの敗戦は勝には責任ないってことでおっけーなんでは。

79:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/29 23:05:24.52 QH4it69X0
>>76
海戦での夜襲って小倉じゃなくて大島だよな。
大島にも小笠原いたの?本当良いとこなしだなwww

どっちにしろ、停戦ギリギリまで全く参加させてもらってない勝に責任が生じる訳がない

80:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/29 23:11:04.68 u0o09cwqO
夜襲は大島ですよ。

81:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/29 23:54:35.60 qiTimfKr0
勝は海軍指揮官というより軍政家もしくは教育者向きだからなーw
むしろ長州征伐に大反対する意見書を出してたんじゃなかったっけ?。
勝が参謀総長なら長州征伐自体が行われないw。

俺も勝に責任無しに同意だ


82:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/30 00:02:46.43 DU0HFfje0
勝つが薩長寄りという表現はどうかなぁ??
勝は、諸外国の四カ国連合艦隊による下関攻撃とそれに続く第二次長州征伐。
こうした幕府の動きに諸外国が乗って軍事介入される事を極度に恐れていただけだと思うが。
中国を喰った外国の常套手段だからね。

83:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/30 00:05:02.76 PaBhimIQO
そうですね。

さしずめ海軍兵学校校長ですか。

84:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/30 00:07:57.48 PaBhimIQO
幕府にしでみれば、裏切り者と見なされていたでしょう。

慶喜の首を請求してきたら、それに応じたでしょうか?

85:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/30 00:27:45.06 KKVTmVmz0
応じないでしょう。
そんな大問題を受諾してしまったら、勝では事態を収拾できなくなる。

86:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/30 00:34:27.32 PaBhimIQO
そうなれば江戸は・・・・・・。

87:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/30 08:48:27.18 xGT/OV/X0
勝が兵学校校長というのはどうだろう。

実際の艦の運用に関してはからきし下手(そのわりに偉そうに振る舞って反感買うのは上手)という
評価が幕府海軍の中では定着していたと言って良いから、教官陣は良いのは集まらないだろうし。

陸軍に関してはなおのこと何の知識も技術も持ってないし。

88:48
11/05/30 08:58:46.39 PaBhimIQO
司令長官は榎本ですね

89:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/30 09:20:08.45 YuI3DJ4P0
>>65
薩長密約に、長州が負ける態勢になっても数年は粘るから
その間に政治工作よろってかいてある。
出兵したら政治工作の面で動きにくくなるから、直接長州に援兵ってのはないだろう。

>>76
大島口は兎も角、小倉口の指揮に関しては小笠原の責任重大だと思うぞw

90:48
11/05/30 09:22:53.12 PaBhimIQO
薩摩にしても長州が疲弊したほうが、好都合ですからね。

小倉口は肥後に援軍を、派遣していたら。

91:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/30 12:27:53.39 ajgy4/RvO
小倉口に勝が参戦してたら、龍馬ら弟子たちにコテンパンにされる師匠、
という図が見れたやもしれん

92:48
11/05/30 12:52:18.99 PaBhimIQO
>91
内通して被害を、拡大させたかもね。
小笠原を討ち取らせていたかも、しれないですよ。

93:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/30 15:47:48.21 xGT/OV/X0
>91

下手くそな操艦で現場を混乱させたり、部下にオミットされて何にも出来なかったりするんじゃないかな。

勝を幕府海軍のトップに据えようという動きが出たときに、「あんなヤツの下につけるか」ってんで
矢田堀や小野、肥田らが一斉に辞表を出してまでその動きを阻止しようとしたのは有名。

勝が名を挙げた「咸臨丸」乗船組や、彼のことをよく知る長崎海軍伝習所での同期生達がその中心だったんで、
さすがに現場の判断を尊重せざるを得なかった。

94:48
11/05/30 17:36:12.86 PaBhimIQO
誰が適しているのでしたかね。

95:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 10:00:35.87 KN57YYce0
第二次征長戦争に関しては、多大な批判を覚悟してでも幕府陸軍と会津・桑名藩兵を
前線に持って行くのが一番だったと思う。

何のかんの言っても、あくまで征長戦自体が陸戦主体なので海軍をどう運用するかは
副次的な問題だった。

征長を熱心に主唱した一会桑が主体となって軍を構成し、「徳川と毛利の私戦」という批判を甘受して、
鳥羽伏見の前倒しの戦争を行っておくべきだった。

そうすれば、例え負けたとしてもあの時点では「賊軍」の汚名を着ることはあり得なかったし、
近代兵器の前では刀槍主体の軍勢なんて何の役にも立たないと言うことを身に染みて理解できた。

負けた出先軍(彦根・紀州ら)を批判するばかりで血を流していなかったから、会津は鳥羽伏見まで
近代兵器の威力を理解し切れていなかったし、実際に血を流した出先からの強烈な反感をかうことになったし、
それが土壇場での裏切りや薩長方への肩入れに繋がったことを考えれば、あの時点で「負ける」という
リスクを取る決断を積極的に取らなかったのが、一会桑政権が求心力を失った大きな原因の一つだったと思う。

96:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 10:05:15.27 9vy4Z5u50
幕府陸軍は未だしも、会津や桑名は邪魔なだけです。


97:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 10:15:55.41 KN57YYce0
だから、あそこで叩かれておけば「能書きを言うだけの門閥重臣の排除」に近い結果を
生んでいただろうって事です。
刀槍部隊が主の会津桑名が、その無力をさらして馬脚を現し、幕軍中枢から排除されれば、
その分だけ幕府陸軍の強化と諸制度改革の推進に繋がる。

その上で一時休戦を行って、近代的な陸海軍を整備してから再戦に持ち込むというのが
長州征伐を完遂する一番現実的な方法だと思うよ。
もちろん、思いっきり後世から見た後知恵だというのは承知しているけどね。

98:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 10:21:55.52 9vy4Z5u50
>97
休戦するのは、大阪の陣ににていますね。

高杉晋作は無くなっていますし、
榎本武揚も帰国していたら海軍力を発揮できますね。

99:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 10:45:28.99 A+TEYuLMO
桑名や会津でも立見尚文は、すごいですよ。

他は・・・・・・。

100:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 11:15:20.87 GxekY3WN0
桑名や会津って言うか、桑名やんそれ!

>>95
幕府歩兵隊は、大島口と芸州口で交戦してなかったっけ。
小倉口のは持ち腐れたようだが。

101:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 11:17:46.06 KN57YYce0
立見が活躍するようになったのは、鳥羽伏見での敗戦後に銃器中心の近代歩兵部隊に主軸が移ってからの話でしょ。

刀槍部隊が主力・主流だった時期の桑名や会津で頭角を現すことは難しかったのではないかと。

102:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 11:30:58.79 KN57YYce0
>100
戦ったけど、訓練不足と士気不足で戦線崩壊したんで、彦根その他の旧式装備の軍勢と一緒に撤退してお終いだった。
でも、この戦いを通じて銃砲の持つ力を認識した慶喜らの意識が変わって、それが慶応の軍制改革に繋がった。

やっぱり、戦いの中で血を流して得た教訓はしっかりと身につく。
「ちゃんと失敗をしない」ってのは、短期的には利益のように見えても、長期的にはマイナスを生む場合の方が多い。

生麦事件の処理で、英国との戦争を回避した幕府と、あくまで突っぱねて戦った薩摩。

置かれていた立場や状況が違うから単純な比較は出来ないけど、示唆するものは大きいと思う。


103:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 20:17:04.88 9vy4Z5u50
>102
争いを回避するのも重要なことだと、思いますよ。

104:メーソン?いいえ、治郎丸です。
11/06/04 00:45:49.71 Qcd8rVOm0
                  /\
                / ⌒ \
              / (山口県) \
            /            \
             ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
            ___________
          //TTTTTTTTTTTTTTTTTT\
        /:::::/TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT\
      /:::::::::/TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT\
    /:::::::::::::/TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT\
  /:::::::::::::::::/TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT\
/____/_____________________\

105:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/04 16:12:11.58 dcD8PpVR0
>>103
イケイケドンドンばかりでは勝てないのは幕末の幕府が証明しているが
争いの回避ばかりでは他人の強要に逆らうことが出来ないってのも加賀藩が証明してる

106:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 14:54:30.86 FxWy1kPU0
徳川慶喜=ヘタレ

107:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/12 23:50:47.86 htM6X9g70
だがまぁ慶喜がイケイケドンドンだったとしても、あそこから勝つのは無理じゃね?

108:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/13 00:12:38.46 t2pKNst10
個人的には、鳥羽・伏見の戦いをやらずに大阪に留まれば、
時間が経過するごとに徳川慶喜優位が固まっていたのではないかと思う。

109:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/13 16:07:35.96 x5g/zBzy0
>108
何年か前のNHKの「その時歴史が動いた」で松平春嶽を取り上げたときに、
大政奉還後に大阪城に引き揚げた慶喜が黙ってじっとしていることで政治的な得点を上げて、
京都で周旋をしていた春嶽や慶勝らの活動によって、薩長よりの空気から徳川よりの空気に
諸大名の間の雰囲気を持っていくことで王政復古後の新政体での重要な位置に慶喜が就くという
「名を捨てて実を取る」戦略が実を結ぶ直前だったと紹介してた。

それまで慶喜の言動に支離滅裂なモノを感じていてなんとなく腑に落ちていなかったんだけど、
この視点からこの時期の慶喜の行動を見ることで、いろんな疑問がけっこう氷解した。

家近良樹氏の『幕末維新の個性1 徳川慶喜』はこの辺の力学を詳しく解きほぐしていて
一読者として面白く読めた。
慶喜の大阪城逃亡を「先の見通しのきく政治指導者による、見事な投了の一手」と
評していたのは痛快ですらあった。

110:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/14 00:54:08.77 VeuXy+Aw0
辞官→前将軍を名乗れる上、将軍としての格式も維持されるに変更
納地→徳川家のみの納地が、前大名が石高に応じて全員差し出すに変更(結果、失政による領地削減では無くなり、徳川家の名誉は損なわない)

その上、明治新政府参与(薩長と同格同権限)の役を与える事を岩倉具視が承認。
これらは土佐藩や福井、尾張藩の成果。

慶喜が戦争してまで抵抗する理由は何も無い。

旧幕府軍が暴発しなければ、薩長と同じ権限を持つ参与として徳川家が新政府入りを果たす。
その結果、徳川家支持藩である土佐山内家(徳川に大恩有り)・尾張徳川家(徳川御三家)・福井松平家(徳川親藩)で、精力的には薩長二藩圧倒。
石高に置いても、徳川家単独で圧倒的な石高を誇る。武力も何も失わずに温存されるので、徳川陸海軍が最強のまま維持される。

慶喜どうみても勝ってますよw薩長に。

111:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/14 01:20:47.79 BykEZ2zE0
慶喜たん自体が敵を知り己を知りてで、我が幕府側に西郷・大久保の如き人物がいるかと聞き
居ないだから勝てないと言ってますやん

112:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/14 01:50:37.81 NkcqlgPe0
それは、
大多喜正質や川勝広運、
瀧川具知や竹中重固、
松平容保や松平定敬あたりが

大口を叩いて京都へ向かって進軍し、
薩長よりずっと大軍で装備も良かったのに、コテンパンに負けて帰ってきたので、
指揮が悪いんじゃいくら事前準備をしても勝てないよ、と慶喜が匙を投げた場面です。

軍は整備しておいても、実際に働くかどうかはやってみないとわからないので
鳥羽・伏見の戦いなんて起こさずに、威圧で収めておくべきだったと思うのですよ。

113:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/14 06:40:56.12 NDqWn18/0
>>112
>大口を叩いて京都へ向かって進軍し、
>薩長よりずっと大軍で装備も良かったのに、コテンパンに負けて帰ってきたので、
>指揮が悪いんじゃいくら事前準備をしても勝てないよ、と慶喜が匙を投げた場面です。

 違う。瀧川が江戸から兵を連れて大坂に到着し、江戸薩摩藩邸焼き討ちを伝えて開戦を慶喜に迫った時でしょ。
コテンパンに負けた後ではない。戦いが始まる前のワンシーンだ。慶喜は戦う前から、家臣の暴走にサジを投げたというのが正解で、負けた後にサジを投げたのではない。

114:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/14 13:11:11.01 Q7AylzPHO
>>37
脱原発派VS原子力村
の戦いも入れて下さい!w

115:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/14 13:20:48.28 NkcqlgPe0
この言葉、鳥羽・伏見から大阪城へ松平容保や松平定敬が敗走してきて、
大阪城の軍備を使って反転攻勢に出るよう要求した主戦派要人に、徳川慶喜が言った言葉のはずですが。

松平容保関連の伝記は、松平容保がこの際叱責を受けた事を隠すので、この時点の経緯が曖昧にされています。

116:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/14 15:07:19.74 uAgEU1B40
長州征伐軍・・・ベンチがアホやから戦争がでけへん。


117:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/15 23:07:55.51 llpCCAeVO
>>114
福島の事故=桜田門外の変

九電メール=第2次長州征伐

118:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/20 05:42:52.77 zCGjKpefO
長州征伐に関しましては、政府といたしましては、枝野です。

119:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/21 14:51:56.63 hNqyhmg+0
新選組が会津軍に参加して、士気を盛り上げていれば、幕軍は長州如きに負けることはなかったんじゃ!
幕軍大佐松平容保公が英断を下していれば、幕軍は長州を壊滅させ、その勢いに乗って薩摩を倒せたのに…
残念でならぬ!

120:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/21 19:43:27.08 OzD6JF3T0
新選組と奇兵隊の戦闘とかやって欲しかったなぁ

121:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/22 08:45:27.33 51zo1R9K0
ですよねー

122:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/22 16:31:05.27 eh/6QVW20
>>119
会津軍攻めたのは長州じゃないぜ

123:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/22 17:12:09.81 +BQlpF8V0
主力は伊地知の薩摩隊と板垣の土佐隊だよなぁ。

>>119
会津と新撰組は、鳥羽伏見で轡を並べて戦ってるよ。

124:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/22 21:35:26.96 51zo1R9K0
新選組ファンとしては、長州征伐の時に参加して士気を盛り上げてくれていれば…と考えたいが、
鳥羽伏見の惨状を見るにつけてはそんなこと思えないな…
しかし、長州征伐の時も鳥羽伏見の時も幕軍は数では上だったのに…
薩摩がいないだけでこんなにも違うのか?

125:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/25 17:47:04.08 fZuIZi/LO
>>116
小笠原長行らが熊本軍の援軍を、無視しましたね。
>>119
石見口に会津が参加しても新式銃の餌食に、なっただけでしょう。
ですが新撰組と同じく士気が旺盛なのがいたらと、思いました。

>>122 123
両者が陸軍に行かなかったのは、どうしてでしょうか。

>>124
武器の性能が違いますからね。

長州を取り潰せても、薩摩はかなりの犠牲を覚悟しなければ、ならないでしょう。

126:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/26 07:28:15.24 Wp696M1w0
>>21
幕末から日露までの薩長は、まさに神がかり。


これを素直に認められない不誠実な輩は低脳国賊。



それだけは素直に認めよう。

127:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/26 07:52:12.89 iibEh19S0
>>119
>>124
禁門の時点で会津は洋式になる前の長州に押されまくって突破されたわけだし、
その後長州並に軍制改革しない限り、士気が高かろうが勝てるわけもない。

128:125
11/07/26 08:43:08.78 CA99BcnAO
>>126
薩長だけではなかったですが、すごかったですよ

>>127
したくても財源がありません

129:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/26 16:13:44.44 qAkRQc1B0
>>125
板垣は土佐閥の重鎮として、伊地知は片目片脚が不自由で
病弱だったから政治の道を選んだんじゃない?
幕末までの武士は軍指揮官と政治家兼任してたようなもんだし。

130:125
11/07/26 17:50:23.79 CA99BcnAO
板垣は軍人しかだめだと、中江兆民が述べていましたよ。

伊地知はそれらを考慮しても、通用したと思いますね。

両者が陸軍にいけば、我が国の軍事史におおいなる影響をあたえたでしょう

武士は両者を兼任していましたね

131:125
11/07/26 17:59:51.60 CA99BcnAO
長州の味方を広島が、したのでしょうか。

132:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/27 00:12:14.03 HgtAe7Z80
英国相手に一諸侯で互角の戦い出来る薩摩や、4カ国連合艦隊と戦える長州相手では幕軍なんて物の数でもなかったろうな


133:125
11/07/27 09:10:31.66 tZAlH8XpO
>>132
そうだった

134:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 11:36:58.22 YrPTX3pi0
>>132
薩長は互角に渡り合ったといえるのだろうか?
砲台を占拠されたり甚大な被害が出たりしたわけだろ?
それで互角と言っちゃあ欧米が黙っちゃいない

135:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 15:37:15.01 iEXCwMwq0
まぁ禁門の変と同時進行だったのもあるが、死傷者は連合軍側のが多かったとはいえ
砲台占拠されてそれを奪還することも出来なかったんだから、互角とは言えんかなぁ。
役に立った部隊は久坂玄瑞の光明寺党ぐらいのもんだっけ。後の奇兵隊の母体。

136:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 18:54:22.92 YrPTX3pi0
うむ。薩長は外国軍と戦い自らの無力さを思い知って攘夷を諦め開国、倒幕に転じたと学んだぞ。

137:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 21:05:31.85 G3h7+1nJ0
でも負けたのだ、と書く人の言及する被害は長州のみ。

138:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/29 08:11:37.78 /VRx+7or0
幕府側は武士だけの軍勢だったのに対して長州側は武士以外も参加していた。
それは不正規の志願兵が増えるということだけでなく
例えば地元漁師を利用して情報収集に活用できるなどの利点もあった。
戦略の幅が広がればそれだけ有利になるのは当然。
実際に関門海峡渡航準備が察知されて渡航直前に攻撃くらっているしな。

139:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/29 09:22:41.42 +fj4aCbG0
>>137
薩英戦争は微妙かなぁ。
賠償金の獲得だけが目標だったらイギリスの勝利とも言えるが、
生麦の犯人引渡しという点では妥協してるし。
講和条件から見ると、イギリスが多少優位な痛み分けってとこじゃね。
この薩英戦争を教訓に、馬関戦争では砲台のアウトレンジからの砲撃を厳守するようになるから
2回目があったらどうなってたか分からんが。
まぁそれが分かってたから、薩摩もあの講和条件で妥協したんじゃね?

140:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/29 21:14:27.05 N848rbV80
>>138 革命軍と体制維持軍とでは志気が違うしな。


141:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/30 01:02:47.65 W1UKRS9T0
>>138
民衆の活用は長州藩だけの専売特許ではない。
会津藩だって武士以外の民衆を徴発して戦力にした。もっとも練度が低いので多くは期待できず
畳を持たせて前衛に立たせることで弾除けとして利用を試みた程度だが。
結果は銃弾が貫通してしまい戦力どころか壁としてすら役に立たなかった。

142:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/30 03:12:10.80 JpbwDUX70
長州の民衆兵の場合はほぼ自発的参加だろ。訓練もしてる。
民衆を挑発して使うのとはぜんぜん士気も錬度も違いすぎる。

143:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/30 08:37:08.87 m9MHuULA0
>135
向こうは展開戦力に限りある
当時の艦隊じゃ補給もままならないだろ
一方長州は攘夷で次々諸隊国民軍が生まれ連戦で強くなり限りなし
長期戦になればどっち道長州が勝つ
ゲリラ戦に持ち込まれたら対応できないだろう

144:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/30 09:43:21.81 04rur+MF0
>>143
そうとも限らんわい!

145:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/30 18:15:41.29 DIFe06060
会津戦争と長州征伐を比べるなら
長州は挙藩一致で幕府に当たれたけど、会津は民衆が新政府についてしまってる。
長州も天保改革までは南部並の一揆多発藩だったのに。

146:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/30 18:22:02.99 04rur+MF0
そうだったのか、そういう違いもあったんだな。
ああ会津、残念無念也

147:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/30 23:21:27.54 F+kcPtC10
長州は攘夷戦で奇兵隊など生まれ、既に国民国家になりつつあったから
四境戦争の頃には藩内革命経てるし
幕府との戦いの前に長州兵の士気の高さを見た坂本龍馬は感動し長州兵は天下最強であると薩摩に書いてる
板垣は会津攻めは本来負けてもおかしくなかったが、会津市民が駄賃など貰い積極的に新政府に協力したとしてる
これではだめだと
後の藩政改革や自由民権運動する経験になってる

148:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 00:28:15.47 SI7O53HT0
えっ・・・?会津戦争は会津軍が勝てる要素があったの?
もし勝ってたら歴史はどうなってたんだろ

149:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 01:22:42.27 2pC1lZuf0
北海道の一部が日本じゃなくなってたんじゃね?

150:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 12:59:02.14 OYGxc9Hx0
>>143
まぁゲリラ戦に持ち込んで粘り強く戦えば勝てた可能性もあるが、
実際には禁門の変、第一次長州征伐でそれ所じゃ無かった訳で。

>>148
速攻掛けて会津城下まで突出したのは、伊地知と板垣の三千~五千弱?程度の軍だったから。

会津は天下屈指の雄藩だから、士族と民衆が一致団結して抵抗すればこんな少数の軍は
簡単に退けられただろうし、またそうして冬が来たら兵の士気も阻喪するかもしれず、そうなったら
死ぬしかないと覚悟を決めてた。
そんな決意でいざ城下まで進出したら、意外にも篭城してたのは士族だけで、一般の人民は
我関せずという状態だった。
みたいなことを、会津戊辰戦争の序文で板垣が書いてる。

151:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 14:10:36.64 ZAnftGAX0
>>141
人間の盾は人心を失う要因になったかも

>>150
京都関係の出費のために領内の税が重くなったことが
会津藩領民と支配層との軋轢を生じてしまったとおもう。
京都守護職は貧乏神

152:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 16:07:10.46 SI7O53HT0
>>150
じゃ会津戦争に会津が勝利してたら・・・というIFを考えるのも面白そうですね。
まず、板垣退助が民権運動を起こすことはなかった。
となると、果たして日本はどうなっていたんだろうか。

153:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 20:10:31.60 pcfezsJKO
>>151
身分差別がきつい所だから余計に乖離しやすいだろうね
外交、内政、軍事が全部ダメダメだったのな…
徳川が大事すぎて会津を顧みることが出来なかった
人としては素晴らしくとも為政者としては最悪

>>152
板垣おらんでも自由民権運動は起きてるだろう

154:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 21:27:51.07 SI7O53HT0
でももし会津軍が会津戦争で土佐軍を敗走させてても大勢に影響はないとみる?

155:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 21:32:27.24 xUR0tHSH0
土佐の評判が落ちるだけで大勢に影響はでないな

156:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 22:54:31.63 SI7O53HT0
なんだそうなのかガッカリ
俺的にはそのまま奧羽越列藩同盟が盛り返して官賊軍を打ち破って東京まで進出、
明治天皇を奪還して新たな政府を作る、ってところまで思い浮かべたよ。
まあリアリティはないが。

157:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 01:50:19.38 BFF6v6PgO
>>37
原子力村は滅亡確定だねw

158:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 03:08:50.18 0iIe9jt+O
人心も金もないんだからできるわけ無いだろ(笑)
薩長恨んでアホなオナニーする暇合ったら勉強しろ夏厨

159:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 10:47:33.21 oF/RrDoz0
>>156
それを考えるなら、まず白河城攻防戦で同盟軍が勝利するのが
最低条件だろうな。
あそこを抜かれたら、中通-会津への峠の守備で攻勢所じゃなくなる。
あと、北越戦線も長岡城での大崩壊が起きた後だときつい。

160:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/05 09:18:35.32 jTNPZfHI0
一個大隊1000人の自衛隊と、
地方公務員事務方で構成された一個師団がタイマンしてどちらが勝つか。

161:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/06 21:19:06.31 PBtHHbp60
>>160
前者でしょ。

162:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/07 00:31:44.42 +ImSFw6G0
>>1 長州鉄砲部隊と幕府抜刀部隊の戦力差だろう。

163:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/09 21:26:52.66 bdyyR8qx0
>>1
直参が戦場行きたく無さに子供に跡目継がせたりして隠居するとか、無駄飯ぐらいの有害無益集団だったから

164:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/10 00:55:07.16 B3T6/izQ0
もともと幕府の旗本って行政職の侍だったり、血筋だけはいいボンクラだったり、
外様の小領主だったりで、武勇伝とか一切無い家がほとんど。
精鋭集団でもなければ、戦う軍団でもない。

165:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/15 01:11:24.13 9xy0yH9s0
>>1
長州に大村がいたから


166:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/15 17:07:38.92 4mpyHpj90
戦前、司馬遼太郎公認の腰抜け軍隊だったのが大阪人






167:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/15 18:40:39.39 LdtWvIHv0
江戸体制の文は三河の百姓でもできたが。
武は作らないとできないということだろね。

168:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/16 17:09:15.89 H+wJyy2W0
士気も装備も低い軍隊じゃ勝てないからなあ。
斜陽の政府が、小規模な反乱にも勝てずに滅んでいくのは、日本ではよくあること。
そして一度そうなったら、もう立て直せないのもよくある事。

人間ってのは空気に流されるからね。後は雪崩をうって崩壊する。

169:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/16 20:29:56.91 EQeF64N+0
ここでは長州藩内部での会所の圧政により頻繁に起きた一揆はガン無視されるのがデフォ。四国艦隊が下関を砲撃しているときに長州は存亡の危機に立っていた・・・のは無視して下さい。でないと事実、事実、事実を積み上げて萌えを潰しま
す。

170:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/16 23:05:57.71 Rjdzoz880
まぁ落ち着け。

171:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/17 06:34:58.61 972xWXYX0
>>169
その多発していた一揆を収める為に、色々やった結果が後の長州藩なんだけどな。
だから長州征伐の頃は一揆は殆ど起こっていない。確か新たに占領した支配地域あわせて、
数例しかないそうだ。
幕府はその頃物価高騰に苦しむ民が、打ちこわしで暴れまわり、農村でも一揆が多発。

四カ国艦隊の時もそう。かなりの苦境で戦い続けた結果、
何をすれば勝てるのかを学び、実践した事で未来が開けた。


172:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/17 11:56:28.36 36Vhrkoz0
天保年間は確かに一揆が頻発してた。大一揆もあったし。
天保年間の後から明治に入るまでは、村落を越えて広がる大規模な一揆は無かったと思うが。
第二次長州征伐のときの、長防士民合議書の発想も面白い。

それに長州存亡の危機は、四カ国連合艦隊よりも、幕府による第一次長州征伐の方が
深刻だったろう。
あそこで降伏を認められなければ、ゲリラ戦とかでどれだけ粘るにせよ、最終的に長州は負けてた。
まぁ、ただでさえ財政が窮乏してた諸藩としては戦役が長引くとか悪夢だから、
慶勝の寛典論にも余り異議がなかったのだろうがw
この時点では、幕府の強硬論と諸藩の寛典論のどちらも正しいと思うけどね。

173:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/17 13:27:40.00 fBBfLtos0
そもそも長州が恭順した後に高杉みたいに藩をひっくり返す狂人がでてくるとは
誰も想像できないよな

174:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/18 17:04:13.33 PiKq1eGf0
結局寄せ集めだから勝てるわけがない

175:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/18 19:02:24.58 vZFuc5zg0
高杉の政権掌握の過程を見ると成功した2・26事件って感じ。


176:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/19 21:44:52.72 HqwpEAZx0
高杉は農村や都市の中小ブルジョワ層に圧倒的な人気があった。中小ブルジョワは農村や都市で賃金労働者や農奴を搾取している。これのどこが成功した二・二六なのか。一声で 言えば細川護煕だろう

177:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/20 18:45:30.41 +Ta4xliA0
急進的国家改造を掲げ、クーデターで政権掌握を目指したなら共通してるでしょ。
ともかく、小金持ち層なら現状維持が普通じゃないのかな?
よく高杉を支持したね。
よほどの閉塞感を長州の保守派、幕藩体制に感じたか、具体的な利害対立があったの?

178:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/12 23:36:52.65 tqLJ5KBO0
なんてって長州では百姓でさえ刀を持てばサムライになれたんでしょ。

179:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/13 02:21:14.65 ResNHH4D0
長州の百姓は銃や刀を手にしたが、長州以外の百姓は刀を持とうとしなかった。
学がある百姓は少数で、多くの学のない百姓は日本の未来とか武士がなぜ戦っているのかなんて理解出来ない。
百姓は物価高騰するか飢饉になって自分が困った時だけ蜂起する存在。

180:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/13 06:27:57.16 gaq/i1KB0
大体高杉自体が上級武士
高杉について破産した商人の白石とか国学が元
百姓が無教養ってのも無いだろう
初代総理の伊藤自体百姓の中でも下位出身
長州と違い会津が地元の庶民を味方を付けれなかったのは統治が駄目だったからに過ぎないだろう

181:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/13 21:04:06.66 DV0hMjakO
>>179
学があるとか無いとかじゃなくてさ、百姓にとって
搾取・凌辱を繰り返してきたお侍のために好き好んで血を流す道理はないでしょ。
長州が特別だっただけで。

182:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/14 08:42:10.63 FtPrdrQ50
改易で領主が変わっても自分たちには関係ないしな。国替えが頻繁にある国なんか領主意識も低いだろうし。

183:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/14 22:16:03.68 6WIvNod10
山口県は、長野県に次いで寺小屋数全国2位だったんだっけ。
長州藩の他にも、庄内藩とかは領民に慕われてたな。

184:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/15 13:39:07.43 HU2YbIFn0
藩版も水戸や薩摩と同じく盛んだったはず

185:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/15 19:58:33.44 22nfzmGM0
維新はそもそも攘夷から始まってるんで。
外国に植民地化されない為どうすりゃ良いかと主導したのが江戸時代に教養化された武士。
基礎作って自階級を切腹が明治維新。
庶民がフランス革命で王様をギロチンにかけたのと違う。
武士は一定の税取る権利と、政治軍事の負担と権利権利持ってたけど土地所有者でないし。
大抵の武士はその辺の裕福な百姓商人より貧乏で民間のが金持ちだった。

186:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/16 11:38:41.60 631XSyeg0
>>181
長州の場合、馬関戦争で外国軍に武士が負け、複数の村を破壊されたからね。
長州の庶民はこの時、武士は自分達の村を守れない。自分の村は自分達で守るしかないと自覚させられた。
その結果、生まれたのが奇兵隊などの諸隊。

>>185
明治維新が起きなかったら……幕府体制のままでユルユルと近代化できたのではないかという話しも聞くが、
開国が必然である以上、権利という思想も輸入されてしまう。維新が起こらなかったら、いずれヨーロッパ式の革命が起こされたと想像する。
この時、たぶん天皇・将軍・大名・武士は皆殺しにされてただろうね。フランスみたいに。
本来であれば、自由民権運動でこの革命が起こったはずだが、自由民権運動のリーダー達が皆武士だったのでそうはならなかったな。

187:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/16 19:12:25.96 vzMOxmRM0
>>183
確か岡山についで2位だったかと。
あと領民には慕われてないと思うぞ、長州はかなり重税。それも税の対象がかなり広い。
検地も頻繁に行われる。
何故かと言うと120万石から36万石、さらに幕府から目をつけられていたから、
賦役とかも多いし、城を作るのも山陰の萩とかイジメ。
結果負担が多いから、その分領民が苦労した。

ただ長州は寺子屋や藩校などが多く、さらに寺子屋は藩が率先して立てていた、
その代わりその先生は武士がやっており、藩の思想教育などもおこなっており、
また知識があるから尊攘派が非常に多かった。幕府にもイジメられていたのもあるだろうしな。

結果的に革命だああああとなっちゃったわけ。

188:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/16 19:23:52.11 fGME7OvF0
江戸期は基本善政だろう
ペリーが来なくても幕府は倒れてたろうが。
鎌倉、足利、徳川が倒れた様、朝廷の権威が使われたろう。
尊皇攘夷は士民の常識だったし、外国の貴族の場合は富と権力の独占者だからやられたんで。
ロシアなんか領地にそのまま人民が付属してつくから。
武士は名誉と政治権こそあったが、その分軍事負担あったし、経済力は民間のがあった。
民は戦国末期に決められた税さえ払えば良く、江戸期に新しく開拓した税は払う必要なかった。
一方でどの藩も藩財政がボロボロだったのはその為。
武士も250年形而上学問ばっかやってたから、政治は徳治主義で近代国家も西洋文明も理解する事ができた。
結果尊皇攘夷と明治維新が生まれた。

一般からすればむしろ明治のが負担増。
武士廃止の代わりに軍事負担として徴兵が必要になり、地租改正で税逃れなくなり、米でなく金で払わなければならない。
軍事や産業や近代化の為に莫大な税が必要になった。
武士の役目もする以上、政治権を持つのは当然の流れで。
民権運動も必然の延長戦でしかない。

189:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/16 20:29:33.67 2C5ur6fo0
>江戸期に新しく開拓した税は払う必要なかった
江戸期にも検地は行われてますけど。

>武士は名誉と政治権こそあったが、その分軍事負担あったし
軍事的に脆弱な軍事負担なんて無駄そのものだな

>武士も250年形而上学問ばっかやってたから、政治は徳治主義
>で近代国家も西洋文明も理解する事ができた
幕府は蘭学を弾圧したけどね。

日本が列強から後進国に落ちた時代なのに
江戸時代を評価しすぎだな。

190:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 08:32:59.90 pKb+7q8S0
江戸時代日本は先進国だった!
スレリンク(history板:401-500番)

191:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 13:10:06.77 x2jwE8ci0
>189
対外国向けの軍備としては問題があったかもしれないけど、江戸期の軍備ってのは
基本的に国内の治安を主眼としたモノだったのだから、「脆弱」と言って切って
捨てるのはどうかと思う。

江戸期の日本がそれなりに豊かで落ち着いた生活環境をその国民に与え得たのは、
司法や行政、それに軍備といった「公権力」が肥大化するのを抑えて、国家運営に
かかるコストを切り詰めたこと。
それから、支配階級が被支配階級から過酷な収奪をしないという基本的な統治方針が
堅持されていたことに理由を求めることが出来ると思う。


鎖国をしている間に西欧各国から後れを取って後進国化してしまったことは事実だけど、
教育の水準を高めて(識字率の高さ・教育機会の均等化)、独特の分化を醸成して、
国民が「太平の眠り」に沈むことが出来るくらいに、安定して穏やかな社会を築いていた
こと自体は、賞賛されて良いことだと思う。

192:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 18:43:45.23 HV9jIlfm0
>>191
成功した商人や豪農は豊かだっただろうけど、農民もそんな生活を享受できてたら、
命懸けで一揆や打ち壊しを起こす必要がないでしょう。
南部藩なんか、一揆勢が仙台藩まで行って直訴してるし、財政再建策として
検地及び新田没収を行い、一揆を起こされた例もある。
そもそも財政が悪化する一途だから、飢饉などの非常時にも有効な対処ができない訳で。
どっかの藩みたいに、困窮する民を放っといて大阪に回米するのはかなりアレだが。

それに一口に財政悪化と言っても、その原因は農本主義と経済構造の変化が
深く関わっている訳で、倹約しただけでどーにかなるようなもんではない。
財政再建で名声を得た徳川吉宗も、晩年その課題をどうにかしようと苦心するが、
結局根本的な解決はできなかった。
これに対応して成功を収めたのは、江戸時代を通じてもほんの一握りの政治家だけ。

193:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 18:59:57.72 PrZEQ71m0
一揆や打ち壊しは不作になればおこる
反乱を起こさせれば領地召し上げになるから大名からしても戦々恐々
幕府の大塩平八郎などは、農民が苦しんでるのを知らせる目的の為に幕府に反乱起こした
フランス革命は餓死線上にあった農村が、重税と我慢の限界で土地所有を求めた革命

194:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 20:55:06.10 IHGBephE0
>>191
幕府が軍事的に弱かったからこそ、米国の要求を飲まざる得なかったし
長州征討にも敗北し、鳥羽伏見にも敗北したわけだから
これこそが最も重要だろう。


195:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 21:42:11.40 PrZEQ71m0
維新が出来たのは日本だけ
清だって大国だが100年以上も植民地化された
日本は江戸期の蓄積あったから独力で出来たと見なければ
維新を主導した側だって江戸時代が生んだ武士

196:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 22:02:28.76 CQYAcBhK0
経済的なことでいえば、革命を主導した長州と薩摩は異例に、金満といっていいほど財務状態が良好でした。
この二藩が他藩同様余裕の無い状態だったら、倒幕と維新はどうなっていましたかね?

197:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 23:37:39.81 19OaTwSI0
明治維新は必要だったのか

198:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 00:13:16.34 ltUJQOsK0
幕府がいらなくなったから維新が起きたんだろ

199:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 04:26:43.67 C+U7oCKV0
>192
>成功した商人や豪農は豊かだっただろうけど、農民もそんな生活を享受できてたら、
>命懸けで一揆や打ち壊しを起こす必要がないでしょう。

それがそうとも言いにくい。

一揆が命がけの行動だったのは江戸の初期までで、綱吉から吉宗にいたるあたりで、
暴力的な行動が行き過ぎなければ「ただの抗議行動・示威行為(デモの一種)」と
みなされて、過酷な処罰を行うことが控えられるようになっていた。

大名は「領地内を混乱無く納めて善政を敷いているかどうか?」というのを
幕府から評価されるか否かの基準にされていたので、うかつに過酷な取り立て
などを行って一揆が頻発すると、国替えやお手伝い普請などの罰則的な仕打ちを
受けることを覚悟しなけりゃならなかった。

また、幕府の方もそうやって手綱を引き締める一方で、そう簡単には「取り潰し」
という強硬手段を封印することで大名を暴発させないようにと手加減していた。

江戸期の二百数十年間続いた幕府政治の中で、飢饉と呼びうるほどに大きな
天候不順が起こったの期間は、トータルではそれほど多くはない。
また、東北が飢饉に襲われていても西国はそうでもなかったりと地域差もあるから、
「どこそこでこういう行動が行われた史料がある」というのが必ずしも全国的で
継続的な事例だとも限らないみたい。

どこかの県で、生活保護の受給を打ち切られた人が「おにぎりが食べたい」と
書き残してアパートの一室で餓死してた、みたいなニュースがあったけど、
今の日本人すべてが餓死するほど追い詰められているかって言うとそうではないでしょ。


>そもそも財政が悪化する一途だから、飢饉などの非常時にも有効な対処ができない訳で。
>それに一口に財政悪化と言っても、その原因は農本主義と経済構造の変化が
>深く関わっている訳で、倹約しただけでどーにかなるようなもんではない。

財政が悪化したのはあくまで武士の側、つまり支配階級側。
なぜ支配階級が財政が悪化しているのに、商人や豪農が富裕になったかと言えば、
彼等を対象にして過酷な収奪を行い得ないような社会体制が存在していたから。

そして、支配側が放埒に振る舞えない環境下では、その下の国民はわりと安心して
生活が出来るし、だからこその「太平の眠り」が存在していたわけです。

200:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 04:54:05.90 C+U7oCKV0
>194
>幕府が軍事的に弱かったからこそ、米国の要求を飲まざる得なかったし

当時の米国の要求を蹴るぐらいの軍事力っつったら、国民全員が餓死しても
賄いきれないぐらいの金が必要になっていたと思うけど。

「小さな政府」を目指して行政や軍事をスリム化し、行政コストを民間の自治を
活用することで外注化していたような統治機構なので、そもそも「強大な国家」を
優先していなかったのだから仕方がないことだったとも思う。

むしろ、何千キロも離れた国から海を越えて軍事力を搭載した外国が
攻めてくるような事態を想定していなかったから。
実際、巨大な蒸気軍艦が造られはじめたのはペリー来航のほんのちょっと前だし、
そもそもそんな軍事力を持っている国自体がそう沢山は無かった。

アヘン戦争で英国がそうした力を持っていることを認識したのが
このほんの十数年前。

幕府の対外認識が甘かったという批判自体には私も同意するけれども、
じゃあ認識できたとしてそれに有効な手立てを打つことが出来たかどうかに関しては
個人的にはあんまり幕府を批判は出来ないような気がしてる。


>長州征討にも敗北し、鳥羽伏見にも敗北したわけだから
>これこそが最も重要だろう。

このどちらの軍事行動も、軍事の前にまず政治で敗北してたと言っても良いからなぁ。
「徳川と薩長の私戦だ」と見なされて諸藩は協力的ではなかったし、大義名分も
あまり無かったからそもそも勝ち目の少ない状態に入ってからの軍事行動だった。

長州征伐にしても、ホンの二年前の「蛤御門の変」の時には打ち破っているし、
その後の馬関戦争で四カ国連合軍にコテンパンにやられているから、
まさか外国と手を結んで武器の輸入をしているとは思っていなかった、
と考えるのも無理はなかったかなぁ、と。

201:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 05:05:46.35 C+U7oCKV0
>195
天保時代に改革を行っておらず、藩が貧乏なままだったなら維新は無かったかもしれませんね。

薩摩は調所広郷が行った改革がなかったら500万両の借金で首が回らない状態だったろうし、
長州も村田清風が行った諸々の改革がなかったら、薩摩ほどではなかったにせよ借金が多くて
なかなか派手な行動は取れなかったろうね。

特に長州は、幕府に追い詰められた後でも下関を舞台にした貿易によって力を付けていたけど
それが出来る体勢が出来ていたのは村田の改革に拠るところが大きかった。
特産品の奨励と、その貿易を藩が一手に行うことで利益を上げるというシステムがなければ、
幕末の長州の大暴れはまずあり得なかったと思う。

202:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 05:11:14.49 2VlnCEMz0
>>199
江戸時代中期以降の日本は地獄だよ。明治になるまでね。
寒冷化の影響などもあるけど(ていうか今も寒冷期にあたるが)
ここまで大規模な飢饉が続いたのは江戸時代のみ。
日本の三大飢饉は全部江戸時代だしな。

お前さんは比較的温暖であった江戸時代初期などもあわせてトータルでみるとか詭弁使っているだけ、
気候変動などをみれば寒冷期の合間にたまに温暖な時代があるだけなんだよ。
奇跡的に温暖であった時代もあわせてそんなに多くないというのは詭弁である。

また江戸時代の飢饉は幕府の行政に問題がある。
参勤交代や江戸滞在などで莫大な出費を諸藩は強いられた事により、諸藩は重税に苦しみ、
借金の返済の為に飢餓移出が起こった。
資金的にも苦しくそれを捻出する為に商品作物なども行われたり、東北で無理な米作りなどをした結果の失敗も大きい。
これはアジアなどで行われたプランテーションにより、現地で餓死が生まれた構図と同じ。

そもそも国換えとか普請で諸藩の財政を悪化させて領民を間接的に苦しめていたのが幕府なんだよ。

203:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 05:57:34.58 C+U7oCKV0
>202
>ここまで大規模な飢饉が続いたのは江戸時代のみ。
>日本の三大飢饉は全部江戸時代だしな。
>奇跡的に温暖であった時代もあわせてそんなに多くないというのは詭弁である。

同意しかねます。

4大飢饉と一言に言うけど、それ以前に起こった飢饉が記録に残されていないだけ、
という側面は考慮に入れないんですか?

平安時代とかに東北や九州で飢饉が起こったとしても、記録なんか残らないと思いますけど。

江戸期に飢饉が頻発したように見えるのは、政治的に安定していたがために、
きちんと行政が行き届いて記録が残されているからという事情と、
安定した生活が行われていたから不作になって食糧が足りなくなっても
「隣村を襲って皆殺しにして食糧を奪う」的な乱暴な解決策をとれなくなったから
という側面もあるのではないでしょうか。

鎌倉・室町時代などの記録を見ると、農村部における秩序は必ずしも整然としたモノでは
無かったようですから。

>参勤交代や江戸滞在などで莫大な出費を諸藩は強いられた事により、諸藩は重税に苦しみ、
>借金の返済の為に飢餓移出が起こった。
>そもそも国換えとか普請で諸藩の財政を悪化させて領民を間接的に苦しめていたのが幕府なんだよ。

この辺のことは、明治政府が徳川幕府の施策を否定的に宣伝するために流布させたプロパガンダが
明治時代を通じて勢力を保っていたために主流になってしまった認識で、近年の研究の結果からは
逆の事例が多数存在していたことが分かってきています。

『百姓たちの江戸時代』 渡辺尚志
『逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦』宮崎克則

こういった本の中で、「虐げられた百姓」というこれまでの歴史学で言い習わされてきた
概念がかなり覆されつつあるというのが私の認識です。

204:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 06:15:22.13 4gCPzfp+0
>>203
>大飢饉と一言に言うけど、それ以前に起こった飢饉が記録に残されていないだけ、
>という側面は考慮に入れないんですか?
>
>平安時代とかに東北や九州で飢饉が起こったとしても、記録なんか残らないと思いますけど。

「日本三代実録」とかありますよ。あなたは日本を軽視しているのではありませんか?

205:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 06:28:10.36 4gCPzfp+0
>>203
>江戸期に飢饉が頻発したように見えるのは、政治的に安定していたがために、
>きちんと行政が行き届いて記録が残されているからという事情と、
>安定した生活が行われていたから不作になって食糧が足りなくなっても
>「隣村を襲って皆殺しにして食糧を奪う」的な乱暴な解決策をとれなくなったから
>という側面もあるのではないでしょうか。

それにしては、江戸時代の仙台藩の人口統計では飢饉のたびに人口が減り、再生産ができていません。
そして薩摩の場合、江戸時代になぜか人口が激増しています。他の西南諸藩も軒並み増加が見られます。

江戸時代を良いものだったと言い放つ人は大抵、薩摩では搾取が多く人々は虐げられていたと言って貶しますが、
その人たちがよきものと看做す東北地方は人口が激減し、逆に悪いと言い放つ西南諸藩地域は人口が増加しています。


>この辺のことは、明治政府が徳川幕府の施策を否定的に宣伝するために流布させたプロパガンダが
>明治時代を通じて勢力を保っていたために主流になってしまった認識で、近年の研究の結果からは
>逆の事例が多数存在していたことが分かってきています。
>
>『百姓たちの江戸時代』 渡辺尚志
>『逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦』宮崎克則
>
>こういった本の中で、「虐げられた百姓」というこれまでの歴史学で言い習わされてきた
>概念がかなり覆されつつあるというのが私の認識です。

むしろ、これらの本の記述は実際の人口増減に触れられていない、
徳川施策を肯定的に宣伝するために流布させたプロパガンダに思えてならないのです。

特に、彼らと一緒になって「東北地域主義」を主張した人のしでかした、「東日流外三郡誌」問題や「藤村旧石器」問題の発覚に伴い、
「虐げられた明治」という東北地域主義者の言い習わしてきた概念がかなり覆されつつある、というのが私の認識です。

206:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 06:35:14.83 C+U7oCKV0
>204
私が日本を軽視しているかどうかは、どうぞご勝手にご判断下さい。

私は中世以前の社会では、民衆のレベルでの生活環境や飢饉への対応などが
それほど整備されていたとは思えない、という疑義を提出しているだけです。

少なくとも、江戸幕府以上に民衆のことを考えながら政治が行われていたとは
思いにくいと考えています。

207:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 06:47:59.88 4gCPzfp+0
>>206
あなたは平安時代に東北や九州の飢饉の記録なんて残らないと主張し、実際は記録がある。
発言を後から修正し、元からその主張だったと言い直すのは、不公正ですよ。

208:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 06:58:54.85 C+U7oCKV0
>205
>それにしては、江戸時代の仙台藩の人口統計では飢饉のたびに人口が減り、再生産ができていません。
>そして薩摩の場合、江戸時代になぜか人口が激増しています。他の西南諸藩も軒並み増加が見られます。

仙台の人口統計では確かにさほど人口が増えていませんし、薩摩の場合に激増しているのも確かです。
けれども、この両者ともに当時の人口動態の平均からはちょっと外れた傾向を示していますから、
むしろ「なぜ平均と違う結果が出ているのか?」というのを基準にして考えていった方が
良いのではないかと思います。

また、「東北諸藩の人口の伸びが悪い・西国の方が人口が増えている」というにしても、
全国的な平均という尺度を基準にすれば「誤差の範囲」と言いうるもののような気がします。


>徳川施策を肯定的に宣伝するために流布させたプロパガンダに思えてならないのです。

これに関しては、 何とも言いかねます。
上記の著作を読んでみた限りでは、その手のルサンチマンが書き手にあるとは思いにくかったので。

ただ、「虐げられた明治」という東北地域主義者の言い習わしてきた概念がかなり覆されつつある、
という部分に関しては同意見です。

明治政府の諸施策を見ても、ことさらに東北地方を差別的に扱ってきたという部分はむしろ少なく、
相当に気を遣いながら行政を行っているように見えるので。

東北出身者が官界や政界で阻害されることはままあったにしても、それは国家の上層での勢力争いという
限定された局面での話で、国家の政策として東北を痛めつけたり差別をしたりという政策を採っていた
とする見解は、かなりの部分それこそ「ルサンチマン」のなせるワザなのではないかと考えています。

209:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 07:02:30.62 4gCPzfp+0
>>206
>私は中世以前の社会では、民衆のレベルでの生活環境や飢饉への対応などが
>それほど整備されていたとは思えない、という疑義を提出しているだけです。
>
>少なくとも、江戸幕府以上に民衆のことを考えながら政治が行われていたとは
>思いにくいと考えています。

論拠が見えません。あなたの主張した、平安時代の東北や九州の飢饉記録など抹殺されている、という主張は成立していないのに。
結局、江戸時代を偉大だと捏造したいという思い入れしか、あなたの言葉には無いように思います。

あなたの言う明治プロパガンダではなく、あなたの心の中の江戸プロパガンダに問題があるのではないでしょうか。
江戸時代はあなたの思うほど良いものではありませんよ。五街道は大型車両の通行が禁止され、舟も大型船が作れず技術の退化すら発生した。
この困窮社会を、「足るを知る質実剛健主義! ああなんて素晴らしい!」と言い換えることこそが、悪質なプロパガンダと思います。

210:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 07:10:34.00 C+U7oCKV0
>209
>五街道は大型車両の通行が禁止され、舟も大型船が作れず技術の退化すら発生した。

これらの施策はもっぱら内乱の発生を抑止したり、急激な社会変動による統治システムの変化を
嫌ったがためのモノであったろうと考えています。

トータルで見て、二百年以上に及ぶ「戦乱のない時代」を現出せしめた功績の方に
私ならば軍配を上げます。

211:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 07:51:08.80 S6wiJ3PsO
戦乱が起こってなけりゃそれでいいってもんじゃないだろ。
アフガン・イラクで交戦中のアメリカと北朝鮮、どちらに住みたいかって話だ。

戦乱がなかろうが、領民は、飢餓だの疫病だの斬り捨て御免だの政治の責任で
戦乱期以上に苦しみ悶えボロボロ死に続けていた。それが江戸時代。

212:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 08:12:59.22 C+U7oCKV0
>飢餓だの疫病

戦乱が起こっている状態でこんなことになったら、その被害は桁違いのモノになるとは思わないか?
気候が寒冷化していたというのなら、飢饉が起こること自体は避け得なかったわけだし。

>斬り捨て御免

時代劇の見過ぎです。
詳しくはWikiで「切捨御免」の項を参照して下さい。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

むやみやたらと無礼討ちをしようものなら、斬首された上にお家断絶も
覚悟しなけりゃならないような制度ですよ。
切り捨て御免が実際に行われた事例は、かなり少ないと考えられているようです。

213:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 12:59:45.11 +jCc56//O
人権ボーイの論理破綻が恥ずかしい。

214:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 13:23:07.91 U+YUyid+0
うむ。やはり薩長は悪!幕府は正義!
この考え方に変わりはない。

215:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 13:54:34.82 9aZJIvMO0
>>199
話それるけど北九州の餓死事件はウラが胡散臭い。
「男性は持ち家に暮らしていたし、同じ同和部落内に家族が生活していた」という謎の背景もある。
市が生活保護を打ち切ったのは不正受給を疑って強硬手段にでた側面もあるよ。あのへん工藤会の組員だらけだし。

216:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 14:31:42.86 emupeT000
斬り捨て御免って教科書にも載ってるのか?

217:194
11/09/18 17:50:43.28 4T/efTme0
>>200
>「小さな政府」を目指して行政や軍事をスリム化し、行政コストを民間の自治を
>活用することで外注化していたような統治機構
小さな政府というのは福祉や経済部門であって軍事部門の役割も放棄してい
ませんよ。それに、鎖国という強い貿易統制を強いている幕府を小さな政府とい
うのは無理があると思います。

>むしろ、何千キロも離れた国から海を越えて軍事力を搭載した外国が
>攻めてくるような事態を想定していなかったから。
ラクスマンが来寇した時に松平定信が「江戸湾に侵入されたら永代橋まで突破される」と
認識してますけど、結局ペリーが来寇するまで半世紀以上効果的な政策はとられません
でしたねえ。


>このどちらの軍事行動も、軍事の前にまず政治で敗北してたと言っても良いからなぁ
長州征討では幕府歩兵隊単体の兵数でも長州藩を数倍上回り、さらに諸藩兵も動員できている
のですから、敗北の原因を政治的失敗に求めるよりそれぞれの軍の近代化の深化に求めた方が
自然だと思います。
鳥羽伏見の戦いに於いても新政府の構成員の多数派は親慶喜派で、討幕派が新政府の主導権を
握ったのは1月3日の戦闘に幕府軍が敗北した報が届いた後ですし。

218:194
11/09/18 18:05:22.58 4T/efTme0
>>210
>トータルで見て、二百年以上に及ぶ「戦乱のない時代」を現出せしめた功績の方に
>私ならば軍配を上げます。
欧州ではその戦争を梃に軍事技術の進化や行政、財政の合理化効率化が進みましたから
戦乱の有無は一長一短ですね。
幕府に於いても天保改革が失敗し慶応改革がそれなりに成功したのは、長州征討が
あったからですし。
文化面においてもルネサンスや東山文化のように戦乱の時代でも花開く事もありますから。
個人的には歌川広重は好きですね。


219:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 19:20:06.15 C+U7oCKV0
>217
>小さな政府というのは福祉や経済部門であって軍事部門の役割も放棄していませんよ。

実際問題、外敵が攻めてくるということが全くない状態が長年続いていましたから、
建前上は軍事の看板を下げていなくとも実質的にはなんら軍事的な備えをせずに
そこにかかる経費を節約していました。

外敵に備えるのであれば本格的に必要とされるはずの各地の湊を守るための砲台や
軍船といった軍事施設・軍事組織が必要とされますが、そんなところにかける経費は
無いとばかりにまったく予算を計上しようともしなかったし、そういう組織を作ろう
という機運もありませんでした。

>鎖国という強い貿易統制を強いている幕府を小さな政府というのは無理があると思います。

貿易の窓口を小さくすることと、行政コストをあまりかけない「小さな政府」というのは
別段両立し得ないことでもないと思いますが。


>松平定信が「江戸湾に侵入されたら永代橋まで突破される」と 認識してますけど

そういう認識を持った個々の政治家や官僚はいたとしても、組織としてまた国家として
そういう事態に備えようということはありませんでした。

かつての地震の例があるからと三陸海岸に15メートル超クラスの堤防を築く必要が
あると認識した政治家はいましたけど、現実的な「予算」という壁の前に断念する
という事例もありますよね。

また、関東大震災の例を元に、再度の震災の発生を懸念する人々もいますが、
東京への一極集中や高層ビルのむやみやたらな建設に歯止めをかけようという
現実的な動きにはなかなか結びつきません。

当時の幕閣が外敵の侵攻を「想定外」として棚上げしていたのも、実際問題として
手の付けようもなかったからという面があっただろうと思います。

220:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 19:31:54.21 C+U7oCKV0
>217
>長州征討では幕府歩兵隊単体の兵数でも長州藩を数倍上回り、

幕府歩兵の人数はそこまで多くはなかったと思いますが。


>さらに諸藩兵も動員できている

ほとんどの藩は「金もないしやる気もない」という状態で、まともに戦う気を
持っていた藩はごく少数。
軍事組織として統一が取れているわけでもなく、てんでんばらばらな指揮系統ですから、
そういう藩を動員するハメになったこと自体が政治的な敗北です。

なにしろ大阪に滞留しているだけで幕府の年間予算の何割かを食いつぶしましたから。


>敗北の原因を政治的失敗に求めるよりそれぞれの軍の近代化の深化に求めた方が自然だと思います。

幕府軍・諸藩兵の近代化がなっていなかったことに大きな原因があることは承知していますが、
あの時点での長州征伐が政治的にも大失敗だったということも敗北の原因だと考えています。


>鳥羽伏見の戦いに於いても新政府の構成員の多数派は親慶喜派で、
>討幕派が新政府の主導権を握ったのは1月3日の戦闘に幕府軍が敗北した報が届いた後ですし。

ですから、あの局面では軍事的に攻め上るよりも大阪で事態が有利になるのをゆっくりと
待っていることが政治的な勝利への道であり、鳥羽伏見に軍を勧めたこと自体が
政治的な失敗だったと申し上げております。

勝っていれば良かった、というのは結果論の話で、そういう一か八かの選択に出てしまった
こと自体が政治的な失敗です。

221:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 19:33:44.30 2VlnCEMz0
>>203
それ以前にも飢饉は存在しますが規模が違います。
また江戸時代の飢饉はただの気候変動などよりも、行政のミスにより起こったものです。
また飢饉の記録は存在します。養和や寛喜の飢饉などは有名です。
それぞれ方丈記や吾妻鏡などに記録がのこっております。
最もこれらの飢饉は天候不順や異常気象などで、江戸時代にように構造的に飢饉を生んだわけではありません。

>近年の研究の結果からは逆の事例が多数存在していたことが分かってきています。

一部の事例を曲解しているだけですね、お話になりません。
江戸時代以上に地方が搾取された時代はありませんので。
江戸滞在費と参勤交代の費用は遠方に住む外様諸藩では藩の出費の半分以上を占める莫大なものでした。
これらの出費は全ての諸藩に重くのしかかっており、その負担は諸藩の民が背負う事になっております。
そういう構造を押し付けて、幕府の政策に問題がなかったは無理がありますよ。
江戸幕府とは、諸藩を締め付けて、日本全体の歩みを止めることで、太平を作ったのですから。
反乱が起きないように力を常にそぎ、その結果が地方の餓死ですよ。

特に江戸や街道筋は物価が高く、それらで強制的に消費させられますので、
地方の富が都市部や街道筋に吸収される事になりました。
街道や大型船の事にも触れておられる人がいますが、
それにより、輸送コストも跳ね上がり、移動するためのコストも非常に高くなってしまったからです。
意図的に川から橋を除いたケースも少なくなく、当然大変な事になりました。

それまでは良くも悪くも地産地消で、一部の物意外は現地でなんとかなっていました。
ですが江戸時代は江戸や街道筋を消費をされ、当然それらは生産地ではないため、
輸送が必要、そして輸送の邪魔をしていたのが幕府の御政道というわけです。

222:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 19:54:14.74 C+U7oCKV0
>218
>欧州ではその戦争を梃に軍事技術の進化や行政、財政の合理化効率化が進みましたから
>戦乱の有無は一長一短ですね。

それは戦争に勝って自国が壊滅的な被害を被ることを免れた側にのみ言えることで、
実際に蹂躙されて国土を踏み荒らされた国の住人にとっては、あまり聞き入れられる
内容のことではないと思います。

戦後の高度成長期には戦争中に軍の機構に携わっていた人々が民間に移ってきて
その技術を活用したおかげで発展した産業などもありましたが、だからといって
「あの戦争」をやって良かったと考える人がほとんどいないという事例もありますし。

欧州での軍事技術や行政・財政の合理化効率化をちゃっかりと身につけて強大な国家を
作り上げた大日本帝国という事例もありますので、「200年間の平和な時代は、
全くの無為な時間だった」という意見対して、私は首肯できません。

江戸期の日本が、相応に合理化や効率化を推し進めて国民に豊かな生活をさせられる
国家であったという様々な例証は数多く上がっていますし、進歩したという欧州諸国が
自国民に幸福な生活を約束し得ていたかというと必ずしもそうでない部分もありますから。

また、軍事技術を身につけた彼等がアジア・アフリカ・南米で行った数々の非道を
考えるにつけ、欧州での「進歩」というのが無条件に賛美されるべきものなのかどうか
という視点も必要とされるものなのでないでしょうか。


>幕府に於いても天保改革が失敗し慶応改革がそれなりに成功したのは、長州征討があったから

これに関しては、同意します。
明治維新にしても、戊辰戦争という形での流血の事態がなかったならばあそこまで上手く改革が
進むことはなかっただろうとも思っていますから。

日本は近代を成し遂げた国家としては例外的なくらいに「流した国民の血」が少ない国ですが、
そういう利口な立ち回りが可能だったのも、江戸期が相応の時間をかけて育んだ優秀な国民と
指導者とに恵まれたからだと考えています。


>文化面においてもルネサンスや東山文化のように戦乱の時代でも花開く事もありますから。

「戦乱の時代に文化が花開いた」というのと、「文化が花開くには戦乱が必要」というのとは
イコールではないですよね。

江戸期にも元禄文化や化政文化といった文化が花開いておりますので、戦乱が必要という
ことではないのではないでしょうか。

戦乱に巻き込まれていつ殺されるか分からないような国にいるよりも、殺されるような
事態がそうそう起きない国に住む方がおそらくは幸せであろうという考えのもとに、
「軍配を上げる」と申し述べました。

223:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 20:12:35.08 C+U7oCKV0
>221
>それ以前にも飢饉は存在しますが規模が違います。
>また飢饉の記録は存在します。養和や寛喜の飢饉などは有名です。
>それぞれ方丈記や吾妻鏡などに記録がのこっております。

では、具体的な飢饉による死者の規模の違いを提示して下さい。
また、ご指摘頂いた飢饉の記録も、西日本から中四国の記録が主で、
九州や東北地方の記録は少ないようですが。


>江戸時代の飢饉はただの気候変動などよりも、行政のミスにより起こったものです。

これは否定しません。
幕府は中央集権的に強大な権力を持った政権ではなく、地方のことはそこの領主に
相当の権限を許す体制だったので、無能な領主の元では不必要に甚大な被害が
発生したことは否めません。


>江戸滞在費と参勤交代の費用は遠方に住む外様諸藩では藩の出費の半分以上を占める莫大なものでした。
>これらの出費は全ての諸藩に重くのしかかっており、その負担は諸藩の民が背負う事になっております。

何度も言うように江戸時代というのは全期間を通じて武士の経済的な余裕が失われて行き、
農民・町民・商人たちにその富が移っていった時代なのです。

武士の財政が苦しくなっていったからには、地方の農民達から過酷な収奪をしていたに
違いないとお考えのようですが、実際にはそのような傍若無人な行政を行っていると
幕府の側から叱責を被ったり、領民が他領に逃げてしまって非耕作地が広がって
年貢収入が減ってしまい、なおのこと武士が貧乏になるという構造が存在していました。


