11/12/09 01:41:48.28
魏志倭人伝に男王立って
七、八十年後に倭国が乱れ、卑弥呼を共立したとある。
この卑弥呼を共立の年を西暦にすると何年になるのかという問題は生じるが、
後漢書には、「桓霊の間」(146~189年)、梁書 倭伝 は「漢霊帝の光和中」(178~184年)としてある。
新羅本紀は「安達羅王二十年五月倭王卑弥呼遣使」とあるはずなので173年周辺でしょうね。
20:日本@名無史さん
11/12/09 01:48:50.28
ん~?どうなん?
天皇と正月、どっちが先なんて決めれないんじゃないんですか?
21:日本@名無史さん
11/12/09 01:56:17.77
天皇号って、天武か持統からでしょ。
正月って家族全員が年齢を更新する日だから、
正月の概念はもっと古くからあったと思うけどなあ。
22:日本@名無史さん
11/12/09 01:58:01.74
>>21
聖徳太子の時代にはすでにあったのではないかと言われてるんですよ。
はたまた、敏達天皇時代ていう人もいるぐらいですし。
23:日本@名無史さん
11/12/09 02:03:13.78
文献的な記録では天武か持統からと言われてると思う。
でも、実際は、もう少し早く有ったのではないかと考える人が大半ではなかろうか。
正月はメデタイといいますか、祝い事ですから結婚でしょうね。
24:日本@名無史さん
11/12/09 02:13:44.22
兎に角、邪馬台国には関係ないな
25:日本@名無史さん
11/12/09 02:13:49.66
我々の先祖が年齢を数えるようになったのは、おそらくもっと古いと思うんです。
季節を意識して農業を営んでいるような民族は、自分の年齢が1つ増える日を
意識していたと思うんです。まあ、根拠はありませんがね。
26:日本@名無史さん
11/12/09 09:23:19.08
>>21
天皇の名称自体は、聖徳太子の頃に既に使用されていた形跡がある
ただ、正式に称号として認定されたのは天武の頃からかもしれん
27:日本@名無史さん
11/12/09 10:10:35.16
>>21
「日本書紀」によれば、欽明天皇のとき、
百済から暦博士を呼んで導入したことが書かれてある。
このころには日本人は暦を知っていた。
また、三角縁神獣鏡が国産だったとすれば、弥生時代の日本人が
中国の暦を知っていたわけで、更に暦は古い。
年代という概念(子供・若者・中年・壮年・老人)は古代からあったと思うが、
自分の年齢を正確に把握していたかと言われるとどうでしょうね。
ギネスブック認定の世界一長寿、泉重千代さん(1865~1986;享年満120歳)は
割と最近まで生きておられた方ですが、近所の人の話によれば「もっと若かったはず」。
幕末、慶応の生まれなので庶民の戸籍が作られておらず、
正確な生年が分からなくなっていたとも言います。
28:日本@名無史さん
11/12/09 10:12:05.72
>>26
推古天皇のときに派遣された遣隋使が天皇の呼び名を
「姓はアメ、名はタリシヒコ、オホキミと号す」と隋で語っているのだから
天皇号はなかっただろう。
29:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/12/09 10:15:44.53
>>10
当時は一般人では文字が読めない者ばかりで、読めるわけがない。
特殊な教養を身につけた奴が朝廷にいて、彼らなら計算出来えることと
なる。当時の農民は天空の月の満ち欠けを見てなら、おおむね月齢を体で
知りうることは出来る。
明日は皆既月食だね。これも数日間経ることなく数時間で終わる。日食も
当然数日間も経ることはない。それでも強行するなら、まぁ、精神病院に
行くんだな。脳内を診てもらえ。
30:USボーカルスクール名古屋校生
11/12/09 10:19:06.20
で、卑弥呼が朝貢したのは景初3年が正しいんだよね?
2chでの総意はどうなってるの?
