爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話4at HISTORY2
爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話4 - 暇つぶし2ch2:やや
10/09/12 23:25:33 QgM+hyPU0
2げと?

3:携帯からカキコ
10/09/12 23:36:13 ehdVx1R3O
広島城の駐屯地に兵隊として勤務してたじいちゃんの話。

昭和20年6月下旬に山で炭を焼いてこいとの命令を受けて、
10名程の隊員と馬一頭で県北の吉田の山に行った。
着いた山の中は宿舎なんぞあるわけもなく、雨風をしのげるものもない。
まずは木を切り倒して、それを元に簡易宿舎を造ることから始めたそうな。
で8月6日の朝。ようやく炭ができて確認のため、
窯をフタをしていた土を取り除く作業中に遠くで爆発による雲が上がったそうだ。
その時は三次の飛行場の燃料タンクがやられたのだと思ったそうだ。
10時に広島城の本部と定例の無線通信を試みたが応答なし。
10時の次は15時だ。しかし応答がない。
なにかおかしいということで隊長が馬に乗って下山し、様子を見てくることになった。
2日後、隊長が戻って来た。
全員下山して本部に戻ることになった。鉄道は運行していたそうだ。
民間人は広島駅には降りられず、一駅前の矢賀で降ろされたらしい。
じいちゃんたちは軍属なので広島駅へ着いた。それが8月9日の晩のこと。
建物がなくなってるので駅から宇品の海が見える状態だったそうだ。
そこから徒歩で浅野庭園の脇を通り、本部に戻った。
その場には軍属がいたそうだ。原爆が落ちた時はたまたま出張中であり、九死に一生を得たようでした。
その日はそこに泊まることになったが建物は吹き飛んで仕舞っているので野宿したそうだ。
転がっていた便所の踏み板を枕にして寝たそうだ。
翌朝から片付け作業開始。辺りを歩いているとまだ建っている建物(鉄筋コンクリ?)があり、
中を覗くと部屋の中央に人骨の山ができていたそうだ。
それらは日光を浴びキラキラ光っていたらしい。
熱線を避けるため、窓から離れた部屋中央に人々が集まってきて亡くなったのではないかと
じいちゃんは推測している。
広島城の堀にも死体が浮かんでおり、回収して福屋の一階に運んだとのこと。
またある時は、アズキを見つけたこともあった。
上部は黒焦げになっていたが、すくってみると下の方は問題なさそうだったので
赤飯を作って食ったらしい(現在の感覚からすると考えられないことだが)。でそのおかげで下痢が治ったらしい。
そんなこんなで3週間程広島で勤務した後、命令で岡山に転勤になったとのこと。
その時に検査を受けたら白血球の数が通常の半分にまで減っていたそうだ。
じいちゃんは今も存命です。ガンにも白血病にもなったことがないです。
ただしかなりの数の同僚が体調を崩したり病気で早くに亡くなっているそうです。
直撃を避けられたこと、3週間程で転勤することができたのが大きいと言ってたおります。

4:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/13 13:59:04 6zJ8UNZqP
もうログは戻らないのか

5:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/14 03:46:47 PSuCQd5nO
豚骨ラーメンおいしかですよ。紅ショウガがうまか!!
おいは具は焼き豚と海苔とキクラゲが好きよ。
薬味はネギと紅ショウガね。
マジうまかさ。スープのたまらんもん。あんにおいがよかね!
ああ~また食いたくなってきた~。
明日も食うけん!!

6:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/14 21:59:04 jC6NDJko0
スレ違いかもしれませんが、ちくとお聞きしたいことがあるので、どなたかご存じならお教え下さい。

親戚の家で見た先祖の古写真の中に、椅子に座った人物が写っている写真があり(スタジオで撮影したもの)
その人が腹部のあたりで、床に立てた刀の柄しきものを握ってました。
明治31年に撮影したと書いてあったんですが、そのころ日本刀をこれ見よがしに持って撮影することは一般的だったんでしょうか。
もしくは、写真撮影用の椅子には、肘掛けの部分に取っ手みたいなものがついてたなんて話はないですよね。


7:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/15 01:06:13 cW79LpMT0
軍人、特に将校なら軍刀を持って写真撮影するのは普通ですね。
あと退役軍人が刀を持って撮影するのも普通。それと警察官も帯刀してました。

廃刀令というのは、刀を腰に差して歩いたり、刀を戸外で抜くのを禁止したのであって
もちろん所有は禁止していません。写真撮影の時に先祖伝来の刀を持って
写っても別に違法じゃないし、ありえる事ですよ。
都会では余り一般的な習慣ではないですが、地方の士族なら十分あるでしょうね。
うちにも5振りの刀があったそうですが、戦争中の金属供出で出してしまいました

8:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/15 22:31:23 UzNpaxdm0
>>7
ありがとうございます!
軍人や警官ではないですが、武士の次男坊が安政年間に商家に養子に入ったそうです。ただ、商人になったのに武家の長女を娶ったりと
何かしら士族に対する未練があったのかもしれません。さすがに刀は道中差しでしょうが。ちなみに群馬ですので、地方ですね。

ご回答ありがとうございました。


9:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/17 03:02:54 TAXw8qtIO
憲兵の文句はよく聞きました。
もう他界して15年になりますが、
私が幼い頃、おやつの時間にお菓子を食べ、残りをしまおうとすると、
「昔は憲兵に見つからないようにいろんなとこに隠したねぇ」
と話してました。
当時は何の事かよく解りませんでした。

今でもちと半信半疑な面はありますが、
それぐらい煙たい存在だったみたいです。
ちなみに風呂では軍歌を歌いまくってました(笑)
兵隊さんのおかげです~♪
月月火水木金金~♪

10:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/18 09:07:35 CCy44Ajn0
爺さんが「憲兵がいなくなっただけでも、日本は戦争に負けて良かった」と言ってたなあ。
道歩いている普通の人に、憲兵がインネン付けてボコボコにぶん殴っても
殴られた人も周囲も何も出来ない、魔王のような存在だったらしい。
戦後米軍がやって来て憲兵の悪行を訴えても、米軍は米軍の感覚で
「警察があるのに、MPがなぜそんな事するのか?」という感じでピンと来てなかったらしく、
国内の憲兵で罰せられた人はほぼ皆無だったってさ。
「戦場のメリークリスマス」みたいに国外にいた憲兵は戦犯でガンガン処刑されたのに
日本人を迫害した憲兵は無罪って、連合軍にすれば当然なんだろうけど、どうなんだろうね。

11:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/18 10:33:19 imV6PeeQO
馬鹿な質問で申し訳ないですが憲兵と警察、憲兵と普通の兵隊はどう違うんですか
憲兵といわれてもピンとこないもので…

12:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 11:31:41 yUfSP3lH0
 憲兵ってのは軍隊の警察だ、ミリタリーポリスだ、軍事裁判所直轄だ。またその警察ん中にもお巡りどもを見張るやつらがいる。
閑話だが戦前の特高てのは特別高等警察とかなんとかいって国民の思想統制と規律維持に大活躍した。
とりわけ坂口安吾だの織田作之助だの無頼派などは相当怖かったろうと思う。拷問、詰問、えん罪ゴリ押しなんざヤツらの最も得意とするところだ。
 ちなみに明治のそのへんの普通の巡査だって「オイコラ」だの「貴様」だのと四民に声がけするのは茶飯事、問答無用の居丈高で所謂権力の犬ってやつだ。
「止まりなさい」「左に寄せてください」なんて現代のお巡りが丁寧になったのは至極最近の話しでそういう伝統は平成の未だに根強いと思うぞ。

13:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 11:45:02 nW4L+UKO0
>>12
人を呼び止める「おい」、相手を指して言う「貴様」は別に見下して高圧的に言った言葉では無く、
現代で言う「ちょっと」や「すいません」、「あなた」や「おたく」に対応する言葉。

14:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 11:49:18 yUfSP3lH0
 現代のお巡りが同様ならどう思うか?

15:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 11:53:21 nW4L+UKO0
当時と同じく、日常的な男性言葉として使われてるならどうも思わないだろう。

16:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 12:04:53 yUfSP3lH0
 警察傀儡さん、擁護よして。

17:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 12:17:49 nW4L+UKO0
擁護もしないし、不当に貶めもしてない。

18:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 12:31:31 yUfSP3lH0
 当時の普遍的な呼称だったって?まあおどれがそう言うならそうかもな。
明治に生きて、後世に伝える何かを持ってるなら認めますつか擁護します。
警察内の言い訳言い逃れ的な言説なら容赦はしません。
どうよ、お巡りさん。

19:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 13:48:54 nW4L+UKO0
安易に○○認定するのはやめてもらえますか。
自分のレスに対して反論的なレスがあると「おどれ」とか.....
お国が知れますよ。

20:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 16:37:05 AFEE+5pO0
てか昔の警官は元侍で町人に対する対応が抜けきらないのは仕方ないっちゃ仕方ないと思うけどね

21:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 17:57:15 yUfSP3lH0
「オイコラ」と同様に呼んでみた多だけだが。

22:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 18:20:31 vI9TQxPU0
>>21
一般的に使われてない現代では、それは失礼というもの。
貴様と言う言葉は「おどれ(おのれの訛り)」と同じく、昔は自分と対等かそれに近いと認めた相手に使われた。
現代の感覚で当時の言葉やその使い方をみるとおかしなことになる。

23:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 20:11:11 DABW0DZC0
放棄

24:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/19 20:50:35 AFEE+5pO0
自分と同等か目下に対して使う何々君の君は昔は丁寧語だったもんね。
国会でよく見られる「○○く~ん」はその名残

25:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/20 21:08:15 9abiU3Na0
昭和20年の敗戦から、昭和25年の朝鮮戦争までの食料不足の酷さはよく聞いたなあ
食料事情は戦争中より戦後の方が悪化したって。

金があっても米が買えなくて、餓死者も出ていたんだから
今の北朝鮮みたいな感じなんだろうな

26:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/20 21:30:14 j8oJx77hO
餓死者が何十万~何万人出ていたなんて二十代の自分には信じられない
戦前生まれの人から見ても戦前の日本と今の日本が同じ国とは思えないんじゃないかな
それに戦後しばらくは遊郭とかまだあったんだよなぁ

27:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/21 17:13:40 DMKpwppP0
戦前もそれなりに豊かだったのにな。あの戦争のせいで高度成長期が20年は遅れた。


28:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/22 19:49:56 jgc6ngoTO
戦前は飢饉の時とか大変みたいだったけど貧困家庭と金持ち家庭の格差は現在と変わらんし、今より戦前の方がゆったりした部分もあったと思う。
急激な人口増加は江戸以降だが戦前は今ほど人口が増えすぎでもなく、今でいう薬中の太宰みたいなハチャメチャな作家がいたりね。
時間の流れも今よりゆったりしていそうだ。

戦前暗黒論者は人権がどうこう言うけど、障害者差別とか差別はなくならず今もあるのに
表面だけ差別用語云々の言葉狩りとか、過剰に人権人権いっている現代の方が窮屈な部分がある

29:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/23 21:27:35 WP0klgP50
つい最近までレストランでもバスでも白人専用黒人専用と席が分かれてた国が
世界の盟主きどりだもんな

30:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/25 11:49:16 ZUU7i1On0
今回の中国人船長の釈放で、日本の外交はペリーの時代に逆戻りだな。
「恫喝されたら譲歩する」って、徳川幕府の末期じゃないか。

ペリーに恫喝されて屈した日本が、やっと外交的独立を果たすまで
日露戦争勝利まで50年以上掛かったけど、
これからの日本は堕ちていく一方だな。この国はもうダメだわ。

31:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/06 14:47:02 jgbyCRkH0
大叔父から「満州でシナ人の首を日本刀でばっさばっさと斬ってたんだぞ」と
自慢されたことがある。子供の頃なんであまり詳細は覚えていないのと
その話を大叔父が始めると他の大人がたしなめてたんでどういう状況だった
のかは分からない

特高だった祖父から父が聞いた祖父の同僚の話
経済学を学んでる学生がどうもアカらしい、とその学生の下宿に検挙に
向かった同僚は、本棚にマルサスの本があるのを見つけ
「マルクス読んでる貴様はやっぱりアカだろう!」と
その学生を引っ張ってきて取り調べ(という名の拷問)をしたそうだ
学生が「経済やってるなら誰でもマルサスは読む」といくら説明しても
まったく取り合わなかったとか
残念ながら自分が生まれる前に祖父は亡くなったので他に特高の話は知らん

32:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/07 09:36:44 QNQAyB+B0
うちの爺さんの終戦時は鹿児島の基地で特攻隊としてスタンバイ中
玉音放送聞いて、飛行停止命令が出たけど、命令無視して発進して
桜島に飛び込んだり、海に突っ込んだりするのが相次いだが、
隊長は止めなかったってさ。止めなかった隊長は後に激しく批判されたけど、
あの時の状況じゃ無理もなかった、後の価値観で判断するのは無理だ、
大勢の仲間が死んでいったのに、おめおめと生き残れるか、という気持で、
俺も自決したかった、と言ってた。
爺さんがようやく前向きな気持になって生きていく覚悟がついて
大学に復学したのは昭和21年4月だから、半年以上も悶々としてた事になる

33:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/07 14:55:19 lVN4ms70O
>>30ダメだからどうするの君は。幕末みたいに抵抗しますか?
いや、しないね。長いものに巻かれ、何気なく過ごすだろうよ。

34:困窮
10/10/08 04:00:22 EpinI3Rg0
あきれはてたやつばら、銃後のゲキ犬の孫31は特に。
特高警察の拷問はハンパネ。鉛筆、毛抜き、フフフモロモロ。
モマエのジジイはヤッテタンダヨ、ケツカル拷問アイアンMEIDEN。

32は陸軍航空隊か?
本土防衛というむだなあがきによくぞ挺身されたと思う。
陸軍省はたいへんなところなのでご苦労察します。

ちなみに支那機関銃予科の自転車屋のおじさんはあんまし好きじゃなかったが、大工のおじさんはとても好き。


35:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/08 12:41:15 kovpJIDR0
婆さんが初めて爺さんの顔を生で見たのは、結婚式の当日。
爺さん京城で教師していたからね。見合いも何もなし。京城に帰るのが新婚旅行。
でも当時田舎ではそれが普通で、親が決めた人と結婚するものだと思っていた。
覚悟はしていたが、結婚生活は嫌で嫌で仕方なかった、とこぼしていた。
爺さんは真面目で優しい人だったけど、見た目が悪かったから
新妻から嫌がられるのも仕方ない。婆ちゃんはすらっとした美人だったし。

36:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/08 16:26:52 X3kJAMsU0
うちの祖母は、祭の人混みを歩いていたら、祖父に見初められて、知らないうちに結婚が決まってたそうな。
若い頃は『○○小町』と云われたほど地元では美人で有名だったらしい。
私が生まれた時は、祖父は他所に女を囲い、家に来るのは盆と正月くらい。
二つの家庭を持ってたらしい。
小さい頃は、どの家もじいちゃんは他所に住んでるもんだと思ってた。


37:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/09 04:21:04 KDp2d7kL0
うちの爺さんは戦争末期に呉の海軍工厰にいて、原爆のピカとキノコ雲を見て
慌てて広島に駆けつけて、原爆投下当日の地獄絵を見ている。
だけど余りの悲惨さに「とても言葉で表現出来ない」と言ってたなあ。
あれだけ凄まじい被害だと、現実問題として救援に行っても手の付けようもないしね。

関東だから、被爆手帳持っている人間は珍しくて「原爆投下直後の話を聞かせてくれ」と
各種団体から講演の誘いがあったけど「あの状況は言葉で表せない」と全部断ってた。
投下時に広島市内にいて幸運にも助かった方は、状況を話せるみたいだけど
爺さんのように近くから駆けつけて、客観的に被爆現場を見てしまった人は
その後の人生で、ずっと負い目を感じて生きていたみたいです。
本人のせいじゃないけど、感情の整理はなかなかつかないでしょうね。

38:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/09 14:14:44 thq8vpsw0
>>37
見たことも想像したことも無いことを客観的に見てしまったら…
現実逃避したくもなるし、表現の仕様がないんでしょうね。
後世になって知識として教えられた自分たちには、その気持ちは永遠に解らないと思います。
原爆に限らず、遠い過去の日本であった行為も、その悲惨さから正しく伝えられなかったことはあったかもしれませんね。

39:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/11 01:52:38 7ZDa8lh30
NHKの証言番組における、大村崑の話が秀逸だった。

戦地に赴く○○さんを、駅からみんなで送り出した後で、玉音放送が始まる。
戦争が終わった事より何より、○○さん、いったい、どこに戦争しにいったんだ!?
って話題で、ご近所は持ちきり。

「あまりにも暗い話だから」って、ことで口を噤む老人たちがいるように、
楽しかったことが、不敬だし、不謹慎で話せないって老人も多いと思う。
それがもったいない。
笑える話は、もっとっもっとあってもいいと思う。

40:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/11 01:53:03 iDun9bGA0
>>34
うんだからね、2chでしか爺さんのことは話せない
爺さんが特高にいたのは一時期でその後は別の部署に配属されてたようだ
敗戦の頃には警視庁を辞職し東京市議会議員となっていたが
過去に特高にいたことのある人も含めみんな公職追放となったんで辞任
その後は何をやっても巧くいかず失意のうちに人生を終えた
特高の弾圧の犠牲になった人に較べれば温い挫折かもしれないけどね

これだけじゃ何なので友人から聞いた話を
東京近郊の某所で戦時中強制労働の朝鮮人を連行して働かせていたが
狭い貨車につめこめるだけつめこんで連行したせいで酸欠になり
某所に汽車がついた時には殆どの朝鮮人が死んでいたそうだ
発覚をおそれた某所の村人たちは死体を村はずれに埋めそこが小山になって
いたそうで、友人およびその学友達は爺さん世代からその話を聞いていた
で、学校の郷土史の自由研究課題でその事件を調べて取り上げようとしたら
話を聞きに行った地元の有力者の年寄りから「そんな地元の恥を広めるな」
と一喝され止めさせられたそうだよ
今でもその事件は、地元じゃ密やかに語り継がれてるけど
地域一丸となって隠匿してるため決して全国区で表には出てこないらしい

41:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/12 17:20:16 u00FtXHK0
爺ちゃんも戦争が終わった時は、大日本帝国の終焉という感慨より
「今夜から空襲がなくなる」「戦地の兄が生きて帰って来る」
「家族が皆無事だった」みたいな安堵感の方が大きかったと言ってたなあ。

8月15日の晩は灯火管制がなくなって、どこの家も煌煌と明かりを点けた
久々の明るい夜で、戦争が終わった喜びを実感したと言ってた。

42:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/12 18:19:00 dD4O8VGP0
じいちゃんばあちゃんじゃなく、両親のお話。
親父は62歳、お袋は65歳。
言うまでもなく親父は戦後生まれなんだが、お袋は終戦の年の1月生まれ。
ある晩、戦争の話になった時にお袋が「空襲は怖かった」と発言。
親父:「生まれて半年の赤ん坊が分かるわけあるか!」
お袋:「覚えてるもんはしょうがないでしょ!」
こういったやり取りが5分ほど続いた後に出た結論が『離婚』
バカじゃないの?って思いながら見てました。

43:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/13 01:48:32 51cgj/LX0
>41
そこらへんは、よく聞くね。

まず、三年八ヶ月続いた灯火管制が解除!(昭和二十年、都心部では毎日のように空襲警報)
お米がいよいよ腹一杯食べられる!(食料難は戦地の兵隊さんに送っていたというお題目だった)

お互いに目を光らせていた隣組の連中。
間借りの窮屈さに背を丸めていた空襲被災者。
日を追って少なく、まずくなっていた配給なんかも、
もう終わると思ったんじゃないかな?

44:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/26 00:15:49 en1DgFRO0
祖母は小学校時代飛行場で特攻隊の出撃を見送ったことがあるそうだ
笑顔だったり強ばってたり常人の普通の表情と大して変わらないんだけど
もうこの世の者じゃないような、なんとも言えない顔つきをしてたそうだ
告別式の棺桶の中の死人のほほえみみたいだったとも・・・・
彼らがこの世の地面と永遠に縁が切れる離陸の瞬間は、未だに夢に見るらしい
あと、飛行機のペンキが剥げかけてたりマダラだったりするのが可哀想で
せめて死に際なんだから真っさらな綺麗な飛行機で行かせてあげればいいのにと言ってた

45:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/30 01:08:21 Vib+Q8NG0
うちの爺さんは大正9年生まれ仙台に住んでたけど
長男だったため赤紙は最初来なかったッと言ってた。
その後長男でも徴兵されると聞いてずっと仮病をしてたって笑いながら言っていた。
ただ戦争中は爆弾がいつ落ちてくるか解らないけ怖さがあったらしいけど、
どこにいても爆弾が落ちてきたら終わりと半分開き直っていたらしい。
戦争が終わり仙台の町もひどいことになっていたらしいけど
みんなで集まって「地ならしに行くぞ」って大人数で道を固めに歩いてたらしい。
もう戦争が終わった喜びでみんな再興に必死になっていたと言っていた。
結構虚言癖がある爺さんでもう亡くなったから真偽はわからないんだけど
その話を聞いていた婆さんがいつも涙目になっていたので本当に辛い過去なんだと
子供心に思った、その後は仕事を始めてが忙しくなってからは県外に住むようになって
あんまり話が出来なかった、もっと話していればよかったと悔やまれる・・。

46:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/01 22:03:08 UULopYVMO
フンドシっていつ頃まで一般的な下着だったんだろう。

戦前でも昭和一桁生まれ以降は生まれた時からフンドシではなくパンツに近いものを履いてそうなイメージ。
大正生まれの爺様はとっくに死んでしまって聞く人がいないw

47:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/01 22:46:40 /Ai6CdiVO
スレチだけど、高3の時に観た神風特攻隊の演劇が
なんか忘れられない 何てタイトルだったか・・・


48:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/02 01:08:51 D4SxQU900
>46
洋装が進んで次第に廃れたんだろう。
男の洋装は早かったから、都市部では大正の頃にはほとんど洋装だったんじゃねーかな。

女性の下着は、有名な白木屋の火事からスタート。
ちなみに、女が和装という時代は、戦後しばらくまで。
髪結いさんが絶滅して、銘仙もジエンド。

49:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/02 08:32:04 UXIFB4UBO
>>48
大正だと都市の勤め人は洋装が多そうだな
でも下着の洋装化は遅れていそう

ドラマなんかだと大正どころか戦時中の兵隊がフンドシをつけていたりするけど実際のところどうなのか気になる

50:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/04 00:41:26 l+pC9yIM0
昭和十何年までうちの町では洋服と着物は折半ぐらいだったらしい
また家の作りが農家で、土間の横に五右衛門風呂があり
年頃の娘が入っていても、近所の人は土間で世間話を平気でしていて
娘も恥ずかしがる素振りも無かったそうな

自分が子供のころに当時80歳くらいの老婆に駄菓子屋で聞いた話

51:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/05 00:38:56 3Gx2y1JL0
明治時代のフォルムとかだと、男は背広に帽子。
女はお召し物(よそ行きの着物)。なんてパターンが多い。
男が黒い日傘とかを差してる。

戦前、女性のあこがれの職だった、タイピスト、電話交換士、ガソリンガールも洋装だろう。
着物の芸者から、洋装のカフエー女給が人気を奪っていったのも時流だろうね。

戦後のトップモードは、アメリカンスタイルのパンパン・ガール。
国民服モンペばかりの中で、彼女たちのスタイル・ファッションは、
すごい目立ってたハズ。

52:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/05 13:19:48 QnBhDeHj0
>>40
つっこみどころ満載

>>48
>白木屋の火事からスタート
正確ではない。そもそもあの有名な話は都市伝説みたいなもん

53:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/06 01:19:53 6ei9pR7g0
>52
>正確ではない。そもそもあの有名な話は都市伝説みたいなもん

じゃあ、正確なことろをkwsk

54:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/06 02:18:20 Ntu0V47KP
明治30年生まれの母方の祖父は典型的な大正のモボ

旧制中学校時代から横濱のダンスホールに通い詰め
卒業後は横濱のダンスホールの店長になっていた。

昭和に入って、時代がきな臭くなってきてからは
海軍や外務省のお偉いさんに取り入って営業し続けてたが
太平洋戦争が始まると爺さんも徴兵され、
本土で経理をやっていた。

終戦後、多少は英語が出来たのと、ダンスが上手かったので
進駐軍相手のダンスホールの支配人をやってた。
その後、ナイトクラブのオーナー→破産→ダンス教室の講師として
横濱では有名だった(らしいw)

55:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/06 03:06:01 Ntu0V47KP
要するに、大正のモボ→昔のリア充なわけだがw

祖父は平成4年に95歳で死んだので、けっこう色んな話を聞けた。
ただ、基本的にはチャランポランで適当な人だったので
かなりイイカゲンなものの見方だったのは許してくれ。

祖父曰く「大正時代は最高に面白かった」と、よく大正時代の昔話をしてくれた。

「ハマ(横濱)は海軍の町で、陸軍の連中は小さくなって歩いてた」
「海軍はモノホンのブランデーを飲んでたが、陸軍は電気ブランが好きな奴が多かった」
「海軍の連中は牛肉が好きで、陸軍は豚や鶏が好き」
「海軍の連中はカードゲームが好きだが、陸軍は競馬が好き」
 ※以上、かなり祖父の偏見が入ってると思われw
 ※ちなみに祖父は陸軍軍人のことをタゴ(タゴサク)と呼んでたw

「大正の頃、ブラウニン(ブローニング?)のピストルが五十円ぐらいで買えた」
「あの頃の店の売上げは多い時は1日二百円あったんで、ギャングが怖くて一丁買った」
「1回も撃たないうちに、カードで巻き上げられたんで悔しかった」

「関東大震災の時は家で寝てたんで助かったが、店は完全に潰れてた」
「震災っていうと東京の被害ばかり言われるが、ハマも大変だった」
「銀行に行って再建資金を借りようとしたが、飲食店は後回しにされた」
「馴染みの海軍のお偉いさんが一本電話してくれたら、すぐに貸してくれた」
「震災の後は、えらい儲かったんで、すぐに借金を返せた」
「だが、電力戦争(?)のせいで荒っぽい連中が増えて、ハマが物騒になった」
「鶴見の喧嘩(?)は凄かった。ハマのヤクザ者はみんな行ったな」
 ※今も電力戦争と鶴見の喧嘩の意味がわからない。誰か教えてくれ。

56:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/06 10:58:16 gRYEPiQ20
これのことかな.

