謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!57at HISTORY
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!57 - 暇つぶし2ch834:日本@名無史さん
11/08/07 20:43:26.60
ところで日食が数日続けて起きるのは証明出来たの?

835:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/07 21:25:15.90
>鏡作神社の鏡の改鋳は、崇神6年9月3日だな。

この主張は、△239年鏡銘文の元と成る鏡が崇神6年に存在したと言いたいのか?
△鏡が全て仿製鏡でも構わないが、その元と成る画像が何時舶載されたか?
楽浪鏡は230年代であろう。しかし、△縁鏡の元と成る鏡が洛陽に登場するのは
晋時代に入ってからである。
だから仿製内向花紋鏡は造れるが、景初3年銘鏡の元と成る画像、画文が輸入されるのは3世紀後半である。

だから太国の書き込みは、整合する文献とはならない。



836:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/07 21:33:39.54
三角縁神獣鏡は四世紀に大和朝廷のもとで作られた国産鏡である。 「卑弥呼に下賜された魏鏡」ではない。
「三角縁神獣鏡は魏の鏡である」という仮説は他の多くの諸事実をうまく説明し得ない。

私の説ではないが、三角縁神獣鏡が卑弥呼と重なることは無い。
全くその通りである。


837:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/07 22:13:29.17
舶載鏡でないことは王さんと言ったか、オマエの故郷らしい中国の学者さん
がそう説明してるぜ。これは権威がある。
過去にオマエの言う△が舶載だという論は成立しない。このことは、500枚
とか多出しているこれらの鏡が卑弥呼と無関係だということを物語る。

つまりオマエの言う畿内邪馬台国説は成立しない。オマエのは、現今で
いえばエリザベス女王が英国にいて邪馬台国が日本アメリカだとか言う
も同然であり、このような支離滅裂のオマエの論はボロがここでも丸見え
だということだ。ww オマエはひどく浅薄なのさ。

838:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/07 22:21:40.06
>>834
宿主の計算にデカイ誤りがある証拠である。

つまり奴の計算は全然デタラメだということだ。
まぁ奴は猿の惑星とかデンパ星とかに日食が数日間も継続するという
すごい天体があって、そこのデンパ星人とかから「こちらでは日食が
数日間も続くんだ」というデンパを奴がピピピ・・・と受信してると
なれば、大宇宙は広大無辺であるからして行ったこともないので、
ニヤニヤ ないとは言えないと奴に言ってやるほかはないだろう。w

839:日本@名無史さん
11/08/08 11:26:30.90
おまんらの論争、書籍化しろ。
挿絵入りで出せ。

840:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/08 19:54:49.13
>>833
>崇神6年9月3日だな。

↑この日付は何に合わせた日付なのだ?
太国が後付けを主張する書記の太陰暦に合わせたものでは無いだろう?
1年が180日の太陽暦に合わせたのか?
太国3倍年に合わせたのか?

その辺の主張が無い限り使い物にならない。
かわいそうに。



841:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/08 22:03:29.29
そんなヒマがあったら~
オマエの日食が数日間続くとかいう計算値が合ってるのか、とでも
考えろ

これはオマエの算術がゴミだ~といことを意味する。つまりジョーカーの
言うゴミクズ・レベルだから、日食の暗黒時間が数日間も続く数値を
オマエがハジき出したというザマだ。ww

昨日あたりも書きこんだろう。その年月日は 鏡作神社 の由緒等からだ。
これはゴミではないぞ><

842:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/08 22:14:02.82
>>840
~西暦42年

↑この年代は何に合わせた年代なのか?

この辺の主張が無い限り使い物にならない。
かわいそうに。

843:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/08 22:24:59.53
>その年月日は 鏡作神社 の由緒等からだ。これはゴミではないぞ><

だから~その年月日が、書紀から採用されたもので有るならば、
太国が、”後付け”と主張して捨てた日付なんだろ?
その捨てた日付を他から拾い出して「どうだ!!」といわれてもねえ。

3世紀半ば過ぎの西新町遺跡には、半島の土器とカマドが存在する。←ここを神功渡海とすれば、
270年代に渡海を設定出来る。
それから、110年後が誉田御廟山であり、百済王家は倭国に臣従する時代の記録である。
書紀は、百済記の記事を年の干支で合わせている。
しかし、百済王家の年の干支は百済本記と整合しない。だから倭国の記録である。
であるならば、400年前後に高句麗が南下し、百済を属国としたときの記録は記載されない。


844:日本@名無史さん
11/08/08 22:40:53.83
卑弥呼は神功皇后に殺された、あり得ませんかね?

845:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/08 22:58:12.66
>書紀から採用・・・
笑わせるな。wwwww
書紀とは別の伝えだね。>のオマエの仮定は成立しない。

846:日本@名無史さん
11/08/09 07:15:04.45
>>844
記録で証明できない妄想は疲れるだけかと……。

847:日本@名無史さん
11/08/09 15:06:10.58
>>846
ありがとうございます

848:日本@名無史さん
11/08/09 22:29:08.19
私は卑弥呼。
僕は彼女の付き人さ。

849:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/09 22:46:11.41
>書紀とは別の伝えだね。

であるならば、書紀の年月日を後付けとして無視する事は出来ない。
よって、太国倍年は潰える。
かわいそうに。


850:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/09 23:16:10.08
>>849
コチラは別に無視していな~い。オマエのように大金(年代)を動かす
ときに万札よりも,終始小銭がどうのこうの何枚だ何枚だ~~~~と、
[こればかり]強調している○ぬけな野郎だということだ。それは日数
(小銭)も軽視してはならない~1円を粗末にする奴は1円に泣くとか
の話があるからな。格別にその機に応じて小銭(月日)を出すのは当然
だ。がしかし万札をなおざりにして編年において小銭のほうを何枚だ
不足だ~~とか四六時中能書きを垂れて○呆のように小銭のほうばかり
こだわっている。要領が悪いのがオマエの脳内だ。そんなに小銭の計算
など編年には必要がな~い。必要があるとき格別に出して使うのが適正な
小銭(月日)の使用なのだ。それを捨ててるとか言うオマエの誤解釈は
支離滅裂の見本であ~る。

何枚だ~は南無阿弥陀だけでよい。><

畿内から△鏡が多出するのは、景初3年が鏡作神社の由緒
たる崇神6年近隣に位置してるからであり、景行元年にはそんな事象を
関連づけるモノは見当たらな~い。つまりオマエの編年はデタラメなり。

851:メ
11/08/10 11:40:24.70
>>844

あんた、関ゆーじ邪馬台国本の読み過ぎだぁぁ


852:日本@名無史さん
11/08/10 20:07:16.35
>>844
卑弥呼が亡くなったのは西暦248年でほぼ確定している。神功皇后が応神天皇
の母君として実在した方と認めても、その年代は西暦350年から400年ころ。
どうして貴方の推測が成り立つの? 関ゆーじ氏が最近、ぴーえっちなんとか
から干されてしまったのは、そういう時代考証をせずに書き散らしているから
だそうだよ。

853:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/10 20:59:44.51
>時代考証をせずに書き散らしている

神功渡海とできる時代は、西新町遺跡に布留式と半島の土器が共存する時代である。
纒向でいえば、桜井茶臼山が磐余稚桜宮の時代であり、110年後が誉田御廟山である。
神功・応神にかかる百済王朝は、倭に臣従する時代であり、高句麗が南下した
400年を過ぎることはない。

神功紀とは、倭人伝景初3年に合わせる為に空白年を設けている。
だから、この空白年は現実の時間が流れている。
274年 神功渡海。
275年 神功元年。 273年の日食が指標である。
323年 神功49年 半島占拠、百済建国はここが指標
326年 七支刀。
ここから、50年ほど臣従する百済王家。


854:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/10 22:42:04.96
神功当時、朝廷は色即是空の思想を持ち合わせていな~い。
何のデカイ利害など存在せず、宿主空年の設定などするわけもなく、
そんなことをすれば、当時での公文書偽造罪で身の危険が切迫するため、
そんな設定をするやる必要もなく、この論はデタラメであ~る。

なお日食は数日間も継続しないから、神功初年前年の紀の記事は日食には
ならない。


つまり宿主空年は完全なデタラメ・インチキである。

855:日本@名無史さん
11/08/11 00:43:40.41
>>851
関裕二さんも言ってるんですか?
自分は別の所でこの情報を仕入れました
もしかしたら関裕二さんの書籍だったのかもしれませんね
自分は全体的に井沢元彦さんの見解に興味があるのですが、卑弥呼については神功皇后に殺されたという仮説が面白いと思います

856:日本@名無史さん
11/08/11 01:23:22.07
>>852
手元にある資料には応神天皇の生没が200年~310年111歳(かなり怪しいですが)と記載されているので卑弥呼と神功皇后は同時期に存在したのではないかと(だとしても神功皇后はもう年寄りですね)
この資料自体怪しいのでしょうか?

卑弥呼が神功皇后に殺されたという仮説は面白いと思っただけです

こちらの聡明な方々のご意見をお聞きしたかった次第です

857:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/11 10:12:00.30
神功皇后と卑弥呼とでは年代が100年以上違いがあるから、神功が卑弥呼を殺害
するという仮設は成立しないな。

なぜこんなに年代差があるのかというと、卑弥呼生存の相当年代に神功に
かわる女王的人物が皇統にいなかったためで、神功は即位してにないが摂政だと
いうことで、紀の編者らが卑弥呼が神功ではあるまいかという考えを多かれ
少なかれ持ってたことから、神功紀に卑弥呼の記事を挿入したもの。あとは
以下のとおり。

編者らは紀の原書群の中に他に卑弥呼に当たる相当人物がいなかったことで、
こういう迷いから、神功紀に記事を入れこんだもので、また相当人物がいない
ということは、(百襲媛は即位も摂政もなっていない)卑弥呼が畿内の女王
でないことを物語る。つまり卑弥呼は九州の人物だということだな。

また百歳以上の意味の超長寿の記載は、当時朝廷が倍暦を行使してたため、
このような数字になっていたということだ。2倍暦ならば100歳は50歳になり、
妥当な年齢だということが確認出来る。また朝廷は複雑に世代世代で暦法を
変更して来たものであり、これが記と紀の年代が合わない因になっていると
いうことだ。単純に紀とか古史古伝の日数から逆算しても、世代で暦法を変更
してるから、正確な神武までの古代の年代を正確には復元不能である。これを
分からず暦法の変更改正を把握しないと、日数逆算を単純にしてもクソの役
にも立たなくなるから、他の手を考えねばならない。

858:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/11 11:15:30.48
神功前紀 渡海。
大和勢力による渡海は,初めてのことであるから、斥候を派遣してから、本体の渡海である。
渡海時に大きな戦闘は記録されていない、にもかかわらず、新羅などを、臣下にしたと書かれる。

渡海を設定出来る時代は、3世紀半ばの西新町遺跡、布留と半島の土器が共存する、大倭が伊都国
に1大率を置いてから20年ほど過ぎた晋時代、274年が渡海である。その目的は、晋の要請に
よる、1大率の行為を半島で行う為である。だから、仲哀の死でも渡海を中止させられなかった。
そして、第1回目の渡海としては成功の部類に入る。しかし、仲哀の死は、その後の内戦を招く。
274年応神誕生。275年神功元年、指標として273年の日食が元年記事となる。
ここから40年弱の空白を、女王卑弥呼の“歴年無主”とする書紀ではある。
この“歴年無主”の空白は、時間が経過している。そして、この空白の時代に、大和で前方後円墳
が造られ、唐古・鍵遺跡の環濠の復活がある。
275年神功元年 磐余稚桜宮、この実態はまだ編年に組み込まれていないが、この指標として
桜井茶臼山が充てられる。桜井茶臼山から誉田御廟山までの時空が110年である。
秋津遺跡は、4世紀初めから複数回の立て替えがある、と説明されている。
続く

859:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/11 11:16:20.86
続き


860:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/11 14:40:18.86
神功元年前年の記事は日食にはならない。こんなイカサマにはちょっとオツム
の良い小学生でもそんな〇鹿なはずはないくらい、容易に選別できる。ww

つまり日食は数日間も日を経て継続しないことから、日食にはならない。
これは現代天文学の鉄則であり、脳内ホツマはこれに従う。

861:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/11 15:24:44.49
>神功元年前年の記事は日食にはならない。

その対案を示せない太国倍年は、なんなのか?
纒向遺跡の年代さえ否定してやっと成り立たせているが、整合する文献は皆無である。
脳内金木算木はこれに従う。


862:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/11 15:53:04.27
崇神天皇十年 秋七月丙戌朔己酉。詔群卿曰。導民之本。在於教化也。今既禮神祇。災害皆耗。
然遠荒人等。猶不受正朔。是未習王化耳。其選郡卿。遣于四方。令知朕意。
崇神天皇十年 九月丙戌朔甲午。以大彦命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彦遣西道。丹波道
主命遣丹波。因以詔之曰。若有不受教者。乃擧兵伐之。既而共授印綬爲將軍。

崇神10年秋7月 諸卿を召して曰く。まつろわぬ民を導かねばならない。今こそ民に教える時である。
今は、神祇に礼をとり、災害で皆が疲弊している、然るに遠くの荒人等は、なお朝廷の正朔(暦)を受け入れていない。各地の臣を選び四方に使わせて我が意を伝え知らせよ。
9月 もし聞き入れない者があれば、すなわち兵を挙げてこれを伐。

太国は、書紀の季節も正朔も無視する。
その太国が「紀記に合わせろ」。言っていることの整合性が取れていない。


863:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/11 17:23:33.73
オマエの盲象より、現代天文学の鉄則が日食論を支配する。ホツマは
現代天文学に拘束される。拘束されないで神功元年前年の記事を日食だと
頑張る野郎は、精神病院へでも行くんだなぁ。ww

日数計算に拘って後代から毎・日数計算を積み上げても、各世代の途中に
暦法の変更があることから、この単純計算をやってて合ってると思いこん
だら大間違い。つまり暦の変更で、日数干支の単純逆算の精度がダメに
なる。つまり小銭計算に囚われては労して功なしの無駄な労働。ww

逆算の年代の途中に、不意な事象が暦変から予測される。よって単純計算
では合うことはまず無い。

864:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/11 19:15:05.99
>各世代の途中に暦法の変更があることから、

暦とは、継続するからその変化を読み取ることが出来る。
太陰暦から太陽暦に暦が変化しても、24節季が変化することはない。

>現代天文学の鉄則が日食論を支配する。
だから、神功元年の”あづないの罪”を273年の日食と断定できるのである。

>逆算の年代の途中に、不意な事象が暦変から予測される。よって単純計算
では合うことはまず無い。

倍年では整合性が得られなかった。という結論を太国は得た。
倍年で崇神5,6年の出来事を説明出来ないことは最初からわかっていて太国倍年を編み出す。
強引に倍数で編年しても正解が得られないことを、太国は証明した。
そんなことだろ?


865:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/11 19:33:01.12
日食が数日間継続しな~い。あづないなんぞの抽象語で誤魔化しは
効かな~い。ホツマの脳も現代天文学の厳しい鉄則から、インチキだとの
レッテルを貼られる。日食はたかが数分間の事象であり、とてもとても
常夜とは言い難い。

色即是空は当時朝廷は感知していな~い。つまり宿主空年はデタラメで
あ~る。なおホツマとは昔のそこいらのタダのオッサンの妄想入り文で
あり、カリスマ化を企てる宿主も、大中臣の下命の前に朝敵と認定される。

866:日本@名無史さん
11/08/12 23:18:39.37
今から1800年くらい前には、月の起動と地球の公道の傾きがほぼ一致していた。
したがって、日食や月食が今よりずっと頻繁に起きていたし、条件によっては毎日起きたでだ。
付近を巨大彗星が通過したといったことで、月の軌道というものは簡単に変わるものなのです。
それがわからないのが物理学の限界。想定外ということでしょう。

867:日本@名無史さん
11/08/13 12:45:58.54
女王国に対抗する国の男王は、ヒミイコと倭人伝に出てる。
この男王について比定した研究は無いのかな?

868:メ
11/08/14 11:15:09.24
ある、ある
よくさがせw


869:日本@名無史さん
11/08/14 21:38:31.44
纒向遺跡なのですが、2世紀末に突然現れて4世紀の中頃に突然消える。
纒向遺跡の出現と消滅は、おおやまと古墳群の盛衰と一致します。
巻向遺跡を造って、そして去っていった部族というのは、移動する部族なのです。
移動式神殿を持つ伊勢の勢力こそが巻向遺跡を造った張本人。
移動式神殿を持つ古代シュメールこそ女王卑弥呼の正体。

870:日本@名無史さん
11/08/15 23:44:20.12
>>869丸一日、誰の反論もないところを見ると、それが真実ということで決定ですね。


871:日本@名無史さん
11/08/16 01:25:45.81
アマというのは漁師を意味する。
キリスト教徒も漁師を自称している。
神道はキリスト教が原型になってることは明らか。

872:日本@名無史さん
11/08/16 08:23:25.60
>>870
誰も反論しないのは、取るに足らない意見として無視しているだけだよ。

>>871
神道とキリスト教とどちらが歴史が古いのか知らんのかい。

873:レス長たらし毘古
11/08/16 15:04:25.06
>844
>卑弥呼は神功皇后に殺された、あり得ませんかね?

当方の仮設想定では卑弥呼ご本人が神功皇后に殺されたとは想定していません
が、卑弥呼と呼ばれた人物の王権の伝承者が神功皇后によって殺された、或は
神功皇后によってその伝承は封書(あくまでも口承の上での封印と言った
意味で「封書」と記述、当時は書物の有無はここでは不問)されたと言う想定
は成り立ちます。なぜなら、卑弥呼の外交は、大陸の権力争いに対して嫌戦的
で比較不平等容認的であるのに対し、神功皇后の外交は、大陸の権力争いに
対して史実どおり(むしろ夫の仲哀天皇よりも)好戦的で積極的だからです。

つまり、(数世代後と当方想定の)神功皇后の外交にとって、(もし存在して
いたならば)卑弥呼の外交は、「邪魔たい」になってもおかしくないほどの
外交方針の相違が二人の間にはある事を当方は重視します。

874:レス長たらし毘古
11/08/16 15:14:44.84
>>869
>纒向遺跡なのですが、2世紀末に突然現れて4世紀の中頃に突然消える。
纒向遺跡の出現と消滅は、おおやまと古墳群の盛衰と一致します。
巻向遺跡を造って、そして去っていった部族というのは、移動する部族なので
す。

その突然の生滅を、移動する民とする想定は、傍証があると更に面白いかも
しれませんね。そこらへんは今後に期待します。当方の仮設想定では、その
突然の生滅は、「九州王権の近畿への(植民地)派出所の生滅」と想定して
おります。あ、レスしんかったのではなく、夏の風物詩の連座規制で身動き
取れなかっただけなんねんな。数日反応が無いくらいで、あきらめないで!

875:レス長たらし毘古
11/08/16 15:43:09.92
えーと、目立ったオミアゲとかもないですので、ちーとだけ雑談を。最近は、
愛媛が何故、中世~近世の行政区分で「伊予」と呼ばれるか?についてと、
中国古代史(や古代神話)に関してイロイロ調べたり考えたり妄想したりして
おりまして、直接卑弥呼様とは関係無い無駄骨を漫然と繰り広げています。
(それもあってご無沙汰していますが、え?ご無沙汰しっぱなしで良い?)

伊予の国の位置付けは、多分、対大陸平時と対大陸有事では、物凄く違った
物になるであろう事は容易に推測できます。従って、もし対大陸有事を想定
するならば、その立場の権現でもある神功様にとって、果たして伊予の国は
いかなる物に成り得たのか。また、まだイヨ(イトでも当方は可)が後継する
以前の、対大陸有事を回避する方針を明確に採った卑弥呼の時代において、
伊予の国はいかなる位置付けであったか。。。

伊予ロマンからのアプローチも、これまた大いに夢を含む内容になって来そう
な感じもします。ちなみに、万葉集にて額田王さんが、伊予界隈を歌にも
歌っております。近現代では今ひとつ陰が薄い伊予(愛媛)ではありますが、
その温度差のまま「当時の伊予」を考えるとイロイロ落とし穴に陥ってしまう
かもしれません。瀬戸内海の凡そが、もし一つの均一的国際法が実施できる
程の治安的秩序が実現しているならば、一つの可能性として、伊予の地は、
(もし仮に九州の北西部を政治経済の中心地と想定した場合)「充分副都心
(若しくは衛星都市)に成り得る資質を持ったお土地柄ではある」この点が、
近現代目線からは無視されやすい落とし穴なのかもしれません。

さて、これにて先述の「神功は卑弥呼を殺したか?」に関する当方の見解は
説明し尽くしたも同じです。はい、当方の想定では、神功様は、伊予(か
その子孫の誰か)を葬っている可能性の余地が生じます。もちろん、現段階
ではあくまでも可能性ではありますが。

876:レス長たらし毘古
11/08/16 15:59:36.47
雑談の続きですが、賢明なる皆さんは私以上にご存知だとは思いますが、古代
ギリシャでデロス同盟と言う同盟があります。これは政治経済の要衝でもない
一つのデロス島という土地で、全ギリシャに散在する首脳陣がトップ会談を
行う同盟会議の場所として有名です。
伊予の国(四国)は極東アジアのデロス島みたいな位置付けだったのかもしれ
ませんね。あそこなら地理上、瀬戸内倭人域や倭人域東国(現在の中部地方)
や朝鮮半島や大陸北魏地方から、それぞれの代表者や外交官が集結しても
おかしくはない地理関係にはなるのです。

877:日本@名無史さん
11/08/16 16:02:27.80
ううう長たらしいよお

878:レス長たらし毘古
11/08/16 16:10:28.99
この仮設想定の延長上に立った場合、つまり、瀬戸内海倭人域はギリシャ
ヘレニズム文化域の如く例えられ、伊予の国はデロス島に例えられます。
イヨ(イトでも可)の共立をもって、最終的に手打が決まった点なども含め、
それはデロス同盟に例えられるかもしれません。
しかしながら、デロス同盟の顛末が、その同盟費用(同盟権利)の一都市集権
(私用に流れたとも言われる)に傾向していったように、つまりは伊予同盟の
果実、即ち伊予柑のような東亜秩序の同盟権利は→大和王権→神功王権、へと
流転して行くのであります。