31:日本@名無史さん
11/12/09 12:52:20.49
>>28
いや、だから、正式称号として「天皇」があったということではない
あくまでも日常用語的な意味であったのではないか、ということ
32:日本@名無史さん
11/12/09 13:44:41.29
>>31
姓=世襲の号のようなもの
名=個人を特定する固有名詞
号=普段呼ばれている称号
姓名がいわゆる正式称号、日常語読みが号だろう。
推古朝では正式称号も日常的にも天皇という語はなかった。
ちなみに「天皇」が日常用語で使われることはまずない。
長らく、天皇の日常用語読みは「主上(おかみ)」「帝(みかど)」であって、
「天皇陛下」が呼び名となったのは明治時代以降だよ。
33:日本@名無史さん
11/12/09 14:35:56.94
古代でも、「家族全員が正月に一歳、齢を増やす」と思うんですが。
だから生まれた日にちはどうでもよくて、正月が大事だったんでしょう。
また、正月は一年が生まれ替わる日で、生活のスタートラインです。
鬼が来て春が来て一年がここから始まります。
天皇云々は、正月の重要性に関係ないと思いますよ。
34:日本@名無史さん
11/12/09 15:12:19.11
>>33
正月の概念は暦が導入されてからだよ。
暦がない時代にも春夏秋冬は知っていただろうが
正月を祝うとか正月に1歳年を取るとかそんなことはやってない。
そもそも糞寒く収穫物もない1月(旧暦では2月)なんて一番辛抱のとき。
庶民たちは収穫祭である秋祭りを一番派手にやって祝ってたよ。
35:日本@名無史さん
11/12/09 17:49:51.54
邪教畿内教の敗残兵がまだ抵抗している。
往生際が悪い。
36:日本@名無史さん
11/12/09 18:02:30.05
,.r.:::;;;;:ュ、
fイ´__ __ヾ
{:六;;;;:ハ:;;;:カ
(_ ' _^_ヽリ なんだ AKBって整形した反日朝鮮人だったのかァ
,人 l⌒l、 ブームの捏造手法が寒流と同じだけはあるな
/ \,ゝヽr' \
/ |:| ヽ
l l /´匀 l !
|___l ノ ,イ !__,}
37:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/12/09 18:38:29.41
暦も持たない民族を魏・晋の冊封体制に組み込めるか?
ホケノ山→箸中山→桜井茶臼山→メスリ山と60~100年の間に文化・文明度はかなり上がっている。
文字を持たないともできそうな当時、倭国内だけで文化度があがったとはできない。
初期古墳は、祭祀器物といわれるが、鏃・刀剣・楽浪鏡のホケノ山から大量の槍と△鏡にまで副葬品はひろがる。
かなり密な行き来が大陸、半島とある。暦が無くてはは、連絡にさえ支障が出る。
倭人伝は倭国を冊封体制に組み込んだ時の文献である。
牛馬のいない倭国でも、箸墓築造当時には、大和に牛馬がいたと出来るのがアブミである。
これだけ魏が関与している以上暦は存在した。
中国の暦と干支が整合しない事実は、さらに昔から暦が存在した証拠となる。
まあ、整合しないから暦は存在しなかったとの主張もあるが。
38:日本@名無史さん
11/12/09 19:11:09.44
冊封体制なんて、今日の色眼鏡を通した国際関係であって、
三国時代にそんなものはない。
39:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/12/09 19:20:34.14
晋書より
平州。案禹貢冀州之域,於周為幽州界,漢屬右北平郡。後漢末,公孫度自號平州牧。
及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,居襄平,而分遼東、
昌黎、玄菟、帶方、樂浪五郡為平州,後還合為幽州。及文懿滅後,有護東夷校尉,
居襄平。咸寧二年十月(276年),分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州。
統縣二十六,戶一萬八千一百。
東夷校尉文俶父欽為繇外祖諸葛誕所殺,[五]文俶 見卷三校。 繇慮俶為舅家之患,
是日亦以非罪誅俶。
公孫氏、東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,
(東夷九種)を東夷九國にしてその他は各九國に付して治めた可能性が有る。
公孫度→康→文懿→欽→東夷校尉文俶。
文王(俶)生於東夷。東夷の中で生まれた文俶は東夷校尉となり、291年 文俶は惠帝
(290~306)に仕える。
東夷の中で生まれた文俶は東夷校尉となる、
266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。(東夷九種は東夷9国となる。)
280年。281年。282年。286年馬韓等。287年。288年。289年。290年。
291年 永平元年 東夷校尉文淑庚戌,免東安王繇及東平王楙,繇徙帶方。
東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。東夷校尉を離れた文淑を東夷が尋ねる。
278年には東夷9国が出そろう、この中に倭国も含まれる。
北部九州の布留式と半島の土器はこの時代からである。