>輸送コストも跳ね上がり、移動するためのコストも非常に高くなってしまったからです。
>それまでは良くも悪くも地産地消で、一部の物意外は現地でなんとかなっていました。

つまり、それらの輸送コストが掛かるということはその輸送に携わる膨大な雇用が存在した
ということでもあり、地産地消をせずに都市や街道に物産を輸送することで利益を上げられる
くらいに商品経済や貨幣経済が発達していったということでもあります。

どちらも支配階級である武士の側に有利な事柄ではなく、底辺の庶民や農民にとって
ありがたみのある事柄だったように思います。

224:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 20:43:33.11 2VlnCEMz0
>>208
>また、「東北諸藩の人口の伸びが悪い・西国の方が人口が増えている」というにしても、

正しくは東北では微減、北関東では激減、西国で増加。
で、日本全部でみると人口が停滞していたのが江戸中期以降です。
そして明治になると数十年で人口は倍増します。気候は寒冷のままです。
江戸幕府の統治に問題があるだけですよ。
結果的にはいかにして民を苦しめるかという時代だったのです。

>>212
寒冷期で戦乱が起こるのはむしろ普通です。そしてだからといって、
寒冷期で人口が伸びないわけじゃないのです。
戦国時代は寒冷期でしたし、戦争が起こっていたわけですが、人口は増えてます。

>>210
日本社会を停滞させることで安定といわれましても。
ただたんに貴方幕府の政策ならなんでも賛美するだけじゃないんですか?
日本が列強から、辺境の小国になってしまったのはこういう「規制」により、
社会の発展が阻害されたからなんですが?

225:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 21:09:01.85 C+U7oCKV0
>224
>日本全部でみると人口が停滞していたのが江戸中期以降です。

その当時の日本で養いうる人口の上限がそのあたりだったということでしょう。


>そして明治になると数十年で人口は倍増します。

明治になって人口が極端に増えていったのは、医療の発達と戦端的な技術の導入が
速やかに行われていった結果だと考えておりますが、あの当時の西欧列強の
植民地化政策を免れ得たのは徳川幕府の統治が盤石であったことに
その原因を求められると思います。

欧米から与えられる技術に魅せられてその侵入を容易に許した国々が、
さんざんな目に遭ってきたのは近代のアジア史を調べてみれば容易に先例が
見つかりますし、幕末の過程においても薩英戦争や戊辰戦争の過程で日本人が
相応の軍事力を持っていることを諸外国認識させたからこそ列強につけいる隙を
与えなかったのです。

そういう環境を形作り、調えてきた幕府の施策に対して、私は評価すべき事柄は
多々あると感じております。


>日本が列強から、辺境の小国になってしまった

現在の日本も戦前の列強の一角から憲法で軍事力を縛られた小国に成り下がりましたが、
60年間の平和を守って経済的な大国にのし上がりました。

豊臣秀吉が行った朝鮮出兵に象徴されるように、対外的な武力行使は失敗したときに
かなり大きな痛手を負うことになります。

日本は、戦国期には世界に存在する銃の総数のウチ、かなりの割合を自国で持つに
いたる強大な国家でしたが、あえて外国に侵攻するような武力を封印して、
「元和偃武」を成し遂げたました。

江戸期の日本も当時の世界の中で100万の人口を持つ大都市「江戸」を抱え、
三千万という人口を安定して抱える地域大国では有り続けました。
これは当時のヨーロッパのどの国よりも大きな人口ですし、同時期のヨーロッパで
100万もの人口を抱える都市は数えるほどです。
こういう実績にもきちんと目を向けるべきなのではないでしょうか。

226:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 21:10:36.80 j8dTM+VP0
外敵が来て、攘夷できないから幕藩体制が滅んだんだから。
外敵が存在なかった日本では、国民国家を作り出す基盤があっても中々起きないのは当然。
西洋列強は外敵との争いから、国家が上下左右一致して外敵に当れる統一国家・国民国家を作る必要に迫られたんで。

227:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 21:18:33.32 2VlnCEMz0
>>222
戦争をしない代わりに、戦争よりも飢餓で殺していたら同じ事でしょう。
江戸幕府はそういう政府だったのですよ、
戦国時代以前や明治以降は、米が足らないなら他所から奪う、生産力を増加する、
様々な方法で量を増やすようにします。
ですけど江戸時代とは、量を増やすのではなくて節約というか我慢する時代なのですよ。
行政機構を刷新すると古くからの伝統が崩れ社会が不安定になるのでやらない。
生産力の増加は力をつけてくる奴等がいるので制限する。
他所から奪うのも行わない、他所から奪う為に力をつける事もしない。
軍は官僚機構にはや代わりと。
既得権益を守る事しかやらないから、どうしても社会は発展性を失う。
パイをどんなに上手く分けるか、ではなくてパイを増やす事が必要なのです。

>>223
俗にいう享保、天明や天保の大飢饉になると数十万から一説には100万にも達する規模といわれてますね。
それも江戸時代の飢饉は50年に一度というペースで起こっており、こんな頻発したのは江戸時代だけです。
(数万人規模の飢饉もあわせれば10年に一回くらいのペースです)
そして飢饉として主なのが東北や九州でないから、というだけの話です。

>無能な領主の元では不必要に甚大な被害が発生したことは否めません。

違います、幕藩体制に根本的な問題があるんですよ。
どうやって江戸滞在費や参勤交代費用を捻出するのですか?
商品作物や米の売買以外で捻出しないと、構造的に飢餓移出が発生するわけですが?
ちなみに参勤交代とか無駄ですよね?これなんの得にもなってない。

228:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 21:35:55.28 2VlnCEMz0
>年貢収入が減ってしまい、なおのこと武士が貧乏になるという構造が存在していました。

だから実際そうなっていたじゃないですか。何を言っているんですか。
東北北関東の人口減はこれが原因です。
富など移りはしませんでした、ただ皆が貧しくなったのが江戸時代なのですよ。
貴方の指摘した構造のとおりにみなが貧しくなっていったのです。
それを人返し令とかで強引に戻そうとしても上手くいくわけがないのです。
さらにいうと、そうやって都市部に出てきた者たちは、丁稚奉公などでこき使われて、
大半は子供も残せず死にます。疫病なども大流行ですし、衛生観念などろくにない時代ですから、
ばたばたと死にます。歴史人口学ではこの時期の都市を蟻地獄と読んでいる人もいるくらいです。
既得権益をもった一握りの特権階級は豊かだったでしょうが、そんなのごく一部ですよ。

>地産地消をせずに都市や街道に物産を輸送することで利益を上げられる

地方の富が都市部に移るだけですが?武士が地方で消費活動をすれば地方は潤いますが、
都市部で消費しても地方はうまみがないです。
また輸送コストというのは時間的なロスだけでなく、物質的にもロスします。
難破率が高く商品を安定的に供給できません。小さい船のほうが積載量も小さいので、
その分船も人員が多くかかるのにです。

>どちらも支配階級である武士の側に有利な事柄ではなく、底辺の庶民や農民にとって

武士は重税という形でそれを回収します。よって庶民も苦しくなります。
公務員が高コストの仕事をすることで、確かに潤っている人達もいるでしょう。
けどそれって最終的に税金でまかなっている事を忘れている人が多すぎですね。

苦しい藩では税率だけでなく、税の対象まで広げ、検地も頻繁に行い。民から富を収奪しました。
けど諸藩も好きで苦しめているわけじゃありません、全て幕藩体制という精度が悪いのです。

229:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/18 22:00:31.50 C+U7oCKV0
>227
>戦争をしない代わりに、戦争よりも飢餓で殺していたら同じ事でしょう。

戦争で死んでいた人数よりも、幕府統治下の平安のもとで飢饉で死んだ人数の方が
確実に多いという根拠はどこにあるのでしょう。

戦乱の最中にでも飢饉というのは起こりうるものだと思いますが。
寒冷化に由来するものならばなおのこと。
寒冷化で生じた飢饉の最中に戦乱が起こるよりも、安定した社会での飢饉の方が
混乱が少なくて済む分だけ死者は少なくて済みそうなものですが。


>戦国時代以前や明治以降は、米が足らないなら他所から奪う、生産力を増加する、
>様々な方法で量を増やすようにします。

戦国期を通じて日本の人口は一千万人台の半ばくらいです。
江戸期に入って三千万くらいに倍増して、そのあとはこの数値で頭打ちになり
微増や微減を繰り返しながら幕末になります。

江戸期にも新田の開発や特産品の奨励など、生産力を増加するという作業は行われており、
その上での限界が三千万くらいというラインだったんです。


>他所から奪うのも行わない、他所から奪う為に力をつける事もしない。

これはむしろ賞賛されるべきことだと思うのですが。
他所から奪うことを作業に伴う非生産的な労力を払うのはトータルで損だと
判断したわけでしょう。
とりわけ日本は島国で、他所から奪って持ってくることに関するコストは
バカ高かったわけですから。
地産地消でいいじゃないですか。


>軍は官僚機構にはや代わりと。

これも賞賛されるべきことでしょう。
治安が安定していて、外敵が攻めてこない状態だったら軍なんて無用の長物。
それを上手く国内向けの官僚組織へと脱皮させたのは英断だと思います。


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