URLリンク(ja.wikipedia.org)鶴見騒擾事件

57:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/07 01:01:50 wbhgH/XW0
おお、謎が解けるのは、外野から見てても気持ちいいな。
大正時代に出来事が、あれほど詳しく出てるってのは、そうとうデカイ事件だったてことだな。

58:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/07 03:00:14 TDUZcCPMP
>>56
>>55です。おかげで長年の謎が解けました
いやぁ、こんな事件があったんですね
ありがとうございます

それにしても、祖父はいつも大正を懐かしんでましたね
死ぬちょっと前、戦争で昔の写真はみんな焼けてしまったのを悔やんでました


59:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/07 07:59:49 Jh8+teE50
>>46
1970年頃、
「お風呂屋さんに、フンドシしたおじいさんがいたよ」
と母親にわざわざ報告していた覚えがあるので、
40年前には、もうかなり珍しいものだったはず
(漫画『いなかっぺ大将』のおかげで、フンドシ自体の存在は知っていた)

60:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/07 18:40:06 NGH1JelF0
戦前までは日本の男性はフンドシが当たり前だった。
戦後まもなく非日本化の社会情勢の中でズロースの大ブームが来て、
老若男女がズロースを履くようになり、ズロース時代が60年代前半頃まで続く。
それから男はトランクスかブリーフ、女性はパンティを履くようになった。

今でも病院に行けばフンドシが残ってる。看護士がウンコ取ったりするのに
フンドシが一番便利。病院以外では水着のフンドシが最後まで残ってたな。
1980年代まで、下町のプールに逝けば古式泳法のフンドシ爺さんが
1人ぐらいいたもんだ。

61:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/08 00:22:02 nklQaOrS0
成人男性は徴兵により入隊した軍隊から越中褌が支給されて使用を義務付けられたことから成人男性の下着は越中褌となったが、入隊前の若者は猿股かランニングパンツのようなキャラコ地の下着を着用していた。
戦後もブリーフが登場するまでの間は猿股か紐からゴムに代わったトランクスが男性下着の中心となっていた。

とは、wikiのブリーフの項から。
いろいろ、面白い。

62:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/10 05:50:18 zG/pXBbkO
うちの隣の家が小野葉一刀流の師範で、なんでも戦時中、介錯をやったことがあるらしい。
首を落とすとき、雑巾をはたいたみたいな「パンっ」って音がするそうだ

63:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/10 18:08:13 wsTDF6cdP
>>62
同じ意味だと思うけれど、祖父は
「濡れた手ぬぐいを干す時、一気に伸ばした時の音」
といってた。
だから、母が洗濯後にパンッ!と伸ばすのを
すごく嫌がってたな

64:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/10 19:50:37 aIFkAC4f0
>>63
それは鉄砲の音だ。

65:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/11 00:39:46 DprGFXXaO
もしくはマッハの空気の壁を破る音か

66:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/11 00:46:14 Zays0T+40
>64
一言で、言い捨てる書き込みは、よして欲しい。
せっかく書いてくれたひとに失礼だ。

67:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/11 23:04:30 BPjPPVKs0
>66
激しく同意。

>63の話はたまに聞くことがある、だから正しいとは言い切れ無いのは当たり前だが。
まあ、切る方も切られる方も心が定まっての稀なケースかもしれないとは思う。

ただ、否定したけりゃそれなりの伝聞くらい書けよナ。

68:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/12 19:40:02 lzH1pz490
みんな長生きした爺さんに恵まれてるんだな。
三重県民である俺の父方の爺さんはそうじゃなかった。
祖父は大正15年生まれ。家はかつては地主だった。
しかし、大正後期~昭和初期にほとんどの土地を手放してしまった。(理由ははっきりしない)
祖父の父と母は昭和10年代前半に病死。(30代だったと思う)
そして大東亜戦争が始まって間もないころ、祖父の祖父も70歳ぐらいで死去。
祖父は10代半ばだったので、親戚を頼って近くの村に引っ越した。
その後海軍に入り、呉に配属され、そこで敗戦を迎えた。
戦後はダンプカーの運転手をして、昭和22年に村の庄屋の家系の長女と結婚。
翌年には男子(俺の父)ができた。
しかし昭和26年に結核で25歳の若さで死去。家には写真すら残っていない。
祖母は今も存命です。

69:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/14 03:06:43 GxHUrl9o0
婆ちゃんの実家は、婆ちゃんが嫁入りした昭和10年代としては
金持の方だったんだが、田舎だから恐ろしくケチで、
嫁入り道具を何も持たせてくれないのは、まあ我慢できるとして、
家から嫁ぎ先までのタクシー代までケチってタクシー呼んでくれなくて、
花嫁衣装でどうしたら良いのか途方に暮れたと言っていた。
婆ちゃんの親はバスと汽車でみんなで行くつもりだったらしい。
見かねた既に嫁いでる姉さんがタクシー呼んで金払ってくれて、
嫁ぎ先までやっと来れたけど、腹が立つより情けなかった、と言ってた。
「家や国のためには、娘や次男三男が犠牲になるのは当たり前」の時代だったから
次女なんてゴミ同然で、キツかったとしみじみ言ってたなあ。

70:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/14 04:12:41 ZGvFnGM30
親戚の叔母さん(80歳)が結婚した時も
あっさり「じゃ~ね」って感じだったらしいよ。
戦後間もない頃。何も持たせてくれなかったって。
長女だから兄弟(8人)の面倒というか
下3人は自分が育てたみたいなもんだったのにぃ
って思ったそうな。

下にいくにつれ手厚くなったらしいが。
戦後、自転車屋家業が当たって羽振りが良くなった
という背景があるかららしいけど。

71:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/16 03:41:59 /R2NCAmG0
 将校は率先して慰安所へ行き、兵にも是をすすめ、慰安所は公用と定められた。
心ある兵は慰安所の内容を知って、軍当局を冷笑して居った位である。
然るに慰安所へ行けぬ位の兵は気違いだと罵った将校もあった。
 要之戦場生活は殺風景だから気が荒くなる、是を抑える為には兵に女を抱かせるより善い策はないとしたのは尤もである。
 然し、日本軍人が戦争に来て大きな顔をして慰安所へ暇さえあれば通う姿を見て、支那人は笑って居った。
上海へ上陸した其の日に、何処へ行ったら女が買えるかと在留日本人に聞くと言うので、
日本の兵隊さんは戦争に来たのじゃあないのかと反問しているのを聞いた。

72:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/16 12:43:36 6t93KQyF0
前のスレにも書いたが、うちの婆さんは群馬のど田舎の出身で
昭和19年頃から周囲の家々には疎開者がガンガン来るようになった。
東京からきた自分と同年代の女の子は垢抜けていて綺麗で、
山猿のような自分達とは余りに違うのでびっくりした。
そして彼女達は婆ちゃんが見た事もないゴム鞠を持っていて、初めてゴム鞠を
借りて遊んだ日は興奮してしまって、夜遅くまで遊んで親に酷く叱られた。
子供の目から見ると疎開者が多い他の家が楽しそうで羨ましくて
「なぜうちには人が来ねえだ?」と母親に聞いたら「うちは東京に親戚がねえからだ」と
言われたが、子供だからなぜ我が家だけ疎開者が来ないのかよく分からなかった。
戦争末期は疎開生徒で学校はパンパンで1クラス70人とかになっていたが
終戦から櫛抜けのようにどんどん友達がいなくなっていった。
東京に戻って行った子らはすぐに音信不通になってしまい、同級会にも呼べなくて悲しい。
子供の目から見ると東京から来た子らはカッコ良く見えたが、
彼女らにとっては慣れない田舎で辛い体験も多かったのかもしれない。

73:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/17 02:27:57 8d77mtey0
>72
都会の女の子たちは集団疎開じゃなくて、縁故疎開ってことっすね。
じゃあ、彼女たちも別々のことからきてるから、
華やかに見えても、友達がいなくて、寂しかったのかもな。

74:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/17 12:26:30 KicI1o7H0
爺さん新潟だけど食料事情が悪化するとリュックに食料積んで東京の親戚によく運んだと言ってた。
東京の叔父宅に行くと叔父さんが「よく来た」と言って、銀座の資生堂パーラーに連れて行ってくれて
そこで生まれて初めてのホットケーキを食べて「こんなうまい物が世の中にあるのか!」
「ほっぺたが落ちる!」と感激しまくった、という話を何度も聞いた。

75:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/17 23:13:39 joegF8XPO
爺さんや
婆さんや
爺さんや
婆さんや
爺さんや
婆さんや

76:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/18 12:14:02 vZfQOUsd0
>>73
当時の認識として、縁故疎開できる子は恵まれていた(勿論例外もある)。
親戚の家だからその家の人と同じ物が食えるし、縁のある土地というのは大きい。
「○○さんの親戚」なら、子供でもその土地にとけ込みやすい。
辛くても甘えられるおじさんやおばさんがいる。

集団疎開は辛い思いをした人が多い。食料は配給分だけでいつもひもじく、
辛くても甘える人もいないし、逃亡者が相次いで引率の先生の手を焼かせた。

77:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/28 17:07:27 yqOJcjj+O
父方の祖父
「俺の周りで戦争に行きたくて行ったヤツなんぞ誰もいねえ。逆らうと上官にぶん殴られるから行っただけだ。」

母方の祖父
「戦争なんて嫌だからわざと脚に銃弾受けてわざと化膿させて帰ってきた」

78:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/28 17:20:29 sRYsek830
祖父が、生前、
おれは、背が高くて乙種合格と言ってた
179センチ、、確かにデカかった

79:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/28 18:30:07 4ksmNKE70
>>77

いろんな考えがあるんだからね

80:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/28 20:18:17 sRYsek830
兵隊検査前に醤油呑んで、心臓悪くして、、

81:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/29 02:19:07 VQ5PxyCR0
>79
同意。

戦争楽しかったって話こそ、聞きたいんだけどな。
そういうひとが、口を噤んでいるのが、残念。

82:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/29 18:53:48 /cbUBF+r0
うちにお爺さんの徴兵検査の時の記念写真があります。鮮明で人物が大きくて、とてもいい写真。
検査場だった小学校の前で、18人の若者と村長・在郷軍人会長・徴兵官が写っています。
この写真は村役場から貰ったらしく、結婚写真みたいに見開きになっていて、向き合う頁に
各人の名前と甲種、乙一、乙二が書かれている。丙種の人はいない。
丙種は全くいなかったのか、写真撮影から外されたのか判らない。
服装は学生服と背広がほとんど。和装が2人、職人姿が一人、軍服が一人。
私の目から見ると職人姿が一番カッコいい。軍人姿が何者か判らなかったけど、
年配の人が言うには、当時各大学に軍事サークルみたいのがあって、軍事教練を
部活のようにやってる軍国学生がいたから、それじゃないかとの事。
甲種は6人でやはり全員体格がいい。でも甲種の人はほとんど戦死したとの事。
爺ちゃんは唯一のメガネで乙二。晴れがましい顔しているのは偉いさんだけで、
若者の顔は軍服以外はみんな暗い。でも昔の写真にありがちな、無理矢理
しゃちほこばった顔じゃなくて、自然な表情をしている。
226事件の後、日中戦争が始まる直前だから、まだ少しは自由な雰囲気も
残っていたのかもしれない。髪型は7:3のサラリーマン風が多い。
みんな表情が渋いせいか、イケメン比率が高い。

83:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/01 17:54:27 nFC4mFox0
戦争が楽しかった。日本刀で中国人きりまくった。中国人の幼女を強姦しまくった。楽しかった。

こんな話ききたいか?w

84:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/01 20:57:45 S03s7DJS0
うちの爺ちゃんの部隊は戦争中台湾に駐屯。台湾は暖かいし、日本語通じるし
戦闘は全くないし、食料がとてお豊富で内地じゃ貴重品のバナナが食べ放題で、
女性は綺麗で(内地の女性はみんなモンペ姿で化粧も全くしていなかったけど、
南国はスカート姿でオシャレもしていて、まぶしいほど綺麗だったらしい)、
住民はみんな朗らかで、こんないいところはないから、戦争終わったら
台湾に移住するつもりだったらしい。でも、その願いはかなわなかった。

85:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/02 01:44:00 3NTP8KV+0
>83
それは、普通に楽しくないだろw

86:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/02 03:09:09 eS1WkrKs0
うちの親父は鹿児島のど田舎出身だが、
都会もんが集団疎開してきたから何やかんや巻き上げたとか言ってたな。
ゴム長靴持ってて珍しいからそれをよこせとか言って代わりに芋やるとかw


87:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/02 14:32:39 zfeWR6kc0
埼玉の農家だから、東京から「食べ物と交換して下さい」と大勢来たけど
都会の人は玄関前に土下座して、高級な着物をわずかの豆やイモと交換して可哀相で
見てられなくて、爺ちゃんの両親も困ってたと言っていた。

