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問題の『マッカーサー回顧録』と藤田尚徳『侍従長の回想』については、ID: 2KJ207wK0が
詳しく解説しているので一部だけ補足を。まず、『マッカーサー回顧録』は療養中だったにもかかわらず
日露戦争の観戦記が記されていたり、裏付けがないまま昭和天皇が連合軍の戦犯リストに挙げられていたという
記述があるなど、歴史研究家の間では信憑性が問題視されているもの。史料批判を踏まえて用いるべきもので、
そっくりそのまま史実として信じてはいけないというのが前提。
くだんの昭和天皇・マッカーサー会談については、後に明らかになったアチソンが国務省あてに発した
極秘電報(会談の一ヶ月後にマッカーサーがアチソンに語り、それをメモした内容が元になってる)によって
語られた内容が分かった。ポイントは二つあり、「開戦通告前に真珠湾を攻撃したのは、まったく自分の意図ではなく、
東條のトリックにかけられたから」という釈明と「それがゆえに責任を回避しようとするつもりはない。
天皇は日本国民の指導者として、臣民のとったあらゆる行動に責任を持つつもりだ」という二点。
前者は東京裁判との関係や、天皇が臣下を批判することは好ましくないとして長らく伏せられていた。
それ故、後者のみが一人歩きをして尾ひれが付いて(その尾ひれはマッカーサーや藤田らが付けた)、
問題の多い前者(東条への言及)は語られることはなかった。しかし、アチソン発国務省あて極秘電報の
存在や、開戦をめぐるクルックホーン記者との会見、英国王室宛の親書、木戸幸一日記による天皇を守るために
「みな東条に押しつけて」という記述などによって、天皇と宮内側近らがどの様に考え、どんな行動を採ったのか、
その全体像が見えてくる。反東条だった東久邇宮などはあからさまに「全て東条の責任にしてしまえ」と言った。
古川隆久が著した「昭和天皇」では、宮中と軍部との対立が戦前から顕著化していた事実を豊富な史料を元に
示しているが、昭和天皇と宮内側近らが対立する中で軍部に引きずられて開戦を余儀なくされたという、
苦渋の思いを吐露したとしても不思議はなく、寧ろマッカーサー会談での東条に対する批判こそ、昭和天皇の
偽らざる思いであったと受け取った方が整合性がある。