11/11/01 18:50:42.07 gs9uEDmk0
>>815
薩英戦争の始末に関しても、薩摩は馬関戦争の講和条件のように償金の性格を曖昧にしたり、
鹿児島への寄港を容認したり、
砲台撤去などと言う一地域の武装解除に等しい条件には一切応じていない
(一方、高杉の講和交渉ではこれらをあっさり認めてしまったため、
オールコックは「償金は賠償金である」として多額の請求を吹っ掛け、下関の自由港化を迫ることになった)
とんでもない講和条件に幕閣は長州に激怒したが、ここで幕府が目を付けたのが四カ国の英国以外の3か国。
蘭仏米は問題に深入りするのを避けたがっており、海峡の安全と戦費の保証で充分と言う立場だった
幕府はここを執拗に突くことでオールコックの要求に対する他国の不同意を引出し、
「懲罰権は大君政府にある=列強が長州に勝手に報復を行うことを禁ずる」
「償金の性格は友好のために支払うもの=損害賠償的性格を否定=支払延滞の場合のペナルティ義務化が明文化されず」
と言う恐ろしく有利な条件で纏めてる。実際、幕府は1回支払を延期したが何もクレームがついていない
長州と幕府の外交能力はこの一事を取っても歴然としている。