可哀相だからと気前よく交換すると、翌日から沢山来てさらに困るし、交換してあげないと相手が困る。
それで村から1kmほど離れた神社で交換していたら、闇屋まで来るようになって臨時交換所は閉鎖。
仕方なく、毎回場所を変えて交換するようにしたらしい。
相手の足元を見て都会の人に威張り腐って無茶な要求する農家もあって嫌だったって。

集まった着物や帯や時計は、昭和30年頃質屋さんに引き取ってもらったけど二束三文だったと言ってた。
時間も経ってるし、仕方ない。

88:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/10 22:18:43 FTqg9oDx0
爺さんは北支に行って無事に帰って来たけど、行く前に内地では
国民党軍は傭兵だから弱い、八路軍は百姓の集まりだから弱い、
と聞いて行ったけど実際に戦ったら両軍とも装備も日本軍より遥かに上で
神出鬼没で滅茶苦茶強かった、ってさ。
日本人があんな広い国に行って民衆を敵にして勝てる訳がない、
日露戦争は民衆を味方にしたから勝ったんだ、ってさ。

89:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/11 11:17:40 sv1xKhD5O
教師の蝙蝠ぶり、
戦後の北関東は疎開や農産物でそれほど大変ではなかった



90:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/12 10:27:28 NVSKs9UN0
戦中戦後はカボチャとイモばかり食ってて、肌が黄色くなったと言ってた

91:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/13 01:27:46 oJor3K5s0
大正11年生まれの祖母は東京生まれ東京育ちの根っからの東京もん
戦時中はうまや橋(?)という橋の近くの靴屋で住み込みで働いていた
同じようにして働く仲間たちとも仲良くやってたそうな
しかしどうしたことか、1945年3月9日の夜は仕事が早く終わり、その日は珍しく小岩の実家に帰った
同僚の者たちもなぜだかみんな仕事が早く終わりそれぞれ久しぶりに家に帰ったそうだ
そしてその日の夜、空襲があり、そこの靴屋周辺にはたくさんの爆弾が落とされた
そこの店主は亡くなられた
次の日、靴屋までの道のりは死体で埋め尽くされてたとのこと

92:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/13 02:02:21 yB1IpLHN0
>91
3/8(木)が、毎月恒例の大詔奉戴日。
翌9日(金)は平日だけど、3/10(土)は陸軍記念日で祝日。
だから、連休だったはず。

9日の仕事が早く上がったりして実家に帰ったのは、
そんな理由もあったんじゃないかな?

93:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/18 08:51:02 RIxo5NQU0
>>83
そうだわな。

というか>>79>>81は一体何と戦っているのか。
>>77は単純に自分の体験を書いただけなのに。
もしかすると、「戦争楽しかったって話を聞きたい」んじゃなくて
「戦争楽しかったって話」以外を禁止にしたいのかもな。

94:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/26 03:48:25 bGGQtl3a0
>>37
おお ウチのじいちゃんも広島の呉にいたんだよ。
しかも同じ海軍。ひょっとしたら会ってたかもね。
ちなみに敵軍(アメリカ)の無線を傍聴翻訳がメインの職務だったらしい

95:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/27 21:48:11 wE8vVafb0
戦争中の配属将校の恐ろしさはよく聞いた。
配属将校にぶん殴られると、中学生なんて意識を失って
K-1のKOシーンのように倒れるから危険きわまりなかったらしい。

96:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/28 03:03:17 FIW7Bcid0
おれの祖母からきいた祖母の祖母(江戸時代)の話
あるんだけど文才なくて書けない・・・


97:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/29 00:28:22 BXRk2PB80
>>96
読みにくくてもいいから教えて。

98:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/29 18:21:02 pRiBV23F0
戦争中は弾丸を製造する為に鍋の蓋まで取られたって言ってたな

99:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/29 18:57:38 pRiBV23F0
海水浴をしていたら関東大震災が発生して
あたり一面の海水が一瞬にして消えてしまったらしい
近くにいた近所のおじいさんに津波がくるから早く山へ行きなさいって言われて
大焦りで避難したみたい
凄い勢いで潮が引いたというのになぜが津波は来なかったいう・・・

100:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/29 22:33:52 7F5Wg9jM0
明治とか大正時代の人も(というかその時代にお爺さんなら江戸時代生まれ?)
「津波がくるから早く山へ行きなさい」なんて今と同じような言葉で話してたんだ
完全に別世界のイメージだったけど

101:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/29 23:26:01 kBioNLPE0
>>97
ああ ごめんね 文才ないの本当なんだ
しかもなんのオチもないただ当時のいち情景
なんか面白そうだとハードル自分で上げちゃったね ごめんね
あと 祖母の祖父は山賊に襲われたことがあります。
(ただしこれは明治初期)

102:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/30 01:57:20 qUXylXal0
>>101
面白く無くてもオチがなくてもいいんじゃない?
スレ汚しと罵倒されるのが怖いのかな?スルー推奨。
無理強いっぽいので気が乗らなきゃこのレスもスルー推奨。

103:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/30 07:54:09 vYklMFFc0
>>101
明治時代にはもう山賊なんていないイメージがあるな
マンガ日本昔話の世界の背景しか思い浮かばないw

104:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/30 11:45:34 kEDzoS3h0
祖父は明治40年の生まれだが、小学校出て商家に丁稚奉公。
盆や年末の小僧さんの仕事に遠隔地のお得意さんの売掛金の回収がある。
田舎だから金を持っての峠越えには山賊が出ると言っていた。当時は姿形で
商家の小僧さんだと一目で分かるしね。山賊から自分の身と売掛金を守る方法として、
郵便局の局員さんと一緒に峠を越えると言っていた。
現金書留があるから郵便局員も山賊に襲わる可能性があるので、
郵便局員は特別に拳銃を携帯を許されていて、発砲訓練や護身訓練も受けていて
局員と一緒なら安全だったので、局員の移動時間を覚えておいて後ろをついて行ったそうだ。
局員さんの制服姿や拳銃が頼もしくて憧れだったそうで、
よく楽しそうに峠越えの話をしてくれたなあ。
場所にもよるが、大正期一杯ぐらいまで山岳地では山賊出たみたいだよ。
「ああ野麦峠」にも中山七里の山賊の話が出ている。あれは明治末頃の話だな。

105:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/30 12:15:01 dr5A2y68O
【歴女】竜馬、晋作、吉之助…。我が子に幕末志士の名前を付ける歴女たち。 [12/22]★3
スレリンク(parksports板)

106:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/30 12:34:47 vYklMFFc0
>>104
へ~
自分が無知なだけなんだけど、普通に勉強になったわ

107:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/30 18:21:12 959rDxJhO
>>100
明治大正の小説とか読むと別世界というほど変わらなかった気がする。

でも「~ですのよ」「~よくって」「ご機嫌よう」みたいな女学生言葉は今や死語。漫画や小説等創作物でしか見かけないw


108:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/30 23:36:43 r8BNEWE80
>>97 >>102
わかった なんとかかいてみる
初期設定  祖母の祖母の家は当時のプチ財閥(海運業) 当時10歳くらい

当時の多分寺子屋だと思う そこでは男も女同じ部屋で習うんだけど
男女別に右側左側に分けられてて 真ん中にものさしみたいな物を縦に並べて
座ってたみたい
で 授業中になったら 先生の目を盗んでよく男の子たちが
その棒でつついてきたんだって
もちろん騒いだら先生にぶん殴られるので くすくす笑いながらね
そうゆうちょっかいをしてきて でも恥ずかしくて やめてとも言えなかった

で「やだな。やだな。自分も近所の友達みたいに家で弟妹の世話したたいな。」
て思いながら勉強してたみたい

(近所の子は経済的理由で弟妹の世話しながら働いていた)


とまこうゆう話 当時のいち風景 


109:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/30 23:48:57 r8BNEWE80
>>103
自分も意外に思ったけどやっぱいたみたいだね

あと 祖母の祖父が襲われたところは大阪南部

110:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/31 06:44:25 P39uPRxF0
>>108
やっぱり昔の先生はぶん殴るのか。
男と女で教室一緒なんだ。
あるていどの家の子でないとやっぱり子守や手伝いで来られないだろうなあ。

111:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/31 09:02:59 q/4atm0K0
子供らしい可愛いイタズラじゃないか
子守りや手伝いで勉強する時間がなかったから
読み書きが出来ない人も多かったみたいだね
時代劇でも字が読めないからお坊さんに読んでもらってるシーンを何度か見た

112:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/01 23:07:57 IRYktRFz0
山賊の話はあちこちでよく目にするね。
県境は警察の目をかいくぐりやすいとか、そういう事情もあったのかね?
サンカの話もどっかで関わってきそう。

車のない時代だから、舗装もされてない。
人通りもなくしかも外灯もない真っ暗な山道だから、
いまとはまったく状況が違うんだろうけどね。

113:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/02 18:38:38 bFki7b+H0
山賊は、現在でもカツアゲやひったくりに形を変えて多発している。
ゴキブリと同じで、犯罪は環境が整えば多発するし、環境が消滅すれば犯罪もなくなる。
ちなみに戦前の日本の警察は全国組織で、都道府県警になったのは戦後の話だから県境は関係ない。

大正~昭和初頭にかけて、
1.第三次鉄道建設ラッシュで鉄道網が充実し、鉄道黄金時代を迎える
2.乗合い馬車の普及
3.関東大震災をきっかけにフォード製バスが全国に普及
という交通革命が全国規模で起きて、現金持って危険な峠越をしなくても
交通機関を利用すれば良くなったから、山賊という仕事が全く儲からなくなって
山賊は消えてしまったんだろ。郵便配達夫は昭和23年まで拳銃保有してたみたいだな。

URLリンク(ja.wikipedia.org)拳銃
かつては日本の郵便配達夫も拳銃を携帯していた。これは郵便制度発足当初、配達途上の現金を狙って
配達夫を襲う事件が発生したことから、1873年に欧州の制度にならってフランス製の回転式拳銃を購入し、
配達夫の護身用に用いていたものであり、「郵便物保護銃」と呼ばれていた。 これは警察官がサーベルを
持つようになる4年前の事であり、1948年まで用いられていた。

114:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/02 23:38:28 2uNv3SIp0
>>110
ああ~ ぶん殴るって言ったもK-1みたいな あんな感じじゃないよ
まず「睨み」があって、それで大概静かになったんだって

115:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/03 00:56:08 HtV9iM0h0
>ちなみに戦前の日本の警察は全国組織で、都道府県警になったのは戦後の話だから県境は関係ない。

あおりでなく、これ、ほんと?
wikiだと、県の下に、それぞれ警察部というのがあったようだが。
どっちが正しんかね?

116:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/03 10:24:46 rEzRnp1T0
体罰死亡事件が起きた影響なのか
>>110の反応を見る限り>>114の言う殴る先生は絶滅してしまったのかね・・・


117:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/03 12:55:49 khsgo7a+0
>>115
URLリンク(ja.wikipedia.org)日本の警察
第二次世界大戦後はGHQによりそれまでの中央集権的な警察組織は廃止され、1948年(昭和23年)に旧警察法が
定められる。旧警察法では、地方分権色の強い国家地方警察と自治体警察の二本立ての運営で行われるが、
1954年(昭和29年)には警察法が現行法に改正され、国家行政組織の警察庁と地方組織の警視庁・道府県警察に
統一されて今日に至っている。

118:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/03 22:40:07 jwDzR2Bc0
URLリンク(ja.wikipedia.org)府県警察部
府県警察部(ふけんけいさつぶ)は、1947年(昭和22年)まで存在した府県の警察を管轄する府県庁の部局である。
現在の都道府県警察の前身である。

どっちだよw

119:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/04 10:17:48 W/XNws5p0
所詮wikiに書いてあることなんだからどっちも間違ってる可能性だってあるだろうよ


120:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/04 12:43:15 gCf+gudq0
県庁自体が内務省の出先機関。県知事は内務官僚で、選挙で選ばれる訳じゃない。

URLリンク(ja.wikipedia.org)府県警察部
東京府では、内務省直属の警視庁を置いていたが、東京府以外の北海道及び樺太(共通法1条で内地と規定)を
含む府県は、府県庁(当時は内務省の監督下の官庁だった)の部局として「警察部」を置いていた。

121:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/05 22:54:26 buXMTS6J0
祖母の自分史、生前発言などから、どうやら幕末某志士と遠縁で、
曾祖母兄が志士子孫と同居していた過去がある。
でもどういう縁なのかが不明。

調べたが、その志士子孫の文献に曾祖母兄弟の名前が出て来ているので明らかにかかわりがある事がわかったが、
他に手を尽くせるだけ調べたがやはりどういう縁かはわからず限界に感じ、
ネット上でその志士の子孫を発見したので
思い切って失礼の無いようにメールしてみたが華麗にスルーされた。
やるだけの事はやったし、その人との縁がどうなのかちょっと興味なくなったし、ある意味吹っ切れたけどw

122:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/08 06:33:03 N0ytiNNC0
ええと 祖母祖母の江戸時代の話書いた者だけどー
もいっこあったので投稿してみるね
ウチのじいちゃん(祖母の旦那)はいわゆる田舎の名家 豪農てとこ生まれ