こうして、桃の時代は伊予柑の時代となり、それらの果実を最終的に座りし
ままに食うは大和王権、とこのような流れで妄想してみます。

879:レス長たらし毘古
11/08/16 16:29:23.12
さて、伊予の末裔を「葬っている可能性」と先述しますが、当方はその方向は
まだ確証も無く判別の外に置いております。しかしながら、次の二つの可能性
しか存在しないという見解までは範囲を狭めております。
①伊予の末裔を神功が葬った可能性
②伊予の末裔こそが神功である可能性
上記いずれにせよ、伊予(伝承や王権)の末裔に、大いに関与している神功様
と言う図式は、幸か不幸か不変なような気もします。大局の陰と陽のように、
伊予様と神功様は、悉く「真反対を向いている」点がとても象徴的なのです。

さて、ここで当方が重視する日本古代神話の三人の女性のご当地を考えて
見ましょう。(卑弥呼さんは外国書物にしか存在しないのでここでは割愛)
神功様=大阪~兵庫、百襲様=淡路島、豊玉様=北九州
はい、この地理関係において、淡路と北九州の間にありうる地方権力集結地点
として制海権上、吉備出雲と同じくらい、「伊予の国」が重要である筈なの
です。しかしながら、記紀における伊予の国の扱いは殆ど薄く、わずかに派説
や万葉集などの文化的散文集にその地の名を留めるだけにすぎません。

なんでじゃろぅなぁ? って思ってしまうワケだね。

880:レス長たらし毘古
11/08/16 16:49:05.51
で、情報少なく浅学の今の私としての感想としての結論は、

「東洋のデロス同盟にもあたる伊予同盟は神功様にとっては非常に不都合?」

つまり、実際に葬るかどうかは別としても、神功様が対馬海域を渡って朝鮮
へ遠征する為の、政治的な二大障害の一つであるのです。(あくまでももし
伊予同盟が実在していればの前提条件の上での話にはなりますが)
そこで神功様の半島遠征の為の、内政的障害を次の二点に当方は想定します。

①仲哀大王等による、対大陸消極派の政治力
②伊予同盟による、神功代まで続く極東安全保障方法論の故習慣習力

ところが、幸か不幸か、あるいは故意か偶然かによって、この上記二つの
「渡海への障害」は、神功様の目前から「結果として消え去」ってしまうの
です。これが古事記の正式見解です。①は神が仲哀大王様を「裁いた」と言う
形で描かれ、②は「伊予ってだあれ?」としらばくれた。これが神功以降、
前古事記時代までの、権力におもねった「主流解釈となった」とする妄想。

881:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/16 20:08:58.36
>>873
>神功皇后の外交は、大陸の権力争いに 対して史実どおり(むしろ夫の仲哀天皇よりも)好戦的で積極的だからです。

神功元年をどこに特定するか?
元年のあづないの罪を273年の日食とした場合、
神功元年(275年)=神功52年(326年)七支刀。ここから倭に臣従する百済王家の記録は、倭で記録される。
応神天皇二五年(甲寅二九四)百濟直支王薨。即子久爾辛立爲王。←368年の記録と成る。
応神天皇は、384年に死亡し、誉田御廟山に葬られる。時年110才(274年誕生)

274年渡海、福岡西新町遺跡の布留式土器と半島の土器、カマドの共存する時代である。
神功(大和勢力)は渡海ルートを知らない、だから、先に斥候を派遣しその後で渡海する。
この状態で戦闘は考えられない。しかし、新羅までを傘下に置く。
ありうる事実は、伊都国に置いた1大率の行為を半島で行う為の渡海であり、晋の要請、渡海命令に基づく。
渡海命令であれば、仲哀の死より渡海が優先される。半島で戦闘は無くとも新羅の上にたてる。
この時代の古墳には、武器より祭祀器具の副葬がが優先される。この事実は、神功渡海が戦闘行為の結果でない
事を表す。
神功49年 半島占拠。ここでも戦闘の記録は無い。1大率の行為が存在した為である。
神功52年 七支刀 百済は、倭に臣従し、朝貢を絶やさない。400年前後の高句麗の南下以前の出来事である。
つまり、書紀に記された百済王朝は、400年を越すことは無い。
413年 允恭3年には、百済・新羅が高句麗の属国であることを認める。


882:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/16 22:31:39.80
>>881
273年の神功紀の神功元年前年の記事は日食にはなら
ない。紀でも大成経でもここの記述は 日と経て
と、数日間暗黒が継続したとある。

273年の日食でも暗黒はたかが数分間であり、これで
は記述の常夜の状態とは言えない。つまりインチキ論
である。これは天文学からの計算式で、日食の暗黒
時間が1時間にも満たない数分で終わる現象で
あることからも、日食説は暗黒計算式算出結果を
観れば自明である。

なお 192,3年≠崇神5,6年

これは右辺当時の飢饉災害と今回3/11の大地震災害の
被災者の状態を調べれば、たちどころに等号の主張
がイカサマであることを確認出来る。

883:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/16 23:15:44.33
新羅本紀
158 倭人が訪問
173 倭の女王卑弥呼の使者来訪
193 倭人が大飢饉となり避難民到来
208 倭人が侵入
209 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る←任那建国。
232 倭人が侵入し金城を包囲
233 倭軍が東部へ侵入、倭の船を焼く

北史 より 至邪馬臺國,即倭王所都。
靈帝光和中,其國亂,遞相攻伐,歴年無主。

倭国は、190年代から不安定になる。
208年には、船を仕立てて新羅へ攻め込む。=倭寇の始まり。であるならば、
193年時点で、大量の民が渡海出来るだけの船は存在する。
その証拠として、崇神時代(209年)任那建国が存在する。

崇神世(238年頃から)では、任那建国が存在しない。
だから、崇神元年≠237年、崇神2年≠237年、崇神3年≠237年。
この様な編年設定は村座有為出来ない。
崇神5年=疫病(凶作)=新羅192年、または、後漢193年
崇神6年=民の離散(逃散)=新羅193年。
崇神7年冬=民は糧を得た冬である。=194年

考古学:2世紀末纒向遺跡に各地の土器が持ち込まれる。=崇神11年 異俗多帰。

>>882 は、考古学を認めない。
とはいえ、書き換える能力を持ち合わせていない。
だから、駄文を主張するしか能力が無い。可愛そうに。


884:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/16 23:30:00.02
新羅本紀
158 倭人が訪問
   この頃より 山陰に鉄が持ち込まれる。
173 倭の女王卑弥呼の使者来訪
   姫大神 天日矛の渡来。
193 倭人が大飢饉となり避難民到来
   崇神6年。
208 倭人が侵入
   九州では、乱の最中と成る。
209 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る
任那建国。←3国遺事。
232 倭人が侵入し金城を包囲
   奴国は、押さえることが出来ないほど疲弊する。
233 倭軍が東部へ侵入、倭の船を焼く


885:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/17 18:04:01.82
唐松山の成務年代が4年で終わりだというインチキ
は、以下 ↓ のとおり確認出来る。当然、空白年
(西暦0年は別)が存在しないことをこの表は物語る。

【成務5年以後の日本全国の神社等の由緒、伝承】

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務28年 伊曾神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す

つまり宿主空年はインチキであ~る。
なお 崇神5,6年≠192,3年 だ。空腹農民が千人もの多勢では、到底
半島まで到達出来ない。3/11の大震災を観れば出来ないのは当然だ。ww

886:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/17 18:19:36.85
>>883
空白年など紀元0年でない限り、そんなものは
存在しな~い。つまりマシなど行う動機も大して見当
たらず、こっそり不正注入を神武~仁徳ころまで
やっていたという十分な根拠もなく、オマエはそれを
提出できない。そんなマシが無いのは、成務が4年在位
だとか言い張っても全国の神社仏閣等の由緒伝承等で
成務二桁年代がわんさとあるわけで、これは確実に紀
にあるところの二桁年代が存在した文証となることを
確認でき、オマエの主張は退けられる。
正朔だ~太陰暦だ~とえらそうに言い張っても、オマエ
のうるさく言う各日数がどのように紀のそれぞれの記事
に対応し、これが空白年とオマエの言うその両端の年と
どのように合理的に接着が出来るのかというその具体的
説明は毎回避けて表見的抽象計算の数字の羅列で、さも
接着が出来たように見せかけているだけで、事実上
不整合のない各日数の一見して容易に第三者に分からせ
る事例事例を掲げての説明が全く出来ない。これでは誰
も納得なんかするわけがなく、メチャクチャ論だと嘲笑されるのがオチ。ppp
さらにオマエの言う景行28年~40年までが1年でその間
が空白年だとか言うのも、本筋的に先代旧事本紀大成経
の景行36年8月の記事の存在からウソであって、空白年
は成立しえない。つまりオマエのこの表はデタラメであるということだ。
それにこの表がどのように編年されたのかという具体的
容易、明解な説明をただの一度もしたことがなく、
こちらにどこの馬の骨とかも分からない単なる一行程度
の各文を出して丸投げして考えろでは解説にはならず、
これでは全然誰も信用はしてくれず、インチキとして
棄却される0点以下の採点批評となる。つまり全く価値
を認められず、ただのオマエの脳内の大妄想の羅列に
過ぎない。これでは曲学の徒氏も苦々しく思うのが当然
であり、この板には無用の支離滅裂男だとされても致し方ない。

887:日本@名無史さん
11/08/17 18:22:08.53
>全国の神社仏閣等の由緒伝承等
そもそも暦って全国で統一されていたのかどうか


888:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/17 18:37:13.33
>>887
成務××年は現今の平成××年方式ですし、成務当時地方に成務の支配が
行き届いてましたから、問題ないでしょう。

大成経

 5年秋9月普く諸国に令して以って国郡に造の長を立て県、
 邑に稲置を置き・・・

とありますから、問題ないでしょう。

889:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/17 19:46:28.62
>888
>成務××年は現今の平成××年方式ですし、

成務××年は現今と同じ太陽暦で、1年が365日で書かれているのか?
>諸国に令して以って
文字で命令を出せたのであれば、その前に命令が伝達でき、かつ命令を実行する体制ができあがっていなければ
成らない。
誰が何時この命令体系を作ったんだ?


890:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/17 20:05:55.40
>>889
どこに成務を1年365日だと書いてあるのか?
成務年間と平成年間とはカウント方式は同じではあるが、前者は1年が
365日の数え方ではない。違う点もあるのだ。よく読め。

オマエの伊支馬が垂仁とかいう妄想も、まるで平成天皇が平城天皇だとか
抜かしてるようなもので、滑稽の至りだ。ppp

891:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/17 20:12:10.60
唐松山の編年論において、通常人ならアレッおかしいぞと見えるのが
① 崇神5,6年にはフネが無いのに漁師でもない餓鬼百姓
  が千人も渡海したとかいうインチキであり、始めて
  船舶を製造したのは崇神17年であるから、その前に
  フネがあったんなら、なにも始めてという文言は
  入れる筈はない。だからその10年余前にフネは無
  く、日本海の荒波を知らない農民が千人も渡海など
  出来っこない。
② 七支刀のX線検査鑑定ではノギヘンであって、サビて
  変形のため別物に見えることはあろうが「禾」が
  唐松山の言う「宀」年号になるくらいに変ることは
  ありえない。従って唐松山の主張は不可能事で
  あり、これは軽く否定出来うる。ノギヘンがコメ
  ヘンだとかなら、これはサビの変形の主張は相当
  可能性が認められるわけだが、ウカンムリなんかに
  なるわけがない。つまりこれも唐松山の強行の
  インチキ論だということが誰にでも容易に分かる。
③ 奴は伊支馬が垂仁だとか牽強付会
  を独善的に行っており、単に名が似通う部分が
  あるとはいえ、これが等号で結んでしまうことは
  早計である。似た名は古今東西いくらでもあるわけ
  で平成天皇が平城天皇であるわけもなくワカサザキ
  が必ずしも武烈ではないことは崇峻の同名からでも
  分かる筋合いのものであって、等号だと言えるため
  にはもっと合理的根拠を掲げなくてはならない。
  これが臣下伊支馬が臣下の上に立つ天皇の垂仁に
  など下克上もあったとは言えない当時に、イコール
  とするのは小賢しいインチキ論であって、まるで
  映画の「猿の惑星」さながらの人間(天皇)が猿
  (臣下)に支配され、猿(臣下)が人間(天皇)を
  支配するという映画のストーリーを地に行く出鱈目
  論理だということなのだ。

892:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/17 20:18:52.91
 ④ 紀の神功元年前年の記述には天空の暗黒が日を経て
  数日間も継続したとあり、日蝕はせいぜい1~2
  時間の暗黒なわけで、これなども論理の強行が
  独善的に激しく、一見して非科学的であり、唐松山
  の主張はイカサマだということが小学生でも見破れ
  る出鱈目だということが一見して観てとれる。
⑤ 某文で大倭と呼ぶから景行が日本を制覇したと主張
  し、その2代前の崇神は小国の王だとか抜かして
  いる唐松山の論は、まるで風が吹けば桶屋が儲か
  る式の忍者の高飛び的ひどいイカサマ論であって、
  たかが小国の王の孫がとたんに全国制覇したなどと
  はインチキも甚だしく、ならば何故景行を大足彦
  というのに大倭足彦と呼ばずして孝元とか清寧とか
  に大倭がつくことになるのか、ちぐはぐが大きく
  目立つもので、この論もイカサマそのものだという
  ことを確認出来る。
かように唐松山の論は景行固定の編年の捏造を無理に
でもゴリ押ししており、また編年が如何ようになされ
たのか、これも現今まで掲示板に具体的論述をしたこと
が全然無く、映画でいえば新聞の広告を見せるだけに
終始しており、たまにその予告編くらいは見せて全編
見せたふりをしてはいるが、全く本編映画を上映
した編年表の具体的説明をしたことがただの一回も
無い。つねに抽象的かつ支離滅裂的1~2行の書きこみ
で説明したふりをしてるだけで、その具体性については
全く説明がしないでしたふりをしている。。
まぁスレ民の中では評価は最低である。先日1点は
やれたが、これはおまけであって、それ以上の点数
はつけられぬ暴走論ばかりであり、総合的に点数は
大マイナスの有害人物であると観てよろしい。

893:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/17 20:36:02.38
>① 崇神5,6年にはフネが無いのに漁師でもない餓鬼百姓
  が千人も渡海したとかいうインチキであり、

崇神6年に舟がなかったことを証明できない太国倍年(238年が崇神元年)
だから、「新羅本記193年 倭人大餓。」の渡来を「百姓」に置換えて否定しているが
新羅本紀に「百姓」の文字はない。
この主張で、「崇神6年民の離散」を説明したことにならない。

崇神6年 民の離散。これを歴史的事実の中で編年すれば、
新羅193年倭人大餓の為渡来。又は、
後漢193年6月寒風冬の如し。←この翌年。
考古学:弥生後期後半、唐子・鍵遺跡など各地の居住区が放棄される。

太国倍年は、考古学の知見を正しいと出来ない。かわいそうに。


894:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/17 20:54:56.13
>② 七支刀のX線検査鑑定ではノギヘンであって、サビて変形のため別物に見えることは
あろうが「禾」が唐松山の言う「宀」年号になるくらいに変ることはありえない。

七支刀=369年で神功、応神紀を説明できない。
太国主張のごとく、神功元年=350年頃←この数字で渡海するためには、武力が
必要である。しかし、神功渡海は、斥候を派遣してからの渡海である。
この様な状態での武力行使は無い。
かわいそうな太国は、神功元年の西暦を主張しても、本文である渡海の事実を語れない。
本当にかわいそうに。


895:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/17 21:55:09.90
>>893
文証は出している。紀の崇神17年をよく目を開けて何度もつぶれるまで
何回も読め。

日食が数日間も続いても頑張るオマエの脳内は、渡海がどうのよりも
  ↑ をよく考えろ。プハハハ・・・

896:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/17 22:12:11.02
唐松山の言うマシ、圧縮とかいうのはインチキであり、
奴の妄想語以外の何物でもない。それを如実に実感出来
るのは成務が4年とかで終わりだとかいう妄説と、
景行28年~景行40年の間が朝廷の不正注入前のカランポ
年代でありこの間が不正注入のマシの大年増で捏造され
たものだから、当然景行28年は景行40年であるとかいう
論を本気でこの間が虚無だと想ってたんだろう、そう
いう論をゴリ押ししてたわけで、その自信も相当なもの
で、こちら側に左右年代の間の存在する根拠を掲げるの
が本筋だとか威張ってはいたが、これで奴の古代史交通
運転操作が左右確認不履行の脳内大アマであったこと
が  ↓  にて確認できる。wwwwwww

景行36年8月 五十琴姫が五十功彦命を生む

               ~先代旧事本紀大成経

897:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/17 22:13:56.85
マシなんぞやってた国、地域は世界を探してみても
全く見当たらず、かたやn倍年暦はけっこうその行使
していたことが確認できる。例えば古代南バビロニア
の2倍年暦行使を筆頭に古代エジプト、古代マヤ、
アステカ、サポテカでも行使されてたことが容易に
確認でき、現今のバリ島のウク暦(バウコン暦)でも
倍暦行使が行われていたことが分かる。

上の同経の記事と併せて、全国の神社等の伝承、由緒
を調べてみても、成務年代60年が初年のころから末年
近くまで色々と4年を越える年代がわんさと存在し、
奴はゴミと遠吠えするだけで、ゴミとかはこれは論説
でなく、これが論説が出来ない奴の脳内なのである。

奴はこういう諸々の不合理をそれがしから毎回指摘され
てても一向に奴が妄想だと気付けないことは、他の
連中ならまだ文句を言って自説を押そうとするも気付
くに至るから取り下げるものである。唐松山が他人なら
気付いて取り下げるか自説に疑念あると脳内に感知
出来る正常な脳内なのにまだ盲象を頑張っているのは、
奴の脳内がカルト・ホツマに覚醒剤、大麻の毒に汚染
されてる如くいかれており正常な判断がこれらに麻痺、
蹂躙されて出来ないひどい脳ミソになっているから
だ。他の連中なら時間の大小はあれどもおかしいと
おおよそ気がつくものだ。ww 奴はホツマ毒でこれ
に脳内が支配されてるからだ。

898:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/17 22:30:06.73
先代旧事本紀大成経と日本書紀の雄略4年の記事は、遠回し
に2倍年暦を半年の差で肯定している。しかもこの場合
紀は春だと言ってるが経は秋だと言っている。魏略には
春耕秋収として2倍年暦を示唆している。これは倍暦を
言う書物があるということを意味している。

しかもオマエの大好きなホツマでさえも景行の条で
21ヶ月妊娠を記述しており、これは十月十日のほぼ2倍
であることが軽く分かり2倍年暦を示唆している。

古代南バビロニアでさえ最古のか? 2倍年暦を行使
しており、事例がこのように存在している。現今では
バリ島でも2倍年暦が行使されていることを、オマエが
こそこそ読んでるらしい古田先生のグループでも調べ
が済んでいる。マシという景行28年~同40年のオマエの
1年論はもはや崩れており、インチキであることが
すでにバレ済みであ~る。

899:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/18 09:27:44.05
紀の崇神6年は鏡の最重要祭事での天照大神宮が成り、
宝鏡奉斎の神勅にかなった年であり、このため景初3年鏡
が畿内に多数出土するのである。であるから、景初3年
が紀の崇神6年頃に合わせるのが真なのであ~る。

そして鏡作神社の伝承でも「崇神6年、鏡の改鋳」がある。

倍年暦計算から

 紀の崇神6年=崇神2年=景初2年=238年

であり、整合している。

崇神6年が193年にはなりえず、船舶の初めて製造したの
は崇神17年であるから、半島文献の倭の百姓が空腹で
千人も漁師でもないのに船舶もなく、渡海なんか出来っ
こな~い。

つまり193年は不整合であるわけで、景初3年を景行元年
に当てたところで、景行元年に多数の鏡を出土させ
た関係の記述は紀には存在せず、インチキだということ
が露呈するのだ。ww

900:日本@名無史さん
11/08/18 13:41:03.29
伊予の対面は豊。これ豆。

道後温泉と別府の湯は湯元が同じ伝説。これ豆。

901:日本@名無史さん
11/08/18 19:02:59.45
>>900
片方ヒミコならともかく、イヨとトヨで意味あんの?

902:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/18 20:16:27.64
>紀の崇神6年=崇神2年=景初2年=238年 であり、整合している。

その数字が正しいのであれば、崇神世の任那建国は何時?


903:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/18 21:03:52.56
>紀の崇神6年=崇神2年
崇神2年目=崇神4,5,6年。
この数字で書記の崇神4,5,6年の出来事を説明できないのが、太国倍年である。
だから、崇神2年目の出来事を説明したことがない。
まあ、この数字で説明できる人間はいないであろうが、この数字で他人を非難するのであれば
説明は必須である。


904:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/18 22:11:43.72
半島人は半島の掲示板へ行け。

崇神元年~崇神没年までのど~こに空年があるのか説明しなさい。
オマエはその説明を出来ない。
オマエはそれをしたことがな~い。

905:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/18 22:29:16.60
「海部氏勘注系図」 倍年暦法での整合

 稚足彦(成務天皇)と書いてある所に
 辛酉年夏五月 と 乙亥年秋九月 とある。
 また大初瀬幼武(雄略)天皇と書いてある所に
 戊午年秋七月とある。

皇紀 西暦 干支 倍暦 倍干 #
773 113 癸丑 314 甲戌 317
774 114 甲寅
775 115 乙卯 315*乙亥     成務立太子:図
776 116 丙辰       【318】
777 117 丁巳 316 丙子
778 118 戊午
779 119 己未 317 丁丑 319
780 120 庚申
781 121*辛酉 【318】戊寅    成務立太子:図
782 122 壬戌        320
783 123 癸亥 319 己卯

図は勘注系図の干支年代で*、#は3倍暦。

説明補填
表の上の成務立太子年は景行紀のもの。同、下の成務
立太子年は成務紀からのもの。
#(3倍暦)の【318】年1/3期も倍干は乙亥になる。
倍暦(ここは2倍暦)の【318】年の干支は辛酉である。
以上のことは、景行の代が2倍年暦だったところ、3倍
年暦での部分編年があったことを#が物語るのだ。

906:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/18 22:40:38.67
皇紀西暦 倍暦
564 -97 237 崇神即位元年 天津神算木主値年
565 -96
566 -95
567 -94 238
568 -93
569 -92      紀の崇神6年 鏡作神社 鏡改鋳 神鏡を倭笠縫に遷す
570 -91 239 景初3年鏡 銘文年
・・・・・・・
618 -43 255 戊寅年
619 -42
620 -41
621 -40 256
622 -39
623 -38
624 -37 257 葛木神社 戊寅七年
625 -36
626 -35
627 -34 258 記の崇神 戊寅 没年

907:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/18 22:50:13.90
>569 -92 紀の崇神6年 鏡作神社 鏡改鋳 神鏡を倭笠縫に遷す
>570 -91 239 景初3年鏡 銘文年