今と違って新しいものとか 外国製のものとかそうそう手に入らないような時代だったらしいんだが
(大正~昭和のかなり初期) まあそうゆう時代
で そんな時ウチの誰かががラジオを買ったんだって。 
もちろんそんときの 村では初めて ラジオは当時の最先端なのでまわりも誰も持ってない。みたいな状況で・・

んで ウチがそれを知った当時の市長?町長?がウチに税金をとろうとしたんだって。


「あそこの家はラジオを持ってる。」  

みたいな感じで。

結局は払わなくて済んだみたいだが もう少しで「ラジオ所持税」みたいなものを払わせられかけた。
て言ってた。 じいちゃんが。




いまじゃ考えられないけどね。
でも 当時は本気だったからね。




123:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/10 02:27:36 MFF7Fv6B0

韓国に行くと独立記念館や西大門刑務所歴史館のような戦前の日本を断罪する教育施設があります。
そこでは蝋人形で生々しく当時の拷問が再現されており、その視覚的な描写は大人でさえもかなりショッキングです。

URLリンク(www.tanken.com)
URLリンク(tabimaro.net)
URLリンク(tabimaro.net)



124:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/11 18:23:40 nnKO2JMy0
うちのばあさんは大正末期うまれ。

女学校時代は、陸上部で走り幅跳びの選手だった。
戯曲、小説などを濫読したり、
学芸会?では、肉弾三勇士に扮して、そのあまりに勇猛果敢な
演じ方で、ファンレターがきたとかこなかったとか・・・。

卒業後は、大学教授の家に行儀見習いにだされ、
後に祖父と結婚。

祖父は、甲種合格後ある歩兵連隊の旗護兵として出征
徐州会戦→昭和15年除隊→昭和17年応集→バリ→ビルマ→サイゴンにて
終戦。

極貧の出で、小学校時代は一日2食。昼は水を飲んでがまんした。
軍隊は、衣食住がそろっていて天国だと思ったそうだ。

ばあさんとは、当時教官を務めていた青年学校でしりあった。
ばあさんの親戚は猛反対したそうだが、料亭で婚礼をとりおこなった。

ビルマでは軍曹だったが、上官が戦死するので急遽大尉の階級章を
授けられて食料確保などにあたり、辻参謀が部隊に現れたとき、
重機関銃の弾が6発しかなかったのをみて驚いたそうだ。

マラリアにかかったとき、部下が英軍の食糧倉庫を襲撃してコンデンス
ミルクを奪い、それをもらって飲んだら回復した。

たいめん鉄道を汽車で移動中爆撃にあって列車が横転し、多数の仲間が
死傷した。自分も下敷きになり足を負傷したが、奇跡的に軽症だった。

部下が戦死した際、小指をきりとり ひもにとおして運び、焼いて骨として
空き缶にいれて日本まで持ち帰った。

サイゴンから日本へ帰国するとき、航空母艦が引き上げ船で、
仲間とキャッチボールなどしてすごした。

祖父の慰問袋を空けたら、除隊証明書、92式重機関銃の操典、
支那事変従軍徽章、しらみだらけの「軍帽につけるひさし」なんかが
はいっていた(ほかにもいろいろ入っていた)。

125:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/11 19:12:52 fUcfTNTY0
メジャーの松阪のじいさんが、兵隊の頃、手榴弾の遠投で部隊記録を出したそうだ、


126:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/12 14:49:17 5L9N1sv+0
戦争中の配属将校は現役バリバリの青年将校で指揮刀(写真↓)を持ってたそうだ。
URLリンク(www.k3.dion.ne.jp)
指揮刀は片手で持つ日本刀で、本物の日本刀より小さく軽く作ってあり
柄の部分は日本刀よりサーベルに近くて、腰に鎖で下げている姿は警官の
サーベルと似ていたそうだ。

中学生はこの指揮刀で殴られる。さすがに峰打ちだったらしいけど
顔を殴られると頬がザクロのように割れて血が吹き出して、中学生なんて
痛さと衝撃で失神してしまって、怖いなんてもんじゃなかったと言ってた。
爺さんも教練で整列していると「指先まで伸ばせ」と手の甲を指揮刀で
殴られた事があって、手の甲が腐乱したように黒紫になって、痛さで
1週間以上手が動かなかったとさ。

127:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/12 15:37:48 USO2eVzi0



【台湾】馬英九総統「日本には謝罪責任がある」…従軍慰安婦問題で日本は自国の「恥部」を隠すべきではない [12/27]


台湾の馬英九総統は26日、台北市文化局や台湾婦女救援基金会が主催した、台湾の
元従軍慰安婦らの対日訴訟に関する特別展に出席し、「日本政府は歴史の過ちに対して
謝罪する責任を持つ」と発言。注目を集めている。環球網が台湾の報道を受けて伝えた。

主催者となる台湾の元従軍慰安婦らが対日訴訟を求めた2000年から、同基金会の活動
は今年で10周年を迎える。展示会では、元従軍慰安婦らによる日本への賠償要求や、
従軍慰安婦問題の教科書記載などを求める運動などが紹介された。

馬総統はこれまでも元慰安婦の名誉回復活動に積極的に参与しており、同基金会が制作
した台湾人元慰安婦に関する記録映画の撮影や、元慰安婦への補償活動などに関わった。
また、2008年には、元従軍慰安婦8人と会談し、同問題への関心の高さを示している。

馬総統は、特別展開会のあいさつで「日本は歴史で犯した過ちと向き合うべき」と述べ、
日本は自国の「恥部」を隠すべきでなく、また、謝罪責任を逃れるべきではないとの見解を
示した。

スレリンク(news4plus板)





128:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/16 01:04:54 weGfSCsS0
>126
配属将校は、各中学に数名配置かな。
現役の兵隊もいれば予備役の兵隊もいたりだったもよう。
ここらへんは妹尾河童作「少年H」にも詳しい。

教練射撃部所属のHは実弾入りの三八式歩兵銃を持って、市電に乗っていたという記述がある。
校門前に、上級生が歩哨としてが立っていて、ここでも実銃を抱えていたそうだ。

旧制中学だから、今で言う中学1~3に高校1~2年なんだけど、
いまからじゃ、ちょっと、想像がつかないよな。

129:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/19 19:26:53 ohdTN6uw0
爺さんが言うには真珠湾前の配属将校は予備役や退役軍人の爺さんで
大した事もなかったが、日米戦が始まると士官学校出のバリバリの現役将校が来て
中学校は陸軍の内務班さながらになって、ボコボコにされたと言ってた。

フランスに行った時に自動小銃持って白いピケ帽かぶって完全武装した
十数人の兵士達がパリの路線バスに乗り込んで来て、何があったのかビックリしたが、
現地の人は見慣れた光景なのか誰も気にしない。ただの移動だったらしい。

130:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/22 01:18:25 CcNzlCyY0
ドイツじゃレオパルド戦車が一般道を走ってるよ。
時速60kmぐらいでスムースに走っていて、ベンツやVWと並走していても
違和感はない、日本でもクレーン車やフィニッシャーとか大型特殊車両が
一般道を走ってるだろ、あれと同じ感覚。
ちなみにレオパルド戦車はキャタピラが道を痛めないように、
一般道走行中はキャタピラーにゴムを装着しているらしい。

戦車が道を走れないのは世界で日本ぐらいじゃないかな。

131:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/22 01:58:36 49SHDMCX0
S15に、銀座通りで戦車大行進だったかな?(うろ覚えですまん)
いまじゃあ、考えられんけどねw

132:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/22 04:41:41 228cZJz+O
会津の嘘がまたバレる。もはや会津は某国レベル。

1.鉄道・道路を通してもらえなかった
→実際は三島県令が当時日本でも稀な大規模道路整備を若松を中心に行い、
恩恵が少なかった会津以外の人々が一揆を起こした。
→鉄道が通らないのは当然。仙台へ伸ばすには会津は経由させるべきではない。
また、磐梯山噴火などがあり若松より北へ伸ばす路線は危険が多かった

2.産業育成を阻害した
→実際は産業博覧会で三島県令が盛んに会津漆器などの産物を販売し、陶器産業も復興させている
清酒も明治以降の導入で、江戸時代はどぶろくだった

3.県都を郡山に移さず会津を引き裂いた
→郡山は新政府が開拓した都市。そこに移すのは新政府偏重と言う福島市の意見が強かった

4.学校を作ってもらえなかった
→会津高校を作ったのは明治初期、しかも三島県令と明治新政府の重役たちによる寄付だった

5.賊軍の遺体埋葬を禁止された
→「彼我の戦死者一切に対して」遺体確認作業の為禁止されていたのを作家が捻じ曲げて解釈しただけ
かなり早い時期から遺体処理を指示する民政局の達し書が出てる
会津藩士の遺体もちゃんと埋葬された

6.「白河以北一山百文」と侮辱された
→言いだしっぺは東北、わざわざ新聞タイトルにしてスローガンにしたのも東北

つまり、会津人が涙ながらに叫ぶ「被差別」話は、どれもこれも根拠がない。
新政府の援助をたらふく食った末に、貰った先を罵って、恩義はないといって済ませようとするのが会津。

133:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/29 01:18:52 DWAX1Vr80
最近、本で読んで面白かったのはS19頃の東京の銭湯事情。
煙突から煙が上がってるがどうかを毎日チェック。煙が出てれば、みんな銭湯に向かう。
裸で湯船の周りに何重にもひとが取り巻いて順番待ち。前のひとの頭をじっとみてる。
湯船に浸かっても、足だけで座る場所なし。
国家総動員法から五年。長い戦争にみんな疲れ切ってたって。

134:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/29 04:49:40 rQ3tfx2w0
>>132
斗南はどう説明する?

135:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/06 21:06:02 gkMcw8iC0
どう説明?会津の下北行きは会津の山川が決定したんだよ。
どう説明するとか馬鹿かこいつ。まさか強制連行なんて小説鵜呑みにしてんのか?
会津は自分達で協議して青森は下北まで行ったんだよ。
しかも封じはたった二年。某国レベルの会津観光史学を鵜呑みにしたら笑われるよ。

話変わるけど、会津がドイツに北海道と日本海側の地域を売ろうとしてたのがバレました。
会津観光史学ではこの売国を「外交」として評価。会津観光史学はマジキチです。

136:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/08 04:07:37 /uzHKdi00
>>134キリリッとしたつもりだったか?あ?w w w

137:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/13 03:13:36 v5ekErzg0
会津、ドイツに北海道と日本海側の地域を売ろうとするの談

138:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/14 05:12:53 /RYRze5e0
会津観光史学は史実ではなく独自研究に路線変更しました(笑)

139:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/14 08:03:12 TedHVJW2O
ネット右翼みたいなもんか。

140:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/15 15:49:46 4gExl//E0
ネット右翼じゃなくて人権屋だろ会津観光史学は。
弱い立場、被害者になる事でお金儲けしてんだから。

141:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/15 17:58:04 vjq6IqhO0
まるっきり朝鮮人の手法だよな。

142:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/16 22:22:17 6C5RPvxr0
>>130
無知乙
61だろうが74だろうが90式だろうが履帯のゴムパッドぐらいあるし
一般道だって通れるが。ウインカー付きだしw

143:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/16 22:58:11 LkdpnNQZ0
>>142
馬鹿乙
もちろん日本の一般道を自衛隊の戦車は通れるが、
通ったら地元や左翼団体の反対運動がハンパじゃないから、
移動のときはトレーラーに搭載して戦車に覆いをかけて運んでいる。

144:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/17 21:12:05 AYKakAbv0
北海道じゃ普通に90式が自走している。

URLリンク(www.youtube.com)

145:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/17 21:20:02 /HxfpLAz0
>>143
それは長距離輸送の時だね。戦車は高速道路を80km/hでクルーズできないし、燃料消費率はとんでもなく悪いからね。

146:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/18 02:15:24 PvaM0/o00
戦車が一般道を走れるのは第7師団の周辺だけだろう
他では無理

147:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/18 09:37:05 GNpPDWGp0
会津売国列伝

148:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/18 10:22:00 N1KS0O9/0
山犬に噛まれると水が怖い病気になると言ってた明治生まれの祖母。
ニホンオオカミ?

149:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/19 09:40:25 c1TZhME30
会津と朝鮮はやり口が似てるよな。被害者になる事が利益。

150:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/21 04:51:55.11 XfYM3sbgO
まあ、ヤカラがよくやる手口じゃね?

151:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/01 23:05:56.59 Nsj8FtMy0
地球温暖化と言われてるが

ばあちゃんに聞いたら昔だって夏はやっぱ暑かったって

まだ子供の頃 
ある時 ばあちゃんの親父が夜中に突然「暑い!」つって
家の壁に水をぶっかけまくった、って言ってた。

時代は大将デモクラシー   

152:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/02 01:36:19.77 gHXoqTQb0
>>148
それは、狂犬病の症状すね。

153:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/02 14:31:02.63 FgeeOnvl0
マスター・キートンの凄く後味の悪い話を思い出したわw
あれでは、狂犬病が狼男の伝説になったって話だったな

154:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/02 14:54:44.35 kRdT/SJU0
>>151
こういう、なんでもない話もいいな。

大正だと、都市部では水道がすでに出来てたな。
ってことは、ゴムホース? ゴムホースってあったんだろうか?
家屋に水かけられるなら、三軒長屋ではないな。
あぁ、平屋か。瓦が熱もったら夜は暑つかろうに…。

こんな風に次々連想出来るのがいいんだよね。
もっとあったら、聞きたいです。

155:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/07 20:50:13.58 7qI4VTqT0
婆さんが小学生の頃ラジオの生放送のど自慢にでたと話をしてくれた。自分の住む街に来ていて、当時は誰でも出られたのか?帰宅したらいつもは厳しい母親に「ラジオで聴いた。ちゃんと歌えたな」だとか褒めてもらえたのが嬉しかったと今でも話してくれる。もうすぐ90歳。

156:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/14 00:30:28.80 qSjdvsiQ0
名古屋だが、戦争末期に地震があったと言ってた。立っていられなかったと。
あとは、空襲警報解除の呼びかけをやってたと言ってたな。

157:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/14 01:37:15.66 pVlU35r70
>>156
1944年12月7日の東南海地震だな。それ。
尾鷲が津波で壊滅。
でも、情報管制下で、記録があまり残ってない。

158:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/20 14:09:46.87 YC22fpac0
日本人最古の録音(ニコニコ動画)
URLリンク(www.nicovideo.jp)

明治33年で現代の言葉と大して変わらないみたいだ


159:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/21 00:11:30.18 VN+Etc1yO
声を聞くと40歳は越えているだろうから、幕末生まれの人だろうね

160:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/21 00:21:37.62 ADlB78sH0
>>158
こういうの、もっとないかな。

以前、「ラク町お時」のインタビュー音声を、つべかかニコ動で聞いた記憶があるのだが、
それ以来、どうググってもたどり着けないんだよね。
誰か、知ってるひとがいたら、教えて欲しい。

161:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/21 01:10:03.70 L3gJSFBH0
いないとは思うけどさ、幕末生まれの爺さんとか祖母さん持っている人っていた?
江戸幕府が潰れた時ってどないだったんだろ?

162:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/21 04:20:04.57 VN+Etc1yO
仕事で接してる75歳の方の祖父が慶応生まれだったけど、仕事もせずに博打ばかりやって財産を食いつぶした悪党だと言ってた
俺は介護保険を扱う仕事してるから顔なじみの高齢者の方に祖父母はいつ生まれですか?ってたまに聞くことあるけど、その人以外はみんな明治だった
両親が明治後期~大正で祖父母が明治10年前後~中期ってパターンが多かったよ

163:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/22 06:24:59.20 L0ATK8qU0
>>157
いろいろ書くことあるけど、 今回は自分もそれについて書くね

俺のばあちゃんもそのとき経験したんだ

丁度俺の母親を身ごもってたときだった。

壁がゆらゆら揺れてきた、壁が斜めになって なんて言うか体に迫ってくるようだった、
て言ってた

とにかく 驚いて 腹を押さえながら 野外に飛び出したって言ってたよ

・・えともしかしたら東南海じゃなくて南海地震かも知れん、
ってここまできて思った 間違ってる可能性あるな ばあちゃんは大阪にいたし

スマン





164:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/23 01:02:20.15 aqXdMZFg0
>>163
1944年12月7日 昭和東南海地震 M 7.9
1946年12月21日 昭和南海地震 M 8.0
戦中だったら、東南海だな。



165:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/23 04:04:34.39 JtjBYPoW0
>>164

情報ありがとう

とゆうことはやっぱ南海地震のほうだった

166:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/24 01:55:31.50 XoTx12Xy0
ほんのちょっとした話

祖父母は戦時中神奈川県のどこかの港街で新婚生活を送っていた

ちなみにじいちゃんはそのとき軍人ね

で よく部下達がじいちゃんの家にきてみんなでメシ食ってたって

全体像はわからんけど すくなくとも部下の兵隊はみんなあまりメシ食えて
なくてつらかったみたい、あと 地元じゃなくて日本のいろんなとこから来てて
不安にしてたって

それでじいちゃんの家にみんな集まってたんだ (まあ じいちゃんも地元ではないが)

でも 家に来る人数が多くて 食器が足りなくて やむをえず ばあちゃんが
いろんな器に料理を載せて出したって言ってた ある部下には小皿で 別の部下
には茶碗で って様子で

そんときよく申し訳なさそうにおかわりを差し出してきたんだって。
なかには「○○(じいちゃんの名)殿ッ・・・」てなにかおもしろいことを
言っておかわりを催促してくる部下もいて それを聞いてまわりが笑ったりしながらね

当時は太平洋戦争暗黒時代の直前

まあじいちゃんも自分の給料からするとかなりやばい状況だったらしいけど
関係なしにみんなで一緒に集まってメシ喰いたかったっていってたなぁ

167:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/25 13:22:46.58 VFO/gFN10
曾爺さんが昔気質の大風呂敷な人で、家の身上をほとんどなくしてしまって
爺さんは若い時から金策に駆け回っていて、本当に辛かったと言っていた。

昭和15年頃、曾爺さんがなくなった葬式の席で来客の一人から
「○○さん(爺さん)も色々大変でしたね」と言われて、ついほろりとなって
「これで不意の金策に駆け回らなくても良くなります」と言ったところ
他の来客から「△△さん(曾爺さん)は仏のような人だった、おまえに
親父さんのような器があるのか」と言われて、吊るし上げられたってさ。
無茶苦茶な金の使い方をする曾爺さんも村の人から見たら、
みんなに気前よく奢ってやったり金貸してやる、いい旦那さんだったんだ。

爺さんは父親を反面教師にして、亡くなるまで固い人だった。

168:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/25 21:10:52.94 poI/l+jF0
>>167
昔気質の人って他所の人にそういう無神経な物言いをするキチガイが多いけど、つくづく嫌になるね。

169:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/26 00:33:41.93 CvMKPQ9V0
>>167
それはわかるなぁ

身内が実体験してることと まわりの人間が感じてることで
すごい差があるってこと あるよね

170:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/26 01:41:18.74 xdIDVGDv0
>>168
>>無神経な物言いをするキチガイが多いけど

スゲー文章だな。これw

>>169
普段はまるでダメなひと。でも、いざって時には誰よりも頼りになるひとって、たまにいるからね。
>>167のひいじいちゃんは、そんなひとだったんじゃないか?

171:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/26 02:40:39.11 CvMKPQ9V0
>>170

うん そうだね そう思う

172:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/26 02:58:34.84 CvMKPQ9V0
・・あと 実は 自分の先祖が167ととても似た状況があったわけで・・・

(俺のひいじいちゃんはすぐに他人の保証人になった)

だから まわりのひとの為 仲間の為に家財を消費した167のひいじいちゃんも

それを補うために必死になってたじいちゃんも
両方 愛すべき存在だなぁ

後170のいうとおり 日常時と非常時のことって、あると思う。

173:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/27 00:47:32.12 yJf6DoFF0
>>172
ここまで長かった平和は、久しぶりなんじゃないか?
生きる力を発揮できずに朽ちていったひとも多いだろうな。
団塊の世代の中には。

174:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/27 01:18:15.19 hNKd2KB90
自分の曽曽祖父はわりと人に知られた社会活動家で、明治時代に
キリスト教の洗礼を受けたクリスチャンだったが、妻子に対する
DVは凄まじい(女の長い髪を引きずりまわして殴り、蹴った)ものが
あった、と曽祖母から聞いた。昔から外面の良い男はいたんだな。

175:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/27 09:58:13.42 SlXbYbAB0
1944年の東南海地震の体験者から聞いた話だと
冬の寒い時期だったけど、ずっと縁側の窓を開けっ放しにしておいて
布団や毛布に包まって寒さに耐えながら、地震がきたらその都度すぐ外(庭)に飛び出して逃げたらしい
たぶん余震ってことなんだろうけど昭和初期の木造家屋なんて地震に弱いだろうしね

176:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/27 15:25:43.69 nkPE8G1zO
無理矢理連れてきた奴隷労働しているチョンやちゃんを、
見下し差別しまくり苛めまくっていたとは聞いたがな。良い時代だ。

177:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/27 15:32:58.47 JR6+lDbV0
>>174
昔の男のDVって凄惨なものがあるよね

178:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/28 00:55:10.42 2DLdse5j0
>>176
わざわざこんな過疎スレまで来て、書くようなことかい?

ちなみに、当時の在日の苦労は、伊集院静「海峡」三部作でもうかがい知れる。
日本人になめられないように踏ん張ってる彼らの姿にちょっとびびる。
実際、かなりかっこいいから、一度、読んでみ?

179:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/28 02:25:59.33 2DLdse5j0
>>175
その話、面白いな。
どっかの国の地震対策は、一刻も早く、家から出ること。
かつての日本で、それと同じことをしてたってわけだ。

俺らが習ってきた、机の下に入るって、
学校みたいに、物が少ない場所ではあんまり意味ないんだよな。
机の下にもぐるって指導は、いつから、始まったんだろうな。

180:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/28 16:27:57.51 ODrOnidB0
横浜で戦前、子ども時代を過ごしたばあちゃんが教えてくれた。中国人をからかう歌。差別云々はさておき、そういう時代だったんだな、と。子どもたちもいじめようとか深く考えずに歌を覚えちゃってたらしい。

シ、シ、シナポイ
シナポイのチャラリコパイの
????? シナポイポイ

と歌ってくれた。

あと、ネズミを捕まえると交番でお駄賃もらえたので、山下公園付近の川で捕まえたネズミを尻尾つまんで溺死させて遊んだとか。

改めて書くと残酷だ…。

181:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/29 01:34:32.70 61Nf0IDN0
>>180
シナポイでググったら、たった七件。
だけどこんなんでてきたぞ。
以下

845 :名無しさん@一本勝ち:2006/09/13(水) 10:33:17 ID:hpJEjsoV0
シ、シ、シナポイ、ナンチクリンノ、パラッパパイボ・・・

って知ってる?

以上
ちゃんとばあちゃんに聞いておくことを奨める。
都々逸も、差別の歌も、絶滅間近の日本の文化なんだよな。

182:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/29 01:37:39.40 61Nf0IDN0
追加でもこれも。
>>180の空白埋めてるかな?


887 :名無しさん@一本勝ち:2008/05/03(土) 14:01:22 ID:0BRAExep0
シ、シ、シナポイ
ナンチクリンのパラッパパイポ
いまじゃニッシンパイポ
シーナ、ポイ、ポイ

183:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/29 10:31:01.21 VF7oqgzq0
俺の婆ちゃん、今は福岡に住んでるんだけど元々は東京生まれ。
小学生の頃、毎朝靖国神社で掃除させられてた。

ある日いつものように掃除してると1人の軍人さんがやってきて、
「偉いね。感心感心」って頭をなでられたんだと。

その軍人さん、東条英機だったらしい。

184:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/29 15:20:02.83 t1LLwHyMO
愛知の尾張一宮は名古屋空襲の余波で一面更地になってたそうな
各地が在日外人に不法占拠されるって情報が流れてて
地元の腕っぷし強い人らがやらせるかってしかも皇家縁がある土地だから自警団みたいになってたって
行き過ぎて的屋だらけになったらしいがwお陰で在日外人は少ないなぁ日本人ヤクザは多いが
婆ちゃんが嫁入り挨拶来たとき曾祖父がチェーン片手にブイブイ言わせてて思わず一回逃げたとか言ってたw

185:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/30 18:08:42.15 AVKZ49Kw0
>>183
東条英機とかすごいな
軍人って優しい人もいたんだな

186:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/30 18:40:15.55 sXDgSLR10
東條英機は、民家のゴミ入れ(昔は各家の道に面した所に必ず設置してた)を
覗いて回っては、贅沢していないか等の民情視察をしてたという人だから、
良く言えば庶民的で腰の軽い人、悪く言えば秘密警察体質だったんだろうな。

187:名無しさん@お腹いっぱい
11/04/03 01:21:41.00 zQ4yWfY00
戦争中、じいさんは某半島にある軍事港に召集された。
そこで訓練を受けて東南アジアに出征する予定。
訓練中寝ずの番があり、ほとんどの兵隊はこっくりしてしまい上官に叱られた。
がじいさんはこっくりしてもタイミングよく上官が見回りにくる前に起きたので、
「お前はなかなかできる奴だな」と誉められて可愛がってもらったらしい。
いざ港に船がきた頃じいさんは病気になって家に帰らされた。
いわく「俺は要領がいいんだ」
じいさんが乗るはずだった船は出港してすぐに敵の攻撃を受けて沈没した。
こういう話を警察官だった娘婿に酒の席でよく話していた。
そういえば押入れに銃があったのだが、あれはどこへいったのだろう?


じいさんの弟は帝大生だったので、士官になってグアムに出征した。
現地の人にとてもよくしてあげたそうで、帰国時海に落としてしまった腕時計を
現地の人が一生懸命探して見つけてくれたそうだ。

昭和40年代、この大叔父の大学生だった長男が行方不明になった。
長男の下宿をじいさんが訪ねたら、身の回りの品も、貴重品(健康保険証や
通帳の類も)そのままで、住人は連絡が取れず行方も分からないまま。
当時北の国へ連れていかれることが多く、優秀な学生であった彼も
連れていかれたのだろうと語っていた。

ばあさんの体験談では、濃尾地震の折は出かけていて、ものすごい揺れがあって
自宅のほうを観たら土煙がもうもうとあがってなんだろうと思ったら、
自分の家の土塀が崩れていたんだと。
伊勢湾台風の時は、家がガタガタと揺れて皆で蔵に避難したが、ひいじいさんは
「誰かがおらんと家が壊れる」
と、1人で家に残ってたそうだ。
ひいじいさんがじいさんに買ってあげたグランドセイコーの腕時計は
自分が大事に持ってますが、いくらくらいの価値があるんだろう。

188:名無しさん@お腹いっぱい
11/04/03 01:35:34.86 zQ4yWfY00
「要領がいい」ってのは、こっくりしても叱られなかったことで、
病気になったことではないです。
この時の病気治療がもとで肝炎になったじいさんは、
肝炎が進行して肝細胞癌になった。

連投スマソ

189:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/18 15:07:28.69 Hhbi5ePS0
近所の99歳のおじいさんいわく
「大砲の弾も飛行機の爆弾も怖かったが、いやー地震のが怖いな、予想つかねえんだもん」
だそうだ(うちのあたりは震度6強)
元陸軍少佐で南方に行ってたらしいから、正直な感想なんだろう

190:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/19 04:24:46.89 m2RaGrbAO
幕末の頃の言葉使いだと現代の人間は

何言ってるか殆ど理解できないのでは?

191:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/19 04:48:43.98 +5FZDZtJO
>>190
>>158

192:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/19 05:12:19.13 KfFD4WC2O
今じゃ有り得ないが、村の寄り合いや飲み会でマジでうんこ投げたりして悪ふざけしてたって。
何かそういう事をしていい飲み会が年一回あったみたい。

193:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/23 15:08:07.87 zvZgAIRu0
>>190
大隈重信の肉声を聞いたことがあるが、普通にわかったよ

194:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/24 07:07:04.13 NKqaROrm0
江戸や明治あたりまでの文学作品とか難しい口語体だし
人々が使ってる言葉も今と全然違う異空間、異次元なイメージで思ってたけど
安政2年生まれの犬養毅の昭和初期の録音インタビュー音声聴いても
意外なほど現代と変わらない言葉で話してて驚いた経験ある

195:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/26 00:21:31.04 hU1VxEfsO
徳川よしのぶの肉声テープもあるらしい
誰か聞いたことありますか?

196:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/26 16:21:32.50 AaayCLBuO
どこのスタジオでレコーディングしたんだ?

197:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/26 16:52:28.61 UX0zGiC80
>>196

実業家の渋沢栄一は一橋家当主時代に家臣である平岡円四郎の推挙によって登用した家臣で、明治維新後も親交があった。
渋沢は慶喜の晩年、慶喜の伝記の編纂を目指し、渋る慶喜を説得して直話を聞く「昔夢会」を開いた。これをまとめたのが『昔夢会筆記』である。
座談会形式で記録されている一部の章では、老齢の慶喜のいわば肉声に触れることができる。
「島津久光はあまり好きじゃなかった」「鍋島直正はずるい人だった」と本音を漏らすあたり、彼の性格と当時の心境が窺える。
慶喜の死後、こうした資料を基に『徳川慶喜公伝』が作られた。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

198:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/07 23:34:35.62 KUTqadR90
ほしゅう!

199:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/08 01:02:18.21 3UrwGMRi0
>>194
口語体じゃなくて文語体の間違いでは?

200:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/08 16:05:33.09 MsCuoudT0
1901年生まれで93年に死去した祖父は現在の埼玉県和光市出身。
青年時に2人の歴史上の人物に遭遇し、うち1人には話し掛けられたと言う。

1人は東条英機。場所は現在の板橋区成増1丁目。時は不詳だが、
昭和初期にあった大きな公園に東条と大勢の部下が来ていた。
当時宮大工で仕事帰りに見かけたと言う。
話し声を聞こうと近くまで寄ると、東条は近所の子供たちの頭を撫でながら、
「大きくなったら立派な軍人になれよ。お国に尽くせよ。」と言っていた。
但し、この当時の東条の役職が首相であったかどうかまでは聞いていない。

2人目は昭和天皇。場所は皇居。正確な時は不詳だが恐らく戦争直前か戦時中。
徴兵として軍人ではなく、力仕事をさせられていた祖父は皇居に連れて行かれ、
土嚢を運ぶ作業に従事していた。そこに後ろから「大変ですな」と声を掛けられた。
「当たり前だろ」と思って振り向いたらそこに天皇が立ってにこにこ笑っていたと言う。
祖父をはじめ傍にいた他の人たちも全員その場で固まってしまったとの事。

この一件があって以来、祖父は戦後一貫して天皇家に敬意を払い、皇室一家の写真だけ
飾った部屋を設けたり、天皇誕生日や皇室に関係した休日などには必ず家の前に日章旗
を掲げた。天皇崩御の昭和64年1月7日には半旗を掲げたのを俺も覚えている。



201:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/10 11:08:22.27 OkVcL4VC0
↑東条に遭遇は兎も角、昭和天皇に声をかけられ云々は作り話しにしても下劣過ぎる
のでは? そもそも人間宣言をされる前の陛下は一般人と口を利いたりモノを手渡し
するなんてことは絶対になかった(必ず、侍従とかの口や手を通した。また直接ご尊
顔を拝するなんてことは許されなかった。)はずだ。 カキコする人間の年齢が下が
ってくるとネタのレベルも下がってくるのは時代かなぁ。

202:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/10 13:05:49.70 f921u/5j0
母方の曾祖父は文久年間の生まれ。
母から聞いた話。
曾祖父の両親は甲州で結構大きな店舗を営む商人だった。
ある晩、夫婦(曾祖父の両親)が店を閉めて寝ようとしたら
いきなり戸を蹴破って、浪人数名が押し入ってきた。
浪人たちは全員、ぎらぎらする抜き身の刀を下げて寝室に入り
布団の上でがたがた震えている夫婦の目の前で無言のまま
行灯を横になぎはらった。
そして「佐幕運動の資金を徴発に来た、生命が惜しくばカネを出せ」
と言った。身一貫で叩きあげたがめつい夫(曾祖父の父)はとっさに
「嫌だ」と言ったとたん、抜き身が光り、夫は刺殺された。
妊娠中だった妻(腹の中にいたのが曾祖父)は一も二もなく、用箪笥からあり合わせの
カネを全部差し出して、お帰りいただいたそうだ。
その時妻も刺殺されていたら、私はいなかった。
「本物の佐幕浪人ではなく、ただの強盗だろう、本物の武士かどうかも
怪しい。甲州街道を通って江戸からそんな連中が大挙して来ていた」
と曾祖父は生前語ったとか。
本物の浪人だったかもしれないが、「御武家様」に対する尊敬があった
時代の人ゆえ、まがりなりにも武士が強盗まがいのことをするとは
信じたくなかったのだろう。

203:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/10 13:09:18.07 f921u/5j0
>>202訂正 ×と曾祖父は生前語ったとか 
○と曾祖父の母は生前語っていたとか

204:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/10 13:09:43.07 +2CIVgMc0
勝子吉の夢酔独言なんか読むと、江戸後期あたりの人間なら今と大して変わらん言葉を喋ってたと思うよ。

205:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/10 13:11:10.85 +2CIVgMc0
タイプミス、勝小吉な。

206:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/10 13:31:12.07 f921u/5j0
もうひとつ母から聞いた話。
母が少女時代、昭和天皇の皇女のひとりで今上天皇の姉にあたる人
(どの人かは忘れた)
は、母と同じくらいの年齢の少女だったが、「ものが言えない障害者だ」
という噂が流れていたそうだ。当時は週刊誌なんかなかったので
もっぱら口コミ。母の周囲ではたいていの人がそう信じていたとか。
戦後、その皇女が話す肉声がラジオで流れて、
「なんだ、あれは嘘だったんだ」と母は思ったとか。
後で別の人に聞いたところ、戦前戦中は未成年の皇族の肉声を
公共の電波に載せてはいけないという決まりがあったとか。
そのせいでそんな噂が流れたんだろうとのことだが、
それなら他の未成年皇族も全員そうなのに、なぜその人だけそんな噂に
なったのかはわからない。

207:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/11 01:44:47.98 LIcTosUs0
いまやってる、連続テレビ小説、時代考証がすげーよ。
一軒まるまる、戦前の生活を細部に至るまで再現している。
見落としてるヤツは、見とくと吉。

>>206
戦前、皇族は庶民のアイドル的な存在だったとどっかできいたな。
三島由紀夫の「豊饒の海 1」でも、そんな様子が描かれてた。

>公共の電波に載せてはいけないという決まりがあったとか。

玉音放送がいかに衝撃的だったかってことだな。

208:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/11 12:39:29.04 dbat0HIK0
>>207
>戦前、皇族は庶民のアイドル的な存在だったとどっかできいたな。

 そうだったらしい。昭和天皇とほぼ同年齢の祖母は高等女学校時代、
学校の寮のようなところにいたが、私物を入れる扉つき木製棚
(ロッカー)の中に、当時の皇太子(昭和天皇)の肖像写真を
貼っていたそうだ。同様のことをしている同級生が何人もいたとか。
大衆雑誌や女性雑誌に皇族や華族の肖像写真がよく載っていたので、
それらを切り抜いたのだろう。当時の昭和天皇はイケメンとの定評が
あったそうだ。
 昭和三年発行の『アサヒグラフ増刊 秩父宮殿下御慶事奉祝号』
ていう大判の古雑誌を持っているが、秩父宮と松平節子の婚約記念号で
写真がたくさん載っている。秩父宮はどの写真も華麗にポーズを決めて
いる。なにげないスナップ写真にもカメラを意識しているのがわかる。



209:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/11 16:18:11.87 4lAW8uQi0
もう亡くなって10年以上経つ爺さんから聞いた、
幼少時(戦前)自宅から出火し、兄弟10人中5人が焼死した。
当事爺さんの親父は、関西の某有名私大の学長選に出馬していた。
爺さんの親父は、対立候補側の仕業であると確信し、
警察に訴えたと言う。
だが、警察が対立候補に買収されており(あくまでも爺さんの主張)事件の
捜査も進まず、身の危険を感じた爺さんの親父は学長選を辞退したという。
戦後、放火犯とその依頼者が打ち合わせをしていたとの目撃証言が
新聞に載り、ようやく事実が日の目を見たという。
子供の頃、その墓参りに行ったが五児の悲劇を詠った俳句が彫られた
石碑が建てられていた。

210:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/14 21:28:27.15 aVgdoEtl0
東條英機の話題が出ているが、東京人でも理解出来たのか?
(岩手出身の首相で一番訛りが酷かった、本人も終生苦しんでいたそうだから)

211:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/15 13:26:21.32 rFgsU1/a0
岩手出身は父親の東條英教
東條英機は東京出身で、甲高い明瞭な声。

212:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/15 18:42:10.93 dxU4J2Sz0
うん、表向き(公式)は東京語を喋るよう努力していたそうだが、
プライベートでは酷いズーズー弁で、結婚当初は奥さんも苦労したそうだ。
(親戚の殆どがズーズー弁だからしかたがないが)

ちなみに斎藤實は国会答弁でも訛りを隠そうとはしなかった。
かつて江戸東京博物館に所信表明演説の録音が残っていたが(今は知らん)、
見事なズーズー弁だった。

213:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/15 22:23:41.52 jpZeVHUTO
仕事で接した福島出身のじいさんが「ちんよう」って言ってるから意味が分からんかったけど、後で他の人に聞いたら「金曜」のことだった
あて「ちんこ」って言うから下ネタ好きなのかなって思ってたら他の人に聞いたら「金庫」のことだった

214:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/16 10:07:09.52 FqbRblFB0
>>212
>プライベートでは酷いズーズー弁で

東京生まれて東京で育っているのに、ありえない。
ソース出してくれないか。

斎藤実は海兵入学まで岩手。

215:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/16 23:29:49.95 XkSVLtKN0
>>214
戦中は軍神で、戦後になると切腹も出来ないってんで大バッシングだったから、
東条英機に関しては、いろんな噂があるんじゃないだろうか?