この数字で書記の記事を読んだのか?
読めないだろ!!
だから、かわいそうな太国、と哀れむのだ。


908:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/18 22:55:31.24
天津神算木 真の年代を語る天下の宝器。古代からの贈り物。
三輪神、三輪山の三輪とは半径r=3の円を示唆し、これの球化の体積、
表面積を天津神算木(天津金木)という。この場合 体積=表面積 となる。
天津神算木は

 4πr**3/3=113.09733552923・・・ (**はべき)

天津神算木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335

右辺は三分したとき 113 097 335 の三つの数列となる。左辺の3は
3倍年暦を暗示しているのだ。三つの数列は

113←1/13 崇神即位の月日数
097←B.C.97年 崇神即位の見かけの年代(先頭0は紀元0年を示唆し、除去)
335←335年 崇神即位の真の年代を誘引させる年数

崇神即位の真の年代は見かけの年代と誘引年数との和

 -97+335=238年

ただし紀元0年を除いたから1年分マイナスとなり

 238-1=237年=真の崇神即位元年=景初元年
                                 以上

909:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/18 23:01:54.65
畿内から多数出土している景初3年△鏡が何故こんなにうんと造られたの
かを考えれば、これが崇神の代だということが確認できる。

紀の崇神6年に鏡の象徴と言える天照大御神を倭の笠縫に祭祀したのが、
△鏡の畿内に多出する事由なのである。1次鏡がこのとき笠縫に祭祀しその
2次鏡が崇神の同床共殿でのものであり、その3次的派生がこの翌年に朝廷
の取り巻き等に複製的に製造した事からこの鏡群がこんなに出て来るのだ。

だから景初年間が崇神の代だということが分かるのであり、これは倍暦逆算
から

 崇神即位元年=237年=景初元年

を算出しており、紀の崇神6年=景初2年 であることから、その翌年は
景初3年=239年 であって、倍暦の算出値が見事に整合する。

このことは 崇神没年=259年 の同逆算から記の崇神没年干支戊寅が
258年であったことを裏づけ、さらには同説を唱えた菅政友、橋本増吉、
那珂博士の言い分がほぼ正しかったことを意味している。

崇神5年、6年には船舶がいまだ畿内に無く崇神17年に始めて船舶の製造と
なったことから、同5,6年が新羅193年にはなりえないことは、空腹の農民
千人が渡海できる船舶にありつけないことから、これが成立しないことが
分かる。


910:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/18 23:10:51.09
>>908
大祓祝詞に曰く 「大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて・・・」
天津金木は分断され

 3≠113.097335=113.0973350   (350はジャック年数という)

先述のとおり主値副値はそれぞれ

 1/13 B.C.97年 崇神天皇即位  1/3 皇紀973年 仁徳天皇即位

主値副値にかかって、後続の年代数 130 があり、130年は主値を引き立た
せる補助年数という。略して補助値あるいは助値という。年数助値である。

補助値は~年あるいは年月までで、年月日の日数までの数字は存在
しない。これは主値を重視させるためであるわけだ。
補助値 130年 から

 B.C.130年(見かけ年代) ミマキイリヒコ(崇神天皇)立太子
 A.D.130年(見かけ年代) 景行天皇 崩御

景行は死年のみであり、天津神算木に即位年、即位年月日が無い。この
ことは、景行の代が三輪王朝の途中経過の時代であることを教示して
おり主値の崇神即位年月日の引き立て役の年数たる補助値なのである。

911:日本@名無史さん
11/08/19 19:38:28.61
【お知らせ】

次スレよりタイトルが

謎の女王卑弥呼は誰か?唐太論争に終止符はない!

に変わります。

912:日本@名無史さん
11/08/19 19:52:35.17
>>911
ダメダメ。
必要なら、新スレッドを立てろ。

913:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/19 22:34:39.40
>>909
>    紀の崇神6年に鏡の象徴と言える天照大御神を倭の笠縫に祭祀したのが、
…、その3次的派生がこの翌年に朝廷の取り巻き等に複製的に製造した事から
この鏡群がこんなに出て来るのだ。

三角縁神獣鏡は、西晋時代にもたらされる、△縁鏡がすべて倣製鏡であった場合でも
元となる画像鏡は、308年より前の西晋時代にもたらされる。
かわいそうに。

崇神4,5,6年が景初三年(239年)であったとしても、災害(凶作)で説明で
きなければ成らない。でなければ、四道将軍を派遣した理由が通らない。
そして同11年の異俗多帰。2世紀末の巻向に各地の土器が持込まれる。
240年代に崇神11年を配して、『異俗多帰』をどう説明するのか?
3世紀半ばの九州に庄内式土器が持込まれる。←この記事を大和が盗んだ、
とでも説明するのか?
かわいそうに。


914:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/19 23:18:21.13
朝敵
崇神元年~崇神没年までのどこに空年があるのか、その具体的説明が
出来なければならない。
 
崇神4年から6年が空年なのか~?
早く説明しろ。明日読んでやるぜ。ww

zzzzzzzzzz・・・・・・・・

915:日本@名無史さん
11/08/20 00:27:30.20
崇神3年9月 瑞籬宮に遷都、宇陀から入部し王宮を建てた 
崇神5年 疫病流行、畿内と近隣の生産激減
崇神6年 神座の宮中同殿同床を廃止、一種の政教分離、神祇は豊鍬入姫命が行う、渟名城入媛命の祭祀失敗
崇神7年2月 倭迹迹日百襲姫命が大物主神を依せて神勅
同年11月 大田田根子と市磯長尾市が神祇を担う、疫病終息、五穀豊穣
崇神10年9月 武埴安彦が反乱、倭迹迹日百襲姫命が予言し鎮圧
同年10月 四道将軍を派遣、大彦命、武渟川別、吉備津彦、丹波道主命を遣わし宣撫
崇神11年4月 四道将軍が帰参、乱後の混乱を収拾
崇神12年9月 戸口を調査し課役を科す、御肇国天皇と称す
崇神48年1月 活目命が立太子、豊城入彦命は東国を統治
崇神60年7月 出雲の神宝が献上される
崇神65年7月 任那国(東国)が朝貢
崇神6812月 120歳で崩御

916:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/20 10:53:05.50
>>913
疫病が収まれば、将軍の派遣は軽く出来る。
飢饉災害が起きてるから、倭笠縫に神の祟りを鎮めたく鏡を祭祀したわけで、
これも軽く説明は出来ている。

昨今某川の沈没事故で30人位が投げ出され死者が出てしまったのを考察すれば、
事故防止着衣の装着が事故防止に重要なのが自然に察知できるわけで、千人もの
農民の渡海などこの川以上に危険がいっぱいなのはこの川幅以上の膨大な海面
でうなずけるものであり、事故防止着衣など当時はなかろうしおまけに当時の
生命危険の事故防止に必要なのは千人もの多勢の数日否数十日もの食糧の確保
であって、飢饉であればその確保などあるわけもなく、妄想野郎はそこそこに
行けるなどと、オマエは2ちゃんスレ民を騙し続けている。

917:日本@名無史さん
11/08/20 11:59:41.40
>>911
>唐太論争

読み方は「からふと・ろんそう」でいいっすか?wwwww

918:日本@名無史さん
11/08/20 13:28:14.97
俺も、邪馬台国は樺太だと思ってたんですよ。

919:日本@名無史さん
11/08/20 13:58:09.27
樺太を巡っては、今でも帰属論争がある

920:日本@名無史さん
11/08/20 14:35:14.40
当時の魏の国の知識人の持つ日本列島の地理感は、九州から南に伸びているというものだった。
末盧国に上陸してそこから水行十日、陸行1月だとちょうど樺太あたりに達する。
黥面刺青はオホーツク文化の風習。当時の中国から見れば宇宙人、まさに未知との遭遇だったのだ。


921:日本@名無史さん
11/08/20 16:36:39.20
後世、九州島を基点に日本列島が反時計回りに回転しただけだろ
昔は本州が南に伸びていたのさ

922:日本@名無史さん
11/08/20 16:52:46.40
>>920
オホーツク辺りだと夏に素潜り出来んの?

923:日本@名無史さん
11/08/20 17:17:30.88
魏志倭人伝に邪馬台国は冬に素潜りすると書いてありましたか?

924:日本@名無史さん
11/08/20 17:27:55.86
まじレスすると北海道に海水浴場があるんだからオホーツク海でもあるのでは
実際泳いでる人がどの位から知らん

925:日本@名無史さん
11/08/20 17:49:34.81
オホーツクの港で暮らしてたけど、夏は泳げるよ。
冬は流氷が着岸するけど。

926:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/20 20:24:20.38
>>916
>疫病が収まれば、将軍の派遣は軽く出来る。

太国倍年では、その”疫病”の説明が出来ない。
そして、四道将軍の派遣された時空が短く成りすぎる。
だろ?
疫病の説明も出来ない。

927:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/20 20:50:56.06
出来てるではないか。w 疫病がひどいから、日神と鏡とを倭笠縫に祭祀
したわけだ。その効果が出たから△239年鏡がうんと出るわけだね。この
ように軽く説明出来ているのだ。ところでだよ~
宿主空年では飢饉の説明はおろか疫病の説明もオマエは出来ない。
短くなりすぎるということは~そのへんに空年があるというのか~?
ならば、具体的にその年代が何年~何年が色即是空の空年なのか?
それを見せてみい。出来ないんだろう?www

景行元年が239年では鏡の説明が出来まいが。ww


928:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/20 21:02:26.46
~朝敵

皇紀西暦 倍暦
564 -97 237 崇神即位元年 天津神算木主値年
・・・・・・・
567 -94 238
568 -93
569 -92     紀の崇神6年 鏡作神社 鏡改鋳 神鏡を倭笠縫に遷す
570 -91 239 景初3年鏡 銘文年
571 -90
              ↑
ここのところをよ~く見い。鏡作神社の鏡の記事のすぐ後が239年鏡の
年代となる。ピタリと合致する。239年鏡は鏡作神社の鏡製作職人が
製造した日本製だということだねぇ。但し大陸人が一緒に関係した可能性
は、景初3年の銘文からありうることだな。どうした? 泣いてるか~?

929:日本@名無史さん
11/08/20 21:14:34.45
崇神が紀元前1世紀か
弥生中期と呼べますかね?

930:日本@名無史さん
11/08/20 21:15:03.05
景初三年の銘文の入った三角縁神獣鏡は、何度も何度も型取りされて、長い間作られていたってことだろうな。
今で言えば、カローラみたいなものだ。


931:日本@名無史さん
11/08/20 21:24:32.20
型取りされるって、オリジナルを砂型に写してレプリカを量産するってこと?
それとも木型とか、版元があったってこと?

932:日本@名無史さん
11/08/20 21:46:14.29
コピーされたのを、倣製鏡っていうんだっけ?

933:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/20 22:01:31.33
>但し大陸人が一緒に関係した可能性は、景初3年の銘文からありうることだな。

だから~、舶載三角縁神獣鏡(元と成る画像、図案)は、晋時代。
福岡西新町遺跡の、布留式と半島の土器が共存する時代なんだ。
239年以前に、楽浪鏡がもたらされ、ホケノ山古墳に副葬される。
ホケノ山には、半島式墳墓がある。庄内式の時代の初期古墳である。
このホケノ山の少し前が崇神の任那建国(新羅209年)である。
庄内式土器の時代の古墳、墳墓に△縁鏡は、副葬されていない。

残念ではあるが、太国倍年と纒向遺跡年代は整合しない。
魏使の訪れた、238,240年に、凶作は無い。
凶作は、4道将軍の派遣された範疇以上に広がっている。

3世紀中=舶載△縁神獣鏡。
308年永嘉の乱以後=仿製△縁神獣鏡。
三角縁神獣鏡は、卑弥呼の時代の鏡では無い。


934:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/20 22:56:14.36
宿主
三角縁神獣鏡は大陸の考古の王仲殊氏の日本製という説に権威がある。
オマエのうるさい考古という言い草とは矛盾するではないか?ww

王氏の言うように、239年鏡は日本での鏡作人が製作したものだ。
つまり舶載説は成立しない。これはえらく説得力があるわけで、考古の
定説は間違いない。
つまり ↓ この表は鏡作神社の伝承と239年鏡銘文と合致しているのだ。

皇紀西暦 倍暦
564 -97 237 崇神即位元年 天津神算木主値年
・・・・・・・
567 -94 238
568 -93
569 -92     紀の崇神6年 鏡作神社 鏡改鋳 神鏡を倭笠縫に遷す
570 -91 239 景初3年鏡 銘文年
571 -90
              ↑
ここのところをよ~く見い。鏡作神社の鏡の記事のすぐ後が239年鏡の
年代となる。ピタリと合致する。239年鏡は鏡作神社の鏡製作職人が
製造した日本製だということだねぇ。但し大陸人が一緒に関係した可能性
は、景初3年の銘文からありうることだぜ。

どうだ~宿主よ、万歳か~?ww

935:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/20 23:02:26.54
>>929
紀元前1世紀というのは、見かけの年代であり、実年代は

 崇神元年=237年

となります。

936:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/20 23:16:53.75
>>933
魏使の訪れたというのは九州のほうだぜ。
畿内のことではな~い。

>>906>>934の表は

① 鏡作神社の鏡の改鋳
② 倭笠縫の鏡の祭祀
③ 239年鏡

の3つが鏡のことであり、鏡のことが集結している。
つまり整合しているということを意味してるのだよ。ww

どうだ~オマエはガックリか~?ww

937:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/20 23:27:24.33
>王仲殊氏の日本製という説に権威がある。

△縁神獣鏡が全て国産でも、画像(画文)は、輸入である。
この輸入が3世紀後半であり、4世紀には質が落ちた鏡と成る。
画像(画文)は、編年が出来るほど順次輸入される。
つまり、晋と大和はそれだけ親密な時代の鏡として△縁鏡が存在する。
かわいそうに。

938:日本@名無史さん
11/08/20 23:50:21.70
残念ながら、その大和は、今や単なる物流センターと考えられてるぜ。
そのセンターを造った政治権力者は、吉備だとかもっと西だとか・・・・
つまり、鏡の配布が大和中心にに見えても、それは政治権力者の所在を示す
ものではないってことだよ。

939:日本@名無史さん
11/08/21 07:51:15.46
と今日も妄想してみました

940:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/21 09:29:02.01
金官伽耶 209年 新羅本紀、伽耶に援軍=任那建国。3国遺事=541年時点で建国330年。
垂仁天皇 217年~239年 4章 ホケノ山古墳。楽浪鏡と鉄剣、半島式木郭墓は田道間守の殉葬。
纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に、土を盛り平す(ひ=乾く、しろ=ならす)日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年~261年 2章 遠国をまとめる為、魏の政治手法「屯倉」導入。
畿内形墳墓である久留米祇園山古墳は、景行がこの方面に仮宮を置いた時代で楽浪鏡破片。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
260年代 箸墓は箸陵であり大王墓。布留式の指標。
成務天皇 262年~265年 3章 
仲哀天皇 266年~274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
274年 神功渡海は、1大率の行為を半島で行う為である。
3世紀後半 椿井大塚山、桜井茶臼山、黒塚より△鏡の時代となり、継続的に流入する。
磐余稚桜宮(桜井茶臼山)より110年後が誉田御廟山である。 

考古学の主張する纒向年代を後ろにずらすと、△鏡も動く。だから崇神との距離は縮まらない。
景初3年銘は、“晋書 正始元年東倭重譚納具”であり、大和(邪馬台国)の王が“倭王”を
授与した証拠であり、女王卑弥呼は、九州に存在するから、倭王と女王の記述が続くのである。


941:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/21 10:15:00.13
いずれにせい鏡作神社があり崇神6年に鏡の改鋳があったということは、
畿内で日本製の鏡がこさえられたということを鏡作神社と社名とその伝承
から当時、日本製の鏡が工作製造されてたということを物語るのだ。
王氏の言うことが真であり、宿主より王氏のほうに権威がある。

そこに 景初3年代=239年 が接着するという>>906>>934ということは、
この表が整合していることを意味している。景行年に239年鏡が多出
する事由が無い。

なお猿を人間とみなす映画の「猿の惑星 創世記」さながらの精神病院
行きたる

 臣下(家来)伊支馬=垂仁天皇

とする論は、神州での掟によりデタラメである。ww

942:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/21 10:36:23.86
毎回うっちゃりばかりの宿主ww

コチラの論には、出た結果に対して殆どうっちゃりをしてひるがえ
す行動はしていない。ただ全然うっちゃりがないわけではなく、キチン
と最低の根拠だけでも掲げてうっちゃり反論したことはあることはある。
出た結果のほうが間違いだったということは、あることは確かだ。
だからうっちゃりのほうが正解の場合もあることは否めないが~そんな
うんとはあるわけがなかろう。
景行元年ころに239年鏡をうんと造る因たる事象の記事は記紀には無~い。

さて~
出た結果を十中九うっちゃりをせねばならんのが、この宿主という脳内
妄想の塊り男である。彼は出た結果と毎回離反しており、うっちゃり
うっちゃりのしっ放しであり、その頻度はこの日本史板で最高クラスの
ひどい多大回数である。これはこの男の説が、出た結果に殆ど合わぬこと
を意味しており、合わない回数がひどく多いからうっちゃりを全部に近く
せにゃならんというわけなのだ。ww

つまりうっちゃりの最高頻度の名人ということは、その者の説が出鱈目に
当選確実だということを意味する。

943:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/21 10:59:53.87
>成務天皇 262年~265年 3章
唐松山の成務年代が4年で終わりだというインチキ
は、以下 ↓ のとおり確認出来る。当然、空白年
(西暦0年は別)が存在しないことをこの表は物語る。

【成務5年以後の日本全国の神社等の由緒、伝承】

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務28年 伊曾神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す

つまり宿主空年はインチキであ~る。

944:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/21 11:34:46.20
>崇神6年に鏡の改鋳があったということは、畿内で日本製の鏡がこさえられたということを鏡作神社

国産鏡だけで話す意をすれば、それ以前から鏡は造られている。
鏡など銅鐸に比べれば、容易い造作物で有る。
しかし、紀記に銅鐸は登場しないが、畿内大和でも銅鐸は造られている。
銅鐸祭祀の放棄は、192年(新羅192年、崇神5年)の大凶作である。

かわいそうな太国倍年では、この重要な位置さえ提示出来ない。
それどころか
成務48年当時の仏教さえ提示出来ない。ただ”あったあった”と妄想を繰り返すだけである。
>成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加 ←なにを言いたいの?
かわいそうに、
崇神6年の直後に景初3年銘入りの仿製三角縁神獣鏡を造った。ならば、それを証明すれば良いのに。
太国倍年は、数字の提示のみの編年であり、三角縁神獣鏡さえ説明出来ない編年である。
その前に、239年(太国倍年崇神4,5,6年)の出来事さえ、”災害”で説明出来ない。



945:日本@名無史さん
11/08/21 11:53:43.67
このスレの初心者の方へ
太国さんと唐松山さんが、延々唐太論争と呼ばれる論争をしていますが
全然気にせず、自由に書き込んでください。
論争の邪魔かなと思う必要は微塵もありません。この二人は他のスレでも論争してますので気にしないで

軽くこの二人の特徴を書きますと
唐松山さん:ホツマツタヱ文書と呼ばれるものを信じており、ボケ役を演じる事が多い
太国さん:唐松山さんが現れたところに出現しツッコミ役を演じています


946:日本@名無史さん
11/08/21 12:08:58.70
この2人は実は同一人物なのです

947:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/21 12:15:11.56
>太国さん:唐松山さんが現れたところに出現しツッコミ役を演じています
その粘着太国倍年
>崇神垂仁3倍歴、景行2倍歴、成務3倍歴、仲哀1倍歴、神功應神仁徳3倍歴

太陰暦は、倍数で割り切ることが出来ない。だから、太国倍暦は存在出来ない。
いくら粘着して否定しても、太国倍年が正しく歴史と合わせられない方法である限り正解にならない。


948:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/21 13:32:15.11
>>947 朝敵
神皇紀 ↓

 人皇第一代 神武天皇元年 太陰暦を

  太陽暦

 に改め、30日を一月とし、十月を1年と定め給う

一系は無窮で臣下は天皇にはなれぬ金剛不壊のものであるところ、
伊勢神宮は20年ごとにクルクルクルクル建地移動を行う。暦法の変更も
毎回やってたということだな。日付なんかで逆算しても、途中の暦法変更
で真の古代の年代の復元は望遠鏡を見て火星を観察すべきところ顕微鏡を
使って地球からこの星を観察するような愚であり、到底この方法は最高に
まずいの一語につきる。

2倍暦法は古代マヤの太陰暦で行使されておりC文字の学術語で表現され
る。つまり1年がこの暦法では半年になるわけで、現今の1年で2年分と
なる。準3倍暦法も同様Gの文字で把握されており、1ヶ月が10日に1日
不足の9日の単位とする。かたや空年なんぞあるわけもなく、そんな年代
確定に混乱を招く空年なぞやれば、マヤ大王の激怒を買い、チャック
モールの上で心臓をえぐられるのが相場だ。

つまり宿主空年は存在しない。

949:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/21 14:45:53.55
>その前に、239年(太国倍年崇神4,5,6年)の出来事さえ、”災害”で説明出来ない。
出来てるわけだぜ。w 疫病がひどいから、日神と鏡とを倭笠縫に祭祀
したわけだ。その効果が出たから△239年鏡がうんと出るわけだね。この
ように軽く説明出来ているのだ。ところでだよ~
宿主空年では飢饉の説明はおろか疫病の説明もオマエは出来ない。
短くなりすぎるということは~そのへんに空年があるというのか~?
ならば、具体的にその年代が何年~何年が色即是空の空年なのか?
それを見せてみい。出来ないんだろう?www

景行元年が239年では鏡の説明が出来な~い。ww

950:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/21 14:48:34.72
いくら粘着して否定しても、宿主空年が正しく歴史と合わせられない方法である限り正解にならない。



951:メ
11/08/21 16:31:00.07
祭りだ祭り わっしょい↑わっしょい↑

卑弥呼の鏡は~ どこ?


952:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/21 17:23:16.90
>>944
宿主空年は数字の無説明のみの編年であり、三角縁神獣鏡さえ説明出来ない編年である。
その前に、239年(宿主景行元年)の出来事さえ、”鏡”で説明出来ない。



953:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/21 18:26:35.49
>宿主空年は数字の無説明のみの編年であり、

太陰暦とは、19年7閏を6940日とする、これが基本である。
そして、書紀は19年事”1章”×n回という空白年の差し込みで出来ている。
これだけ説明すれば、あとは、書紀の太陰暦を計算するだけで正しい日数が得られる。
だから日数まで表記せずとも良いが、太国倍年とは?
1年が180日であったり、5,6月が欠月しているそうな!!だから
太国がその数字を発表する義務がある。この義務を無視した議論は成立しない。
かわいそうな太国は、ただ”あるある”と唱えるのみで、数字を与えられない。
崇神5年 冷夏による凶作が発生し、その冬には餓死者が出る。
崇神6年 餓えた住民同士の”食人”が行われ、民は、居住区を捨てて彷徨する。
崇神7年 この冬の民は、何とか食にありつけたが、北陸方面では、彷徨する北方の民の南下があり、
大彦を北陸に派遣する。
崇神10年 まだ各地に民がさまよっている、この民を定住させ、これまで関与しなかった地方までをも
配下とする方策を打ち出す。種籾までを食い尽くした地方には、種籾の貸し出しをし、農事暦も配布する。
崇神11年 さまよっていた民などを大和に連れ帰り定住させ、農業に従事させる。
だから、異俗多帰は、各地の土器で表され、考古学は、2世紀末という時空を得て居る。

239年ころに異俗多帰を設定しても、2世紀末に各地の住民が移住している。
この出来事を説明出来ていない太国倍年。

954:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/21 18:48:27.26
新羅193年時点で、時空の止まった遺跡として青谷上寺地遺跡がある。
ここの人骨は、食人を表す。そして、船団の絵は、この時代に船団が存在したことを表す。
この時代に、新羅、伽耶に船は存在しても、船団までは持っていない。


955:日本@名無史さん
11/08/21 18:56:01.44
船団と複数の船は違うの?

956:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/21 19:04:09.28
>>953
なにを寝言を言ってるんだ?ww
      ↓
神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年 太陰暦を

  太陽暦

 に改め、30日を一月とし、十月を1年と定め給う

だいたい太陰暦でやろうと太陽暦でやろうと、そんなものは年代に変わり
は殆ど無い。だから編年にあって、そんな計算は役に立つとは言えない。

そんな計算をやったり日付なんかで逆算しても、途中の暦法変更
で真の古代の年代の復元は望遠鏡を見て火星を観察すべきところ顕微鏡を
使って地球からこの星を観察するような愚であり、到底この方法は最高に
まずいの一語につきる。ww

957:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/21 19:06:21.52
>>954
崇神17年時点で、時空の止まった遺跡として青谷上寺地遺跡がある。
~そして、船団の絵は、この時代に船団が存在したことを表す。



958:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/21 19:27:39.23
西暦42年~~

宿主がその数字を発表する義務がある。この義務を無視した議論は成立しない。
かわいそうな宿主は、ただ”あるある”と唱えるのみで、数字を与えられない。

崇神元年~崇神没年
     ↑
 どこどこどこ? ~あるあるあるはいくらでも言えるぞ。ppp

空年はどこだねぇ? 色即是空の空年仏か~?ww

959:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/21 19:55:21.55
>書紀は19年事”1章”×n回という空白年の差し込みで出来ている。
>これだけ説明すれば、あとは、書紀の太陰暦を計算するだけで正しい日数が得られる。

こんなことするのは、望遠鏡を捨てて顕微鏡で見るのが基本だとか言って
るようなもので、 そのうち半島まで行くに蟻の歩行でやろうとか言って
る如きマズイ方法であ~る。

暦は長く使ってると誤差がある程度出て来て不都合が起こるから、この
時点で修正とか日数削りとかで日数の追いかけでは合わなくなる。年数の
場合はこれを修正することは年代の撹乱が大きく出てくるため、空年
などはやるわけもない。つまり修正は月(←例:閏月)とか日数で
行うのが当然であり、これだと修正は大きくならない。

紀と半島文献の断層が出て来る因での倍暦は年数でも現今の半年を1年
としたりまた4ヶ月分を1年としても、2周あるいは3周で現今の1年
にほぼピタリと追いつくので、修正は殆どする必要もなく、干支も丁度
2巡3巡で不都合にはならない。つまり倍暦は不整合にはつながらない。

960:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/22 19:09:18.43
>暦は長く使ってると誤差がある程度出て来て不都合が起こるから、
>4ヶ月分を1年としても、2周あるいは3周で現今の1年にほぼピタリと追いつくので、

だから、1年が180日とか云う倍年暦法は存在しない。
毎年、狂っている太陽暦か?
4年に1日なら理解できるが、5,6月が存在しない暦法も存在しない。



961:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/22 19:26:12.56
1年が180日の暦法は古代マヤの太陰暦に厳存する。
これは右片手の上に人頭か魔神の頭の横顔の頭字体で構成される絵文字で
あり、他に幾何体でのこの文字も存在する。
学術的には C文字(C Glyph)で表現され、2倍年暦たる

 1C 2C 3C 4C 5C 6C

で、現今の半年を1年として数える。(1Cは単にCとも書くそうだ)
当然2倍年暦だから7C~12Cというのは存在しない。常に数字は6まで
6ヶ月間である。ほかにこういう1年が180日の2倍年暦を行使してたの
が南バビロニアであり寺坂氏の説明で詳細が分かって来たが、パラオも
2倍年暦だということだ。このように地球上に2倍暦法は存在するのだ。

オマエはミニ2倍暦たる1日が12時間制と24時間制を行使している。ww

もうオマエの大ウソは聴き厭きたぜ。

962:日本@名無史さん
11/08/22 19:56:45.39
それは太国さんが嘘だな
太国さんが唐松山さんの話を聞き厭きるわけないじゃん。

963:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/22 22:35:53.88
聞き飽きてる。
しかし奴は毎回大ウソを書きこむから、飽きてるがとことん突くわけ。

964:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/22 22:46:15.60
崇神天皇四年 十月壬午 今朕奉承大運。
崇神天皇五年 國内多疾疫。民有死亡者。且大半矣。
崇神天皇六年 百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。
崇神天皇七年 十一月己卯 於是疫病始息。國内漸謐五穀既成。百姓饒之。

3年分の記事で1年となる読み方は、存在しない。
その証拠として、7年の記事がある。
かわいそうに。


965:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/22 22:51:49.95
3年分の記事で1年となる読み方は、存在する

>その証拠として、7年の記事がある。 ←こんなものは証拠にならない。
その証拠にオマエはこれの具体的説明が出来ない。


966:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/22 22:57:11.16
古代史の真の年代を測る天下の宝器、これが天津神算木(天津金木)な
のだ。毒書ホツマに汚された脳内からのインチキ編年188年のデタラメを
祓う~過去から未来永劫に金鉄の如きに防備し、頑強な妄想説にびくとも
せぬ、古代人から現今のデタラメ、妄想に騙されないための宝物である。
天津神算木とは崇神紀(景行紀ではない)の説話にある三輪山の三輪
(半径r=3の円)の球化の 体積=表面積 をいう。
天津神算木

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はベキ乗)

大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335  右辺左辺をまたいで  B.C.3113年 マヤ文明元年

 主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけの年代)
【死値】 A.D.130年 景行天皇 崩御←崇神世の引き立て役たる補助年代

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年を示唆し除去)
335←崇神即位の真の年代への誘引のジョーカー数 335年

 335-97=238年 から、西暦0年を除くから1年マイナスとなり

 238-1=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

宿主空年など無い無い無い無い~~
~~オマエは各天皇年代の空年の位置を示せな~い。

967:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/22 23:01:53.48
空年は ↓ のどこにあるのか、オマエは説明出来ない。

崇神元年~崇神没年
     ↑
 どこどこどこだ? ~あるあるあるのウソはいくらでも言えるぞ。ppp

空年はどこだねぇ? 色即是空の空年仏か~?ww


968:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/22 23:12:40.98
船舶初製造で最初に乗るのは造った奴か天皇あたりだ。
多人数の千人の農民なんかは乗れても、最後の最後だ。
千人といえば現今の世界最大の客船の1/5~1/6の
人数だ。そんな空腹千人もの農民用に提供する船など
当時造っている暇などはな~い。

初造船は崇神17年以後だ。よって

 192,3年≠崇神5,6年

まぁ~当たり前だな。飢饉災害で空腹ならば、遠出は
出来ないのが今回の大震災でも明確だ。つまりオマエ
の論はデタラメである。大王自身なら家来とともに
財力、糧食の確保が可能だから遠出出来るが、農民
がハラペコ・フラフラではとてもとても無理な話だな。

日食が日を経ての数日間続くというオマエの主張に
オマエの弟子らがいずれは不審に想う? ということ
は、インチキだと弟子らが気づくのは時間の問題
だ。外人は漢字、カナの日本語読みが困難だろうから
オマエの大ウソに騙されやすいが、日本人でちょっと
気が利く奴なら、この文でおかしいと直感し、これは
イカサマの論だと次第に分かるだろう。そしてオマエ
のもとを去って行くはめになるのだ。

969:日本@名無史さん
11/08/23 15:26:34.61
>>968
唐松山さんって弟子が居るの?

970:日本@名無史さん
11/08/23 15:39:25.07
ホツマの子ら

971:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/23 17:11:25.34
>>969
奴は妄想ホツマ講義でもやってると想うよ。

972:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/23 17:24:16.35
>崇神天皇四年 十月壬午 今朕奉承大運。
>崇神天皇五年 國内多疾疫。民有死亡者。且大半矣。
>崇神天皇六年 百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>3年分の記事で1年となる読み方は、存在しない。

畿内、「鏡作坐天照御魂神社」の社伝 『大倭神社注進状 裏書』

 社傅ニ至リ、中座ハ天照大神之御魂也、傅ヘ開ク
 崇神天皇ノ6年9月3日 於是地改鋳日御象之鏡 為天照大神之御魂、
 今之内侍所ノ神鏡ナリ、即チ当社ハ其像鏡奉斎、爾来号此地ヲ日鏡
 作ト」

崇神6年は3倍暦では崇神2年である。だから上の文の年月日は
9月3日 崇神2年 となるのだ。これは天津神算木式記載で、年代が
月日の後に来ている。数字だけ逆読み←、配列すれば239が出る。
年代に象れば239年の数字なのである。当時にすでに畿内で西暦を知悉
していたということだな。よって188年説は出鱈目である。3次鏡は
239年、1~2次鏡は 238年=紀の崇神6年=崇神2年 である。

193年では百の位の1が不整合であるから、これは間違いだな。w

973:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/23 20:06:43.67
>>965
>3年分の記事で1年となる読み方は、存在する

崇神天皇十年(七月己酉《廿四》災害皆耗。然遠荒人等。猶不受正朔。
”正朔”とは、正しい季節の太陰暦である。
太陰暦3年分の記事で”正朔”は得られない。
かわいそうに。


974:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/23 21:45:02.61
オマエのはもともとインチキマシを入れたりしてるから、不正朔だ。ww

975:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/23 22:06:05.54
>>969
書記は、允恭4年の盟神探湯で世継の不整合を容認している。
しかし記事の不整合は主張していない。
書記の編年は、世継より、記事の整合性を優先する。

ここで、七支刀=369年。神功紀の記事は否定される(半島占拠は無い)
半島占拠を認めるのであれば、神功49年は、323年となる。
この時、神功磐余稚桜宮は、桜井茶臼山がほぼ同時期の築造である。
神功元年(275年)から応神41年(384年)は、百済が倭に臣従する王朝であり、無視できない。
世継を無視して出来事を正しいとすべきである。

ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通

976:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/23 22:07:26.35
>>969
書記は、允恭4年の盟神探湯で世継の不整合を容認している。
しかし記事の不整合は主張していない。
書記の編年は、世継より、記事の整合性を優先する。

ここで、七支刀=369年。神功紀の記事は否定される(半島占拠は無い)
半島占拠を認めるのであれば、神功49年は、323年となる。
この時、神功磐余稚桜宮は、桜井茶臼山がほぼ同時期の築造である。
神功元年(275年)から応神41年(384年)は、百済が倭に臣従する王朝であり、無視できない。
世継を無視して出来事を正しいとすべきである。

ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之
千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,   熊彦=千熊長彦
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚

3月 扶余の流民がまた30戸来降してきた。扶余と倭は通じており、年々その民を受け入れ
都や村に散置してきた。倭臣千熊長彦は良く弁舌がたち、住民と仲がよい。
住民はその言の多くを聞き入れ、故に国に背き、千熊長彦に従う。(大量渡来)
或いは我(百済?)に帰順、また高句麗に帰順する。

977:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/23 22:43:20.80
>5,6月が存在しない暦法も存在しない。
>”正朔”とは、正しい季節の太陰暦である。

神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年 太陰暦を

  太陽暦

 に改め、30日を一月とし、【十月を1年と定め給う 】

5月6月がないから、1年が10ヶ月 ↑ だねぇ。当然だな。ww

978:日本@名無史さん
11/08/24 00:31:31.57
二人を夕闇が~♪

979:日本@名無史さん
11/08/25 08:35:01.24
♪喧嘩はやめて~

980:メ
11/08/25 21:45:36.27
もうすぐスレが終わるね

神奈川県民に立ててもらおう


981:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/25 22:10:44.36
>5月6月がないから、

閏月は除くが、5月とは、正月(1月)から順番に並べた5番目の月以上の意味は無い。

神武天皇二年(壬戌前六五九)二月乙巳《二》◆二年春二月甲辰朔乙巳。
神武天皇四年(甲子前六五七)二月甲申《廿三》◆四年春二月壬戌朔甲申。
この間(朔で計算)、25ヶ月=738日の太陰暦で有る。


982:日本@名無史さん
11/08/25 22:14:15.56
>>980
ここらで気分を変えて、タイトルを変えたらどうかね?
もう、このタイトルも飽きたろ。

どうせ参加者の顔ぶれは変わらんし。

983:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/25 22:37:31.08
>この間(朔で計算)、25ヶ月=738日の太陰暦で有る。
寝言はけっこう ↓

神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年 太陰暦を

  太陽暦

 に改め、30日を一月とし、【十月を1年と定め給う 】

5月6月がないから、1年が10ヶ月 ↑ だねぇ。当然だな。ww

984:日本@名無史さん
11/08/25 23:49:28.30
畿内終了のお知らせ

韓国古代史の第1級資料が見つかった 題記「倭の属国 新羅」

はい、邪馬台国は北部九州で決まり

985:レス長たらし毘古
11/08/26 15:53:14.61
>>984

倭国連合の首長共立システムが、既に朝鮮半島を属国にしていた、という前提
が確固となりましたね。
そうすると、地理的に遠い近畿説より、近い北九州説の方が少し有利カモ。

共立システムの前半が、所謂封印された「卑弥呼と呼ばれた」女王の時代まで
と仮定すると、共立システムが「そこで終った」か、或は「それは大和等に
受け継がれた」か、のどちらかだけにしかならないと想定できる。

前提が「既に属国」であるならば、当然(あるとすれば共立システムの後半
=大和)の政治的影響力は朝鮮半島にも及ぶ話に成る。(朝貢はともかく、
文物の交流や、共立会議への準参加等の可能性も増してくる話にも成る)

つまり、なぜにあそこまで、神功皇后~天智天皇までの「長きに渡る期間」、
倭国、及び明日香大和が、「対朝鮮外交(及び戦争)」に拘ったのかも、これ
も「自然な流れ」になって来る。
任那は、ある意味ギリシャの「トロイ」のような物だったのかもしれない。

なぜなら、神功~天智に至るまで、当時の倭人文化域の住人は、みんな
「朝鮮半島(狭義で言うなら任那だけでも)も同国内」と思っていたからだ。
と、そう思った方が至極自然な話で全てがつながる。(更に広義で言うなら
三韓全てを同国内と含む考え方も、古代日本当時にはあったかもしれない)

986:レス長たらし毘古
11/08/26 16:05:07.03
そして、倭国三千年の歴史(詳しくは後日別の場所で)が、またしても一歩、
近づいてきたのである。(ドドーン)

大和日本は、ただ単に「倭ってどんな意味?えー?そんな意味?」と気付いて
慌てて「看板架け替え」を行い「その名前で呼ぶな!」と中華含めた諸外国に
始めて宣言したのが、誰あろう、豊トミミの皇子(超人聖徳太子)その人
であり、そしてその半世紀後日本書紀はその最初の対外向けパンフレットと
して登場する。

(次回予告、倭人文化域と春秋時代。公表時期未定。乞うご期待)

987:レス長たらし毘古
11/08/26 16:31:22.88
さて、前回は「イヨ」に拘ってみたので今回は「トヨ」に拘ってみたい。

「トヨ説」を出す上で、傍証になりそうな古事記上の三要素を次に挙げる。
①九州を「豊日別(トヨヒワケ)」と呼称する、「確実な最初」はいつか。
②豊鍬入日さん(或は沙本毘売さん・イオリさん)等数々のトヨ(イヨ)候補
と豊玉伝説との関係性
③聖徳太子近親(特に蘇我系)における、皇族のうち、「豊~」と言う名前
の人物。そして、それら「豊~」と名前に付けるブームが、なぜに蘇我の興亡
と同期しているのか。

と、これらを詳述していくと、私個人としての感想としては、トヨ有力で、
イヨは後日解釈と言う話になり、先述の仮定とは一見真反対の立場を採るよう
に見えるかもしれない。
そう、個人感想の結論からだけ言わせてもらえば、トヨ(或はイヨ)は当時
唯一人であった。そしてその子孫はトヨの国にて存続し続け、これが後日、
神功さんと(先述したような)リンクを見せる。
後日、卑弥呼とトヨの国内伝承が散逸した後、蘇我&太子は、旧辞帝紀にて、
トヨ解釈(北九州解釈)とイヨ解釈(西四国解釈)とを両論表記に留める。
そして最終的な後日、記紀の編集者達は、トヨ説を記紀に組み込む。

なぜそうなったか。トヨ説は本来蘇我の主張であり、当然記紀としては受け
入れられないように思える。「無視できない要素」が多分にあったからだ。
つまり、無視できないならば、「都合よく組み込んだ方がいい」とこうなる。
逆に、イヨ説は無視できたのである。結果的に後日大和王権における四国
(に根ざした)勢力の目立った台頭が無かったからだ。
こうして結果的に、ただ「伊予の国」と言うご当地地名だけを残して、記紀
からは(イヨ説の可能性は)スッポリ取り外されるのである。

988:日本@名無史さん
11/08/26 16:40:38.39
>>985
>或は「それは大和等に 受け継がれた」

そういう事になるね。大和とは関係があったかも知れないが、完全に別物。邪馬台国は九州。

989:レス長たらし毘古
11/08/26 16:49:27.02
そしてこのカラクリは、
「トヨ説を都合よく組み込んでいる」ので「卑弥呼を容易に探し出せない」と
いう構図にもなる。

つまり、熊の毛皮を被りながら、「熊ってのはこーんな奴だったんだぞぉ!」
と嘯いたのである。そして、後日熊の毛皮を相続した子孫が、先祖の熊狩り
伝説を一人歩きさせて行く(古代吹聴口伝)。
そのずっと後他国の他書の史料に、卑弥呼という熊を見つけるのである。

イヨ説の方が、或は実に近かったのかもしれない。しかしながら、神功の子孫
にして欽明の子孫、更には蘇我氏によって、一人歩きしたトヨ説が、大いに
幅を利かせている。(但しイヨ説も無視できない)この状況で、蘇我は滅び、
天智・天武系(息長系)によって記紀は編纂される。旧辞帝紀は(古事記に
よると)何故か蘇我エミシと一緒に「焼失した」と言う、誰かさんにとっては
これまたとても都合の良い消え去り方をしていくのである。

トヨ説をとると、蘇我史観が蘇える。しかし、イヨ説は今やほとんど検証
不可能なほど証拠が無い。しかし、外国文献には「卑弥呼なる女王の後継者
のトヨ(イヨ)」がいた事になっている。
従って、従来のトヨ伝説を都合よく(蘇我が蘇えらないように)記紀に取り
込み、イヨ伝説は無視し、卑弥呼とトヨを古事記から探すのを困難にさせ、
日本書紀(対外パンフレット)は「卑弥呼を探すと神功にミスリードされる」
と言う構造が発明されたのである。う~む、恐るべき持統&不比等史観。

990:レス長たらし毘古
11/08/26 17:01:00.74
>>988
朝鮮半島を属国にできる技術力と国力がある国が瀬戸内海倭人域に「存在した」
とするならば、それは原始大和王権(或は前大和王権)をも属国にしていても
おかしくはない。(但し、当時人口分布は近畿大和の方が圧倒的に多い事は
承知。翻って、人口は必ずしも宗属関係に比例するか?は、これまた歴史上
は必ずしも比例しない例は多分にある)従って、当方の妄想仮定は、北九州を
中心に、西は朝鮮半島属国化プログラム(或は神託とも規定)が発動し、東は
出雲・大和属国化プログラムが発動していた「共立システム」があったかも、
とした方が、いろいろスムーズに繋がると言う仮設仮設です。

そして、その共立システム・統治体制形式は、結果的に4世紀頃の大和王権が
引継ぎ(或は簒奪)その後専制的古墳時代が開始。とこう妄想想定します。
(勿論、異論は常時受け付けます。ハイ)

991:レス長たらし毘古
11/08/26 17:14:46.43
あるいは、さらに妄想飛躍して。
北九州の(これを邪馬台国と仮定)の西征プログラム(神託でも可)は、一応
の成功を見せ、以後半島は邪馬台国(倭国連合体の長)の属国となり、次に
東征プログラム(神託でも可)が開始され、出雲までは無事属国化を果たした
が、近畿大和の属国化に失敗した。(モモソ姫は首長女王から一姫に転落)

この一連の可能性妄想を前提に見れば、古事記の前半部分と魏志倭人伝は
スムーズにつながらない事もない事もない事もない。
そして、その後、大和と北九州の宗属関係(強弱関係)が、緩やかに交換して
行く。

992:日本@名無史さん
11/08/26 17:20:48.91
そんなに長文妄想が書きたければ、自分のHPで書けば良いのでは?

993:日本@名無史さん
11/08/26 17:23:25.25
オレは長文は読まんぞ

994:日本@名無史さん
11/08/26 17:25:42.39
新スレが立ってるみたいだから一応貼っておく

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!58
スレリンク(history板)

995:日本@名無史さん
11/08/26 17:31:07.16
しかし、畿内説は絶望的だな。

996:レス長たらし毘古
11/08/26 17:31:32.81
では、みなさん、また58でお会いしましょう。
主従転換の契機が卑弥呼さん(これをモモソさんと想定)の死亡。完全に
主従転換をしたのが、神功さんの台頭と、こう言う妄想仮定でした。

997:日本@名無史さん
11/08/26 17:33:22.81
埋めるかな

998:日本@名無史さん
11/08/26 17:34:16.70
次々スレは卑弥呼のオバちゃんになったら

999:日本@名無史さん
11/08/26 17:34:37.67
トヨたん

1000:日本@名無史さん
11/08/26 17:34:54.20
卑弥呼はダーレで1000

1001:1001
Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。


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