軍事スレ住民とか詳しそうだな。

216:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/17 01:33:42.65 cQja0iBk0
>>215
東京生まれで東京育ちの東條英機が酷いズーズー弁なんてありえない。
妄想もいい加減にしろ、キモい。

217:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/17 06:40:03.25 SP53rYU70
しかし、あの小沢一郎の訛り(そんなに酷くないけど)を聞いていると、
東條の噂もさもありなん。

田舎者にとっては方言も一種の礼節であるのだよ。
と、東北人の俺は弁護してみる。
(実際、東京弁喋る奴に田舎者は概して冷たい。地元だから良くわかる)

218:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/17 10:04:30.96 cQja0iBk0
意味不明。
小沢一郎は中二まで岩手だからナマリが残っていてもおかしくない。

東條英機がズーズー弁というのは、210の脳内妄想。

219:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/18 10:27:36.63 kUTNGoDw0
東條は訛りとは無縁だよ。カミソリと言われた程、頭脳明晰で評判だった
岩手は南部の殿様が身分が高かったんで訛りはマシだよ、むしろ福島がヒドい

220:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/20 01:52:05.45 pwwnNzy20
 子供の頃、庭で爺さんと歩いてたら、庭のバケツに雨水がたまっていた、
よく見ると水面に小さなボウフラがウネウネ動いていたんだが、それを見た爺さんが
バケツの側面をトントンと叩いた、そうするとボウフラは驚いて水中に隠れてしまった。
爺さんいわく「戦場ではこうやってボウフラが隠れてる間に水面の水を飲むんだ」
とか話してた、あと自転車にのって戦う部隊がいたなーとかも話してた。

221:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/21 01:47:55.96 ZBSlbdrc0
>>220
以前はそういった非常時の知恵を持つ老人が、身近にいたんだよな。
大火の経験者→震災経験者→戦争や空襲の経験者

これが65年途絶えて、この間の311。
それを経験した俺らは、いろいろ覚えておくと、
いつか役に立つ日が来るんじゃねぇかな…とか思ってる。

222:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/01 01:19:38.64 cY4umyDm0
ほしゅ☆

223:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/09 18:03:24.23 q9rtXazL0
聞いた話ではありませんが、このようなものが見つかりました
これは私の曽祖父が書いたもので(なので苗字を一時伏せさせて頂きました)親戚が大事に保管していたものです
この文章で始まり、其々婦人会や御家族の方々の写真が綴られていました
本当は縦書きだったのですか、綺麗に揃えられなかったので横書きのままですいません
昭和14年で2周年という事なので日中戦争ですかね?

     御挨拶
聖戰早クモニ周年ヲ迎ヘ此ノ間本村
出身ノ将兵諸君ニオカレテハ空ニ陸
ニ海ニ輝カシク叙勲ヲ樹テラレ吾ガ
郷土ノ武威ヲ發揮サレツヽアル事ハ
吾等村民ノ等シク感謝スル処デアリ
マス
銃後ノ村民ニオキマシテハ諸君後顧
ノ御心配ナキヤウ御家族ヘノ手傅慰
問其ノ他出来ル限リノ御世話ヲ致シ
ツヽアリマス   
硝煙弾雨ノ下アラユル困苦缺乏ニ耐
エ皇國ノ為ニ働イテヰラレル諸君ヲ
偲ビマス時何トカシテ御慰労申シ度
イト思ヒマスケレドモ届キ兼ネル事
ノミニテ相済マナイ次第デアリマス
ガ今回諸君ノ御家族其ノ他村ノ種々
相ヲ撮影シ諸君ニ御贈リスルコトニ
致シマシタ就キマシテハ少シデモ御
慰メノ役ヲ果スコトガ出来マスレバ
此ノ上モナイ幸ト存ジマス
最後ニ諸君ノ武運長久ト層一層ノ御
奮闘ヲ御祈リ致シマス

昭和十四年九月十三日 福田村銃後奉公會長
     上益城郡 福田村長 ●田 茂

福田村出身将兵殿


写真は、笑顔だったり、真面目そうだったり色んな表情をしていましたが
悲しそうな顔をしている方はほとんどいらっしゃいませんでした
出来れば写真もあげたかったのですが、スキャナーが無いもので

私の祖父も軍人として戦争へ行き多くの友人を亡くしたと言っていました
晩年は痴呆もあり、亡くなった友人の名前を叫んだりしていたものです
戦争当時の話はあまり聞けませんでしたが、しかし
その少ない機会の中で、楽しそうに悲しそうに誇らしそうに語る祖父の顔を今でも覚えております

このような古いだけの文言ですが、皆様の当時の事を考える上での一助となれば幸いでございます

224:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/10 23:52:09.35 AeHrBG6dO
>>223
貴重なものをありがとう!もう一度一生懸命読み返してみます。

225:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/15 17:37:16.59 L0qEJ56iO
幕末最高っす

226:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/17 18:24:48.39 dkKlJcbg0
もうすぐ90になる婆さんの母親がお歯黒をしていたらしい。
塗り直しているのを覗き込もうとしたら、子どもは見たらいかんと追い払われたとか。

227:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/20 13:03:31.09 v6HBPJD00
とっくに死んでいるけど明治37年生まれの祖母は、明治になっても
ちょんまげを結っていた老人を目撃している。

228:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/20 18:34:17.72 iVonjK4NO
お歯黒は禁止令が出たが、ひっそりとお歯黒をしていた人も居たと聞く
貴重だ

229:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/23 22:59:43.54 KAZvWIzMO
若い頃のジャイアント馬場の動きが早かったと聞いた

230:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/25 20:21:37.54 SZcAl5W/0
3年前に亡くなった祖母は大正3年生まれ。
神田の生まれで~小町と呼ばれるほどの美人だったが
子宝に恵まれず結婚後は苦労したらしい。

関東大震災~東京大空襲を経験しているが、
よほどつらい経験だったようで、あまり話してくれなかった。
小学校の時の社会の時間に祖父母を呼んで、歴史の語り部を
してもらう授業があって、散々お願いしたが首を縦には
振ってくれなかったことがあった。

231:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/27 18:23:30.83 4I7/8JpIO
俺ガニの頃ひい爺ちゃんがガキの頃伊藤博文とFUCKしたて聞いたチンポ立った

232:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/27 20:22:16.46 yUAcw3Yf0
俺のじいさんは、太平洋戦争に行かず、さらに戦死した兄の嫁を寝取るというとんでもないやつだった
戦争が無かったら生まれてなかったと思うと複雑だな

233:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/27 23:05:03.87 4I7/8JpIO

ザーメンマン

234:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/28 00:12:00.88 xa2THGNgO
3年前に亡くなった大正生まれの祖母は19歳の時に許婚が登山の事故で亡くなったらしい
もしその許婚の人が亡くなっていなければ俺は生まれてこなかったということなのかな…

235:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/28 08:20:24.11 t9jC3acc0
兄が戦死して弟が兄嫁をめとり家を守るなんて事は
親族の打診あるなし抜きに当時のデフォだよ

236:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/28 12:44:42.13 MjnwQWkc0
戦死してなくても子供が中々出来なかったら義父や義兄弟が・・・っていう話も大婆様からよく聞いたよ

237:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/29 03:42:23.67 DCIi2K1AO
確か島津久光は兄である島津斎彬の娘を次々に嫁に迎えてたよね?

238:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/29 05:30:20.10 Xc4b5Vf/O
石打火打とかって祭があって、
村で広場に集まって、焚火をして料理を作って、皆で酒やら飯やらを飲み食いしながら、一家の次男以下が本家に戻って来ないように、
軽く血が出る程度に石で殴ったり、焚火の炭を押し付けたりしてたんだって。

もちろん今はそんな事できないし、無かった事になってる。
おばあちゃんが言ってた。
それが異常ではなく、普通に行われてたって。
信じられねぇ~。

239:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/29 12:09:56.55 8dIwMwmlO
うちの田舎は岩国市で
広島に原爆が落ちた時
祖母は茸雲を見たらしい

家が農家だったので
戦争も末期になる頃には
着物などを抱えた人が
芋と交換して欲しいと
訪ねて来ることも
あったそうだ。


240:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/29 12:21:50.14 ypDALT8BO
私の祖父では無く、年上の知り合いの祖父の話なんだが・・・。
その人は子供の頃、上野の外れに住んでいたそうで、ある日、「急いで逃げるんだよ」と母親に急かされながら家から逃げ出した。
雨上がりの蒸し暑い中を、「今日は何でアブの羽音が五月蝿いんだろう?」と母親に手を引かれながら思ったそうです。
大人になって、その日は上野戦争が有った日で、アブの羽音だと思っていたのは小銃弾の飛翔音だったと判ってぞっとしたと同時に、流れ弾の中をずっと手を引いていてくれた母親に感謝したそうです。

241:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/29 14:24:51.17 xWvfXnBN0
今日、こんな手紙貰いました。。

『○○先生へ 先生 お元気でいらっしゃいますでしょうか
おかしな書き出しでございますこと 深くお詫び申し上げます
実は 感染症から一命を取り留めたあと どうしても先生の名が思い出せず
先生方に確かめたところ 仁友堂には そのような先生などおいでにならず
ここは わたくし達がおこした治療所だと言われました
何かがおかしい そう思いながらも
わたくしもまた 次第にそのように思うようになりました
夢でも見ていたのであろうと
なれど ある日のこと 見たこともない 奇妙な銅の丸い板を見つけたのでございます
その板を見ているうちに わたくしは おぼろげに思い出しました
ここには 先生と呼ばれたお方がいたことを
そのお方は 揚げだし豆腐がお好きであったこと 涙もろいお方であったこと
神のごとき手を持ち なれど 決して神などではなく
迷い傷つき お心を砕かれ ひたすら懸命に治療に当たられる
仁をお持ちの人であったこと
わたくしはそのお方に
この世で 一番美しい夕日をいただきましたことを 思い出しました
もう名も お顔も 思い出せぬそのお方に 恋をしておりましたことを
なれど きっとこのままでは わたくしは いつか全てを忘れてしまう
この涙のわけまでも失ってしまう
なぜか耳に残っている 修正力という言葉
わたくしは この思い出を無きものとされてしまう気がいたしました
ならば と 筆をとった次第にございます
わたくしがこの出来事にあらがうすべはひとつ  この思いを記すことでございます
○○先生
改めて ここに書き留めさせていただきます
橘咲は 先生を お慕い申しておりました。 橘咲 』

242:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/29 20:45:16.50 z+pGlf160
爺さんは奈良に住んでて、奈良には一発の爆弾も落ちてこなかったそうだが、
大阪大空襲の時は生駒山の向こうが真夜中だというのに真っ赤に光ってて夕焼けみたい
だったとか語ってたな。
あと日の丸弁当は見るのも嫌とか言ってた。

243:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/03 09:11:11.51 vFWpryXEO
拙者

244:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/03 11:38:24.75 Fq4MLUFTO
うちのばあちゃん明治38年生まれ
和裁の腕を買われて大正~昭和初期くらいまでは男爵とか伯爵?の家に住み込みで仕えていたらしい。今で言う口コミみたいな感じで貴族に仕えてああいう人達はとても紳士的で庶民には味わえない場所に連れて行ってくれたりしたらしい。
大正浪漫を体験してて羨ましい
戦後は伯爵家とか無くなり貴族は苦労したみたい

その後、地元の醤油店に嫁入り(許嫁)爺さんは同級生でチャラ男で若い頃騎兵隊。理由は「やっべー騎兵隊マジかっこいい」
戦地から「遊ぶ金無くなったから送ってね☆」とマイペース
典型的なボンボン。愛人は何人もいたらしい。
爺さんの母は女ながらに醤油店を大きくして地元の雇用や教育に貢献したらしい。発想と感性が豊かで俺の母親が子供の頃、今で言うアロマオイルを使って夏とかはミントの飲み物を作ってくれたとか。
醤油店は身内のゴタゴタで廃業。
俺の母親も母親で洋裁で作った服がファッションショーに出たりしてたらしい
昭和四十年代


245:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/03 11:54:28.03 Fq4MLUFTO
続き
家は当時のままで今も実家の人は住んでるけど寅吉じいさんと言う人がどっかから家を持って来て組み立てたらしいが、元は賭場だったようで普通の家とは造りが違うみたい。確かに言われると賭場に適した造りに思える
震災で流石に少し傾いたが、まだ住んでるし次に地震来たら崩れるねと笑い話にしてる


246:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/04 10:15:09.61 PiVOWzK80
>>244 同世代乙。うちのばあちゃんより一つ下だな。さすがに102歳で死んだけど。

247:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/05 19:29:21.84 kWykOoRnO
>>244
わしと同い年じゃな

248:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/09 21:52:24.16 k0XEXZ000
うちの爺さんは勤労動員で飛行場整備の勤労動員の最中にグラマンに襲われて機銃掃射された。
空襲警報も何もなしで突然だってさ。遮蔽物なんて何も無い飛行場の真ん中だから「伏せ!」の命令で
ひたすら伏せてたって。超低空飛行だから、敵機のパイロットの顔がよく見えたってさ。
執拗に何往復も機銃掃射するので、最後は首をぐるりと廻して敵機を眺めている奴もいれば、
ビビリながらひたすら地面にへばりついている奴もいて、同級生を観察するのが楽しかったって。
格納庫に2機入っていた日本の飛行機は、あっという間に格納庫ごと破壊されたけど、
地面に伏せている生徒達は全員無事で「弾って意外に当たらないモノだなあ」と思ったってさ。

戦争が終わって、予科練から友人が帰って来て、機銃掃射された話をしたら
「飛行機は立体物を撃ちぬくのは簡単だが、超低空で地面の目標に当てるのはとても難しい。
みんな伏せていたから無事だったんだよ」と教えてもらったってさ。

249:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/11 00:16:04.30 srv4rhg40
射的で的を狙うときに、立ててある空き缶に当てるのは簡単でも、寝かせてある本に当てるのは難しい、みたいなもんなのかな。

250:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/11 21:55:28.09 vIdTR4Iy0
学校のグラウンドで競馬をしていたらしい
今70代の人も知ってるから戦後もしていたのか?

たぶん金は賭けてないんじゃないだろうか 1着とかじゃなくて 横綱みたいな呼び方していたように思う


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch